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伊波の暴挙

 未惟奈の戦いは常に一瞬で終わる。


 開始早々に電光石火のスピードで間合いを詰め、相手が反応するより速く上段回し蹴り一撃で相手を沈める。


 そんな未惟奈だから、通常、未惟奈が試合中「構え」をとることはない。


 要は構える必要がないのだ。その前に相手が倒れるから。


 その未惟奈が、なんと開始早々……構えた。


 たったそれだけのことで、会場がどよめいた。


「未惟奈が仕掛けない!?」


 それだけで会場のファンを驚かせた。


 未惟奈はカラテや、キックボクシングにしては広すぎるスタンスで、完全に横を向く独特の構え。


「ああ、なるほど」


 この構えには見覚えがある。


 テコンドーの黄厳勇師範。


 未惟奈は、寸分たがわず黄師範の構えをコピーしていた。


 なぜ未惟奈が「構えた」のか?しかも黄師範のように。


 それは「今日のルール」にアジャストするためだ。つまり「ライトコンタクトルール」に。


 別に顔に蹴りの一撃を入れてもいい。ただライトコンタクトである以上「ライトに」つまり「軽く」当てる必要がある。


 少なくとも相手が失神するほどの一撃てば「ライト」とは言わない。


 全力疾走とも言える未惟奈の踏み込みに、蹴りの威力がプラスされたらどうやっても相手は失神を免れない。そうすれば「強打」として反則をとられてしまう。


 そう言った意味では「ライトコンタクト」というのは、未惟奈のストロングポイントを「封印する」ための「枷」になっていた。


 まだ未惟奈の「構え」に会場はどよめいている。


 きっとその「どよめき」の中に、ある程度格闘技知識のある人は「あの構えはやばくないか」というネガティブな感想をもったはずだ。


 黄厳勇師範の構えということはルール的に「ローキックのない」テコンドールールの構えということになる。


 それは極端に広いスタンスで真横を向く。


 本来であればローキックを得意とするムエタイ選手である伊波にこの構えは、全くのNGとなる。


 その理由は、ガラ空きの前足が恰好の「ローキック」の餌食となるから。


 しかし、伊波はその「ガラ空きの脚」を前にしても、全く動かず、その脚を狙っても来ない。おそらく、動けないに違いない。


 未惟奈という天才に、一般論は通じないのだ。そんなことは当然伊波も分かっている。だから安易にがら空きの脚は狙わない。


 お互いが睨みあう緊迫した「硬直状態」が続く。


「ファイト!」「ファイト!」


 動かない二人に、コンタクトを促す審判の声が響く。


「あ!」


 俺は寒気と同時に声が漏れた。


 未惟奈のあれだけ強かった「威圧感」とも言える「気配」が、突如として引き波のように引いているのが感じられた。


その未惟奈の圧に「温度」がある訳では無いが、その気配の「引き波」は人の血の気まで奪い、寒気で「ゾクリ」とするほどの気味悪さがあった。


 まさかここまで未惟奈が「気のコントロール」に熟練していたとは俺ですら気づかていなかった。


 この姿を見た芹沢薫子はどんな顔をしているだろう?案外「私は未惟奈さんがこれくらい出来るなんて知っていたわよ」なんて涼しい顔で言うのだろうか。結局鈍いのは俺だけとその後に未惟奈に揶揄されて……そんな風景が想像されて俺は苦笑いが漏れた。


 そんな未惟奈の変化に今まで、予測に反して「余裕」を見せていた伊波の顔が強ばった。


 気づいたのだ。伊波もこの変化に。


 気配を落とすということはつまり「圧」が減じる。普通の選手ならこことばかりに間合いを詰めるはずた。その「フェイク」に気づいた伊波むしろジリジリと後退した。


 伊波に動揺が見えたその刹那。


 未惟奈は音もなく伊波との間合を詰めた。


 その動きはいつもの電光石火ではない。まるで氷上を滑るかのごく滑らかだあった。ただそう見えても一瞬で伊波の間合いに滑り込んだということは、物理的なスピードそのものは尋常ではないのは明らかだった。


 証拠に伊波は全く未惟奈の動きに反応出来ない。


 伊波との間合いが詰まった瞬間に、ついに未惟奈の前脚が跳ね上がった。


 未惟奈の必殺の上段回し蹴りは「後脚を振り回す」のが常だが、今の未惟奈は前脚を跳ね上げた。ある意味「当たりさえすればいい」ライトコンタクトでは、後脚を振り回すより前脚を擦り上げる回し蹴りの方が圧倒的に速いし効果的だ。


 それは未惟奈の音もなく間合いを詰める尋常ならざる技術と併せれば、世界広しといえども誰もそれを避けることは出来ない。


 だから……


その未惟奈の攻撃は、楽々と伊波の顔面を捉えていた。


 しかし。


 次の瞬間。会場にどよめきが起こった。


 なんと伊波が前のめりに倒れたのだ。


「は?!何やってだ?伊波は?!」


 思わず俺も大声を出してしまった。


「未惟奈がミスをして強打をし」ダウンさせる訳がない。


 未惟奈は計算通りに、それこそ精密機械のごとく調節された「倒れない」蹴りを出した……はずであった。


 それなのになぜ伊波が倒れたのか?


 ……どれだけの人が気づいたのだろうか?


 なんと伊波は自らその蹴りに、自身の急所を当てに行くという暴挙に出ていた。


「未惟奈選手、強打、反則一」


誰もが予想しない事が起きていた。


伊波が、先制ポイントを奪ったのだ。


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