第一章(営業再開編):霧の中の誘い
バーチガンは、ブリトン帝国の首都に相応しい巨大な工業都市だ。無数の歯車が噛み合い、ピストンが往復する騒音と、煤煙を吐き出す煙突が空を覆う。その喧騒は、アレックス=リードの心に重くのしかかっていた。つい先日までオートマトンの製造工場で働いていた彼は、工場の自動化による人員削減の波に飲まれ、職を失ったばかりだ。
何度か職安に足を運んでみたが、どこもかしこも「オートマトンがやる仕事だ」と門前払いだった。人間ではオートマトンほどの効率は出せない。近年はそれが顕著だった。ポケットの中には、わずかな退職金と、自身の存在意義さえも薄れていくような絶望感だけが残されていた。アパートの窓から見えるのは、灰色の空と、埃にまみれた煉瓦造りの建物ばかり。時折、頭上を巨大な飛行船が鈍い音を立てて通過していくが、それも彼にとっては手の届かない世界の出来事だった。
そんなある日、アパートのドアを叩く音がした。重い足取りでドアを開けると、そこに立っていたのは懐かしい人物だった。
「アレックスはんか?大きくなったなぁ。」
男は四十代半ばといった風貌で、洒落た山高帽を被り、口元にはどこか胡散臭い笑みを浮かべていた。彼の纏う上質なウールのコートからは、微かに油と煙草の匂いがした。
「はい、そうですが……もしかしてジェームズおじさんですか?」
「せや、覚えててくれて嬉しいわ。」
男の言葉に、アレックスは目を見開いた。ガーデンローで叔父と暮らしていた頃、時折叔父に会いに来ては、気前よくポケットから菓子をくれた、気さくなおじさんだ。まさか、こんな場所で再会するとは。
「なんでわざわざ…叔父さんに 何かあったんですか?」
アレックスの不安を察したかのように、ジェームズは静かに告げた。
「クローブはんな、この間、病気で亡くならはったんや。」
その言葉は、アレックスの頭に鈍器で殴られたような衝撃を与えた。 クローブ叔父さんは父の兄にあたる人で、幼い頃に両親を亡くした彼を引き取ってくれた。十五歳で首都の職業学校に入寮してからは、年に数回手紙のやり取りをする程度だったが、それでも彼にとって叔父は親も同然だった。
「そんな……おじさんが……」
呆然とするアレックスに、ジェームズは続けた。
「アンタはクローブはんの唯一の肉親や。せやから、遺産を相続してもらいたいんや」
「遺産……ですか?」
「せや。クローブはんがガーデンローでやっとった娼館、『ミストナイトクラブ』や。生前、アンタに跡を継がせたがってたんやで。」
脳裏に浮かぶのは、幼い頃に叔父に連れられて遠巻きに見た、あの煌びやかな建物の記憶だ。窓からは陽気な音楽が漏れ、色とりどりの明かりが灯り、上等な衣服を身にまとった客や娼婦達が行き交っていた。ガーデンローで最も活気に満ちた場所、それが彼の知る『ミストナイトクラブ』だった。
ジェームズは一枚の書類を取り出した。「相続同意書」と書かれたその書類には、確かに「ミストナイトクラブ」という文字と、叔父の名前が記されていた。アレックスは戸惑った。娼館など、自分とは縁のない世界だ。しかし、きらびやかな娼館の記憶と、叔父が自分に託したがっていたという言葉が、彼の判断力を鈍らせていた。
「サインしてくれたら、詳しいことはガーデンローで話すわ。」
ジェームズの言葉に促され、アレックスは期待に震える手でペンを取り、書類にサインした。
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数日後、荷物を纏めたアレックスはジェームズと共に汽車に乗り込み、ブリトン帝国の地方都市、ガーデンローに降り立った。バーチガンとは異なる重苦しい空気を感じた。かつて大規模なオートマトン工場で栄えたこの街は、工場の撤退により大きく衰退し、錆びついた廃工場やスクラップヤードが延々と続いていた。空気は重く、煤と金属の匂いが混じり合っている。
ジェームズの蒸気馬車に揺られて辿り着いた「ミストナイトクラブ」の前で、アレックスは立ち尽くした。目の前の光景は、その記憶とはまるでかけ離れていた。そこには、かつての賑わいを思わせる面影はどこにもなく、半ば廃墟と化した建物が、寂れた通りにひっそりと佇んでいた。窓ガラスは煤で曇り、壁はひび割れ、店の看板は傾いている。店前の人通りもまばらで、記憶の中とは程遠い光景だった。
「これが……ミストナイトクラブ?」
アレックスの問いに、ジェームズは肩をすくめた。
「まあ、今はこんなもんやな。昔はガーデンロー一の娼館やったんやけどな。」
そして、ジェームズはにやりと笑った。その笑みには、先日の気さくな雰囲気とは異なる、冷たい光が宿っていた。
「ところで、大事なこと言い忘れてたわ。アンタ、クローブはんの借金も相続しとるんやで。総額は……大体7億クラウンやな」
ジェームズは、アレックスに借用書の束を渡し、淡々と告げた。
「わて以外にもあちこちから借りとったみたいでな、全部買い取って一つに纏めたんや。平均年収100年分、って言えば分かりやすいか? アンタにはこの娼館を再建して、きっちり返してもらうで。」
アレックスは言葉を失った。7億クラウン。途方もない数字だった。
「そんな……無理です! 払えません!」
思わず叫ぶアレックスに、ジェームズは表情一つ変えずに続けた。
「無理? そうか。ほなら、北の荒海でエビ漁船にでも乗りまっか? 30年も乗れば、返済できる計算や。」
ジェームズはゆっくりとアレックスに近づき、その肩に手を置いた。その手は、見た目以上に重く、冷たかった。
「ガーデンローにはな、わての手下があちこちに目ぇ光らせとるさかい、アンタが逃げ出したとしても、すぐにとっ捕まえて、翌日には川に死体が浮かぶことになるやろな。」
ジェームズの言葉は、アレックスの背筋を凍らせた。それは単なる脅しではなかった。彼の瞳の奥には、それを実行する覚悟が宿っているように見えた。アレックスは、自分が完全に罠に嵌められたことを悟った。選択肢はなかった。この廃墟同然の娼館を再建し、途方もない借金を返済する以外に、生き残る道はないのだ。
「……ま、わても鬼やないさかい、すぐ返せとは言わへん。返済中は利子も増やさんし、儲けた分から少しづつ返してくれたらええんや。それにガーデンローもぼちぼち活気が戻ってきとるさかい、娼婦さえ用意できたら、すぐ儲けられるで。」
ジェームズは、アレックスの顔色を窺うように、少しだけ口調を和らげた。その言葉は、まるで地獄の底で差し伸べられた救いの手のように、アレックスの心に微かな希望を灯した。絶望の淵で、彼はその手にすがるしかなかった。
「……わかりました、やります。」
アレックスは力なく答えた。その声は、諦めと、ほんのわずかな覚悟が混じり合っていた。
「そら、話が早いわ。期待しとるで、アレックスはん。」
ジェームズは満足げに笑うと、懐から取り出した懐中時計で時間を確認した。
「ほな、わてはこれで失礼するわ。また近いうちに顔出すさかい、頑張りや。」
そう言い残し、ジェームズは来た時と同じ蒸気馬車に乗り込んだ。轟音と共に黒煙を吐き出しながら、車は寂れた通りを走り去っていく。
一人残されたアレックスは、傾いた看板を見上げた。そこには『ミストナイトクラブ』と、煤けた文字で書かれている。幼い頃の輝かしい記憶と、目の前の荒れ果てた現実。そして、7億クラウンという途方もない借金。重い重い鎖が、彼の両足に絡みついたようだった。荒涼としたガーデンローの空の下、煤煙が彼の肺を締め付ける。彼は独り、打ちひしがれ、錆びた鉄の匂いが鼻腔をくすぐるのを感じていた。