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第二章:廃墟の中の光

 ジェームズの蒸気馬車が去り、アレックスは一人、荒れ果てた「ミストナイトクラブ」の前に取り残された。重い沈黙が、煤煙の立ち込めるガーデンローの空気に溶け込んでいる。彼は深呼吸を一つすると、錆びついた鉄製の扉に手をかけた。軋む音を立てて扉が開き、内部から黴と埃の匂いが鼻腔を衝いた。


 一歩足を踏み入れると、広大なエントランスが広がっていた。しかし、高価な置物は全て売り払われており、殺風景な空間には埃をかぶったカウンターと、数脚の椅子が寂しく佇むのみだ。アレックスは上着に引っかかった蜘蛛の巣を払い、奥へと進んだ。


(これが、『ミストナイトクラブ』なのか……。記憶の中の風景とは全く似つかない、別の建物みたいだ……)


 接待室はさらにひどい有様だった。ソファーもテーブルもなく、バーカウンターの酒棚はもちろん空っぽだ。窓から差し込む薄明かりが、埃の舞う空気の中で無数の粒子を浮かび上がらせていた。壁紙は捲れ上がり、天井からは漆喰が剥がれかかっていた。


 エレベーターホールに足を踏み入れると、老朽化したエレベーターが全て故障しているのが見て取れた。完全に錆び付いたワイヤーが垂れ下がり、扉は半開きで、内部は暗闇に包まれている。アレックスはため息をつき、階段を上り始めた。一段一段上るごとに、軋む木材の音が廃墟の静寂に響き渡るった。


(エレベーターも使えないのか。いつから放置されていたんだ、ここは……)


 二階に上がると、すぐ手前に賭博場があった、ボロボロのカードテーブルが一台だけ、虚しく置かれている。突き当りの大浴場は、浴室用のボイラーが売り払われており、タイル張りの浴槽は、底に薄汚れた水が溜まる、ただの大きな窪みに過ぎなかった。屋外のテラス席も同様で、接待に使われたであろう金属製のテーブルは赤く錆付き、テラスの柵越しに広がる庭園は雑草と藪に覆われていた。


(こんな場所を、どうやって再建しろっていうんだ? 借金も抱えて、俺にできるのか?)


 肝心の客室を覗いてみる、三等客室は狭く、安物の小さなベッド以外は全て売り払われていた。三階の二等客室は三等よりも広いが、ダブルベッドがあったらしい場所は空っぽだ。四階の一等客室に至っては、部屋毎に付いていた浴槽は売り払われ。変色した壁紙に付いた染みの跡だけが、かつての栄華を物語っているのみだった。アレックスは、一部屋見るたびに、胸が締め付けられた。


 ようやく五階に辿り着く。最上階の執務室は、他の階に比べれば比較的綺麗だった。執務机や来客用のソファー、本棚には帳簿や従業員用の指導書などが敷き詰められている、壁には叔父の肖像画が飾られている。アレックスは、埃を払って執務机の椅子に腰を下ろした。ふう、とため息をついて背もたれに体重を預ける。


(ここまで何もないとは思わなかった…まともに使えそうなのは三等客室位しかないぞ…。他の部屋の設備を買い直すとしても運ぶのにエレベーターを修理しないといけないし、大浴場を稼働させるなら大型ボイラーも買わないといけないのか…)


 手持ちの金は僅かしかなく、自力で直すとしても部品を買う余裕もない、元手を作るにしても娼館に売れそうなものは無く、いよいよ手詰まりだった。


(二階の部屋を使って安宿でも営業するか、いっそ部屋を貸してしまうか…)


 彼の頭の中では営業方針を転換する方向に舵を切っていた。もはや娼館の再建は絶望的であり、どうやって返済のための金を稼ごうという悩みで一杯になっていた。玄関の電飾看板を分解して、部品をジャンク屋に売ろうとすら考えていた。


 ふと机の下に目をやると、鍵の付いたままの引き出しがあることに気付いた。引き出しを開けると、そこに一冊の分厚い紙束を見つけた。表紙には「ミストナイトクラブ再建計画書」と書かれている。


 アレックスは、震える手でページをめくった。そこには、衰退したガーデンローの詳細な市場分析、再開時の経営方針、借金の返済計画まで、具体的な再建への道筋が記されていた。最終日付は、叔父が病に倒れる直前のものだ。クローブは、最期までこの娼館を見捨てていなかった。いや、むしろ、この娼館を再興させるために、必死に足掻いていたのだ。


 叔父の想いが込められた計画書を読み終え、アレックスは静かに目を閉じた。娼館の再建をあきらめかけていた心に、微かな、しかし確かな光が灯るのを感じた。この娼館は、単なる負債ではない。叔父の夢であり、彼がアレックスに託した希望なのだ。


 アレックスは、深く息を吸い込んだ。煤と錆の匂いに満ちた空気の中に、かすかに、かつての賑わいの残滓を感じた気がした。彼は肖像画の中の叔父を見据える。その瞳には、かつてこの場所で叔父が抱いていたであろう情熱と、金と欲望に塗れた夜の世界で成り上がるという野望が映し出されているように感じられた。アレックスの心の中で、叔父の野望と自身の未来が重なり合う。


「……叔父さん。俺、この娼館を必ず建て直してしてみせるよ。」


 その声に先程までの不安は残っておらず、固い決意に満ちていた。

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