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三話 後 [ダニエル視点]

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 世にも恐ろしい話だが、俺が攫われてから二週間が経っていた。

 もう一度言おう。二週間が経っていた。


 ミミィは基本的に、自分のものに対して手を出した相手に容赦をしない。

 例外的に、容赦をしなかった上で気に入ることはあるが、気に入ったからと言って何の仕打ちもなく許すことは無い。

 絶対に、最初の一手に『相手が耐えうるか考慮しない一撃』が入る筈なのだ。


 八日目くらいに、もしやこれは『この程度は自分で解決して戻って来なさい』と言うことだろうか、と考えてみたが、どうも違う。

 俺の手に負える案件か否かくらい、当事者の俺以上にミミィが理解している。即時報復が信条のミミィがこれ程の時間を掛けるということは、やはり魔族の王女というのは真実なのだろう。


「はい、ダニエル様♡ あ〜ん、ですわ」

「…………」

「もう! 何も食べずにいては身体が弱ってしまわれますわ! 口を開けて下さらないなら、あの子供の皮膚を剥いでしまおうかしら」


 悪戯っぽく笑う女の口から出た悍ましい提案に、俺は仕方なく口を開いた。こちらの食事は、どれも妙に甘ったるくて苦手だ。

 後味に変な癖がある。妙な魔法が付与された気配がないことだけが救いだった。

 伝統的な食事であるから、王族となる者はなれなければならない、と王女は俺の口に捩じ込んでくる。


 ミミィの買ってくる菓子が恋しいな、と遠くを見やったところで、城内でも数少ない、魔族の使用人が手紙を持ってやってきた。


「アリアーデ様、陛下からのご連絡です」

「お父様から? ああ! きっと、わたくしとダニエル様の婚儀の話に違いありませんわ!」


 もしそうだとすれば、悪夢の知らせだ。

 本当に結婚することになったらどうしようか。その時は流石に全てを薙ぎ倒して暴れて帰るしか無くなるかもしれない。

 が、まだサラが助けられる目処が立っていない。困ったな。

 側に立つロニーの顔を見ると、今にも倒れてしまいそうな程に青褪めた顔で絶望を湛えていた。


 ロニーとは裏腹に期待に満ちた顔で手紙を広げた王女だったが、文面を読む内に、彼女の顔色もまた悪いものへと変わっていく。


「な、何よこれ……!」


 力の籠った指先によって、便箋が歪む。

 掴んだそれを真っ二つに引き裂いた王女は、叫び声にも似た怒声を上げた。


「お父様までがあの毒婦の手に落ちたというの!? 信じられないわ、わたくしはこの国の王女なのよ! 正当な王位継承者なのよ! このわたくしにこんな無礼を働くだなんて……!!」


 血が滲むほどに唇を噛み締めた彼女は、八つ当たりのように扇を壁に叩きつけると、使用人を鬼のような形相で睨みつけた。


「軍を、わたくしの私兵を出しなさい! もはやあの毒婦は我が領域内に入っています! 迎撃の用意をなさい!

 お父様がなんと言おうと、わたくしはダニエル様と結婚するのです!」


 一体、俺の何がそこまで彼女のお気に召したのだろうか。さっぱり理解が出来ない。

 少しでも冷静に言葉を交わしたのなら、俺が彼女の求めるような『白の騎士』ではないことくらいすぐに分かるだろうに。


 彼女は、彼女が作り上げた理想に思いを寄せているに過ぎない。それならば俺でなくとも、似たような容姿の魔族で手を打てばいい。

 まあ、魔族というのは美形揃いなようだから、俺のような凡庸な顔立ちのものはいないのかもしれないが。


 慌ただしく駆けて行った王女の頭には、もはや迫り来るミミィという脅威のことしか残っていないようだった。使用人も、主人を追って足早に去る。


 部屋に残った俺は、床に落ちた便箋を拾い上げると、二つに裂けたそれを合わせて目を通した。


 そこには、『アリアーデの行いのせいで人族の大陸より加工魔石の輸出を止めると宣告された』こと、『交渉のため、直ちにダニエル・グリエットを人族の大陸に帰還させる』こと、『行動の如何に関わらず、本通達が届いた時よりアリアーデ・キナ・エルビルパシュは王家の籍を外され、魔族としての戸籍も失う』こと、そして、『封筒を開いた時点で、ミシュリーヌ・シュペルヴィエルは正式な渡航権を持って魔族領へ〝召喚〟されること』が記されていた。


 古代文字によって保証された、正式な契約魔法だ。

 魔族に限らず、全ての魔導師にとって絶対遵守の法に等しい理である。


 彼女は王族としての身分のみならず、魔族としての戸籍も失った。条件が加工魔石の輸出停止、という点から察するに、間違いなくミミィが手を回している。

 俺は知らない話だが……というか多分、人類の殆どは知らない話だと思うが、どうやらミミィは魔族すら商売相手としていたらしい。


 多分、本件はあらゆる手段を使って隠匿されているだろう。こんな事態が露わになったところで、どちらの治世にも損しかない。


 つまり、ミミィはこの件において、『好き放題やっていい権』を手に入れた、ということだ。

 だとすれば、此処に残っているのは危険しかあるまい。というより、ミミィだって、この連絡が入って俺が動かないでいるとは思っていないだろう。動かなかったら、普通に怒られる。


 とりあえず、足枷は破壊しておいた。王女は多分戻ってこない、というか、戻って来れないだろうから、今の内にやれることをやってしまおう。


「ロニー、走れるか」

「うん」


 決意を滲ませる瞳で俺を見上げたロニーを連れ、廊下を駆ける。

 将来住むことになる城を詳しく知りたい、などと言って、デート気分の王女に場内を見せてもらったのだが、その中で一つだけ妙な作りをしている箇所を見つけた。

 もしも複数人を閉じ込めるとしたら、あそこだろう。


 彼女は俺がどんなに吐きそうな顔をしていても『幻想』と会話をしていて気にも留めなかったので、言いくるめるのは案外容易い。

 もちろん、彼女の意に沿わぬことは決して受け入れないのだが。


 隠し扉の潜んだ壁には隠匿の魔法がかかっていたが、俺はとりあえず、構わず魔力を込めて蹴り抜いておいた。どうせ全部がぶっ壊れるので、一々調度品を気にしている暇などないのだ。


 薄暗く湿った、饐えた匂いのする暗がりには、動物を入れておくような様の檻の部屋があった。

 怯えた目をした人たちが、身を守るように身体を寄せ合っている。


 幸いなことに、彼らの首には呪縛は刻まれていなかった。

 側につけているロニーにだけ魔法を施して、残りは身柄を拘束することで言うことを聞かせていたようだ。どうやら王女は、俺の想定よりは魔法が得意ではなかったらしい。


 小さく、掠れた怯え声が上がる室内に向けて、俺は声を張る。


「逃げたい人はついてきてくれ。どうせこの後全部、滅茶苦茶になる」


 俺の後ろで、ロニーが妹の名を呼んだ。

 多分、俺の言葉は信用ならないだろうが、これまで妹のためにその身を削ってきたロニーの言葉なら、みんな信じてくれることだろう。


 この人は騎士様で、僕たちを助けにきてくれたんだ、なんて涙声で言うロニーの言葉を聞きつつ、とりあえず訂正する時間もないので、俺はみんなを安全──と思われるだろう場所へと誘導した。




      ◇   ◇   ◇




 鬱蒼とした森の上空。そこには魔法壁を足場に応用したミシュリーヌとノエルが、二人揃って空中へと立っていた。

 詰まらなそうな顔で腕を組んだミシュリーヌと、普段の溌剌とした様子とは異なる真剣な眼差しを城へと向けるノエル。

 彼女たちは前方を見据えたまま、冷えた声音で言葉を交わした。


「あの城、デザインが下品すぎるわ。見るだけで不快ね」

「住民の避難が済み次第、吹き飛ばしましょうか?」

「先に兵を始末してちょうだい」

「承知!」


 通達から数分と掛からずに城より現れた私兵達は、低級魔族の群れだった。

 森は彼らの住まう領土で、この地域一体の魔物に住まいを提供する代わりに従えているらしい。


 一つ一つは大したことのない存在だが、此処まで集まると鬱陶しい。ミシュリーヌは黒黒とした木々を睥睨し、その合間を縫うように駆けてくる魔物たちに片眉を上げる。


 主を間違えた兵ほど愚かで悲しいものはいない。

 ミシュリーヌはその瞳に侮蔑を浮かべたが、ノエルの目に浮かぶのは義憤の怒りと、純粋な憐れみだった。

 憐れな魂には、死という救済を与えねばなるまい。彼らは支えるべき主人を見誤り、数々の人類に危害を加え、あまつさえ隠匿したのである。


 ノエルは迷うことなく短剣を抜いた。


「契約の女神エルミティアに捧ぐ! 我が血肉、我が命、我が魂を対価とし、異界の門より破邪顕正の王を顕現せよ!」


 刃を押し当て、裂けた手のひらから鮮血が散る。

 ノエルは一千年に一人の逸材である。通常、高位の魔導師が複数人の儀式を持って召喚する筈の『名も無き八首の竜王』は、彼女の血と魂を対価に、完全なる状態で顕現した。


 ちなみに、ノエルの魂は規格外なので問題ないが、大抵は一度で十年は持っていかれる。

 ノエルの魂はいたって元気いっぱいなので、よく寝て、美味しいご飯を食べるとすぐに戻る。正真正銘、何処に出しても恥ずかしくはない異常の傑物であった。


 その隣でなんとも詰まらなそうに、笑みの一つもなく立つもう一人の傑物が、まとめた髪を軽く払って告げた。


「此処は任せるわ」

「お任せください、塵の一片も残しませんとも!」

「ああ、忘れないでね。降伏した相手は捕虜とするのよ」

「勿論です!」


 ノエルは本心から頷いていたが、ミシュリーヌにとってはただの詭弁である。

 彼らは統率が取れているだけの魔物であり、悦楽を餌に交わした契約によって命じられたままに動くただの肉塊だ。

 死ぬまで降伏はしないだろうし、死んだ者は降伏などできない。簡単な話だ。


 ミシュリーヌはその相貌からは一切読み取れぬ怒りを足に籠めるかのように空を蹴ると、真っ直ぐに城へと駆けた。

 



     ◇   ◇   ◇




「今すぐ安全を確保できなくて悪いな。多分、俺が出ていくまでは城が吹っ飛ばされるなんてことにはならないと思うし、後でちゃんと助けに来るから、安心していてくれ」


 避難してもらった人達には、俺が閉じ込められていた部屋に来てもらった。

 攫った婚約者を閉じ込めているような部屋だから、檻としてはかなり頑丈にできている筈だ。

 一刻も早く逃してやりたいところなのだが、窓から覗いた限り、外には魔物が蔓延っている。戦闘に巻き込まれてしまっては元も子もない。


 本当はチョーカーがあれば一番良かった。

 あれさえ置いておけば、少なくともミミィは此処を攻撃するようなことは無いだろう。


 竜王の咆哮は城内にまでも届いている。

 室内の人々が怯えているので、「……俺の友人が使った召喚魔法だから、安心して欲しい」とだけ伝えておいた。


 にしても、初手からいきなり最強にして最大の一手を打ってくるのは如何なものだろうか。

 もう少し手心というものがあっても……まあ、別によくはないな。ちっとも。一欠片もよくはない。


「……ダニエル、此処にいてくれないの?」

「すまない。俺が行かないといけないんだ」


 不安げに呟くロニーの頭を軽く撫でる。もはや城内の者は此処に来るような余裕はないだろう。

 念には念を入れ、室内の家具で扉を押さえておくことを伝えてから、俺は先ほど王女が駆けていった見張り台の方へ足を進めた。


 ミミィの悪辣は、人の世では人の範疇に収まる。そうして生きてくれたら嬉しい、と俺が伝えたからだ。

 学園の中では、校則の範囲でも、まあ収まる。そうした方が学園生活が楽しいと、ミミィが望んだからだ。

 けれども此処は魔族の領土で、魔族の世界だ。ミミィを縛る枷は一つも無い。

 あったとしても、それらは全て、ミミィ本人が丁寧に取り除いてしまった。


 飛び込むように扉を押し開けた俺の視界には、ちょうど見張り台に降り立ち、白銀の剣を抜くミミィの姿が映った。

 月明かりを受けて、コンヘラル鋼の剣身が鋭く輝く。王女を見下ろすシアンブルーの瞳には、見るものを焼き尽くす、冷えた青い炎のような輝きが宿っていた。


「ミミィ、待ってくれ」


 目が合うと同時に声を上げる。その首を薙ぐべく振るわれかけていたその腕は、俺の制止によって一度は止まった。

 声をかけた俺ですら、その剣先が止まるとは思っていなかった。多分、奇跡か何かに近い。


「あら。久しぶりね、お姫様(・・・)。元気にしていたかしら?」

「あんまりだな。とりあえず、帰ったらちゃんとしたものが食べたい」


 俺は、努めて普段と同じ調子で返した。

 敵を屠ると決めたミミィの気を逸らして、この場を穏便に済ませる方法が一つだけあるとしたら、俺がいつもと同じペースでミミィの気分を引き戻すしかない。


 のだが、薄く笑みを浮かべるミミィからは、絶望的なまでに冷え切った、断頭台の刃のような声が返ってくるだけだった。


「そうね。この女が手ずから食べさせたものだなんて、胃の腑が腐り落ちてもおかしくないもの」

「……………」


 どうやら、王女は既に散々ミミィの神経を逆撫でしていたらしい。

 何を語ったかは知らないが、これ以上何も言わないでほしい。と思った矢先に、身体を起こした王女が甲高い声で叫んだ。


「わたくしは魔界の王女ですのよ! お前のような下賎な毒婦とは違う、高貴な存在なのです! ダニエル様はわたくしにこそ相応し────」


 頼むから喋らないでくれ、という俺の願いが天に聞き届けられるより早く、ミミィの剣が宙を薙いだ。

 風圧で翻った黒髪が半分ほど首の高さで切り取られ、頬に一筋の傷が走る。


 悲鳴を上げて蹲った王女に、ミミィはあくまでも淡々とした、平坦な声で告げた。


「『魔族』というのは、魔界で戸籍を得た、魔の血を引く存在を指すわ。お前はもう王女でもないし、戸籍が抹消されたのだから魔族でも無い。この国にはね、たまたま人語を解す魔獣を殺したからと言って、罰せられる法はないの」


 口元に笑みを湛えたミミィの瞳には冷えた殺意が宿るばかりだった。愉悦は、一欠片もない。


 ミミィが他者の上に立ち踏み躙る時に、愉しみを見出している時はまだいい。説得の余地があるからだ。

 ノエル嬢の時とは事情が違う。ミミィは王女を許すことはないだろう。


 俺だって別に、許して欲しい訳ではない。ただ詰るとしたら俺の不出来をまず挙げるべきだし、ミミィがこの女を手に掛ける必要はない──というか、そうして欲しくもない。


 俺は二人の間に割って入ると、ミミィの肩へとそっと手を寄せた。


「……ミミィ、この女の処罰は魔族の王に任せてほしい」

「いやだわ、ダン。冗談でもそんなことを言わないでちょうだい。魔の王たる方にただの魔物の処罰をお願いするだなんて恐れ多いこと、下賎な毒婦である私には出来る筈もないでしょう?」


 わざとらしいまでに装飾された謙遜が、嘲笑を包んで冷たく響く。

 真っ当な方法で説得することは出来ないだろう。王女の行いには正当性はないし、何よりこの二週間の俺には、ミミィを止めるような権利は無い。

 分かっている。助けられるまでただ待っていて、挙げ句の果てに首謀者を庇うだなんてどうかしている。


 それでも止めたいと思うのは、俺がミミィの剣にこんなもの(・・・・・)を斬らせたくはないからだ。

 王女は愚かで浅慮でどうしようもないほどに夢見がちで、そして呆れる程に醜悪だった。


「どうしても殺したいなら俺がやるよ。実害も受けた訳だし、それに、失態の責任は俺が取るべきだ」


 俺は、ミミィをこの世で一等美しいものだと思っている。もし仮にこれを斬り捨てるにしたって、手を下すのは俺であるべきだ。

 呪縛は解いたし、救い出した奴隷の人たちだって自由に出来る。もう俺が王女を害するのを躊躇う理由はない。


「嫌よ。こんな穢らわしいもの、ダンが手にかける必要はないわ」

「俺も同じ気持ちだ」

「そう。だったら、私の感情は何処に持っていけばいいのかしらね」


 微かに力の抜けたミミィの声音に、俺は続ける言葉を見失ってしまった。


 恐らくは、王女は元より魔界で持て余していて、王族としても疎まれていたのだろう。

 それでも二週間で彼女から立場と戸籍を奪い、魔族領にまで踏み入れる権利を手に入れるのは、途方もない程の労力を要したに違いない。

 俺の軽率な判断で、随分と苦労をかけてしまった。多分、ミミィはそれを苦労だなどとは呼ばないだろうけれども。


 俺にはミミィの献身に応えられるだけの材料がない。俺の人生などというものはとうにミミィのもので、そうなればやはり、俺という所有物を傷つけられたミミィには報復の正当な権利があるからだ。


 でもやっぱり、この女だけは、流石に嫌だった。

 なんなら、今だって妙な輝きを宿した瞳で俺をうっとりと見上げている。騎士様だとか呟いている。

 俺は騎士ではない。もし仮に騎士であったとしても、それは『ミシュリーヌ・シュペルヴィエルの騎士』である。


「分かった、ミミィが俺の願いを聞き入れてくれたなら、なんでも言うことを聞く」

「いつもと変わらないわ」

「なんでも、だ」


 極めて真剣に言い放った俺に、ミミィは足元で哀れみを誘うように啜り泣く王女を一瞥してから──諦めたように溜息を落とした。




 その後、避難を終えた城は見事に爆破された。

 王女は引き渡され、奴隷となっていた方々は相応しい施設に送られることが決まった。しばらくは療養院で休むことになるらしい。


 『爆散はお任せください!』と胸を張るノエル嬢は果てしなく得意げだった。底抜けに明るい彼女は、きっとこの二週間、ミミィの支えになってくれたことだろう。

 礼を告げると『お戻りにならねば死人が出る!と思いましたので、全力を尽くしました!』と続けられたので、あとで正式な謝礼を用意せねば、と胸に誓った。


 ただ、真っ先に優先するべきはミミィである。

 あくまでも淡々と事後処理を終えたミミィの後に付き従いながら、俺は静かに覚悟を決めた。




       ◇   ◆   ◇




 そういう訳で、俺は今現在、公爵家のベッドでミミィに押し倒されている。

 なんでだ。

 しかも両手が手枷で頭上に括られている。

 なんでだ。


 到底、貞淑さを誇りとする貴族令嬢がしていい振る舞いでは無いのだが、腑抜けの俺が黙って攫われたのが原因なもので、反論が許される気配はなかった。


 身動きの取れない──ということになっている──俺の上で微笑むミミィだが、あのあと城から帰り、王女の振る舞いを聞き出してからすぐに、俺を風呂へと放り込んだ。

 ミミィに命じられた使用人が、無抵抗の俺をまるっと綺麗にしてから、新たに用意した洋服を着せる。戻った俺を、ミミィは今度はベッドへと放り込んだ。


 これは流石に駄目だろう、と思って身体を起こしかけたところで、頭上で腕が一括りにされてしまった。


 俺を風呂に放り込んでいた間に別の浴室で身を清めていたらしいミミィからは、いつもの香油の匂いはしない。甘くほのかに香る程度の、柔らかい匂いがするだけだ。

 常よりも薄く滑らかな作りのナイトドレスは、ゆったりとした作りでありながら、重みに従ってミミィの身体に沿う様に輪郭を作っていた。


「ミミィ、これはちょっと、駄目だ」

「なんでも、と言ったのは貴方よ」

「まだ婚前だ」

「あら、何をされると思っているの?」


 艶めいた揶揄いに、俺はとりあえず口を噤んだ。

 確かに、俺はまだ何をされるとも言われていない。これはミミィなりの罰の与え方で、俺の思っているようなことではないのだろう。多分。


「俺の早とちりだったかもしれない」

「そうね。ところで、王女様からは何をされたのかしら? 随分と楽しく過ごしたようだけれど」

「……さっき言った通りだ。ずっと隣に居て、変に近かっただけで、何もなかった」

「ふうん?」


 誓って真実だった。けれども、響きがあまりにも嘘くさくなってしまう。二週間も密室にいた男女に何もなかっただなんて、きっとミミィ以外は信じてはくれないだろう。

 ただ、ミミィは俺の潔白を信じた上で罰を与えているのだ。だから、俺がいくら言葉を重ねて弁明しようと特に意味はない。


 ミミィの気の済むまで好きなようにさせよう。

 なんて、物分かりのいい文言で諦めて受け入れようとしていた俺は、ミミィの白くしなやかな指先が腰の留め具にかかった瞬間────死ぬんじゃないかと思うほどの鼓動の喧しさと共に制止の声をかけていた。


「ミミィ」

「なあに?」

「駄目だ」


 全然、ちっとも、これっぽっちも俺の早とちりではなかった。不味い。このままだと本当に大変なことになる。

 ミミィはまるで、何も知らない箱入りの令嬢のような無垢な笑みを浮かべて小首を傾げている。ミミィの本性を知らないものが見れば、まるで天使のようだ、とでも言うだろう。実態は悪魔である。


「だって、なんでも、と言ったでしょう」

「限度がある」

「なら、初めからそんな言葉など使わなければ良かったのよ」


 身を屈めたミミィが、俺の頬を撫でながら囁く。

 うそつき、と響いた小さな声音には、確かに寂しさと失望を感じさせる微かな震えが籠っていた。


 瞬きもなく見つめる俺の上で、ミミィは一呼吸の間でさっと表情を取り繕ってしまう。

 普段と変わらぬ余裕を伴った艶やかな笑みで、ミミィは嘲笑うように囁いた。


「ああ、それとも、ダンは本当はああいう幼くて可愛らしい女の方が良かったのかしら」


 手枷は後で弁償しよう、と壊してから思った。

 ほんの一瞬、一欠片の思考だ。


 拘束を解いた俺はミミィを乗せたまま上半身を起こすと、身を委ねるミミィを支えながら彼女をベッドへと沈めた。

 ちょうど、丸っと上下をひっくり返した形になる。


「冗談でも言わないでくれ」

「嫌よ。なんでもすると言ったのだから、この程度の揶揄は聞き入れなさい」

「ミミィ」


 最初、俺は謝罪を口にしよう、と思った。

 なんとでもなるだろう、と軽率についていった俺が悪いのだから、当然謝るべきだ。


 けれども、俺を避けるように顔を横へと逸らすミミィの揺れる瞳を見とめてすぐ、多分、俺の口の仕事は謝罪じゃないな、と思った。


 艶やかな紫紺の髪を指先で払って、そっと額の端に口付ける。微かに赤く染まる耳の先と、晒された白い首筋、少し濡れた鎖骨へと続ける。

 頑なに此方を向こうとしないミミィの機嫌を取るように口付ける内、シーツを掻いていた指先が、俺の手を探るようになぞった。


 いつになく遠慮がちに指を絡めるミミィの手を、強く握り返す。微かに震える身体が、どうしようもなく愛おしかった。


 赤い唇が、俺の名を紡ごうと薄く開く。

 音となる前の吐息すら求めたくなって、飲み込むように唇を重ね──ようとしたところで、扉の外から盛大な咳払いが聞こえた。


「えー、ゴホン!! ゴホン!! エッホン!!」


 ルーシェさんのものである。


 思わず、ミミィと顔を見合わせてしまう。寝転んだままのミミィは、空いている方の手で手遊びのように俺の髪の先を弄びながら、とぼけるようにゆっくりと斜め上方へと視線を逸らした。


「気のせいよ、」

「オッッホン!!!! ゴホ!!」


 特大の咳払いであった。明確な意思のある咳払いであった。この部屋は人払いをしてあるし、妙な見張りはいない。

 見えてもいないのによく分かっている辺り、流石はルーシェさんと言ったところだろう。


 ミミィは珍しく困った顔で吐息を溢すと、俺の腕から逃げるようにして滑らかにベッドを降り、淑やかな足取りで扉へと向かった。


「ルーシェ、誤解よ。何もしていないわ」

「ええ、ええ、そうでしょうとも! お嬢様は何もなさってなどおりません! ルーシェはそう信じております!!」


 力強いルーシェさんの言葉に、ミミィはとうとう降参したようだった。

 着替えてくるわ、と続きの部屋へと向かったミミィの着替えを手伝うように、ルーシェさんが静々とその後を追う。

 去り際にほんの一瞬、ベッドへと向けられたルーシェさんの視線に、俺は叱られた子供のように縮こまってから、小さく頭を下げた。


「…………」


 危なかった。

 ルーシェさんが止めてくれなかったら、と思うと、背筋が凍った。冷や汗が止まらない。決闘よりも余程恐ろしかった。


 シュペルヴィエル公爵家が司る属性は水である。公爵閣下の得意魔法は、周辺一帯を凍てつく氷原へと変えるほどの氷魔法である。

 大事な一人娘に婚前に手を出したとあれば、俺など簡単に氷像へと変えられてしまうだろう。というより、このラインでももはや半分くらいは凍らされるかもしれない。こう。下半分を。


 どうやって言い訳したものか、と思いながら一人反省会を開いていた俺だったが、特にその後のお咎めはなかった。

 週に一度の茶会でも、特に態度や距離が咎められることもなかった。ルーシェさんは全面的にミミィの味方なので、多分黙っていてくれたんだろう。


 ほっとしたのも束の間。

 その後の俺にはどうにもならない問題が浮上してしまった。予想通りだ。本当に大変なことになってしまった。


「あら、どうしたの、ダン。今日はやけに熱心に見つめてくるのね?」

「…………なんでもない」


 艶やかに機嫌良く笑うミミィから目を逸らしながら、俺はひたすらに頭の中で魔素の基本要素を唱えていた。


 世の男性はこれをどうやって堪えているのだろう。もはや絶望すら覚える。

 とりあえず、今度研究部に行った時に部長にでも聞いてみようか、と思った。





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― 新着の感想 ―
[気になる点] ムーンはどこですか?ムーンライトノベルズは?! [一言] 素敵でした。
[良い点] ダニエルに対しての、このグッとくる重さが本当に好き。 [一言] ノエル嬢、強すぎない?というかこんなレベルが一千年に一度とかこの世界、魂がすごい人多いんですねぇ
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