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月光の下で穢れた聖女と、静かに背を向けた戦士~遅すぎた後悔と壊れた英雄たち~  作者: novelnovel


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サイドストーリー:白亜の聖女と堕ちた祈り

空はどこまでも灰色だった。

太陽の光など永遠に届かないのではないかと思えるほどに、分厚く重い雲が谷を覆い尽くしている。冷たく湿った風が、切り立った黒い岩壁の隙間をすり抜け、ヒュウ、ヒュウと不気味な音を立てていた。

その岩肌に沿って、一つの影が泥の上を這いずり回っている。


「クレイトス……どこ……? クレイトス……」


掠れた声で、壊れた玩具のように同じ名前を呟き続ける女。

かつて世界中から「白亜の聖女」と讃えられ、その美しさと清らかな祈りで多くの人々を魅了したフィーリアの姿がそこにあった。

純白だったはずの最高級の絹の神官服は、今や泥と仲間の血、そして彼女自身の排泄物にまみれ、見る影もないほど黒く汚れきっている。丁寧に手入れされていた美しい金糸の髪は、脂と泥で固まって鳥の巣のようになり、顔には幾重もの擦り傷と泥がこびりついていた。

素足は岩と砂利で擦り切れ、爪は剥がれ、歩くたびに赤黒い血の足跡を大地に刻んでいる。だが、彼女は肉体的な痛みをすでに感じていないのか、ただ虚ろな目で宙を彷徨い、岩陰や白骨の影を狂ったように探し回っていた。


「おかしいな……さっきまで、ここにいたのに。ねえ、クレイトス、かくれんぼはもうおしまいよ。早く出てきて、私を抱きしめて……」


誰もいない空間に向かって、フィーリアはへらへらと歪な笑みを浮かべた。

彼女の精神は、あの凄惨な全滅の光景を前にして完全に崩壊していた。勇者レオンハルトが黒竜将の爪に虫ケラのように潰され、レグナスが腕を吹き飛ばされて連れ去られたあの瞬間から、彼女は現実を受け入れることを拒絶した。

彼女の壊れた脳内では、まだ輝かしい英雄のパーティは健在であり、そして何より、最愛の恋人であるクレイトスが、あの温かい笑顔で自分を守ってくれているという妄想が支配していたのだ。


だが、どれだけ探しても、大声で呼んでも、あの頼もしい大きな背中が現れることはない。

ふと、彼女の視界に、泥にまみれた小さな木片が映った。

それはただの枯れ枝の欠片だったが、狂気に沈む彼女の目には、それがかつてクレイトスから贈られた「鳥の形をした木彫りのペンダント」に見えた。


「ああ、あった……これ、あなたがくれたものよね。私、大事にするって言ったのに……」


フィーリアはその木片を両手で包み込むように拾い上げ、胸に押し当てた。

その瞬間、強固に築き上げられていた妄想の壁が、不意にひび割れた。

脳裏に閃いたのは、あの月夜の光景。冷たい月明かりの下で、自分はレオンハルトの下敷きになり、甘い声を上げていた。そして、その背中で、クレイトスがくれたこのペンダントを、自らの体重で無残に踏み躙っていたのだ。


『来るな』


朝靄の中で、ゴミを見るような目で自分を見下ろしたクレイトスの視線。

絶対に自分を見捨てないと信じていた男が、一切の未練も感情もなく、ただ冷酷に自分を切り捨てたあの瞬間。


「あ……あああっ……ああっ!!」


急激にフラッシュバックした「現実」の痛みに、フィーリアは木片を抱きしめたまま地面に転がり回り、獣のような叫び声を上げた。

胸が張り裂けそうだった。呼吸の仕方が分からなくなり、喉をかきむしる。

自分が何をしたのか。自分がどれほど汚らわしい裏切りを働き、世界で一番自分を愛してくれた人の心を完膚なきまでに破壊したのか。

その事実が、鋭い刃となって彼女の精神をズタズタに切り刻む。


「違う、違うの! 私は悪くない! 私は被害者なのよ!」


フィーリアは涙と鼻水を撒き散らしながら、誰もいない灰色の空に向かって叫んだ。


「レオンハルトが脅したの! 私が従わなければ、クレイトスを最前線で囮にして殺すって! 私は、クレイトスを守るために、仕方なくあの男に体を差し出したのよ! だから私は悪くない! 私は彼を愛していたから、自分を犠牲にしただけなの!」


それは、彼女が自分自身の心を保つために、ずっとすがりついてきた最後の防衛線だった。

私は脅された。私は被害者だ。あの関係は愛の上の自己犠牲だったのだと。


「神様……! 光の神様、お願いです、私を助けて! 私は聖女としての役目を果たそうとしました! なのに、こんな仕打ちはあんまりです! どうか、どうか私をこの地獄から救い出して! クレイトスを、私の元へ返して!!」


フィーリアは泥だらけの両手を組み合わせ、必死に天に向かって祈りを捧げた。

聖女としての清らかな魔力はすでに失われていたが、彼女は自分の祈りが必ず神に届くと信じていた。自分は特別な存在であり、神から愛されていると、そう思い込んでいたからだ。


すると、奇跡が起きた。

灰色の分厚い雲が、一点だけ丸く割れたのだ。

そこから、黄金色に輝く眩い光の柱が、真っ直ぐにフィーリアの体を包み込むように降り注いだ。


「ああっ……! 神様!」


フィーリアは歓喜の涙を流し、光に向かって両手を差し伸べた。

温かく、全てを包み込んでくれるような神の光。これで私は救われる。あの醜い記憶も、クレイトスを失った絶望も、神が全て浄化して、元通りの幸福な日々に巻き戻してくれるに違いない。


だが。

降り注いだ光の中から響いてきた声は、彼女が想像していたような慈愛に満ちたものではなかった。


『黙れ、穢れた肉人形よ』


脳髄を直接殴りつけるような、絶対的な冷酷さと怒りを孕んだ神の声。

フィーリアは息を呑み、差し出していた手を中空で止めた。


「か、神様……?」

『己の罪を直視することもできず、まだ見苦しい言い訳を並べ立てるか。お前のその薄汚れた祈りなど、天界の空気を汚すだけの腐臭に等しい』


神の言葉は、容赦のない刃となってフィーリアに突き刺さった。


「ど、どうしてそんなことを仰るのですか! 私は、勇者に脅されて……!」

『被害者を気取るのはやめろ、フィーリア』


光の柱の中で、神の威厳ある姿が幻影として浮かび上がった。その目は、フィーリアの心の最も奥底に隠蔽された醜い真実を、全て見透かしていた。


『お前は最初こそクレイトスの命を理由に脅され、屈した。だが、その後はどうだ? お前は、世界を背負う勇者に求められ、支配されることに、いつしか歪んだ優越感と快楽を覚えていったのではないか?』

「ちが……違います……!」

『神の目を欺けると思うな!』


神が怒号を上げると同時に、フィーリアの周囲に光のスクリーンが展開された。

そこに映し出されたのは、夜の宿屋の一室。レオンハルトに抱かれ、熱を帯びた瞳で彼にしがみつくフィーリア自身の姿だった。

そして、あの決定的な森の夜の光景。


『当然だ。あの愚図に、お前の奥底を暴くことなどできるはずがない。お前は俺だけのものだ』

『はい……っ、私は、あなたの……』


泥のついた神官服、放り出された甲冑。月光の下で、クレイトスのことなど完全に忘れ去り、レオンハルトの背中に爪を立てて悦びに啼き喚く自分の姿が、残酷なほど鮮明に映し出されていた。


『これが、脅されて仕方なく従った者の姿か?』


神の声が、静かに、だが決定的な軽蔑を込めて響く。


『お前は、クレイトスという男の無償の愛に甘え切っていたのだ。お前がどんなに不自然な態度をとっても、彼はそれを旅の疲れだと解釈し、お前を信じ、お前を守り抜こうとした。その彼の不器用な誠実さを、お前は心の底で見下し、「絶対に私を捨てない便利な盾」として利用しながら、勇者の与える甘い毒に自ら進んで溺れていったのだ』

「ああ……あああ……やめて……見せないで……!」


フィーリアは両手で顔を覆い、地面に突っ伏した。

見たくなかった。自分がどれほど醜く、どれほど浅ましい女に成り下がっていたか。その現実から逃げ出したくて狂気に逃げ込んだのに、神は容赦なく彼女の精神を抉り出して真実を突きつける。


『お前がクレイトスを愛していたのは事実だろう。だが、お前はそれ以上に、特別である自分自身を愛していた。勇者に求められるという背徳の快楽を手放すことができなかった。それがお前の本性だ。聖女という名ばかりの、欲望にまみれた淫奔な雌に過ぎない』

「許して……許してください……私が間違っていました……どうか、私を助けて……!」

『助けるだと? どの口がそれを言うか』


黄金の光が、次第に冷たい白銀の色へと変色していく。


『お前たち人間がその愚かさによって最強の盾を捨て去り、自滅した結果、世界は今どうなっているか知っているか?』


新たに映し出された映像は、炎に包まれる王都グランセルの光景だった。

泣き叫ぶ子供たち。蹂躙される人々。黒竜将や妖魔将が嗤いながら人間たちを惨殺し、世界が魔王軍の闇に沈んでいく絶望の有様。


『これが、お前たちの犯した罪の代償だ。世界を救うべき光の使徒たちが、己の性欲と虚栄心のために自壊し、世界を破滅へと導いた。お前はクレイトス一人を裏切ったのではない。この世界の何百万という無辜の民の命を、お前のその卑しい股倉の快楽と引き換えに売り渡したのだ!』


フィーリアは息をすることができなかった。

自分の罪の大きさが、個人の関係にとどまらず、世界の滅亡という途方もない規模にまで膨れ上がっていたことを、初めて突きつけられたのだ。


「私……私のせいで……世界が……?」

『もはや、お前に聖女を名乗る資格はない。お前の内に宿る光の加護を、今この瞬間をもって完全に剥奪する』


神の無慈悲な宣告と共に、フィーリアの胸元、心臓の真上あたりに刻まれていた「光の聖痕」が、焼け火箸を押し当てられたような激痛を放った。


「ギィヤアアアアアアアアッ!!」


肉が焦げる音と共に、フィーリアの体内から神聖な魔力が根こそぎ引き剥がされていく。

それは、彼女が「特別」であることの唯一の証明であり、神と繋がっている証だった。それが剥奪されるということは、彼女がただの無力で薄汚れた人間に成り下がることを意味していた。


痛みにのたうち回るフィーリアを見下ろし、神は冷酷に言い放った。


『お前は死ぬことすら許されない。魔物に殺されるという安易な逃げ道も与えぬ。お前は永遠に、魔物にも野盗にも見向きもされない「生ける汚物」として、この死の谷を這いずり回るが良い。永遠に届かない男の背中を求め、永遠に癒えることのない後悔と罪悪感に苛まれながら、泥水をすすって生き長らえるのだ。それが、お前にふさわしい末路だ』


その言葉を最後に、光の柱はふっと消滅した。

分厚い灰色の雲が再び谷を覆い隠し、絶対的な暗さと冷たい風だけが残された。


「神様……待って……私を見捨てないで……!」


フィーリアは天に向かって手を伸ばしたが、もはや彼女の指先に光が灯ることはなかった。

完全に、見限られたのだ。

愛する男からはゴミのように切り捨てられ。

信じていた神からは汚物として剥奪された。


「ああ……あああ……」


フィーリアは泥の中に顔を突っ込み、声を殺して泣いた。

神の言葉通りだった。この死の谷には、魔王軍の残党や腐肉を漁る魔物たちが幾度となく通りかかったが、彼らは誰一人として彼女に牙を剥かなかった。

彼らはフィーリアを見ると、まるで道端の犬の糞でも見るかのように鼻を曲げ、触れることすら穢らわしいとばかりに無視して通り過ぎていくのだ。

殺してすらもらえない。

痛みと苦しみから解放されることすら、彼女には許されていなかった。


「クレイトス……クレイトス……!」


彼女は泣きながら、再び四つん這いになって泥の上を這い始めた。


『何があっても、俺が一番前でお前を守る。俺の盾は、お前のためにあるんだからな』


いつか彼が向けてくれた、あの不器用で温かい言葉だけが、壊れたレコードのように彼女の脳内で再生され続けている。

だが、あの温もりが彼女を包むことは二度とない。

彼女が自らの手で粉々に砕き、泥に沈めたのだ。


「ごめんなさい……私が馬鹿だったの……お願い、もう一度だけ、私に笑いかけて……」


剥がれた爪から血を流し、泥水をすすりながら、フィーリアは灰色の谷を彷徨い続ける。

彼女の美しい金髪はさらに汚れ、肌は病的に黒ずみ、もはや人間の姿すら保てなくなりつつあった。

誰の心にも届かない謝罪の言葉を呟きながら。

決して現れることのない、優しかった戦士の幻影を追いかけながら。

堕ちた聖女は、永遠に終わることのない後悔という名の無限地獄の中で、ただ這い回るだけの悲惨な肉塊となって、その生を費やしていくのだった。

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