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月光の下で穢れた聖女と、静かに背を向けた戦士~遅すぎた後悔と壊れた英雄たち~  作者: novelnovel


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エピローグ:月明かりの果て、盾を置いた男の軌跡

「そこだ、右の脇が甘い。踏み込みの時に重心がブレているから、次の動作が遅れるんだ」


乾いた木剣のぶつかり合う音が、長閑な村の広場に響き渡る。

俺の指摘を受けて、額に汗を浮かべた若い村の青年が、ハッと息を吐いて体勢を立て直した。


「くそっ、やっぱりクレイトスさんには敵わないや。もう六十を過ぎてるってのに、どうしてそんなに重い剣が振れるんだよ」


青年は肩で息をしながら、苦笑いを浮かべて木剣を下ろした。俺は手にした使い込まれた木剣を肩に担ぎ、彼の頭を軽く小突いた。


「俺の剣が重いんじゃない。お前が無駄な力ばかり入れているから、そう感じるだけだ。剣は腕で振るな、腰と足の運びで振れといつも言っているだろう。……まあ、今日はこのくらいにしておくか。自警団の巡回当番に遅れるぞ」

「はいっ! ありがとうございました、先生!」


青年は元気よく一礼すると、他の若者たちと共に広場を駆けていった。

彼らの背中を見送りながら、俺は小さく息をつき、近くの丸太に腰を下ろした。

手ぬぐいで額の汗を拭うと、白髪の混じった短い髪が手に触れる。水鏡に映る自分の顔を見るまでもなく、俺の顔には深い皺が刻まれ、かつての若々しい戦士の面影はすっかりと薄れていた。


ここは大陸の最西端、海に面した辺境の漁村「オラン」。

あの東の国を後にしてから、もう三十年近い歳月が流れていた。


自由都市バロアで数年間を傭兵として過ごした後、俺はさらに西へ、西へと足を進めた。

国境を越え、山を越え、幾つもの街や村で用心棒や護衛の仕事をこなしながら、風の吹くままに旅を続けた。特定の組織に属することもなく、誰かと深い絆を結ぶことも意図的に避けてきた。誰かの背中を守るために自分の命をすり減らす生き方は、もうあの東の森に置いてきたからだ。

そうして十数年前、この潮の香りがする小さな村に流れ着き、気がつけば定住してしまっていた。村人たちは余所者である俺を温かく迎え入れ、俺もまた、魔物や野盗から村を守るための剣術を若者たちに教えることで、自分なりの恩返しをしている。


「クレイトスさん、お疲れ様。冷たい麦茶でもいかが?」


ふと声がして振り向くと、村のパン屋の娘が、水滴のついた木製のジョッキを差し出してくれていた。


「ああ、いつもすまないな」


俺はジョッキを受け取り、冷たい麦茶を一気に喉に流し込んだ。麦の香ばしい匂いと心地よい冷たさが、疲れた体に染み渡っていく。


「今年の冬には、隣町の自警団と合同で大きな猪狩りがあるんでしょう? うちの弟も参加するって張り切ってて。クレイトスさんが鍛えてくれたから安心だけど、やっぱり少し心配で……」

「心配いらないさ。あいつは筋がいい。無茶さえしなければ、立派に役割を果たして帰ってくる。俺が保証するよ」

「ふふっ、クレイトスさんがそう言ってくれるなら安心ね。ありがとう」


娘は嬉しそうに微笑み、足取り軽く自分の店へと戻っていった。

彼女の後ろ姿を見ながら、俺は自分の胸の内に広がる穏やかな温もりを感じていた。

特別な力を持たない、平凡で素朴な人々。彼らが日々の生活を懸命に生き、ささやかな幸せを分かち合っている。俺が今守っているのは、世界だの平和だのという大仰なものではない。ただ、目の前にある手の届く範囲の、当たり前の日常だけだ。

そして、その小さな世界を守るために振るう剣は、かつて背負っていたあの巨大で重苦しいタワーシールドとは比べ物にならないほど、軽やかで自由だった。


夕暮れ時、村に一つだけある小さな酒場に顔を出すのが、俺の日課になっていた。

潮風で錆びついた看板が揺れる酒場に入ると、いつものように漁師たちや村の老人たちがエールを傾けながら陽気に騒いでいる。俺はカウンターの隅の定位置に座り、店主からエールと焼き魚を受け取った。


「そういや、今日は珍しい客が来てるぜ」


店主が顎で指し示した先には、一人の若い吟遊詩人が、リュートを爪弾きながら喉を潤している姿があった。この西の果てまで旅芸人がやってくるのは珍しい。


「東の方から流れてきたらしい。なんでも、昔の王国の教訓歌を歌うのが得意なんだとよ」


店主の言葉に、俺は微かに眉を動かした。

東の王国。それは間違いなく、かつて俺が所属し、そして滅び去ったグランセル王国のことだろう。

三十年前、勇者レオンハルトの死と共に、東の大陸は完全に魔王軍の支配下に入った。国は滅び、多くの人々が命を落としたという報せは、数年がかりでこの西の果てまで届いていた。だが、魔王軍の侵攻は大陸の中央を隔てる巨大な山脈で止まり、彼らがこの西の辺境までわざわざ手を伸ばしてくることはなかった。俺たちは、魔王の脅威を遠い世界の出来事として受け止めながら、こうして生き長らえている。


「さあさあ、皆の衆! ここで一曲、遠い昔の東の国の物語を歌いましょう!」


吟遊詩人が声を張り上げ、リュートの弦を弾いた。

軽快な、しかしどこか物悲しい旋律が酒場に響き渡る。


『かつて東に栄えし白亜の国、神に選ばれし勇者がおりました〜♪

光の剣を振りかざし、魔王を討つと誓いし英雄〜♪

されど勇者の心は弱く、重圧に負けて狂気に堕ちた〜♪

聖なる女を慰みにし、真実の盾を自ら捨てた〜♪』


酒場の客たちは、エールを飲みながら興味深そうに耳を傾けている。


『盾を失いし勇者は脆く、黒き竜の爪に呆気なく散った〜♪

聖女は狂い、弓引きは囚われ、王国は炎に包まれて消え失せた〜♪

ああ、愚かなる人間の業よ! 傲慢と欺瞞が招きし破滅よ〜♪

決して忘れじ、身の程を知れ、真の支えを失うべからず〜♪』


歌が終わると、客たちからパラパラと拍手が沸き起こった。


「はははっ、何度聞いても間抜けな勇者様だぜ!」

「自分の命を守ってくれてる盾役を追い出すなんて、どれだけ頭が空っぽなんだろうな」

「だから東の国は滅びたんだ。俺たちは分を弁えて、真面目に魚を獲って生きるのが一番さ!」


客たちが笑い合いながらエールをぶつけ合う。吟遊詩人も得意げに笑いながら、投げ銭を受け取っていた。

俺はジョッキの縁を指でなぞりながら、静かにその光景を見つめていた。

三十年という月日は、あれほど凄惨で血生臭かった事実すらも、こうしてただの「滑稽な教訓歌」へと変えてしまうのだ。

勇者レオンハルト、聖女フィーリア、弓使いレグナス。

世界を救う大義を背負い、輝かしい未来を約束されていたはずの彼らの名前は、今や誰も覚えていない。ただ「自業自得で国を滅ぼした愚か者たち」という匿名の記号として、後世の酒の肴にされているだけだ。


怒りも、悲しみも、同情も湧かなかった。

ただ、時の流れの残酷さと、因果というものの明確な答えがそこにあるだけだ。


「……美味いな」


俺は残っていたエールを飲み干し、焼き魚の骨を綺麗に残して皿を空にした。

彼らがどうしてあのような結末を辿ったのか、俺は誰にも話すつもりはない。俺がその「真実の盾」であったことなど、この村の誰も知らないし、知る必要もないことだ。

俺は銅貨をカウンターに置き、賑わう酒場を後にした。


夜の帳が下りた村は、波の音と虫の鳴き声だけが静かに響いている。

自分の小屋に戻った俺は、ランプに火を灯し、戸棚の奥から古い革袋を取り出した。

それは、三十年前にあのパーティを抜け出した時、必要最低限の荷物を詰め込んでいた袋だ。長年の旅で傷だらけになり、今では裁縫道具や古い砥石を入れるだけの小物入れになっている。

中身を整理していると、底の方から小さな硬い欠片が転がり出てきた。

指先でつまみ上げると、それは泥に汚れて黒ずんだ、木彫りの鳥の羽の欠片だった。


「……まだ、こんなものが残っていたのか」


それは間違いなく、俺がフィーリアに贈り、彼女が月光の下でレオンハルトと抱き合いながら踏み砕いた、あのペンダントの一部だった。

荷物をまとめた際、無意識のうちに靴の裏か荷物の隙間に挟まっていたのだろう。三十年もの間、俺の旅の裏側にずっと隠れ潜んでいたのだ。


欠片を見つめていると、あの夜の光景が脳裏に静かに蘇ってきた。

青白い月光が照らし出す森の空き地。

脱ぎ捨てられた神官服と甲冑。

レオンハルトの背中に爪を立て、熱を帯びた瞳で快楽に溺れていたフィーリアの顔。

そして、俺を引き留めようとしたレグナスの、焦りと保身に満ちた声。


あの時、俺の心を支配したのは、果てしなく冷たい氷のような虚無感だった。

愛していた女の裏切り。命を預けていた仲間の欺瞞。

俺の全てを否定され、自己満足のピエロにされていたという事実。

あの朝、俺は全てを完全に切り捨てた。彼らの言い訳を聞く耳すら持たず、背を向けて歩き出した時の、あの奇妙な身軽さを今でも覚えている。


もし、あの時俺が別の選択をしていたらどうなっていただろうか。

激昂してレオンハルトに斬りかかっていれば、俺は返り討ちに遭って死んでいたかもしれない。

あるいは、フィーリアの泣き落としに絆されてパーティに残っていれば、いずれ魔王軍との戦いの中で、前衛で盾を構える俺の背中から、彼らの不作為な魔法や矢が飛んできて「名誉の戦死」を遂げさせられていたかもしれない。


どちらにせよ、あのまま彼らと共にいれば、俺の人生はろくな終わり方をしなかっただろう。

彼らを捨てたこと。あの重厚なタワーシールドをテントの傍らに残し、一人で歩き出したこと。

それは、俺の人生において最も残酷で、しかし最も正しい決断だったのだ。


「悪いな、フィーリア。俺は今、結構幸せに生きてるよ」


俺は誰に聞こえるでもなく呟き、その木彫りの欠片をランプの火にかざした。

かつては愛の証であり、そして裏切りの象徴であったその木片は、炎に包まれてパチパチと音を立てながら燃え上がり、やがてただの黒い灰となって皿の上に落ちた。

最後の未練すらも、こうして完全に消え去った。

俺の心にあるのは、過ぎ去った過去への執着ではなく、自分が選び取ったこの三十年の軌跡に対する、確かな誇りと肯定だけだった。


俺はランプの火を吹き消し、小屋の扉を開けて外に出た。

見上げると、夜空には雲一つなく、澄み切った満月が輝いていた。


あの夜、森の中で見た月光は、狂気と背徳を照らし出すおぞましい光だった。

だが今、俺の頭上に降り注ぐ月光は、静かで、優しく、ただこの穏やかな村の景色を美しく照らし出している。

海面が月明かりを反射して、銀色の道を作っている。その道を辿れば、どこまでも自由に歩いていけそうな、そんな気がした。


「さて、明日は少し早起きして、若いやつらのために新しい木剣でも削ってやるか」


俺は大きく伸びをして、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。


過去の誓いは崩壊し、かつての英雄たちは歴史の塵となって消え去った。

だが、盾を置いた一人の男の人生は、誰に縛られることもなく、こうして静かに、力強く続いている。

明日もまた、太陽は昇り、平凡で愛おしい一日が始まる。

俺は月光に照らされた自分の分厚い掌を一度だけ見つめ、そして、満足げな笑みを浮かべて小屋の扉を閉めた。


世界を救う大義などなくても、人生は十分に生きていく価値がある。

その真実だけを胸に抱き、俺は深い眠りへと落ちていった。

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