075 最後の授業
――エメル殿下と婚約破棄は絶対にしない。
そう決心した私は、舞踏会を翌日に控えたその日、宮殿で行われる最後の礼儀作法の授業を無事こなし終えた。
「完璧とは言い難い部分はまだ残っておりますけれど、とても頑張りましたね」
個人的には一番厳しいと感じた、礼儀作法を担当するグラント伯爵夫人。彼女は子育てを終え、自由時間を活用し、礼儀作法を教える教室を開いているという経歴の持ち主だ。
『私が手掛ける教室の沽券に関わりますので、少々厳しく対応させて頂きます。どうぞ、ティアリス様におかれましても、そのおつもりで』
最初の顔合わせで、そう告げられたせいか、怖い印象を植え付けられた私。
気の弛まぬ隙を与えぬ礼儀作法の授業が、正直苦手でたまらなかった。けれど最後にグラント伯爵夫人にお褒めの言葉をいただいた。
これはもう、私の頑張りの勝利なのでは?と浮かれる気持ちが湧き起こる。
「先生のお陰で、私は本当にたくさんのことを学ぶ事ができました。ありがとうございます。明日は皆の前で恥をかかないよう、全力を尽くします」
これで全ての授業が終了かと思うと、つい開放感溢れ、思わずガッツポーズを取りそうになる。しかしそこはグッと堪えた。
まさに授業の成果を発揮した瞬間だ。
しかし満足する私とは裏腹に、グラント伯爵夫人は真剣な表情でこちらを見つめたまま、しばらく沈黙を続けた。
まさか、ガッツポーズをしようと微かに右手が動いたのを見過ごさず、最後にまた注意されるのだろうかと、私は内心戦々恐々としていた。
すると彼女は微笑みながら、私の手をスッと取る。
「礼儀作法は重要です。しかしそれ以上に、心の優しさと誠実さが大切です。私は授業を通し、あなたはそれを持っていらっしゃる方だと感じました。どうかエメル殿下との未来がお幸せでありますよう、心よりお祈り申し上げます」
グラント伯爵夫人は私に心からの微笑みと温かい言葉をくれた。私は驚きと感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
思えばエメル殿下と婚約しなければ、そして陛下が私のためにカリキュラムを組まなければ、知り合う事すらなかった人達だ。
それどころか私は「お貴族様」だなんてみんなを一括りにし、雲の上にいてこちらを見下ろす側の人達で、自分とは違うと勝手に思い込んでいた。
しかしこうして接してみると、庶民だろうと貴族だろうと、根本は変わらない。いい人もいれば、悪い人もいる。それは所属している社会組織の問題ではなく、個人の問題のようだ。
私は今回、付け焼き刃的に頭に叩き込んだ知識だけではなく、実に様々な事を学べたのだと気付く。もしかしたら陛下は、そういった事を見越した上で私に配慮し、この機会をくださったのかもしれない。
そう思うと、さらに胸がいっぱいになり、視界が涙で霞むのを必死にこらえた。
何だか最近涙ぐむ事が多くて困る。歳を取ったせいだろうか。
「ありがとうございます」
それだけ言うのがやっとだった。グラント伯爵夫人はそんな私を励ますように、力強く頷いてくれたのであった。
こうして私は、上辺だけを取り繕うために与えられた、全てのカリキュラムを無事終了する事が出来た。
「残すところは、明日の舞踏会ね。英気を養うためにも、今日はゆっくり休もうっと」
スキップしたい気持ちを堪え、宮殿内で私に与えられている部屋に戻ったのだが。
「ティアリス様、お疲れ様です。早速ですが今から、明日お召になるドレスの最終チェックがございます。その後、お召し替えして頂き、エメル殿下と共に陛下へのご挨拶へ。夕食はそれから取って頂く形になります。本日は入浴の前に、お肌のお手入れが入りますので、どうぞよろしくお願いいたします」
宮殿に勤める侍女頭だという女性が、容赦ないスケジュールを無慈悲に私に告げたのであった。




