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うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第16話 任される重さ、見られる深さ

「任せるとは、そういうことだ」


若殿にそう言われて広間を辞したあとも、その言葉は犬千代の胸の奥に沈んだまま消えなかった。


那古野の廊下を歩く足が、いつもより少しだけ重い。

だが嫌な重さではない。

むしろ、今まで知らなかった何かを肩に乗せられた時の重さだ。


水桶ひとつ。

たかがそれだけだ。

前の犬千代なら、そう思っただろう。


だが違う。

置く場所ひとつで、人の流れが変わる。

誰がどこで足を止めるか、どこで交わるか、誰が余計に半歩動くかまで変わる。

そして、それを「見て、決めろ」と言われる。


武だけではない。

声だけでもない。

見て、決めて、その責めを自分で持つ。


そのことが、木刀で打ち合うよりよほど腹の底へ残った。


控えの間へ戻る途中、廊下の角で又兵衛が待っていた。

犬千代の顔を見るなり、又兵衛はすぐには何も言わなかった。

ただ、ほんの一瞬だけ目を細める。


それだけで犬千代には伝わる。

顔に何か出ているのだ。


「……何だ」


犬千代が先に問うと、又兵衛は小さく鼻を鳴らした。


「今の顔だ」


「どんな顔だ」


「少し浮かれ、少し怯え、少し腹を括った顔だ」


犬千代はむっとしたが、すぐに言い返せなかった。

図星だったからだ。


嬉しかった。

任されたことが。

自分で見て決めたことが通ったことが。

だが、それと同じだけ、怖くもなった。

若殿が、あれほど小さなところまで見ていたことが。


「……全部か」


「全部だ」


又兵衛はきっぱりと言った。


犬千代は息を吐く。


「若殿ってのは、どこまで見てるんだ」


「見えるものは大体見ておるのだろうな」


「嫌な人だな」


「今さらか」


犬千代は少しだけ笑った。

その笑いも、少し乾いている。


「でも、面白い」


ぽつりとそう言うと、又兵衛はほんの少しだけ驚いた顔をした。


「ほう」


「きついし、怖いし、腹も減る。けど、面白い」


犬千代は自分の手を見下ろした。

木刀の擦れと、水桶を持った時のわずかな赤みが掌に残っている。


「木刀だけなら、前へ出て打つことばかり考えてりゃいい。けど那古野は、それだけじゃねえ。見て、待って、決めて、通して……そのどれも外せねえ」


又兵衛は、しばらく何も言わずに聞いていた。

やがて静かに頷く。


「それが分かってきたなら、よい」


犬千代は顔を上げる。


「何がだ」


「お前はずっと、前へ出ることばかり考えていた。今もそれは変わらぬ。だが、前へ出るまでに何を見るかを覚え始めた」


その言葉に、犬千代は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。


見てから出る。

前へ出ることをやめたわけではない。

ただ、その前に拾うものが増えた。


それは確かに、前の自分にはなかった。


その日の稽古が終わったあと、那古野の若者たちの空気も、少しだけ今までと違っていた。


あからさまに「荒子の小倅」と珍しがる視線は減った。

代わりに増えたのは、測る目だ。

こいつは今日は何を見ている。

何を任されていた。

どこまでできる。

そういう目。


犬千代は、その目を感じるたびに背筋が少しだけ熱くなる。

見られている。

だが、見られること自体がもう前ほど嫌ではなかった。


むしろ、そこにいない者として流される方がよほど嫌だと、今は思う。


その中で、河尻が珍しく自分から近づいてきた。


「おい」


犬千代が振り返る。


「何だ」


河尻は少しだけ言いにくそうに口を開いた。


「水桶の位置、あれは本当にお前が決めたのか」


犬千代は眉を上げた。


「そうだ」


「庭番に聞いて従ったのではなく」


「場所を言って、置けと言われた」


河尻は、そこでわずかに黙った。

その沈黙に、犬千代は少しだけ可笑しさを覚える。


河尻はこういう時、すぐに褒めたりしない。

それどころか褒めるくらいなら黙る質だ。

だが今は、その黙り方そのものが、何かを認めかけているように見えた。


やがて河尻は言った。


「……なら、悪くなかった」


犬千代は思わず口元を上げかけたが、すぐにこらえた。


「“悪くない”ばっかりだな」


河尻は鼻を鳴らす。


「いきなり見事だと言われたいのか」


「言われてえな」


「図々しい小倅だ」


「お前ほどじゃねえ」


その返しに、河尻の口元がほんの一瞬だけ動いた。

笑ったのか、呆れたのかは分からない。

だが最初のような露骨な冷たさではなかった。


河尻は少しだけ声を落とす。


「……若殿は、庭の外での働きも見ておられる。そこへ手が届いたなら、次はもっと面倒になるぞ」


その言い方に、犬千代は目を細めた。


「お前もそう思うのか」


「思う」


河尻はきっぱりと言った。


「庭だけで済むなら楽だ。打つか、取るか、負けるかだ。だが庭の外で役目を持ち始めると、木刀を持たぬ時まで見られる」


犬千代は、思わず昨日の自分を思い出す。

水桶を置いて、少し嬉しかった顔を見られていたことまで、若殿は拾っていた。


「ああ」


自然と、短い返事が出た。


河尻はその顔を見て、少しだけ眉を寄せた。


「分かっておる顔だな」


「昨日、知った」


「そうか」


それだけ言って河尻は去っていく。

だが去り際に、ほんの小さくこう付け足した。


「次は、木刀の方でも置いていかれるなよ」


犬千代はその背に向かって言う。


「そっちもな」


河尻は振り返らなかったが、肩が少しだけ揺れた。

たぶん笑ったのだろう。


佐脇は、そういう河尻の変化を最初から見ていたらしい。

犬千代の横へ来るなり、低く言った。


「河尻があそこまで言うなら、随分と見方が変わったな」


犬千代は少しだけ鼻を鳴らす。


「最初は、ずっと棘だらけだったぞ」


「今も棘だらけだ」


「それはそうだな」


二人とも少しだけ笑う。


佐脇は、そこで庭の向こうへ視線をやった。


「だが、お前も変わった」


「……またそれか」


「今度は少し違う」


佐脇は言う。


「前のお前は、見られるのが嬉しいだけだった。今は、見られることの重さを少し知った顔をしている」


犬千代は、その言葉にすぐには返せなかった。


図星だったからだ。


見られるのは嬉しい。

今もそれは変わらない。

若殿に見られ、若者たちに見られ、名を覚えられるのは、昔から渇くほど欲しかったものだ。


だが今は、その先がある。

見られたからこそ、崩れも、緩みも、浮かれも、全部拾われる。

見られることは褒美であると同時に、責めでもある。


佐脇は続けた。


「その顔になったなら、次は“任された後にどう残すか”だ」


犬千代が眉を寄せる。


「残す?」


「そうだ。役目を果たしたあと、何を残す。流れを整えるのか、誰かに楽をさせるのか、逆に余計な火種を残すのか。そこまで見られるようになる」


犬千代は、その言葉を胸の中で何度か反芻した。


役目の最中ではなく、役目の後。

それはまだ、自分がはっきり見ていなかったところだ。


佐脇は犬千代の顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「今のうちに覚えておけ。若殿の近くでは、用を果たすだけで終わらぬ」


「……分かった」


「分かっておらぬ」


「じゃあ、覚える」


「それでよい」


その日の帰り、犬千代は荒子へ戻る道でずっと佐脇の言葉を考えていた。


任された後に、何を残すか。


水桶を置いた。

流れは悪くならなかった。

だが、そのあと誰がそれを使い、どう楽になったか、誰がそれを見て何を思ったか。そこまでは、まだ拾い切れていない。


役目は、その場で終わっていない。


那古野の近くでは、何もかもが少し先まで続いている。

一手の先。

一言の先。

一つ置いたその先。


それを見られるようになれば、もっと違うのかもしれない。


翌日、荒子の川原で木刀を振ったあと、犬千代は珍しくすぐには帰らなかった。


足元の線を見つめる。

半歩。

四半歩。

そこからさらに視線を上げる。


その時、またあの武士が現れた。


犬千代はもう驚かない。

むしろ、来る気がしていた。


「今日は、立つ前に考えておるな」


武士が言う。


「考えることが増えた」


犬千代が返すと、男は少しだけ口元を緩めた。


「よい傾向だ」


「最近、皆そればっかりだ」


「皆、同じものを見ておるのだろう」


犬千代は木刀を肩に担いだ。


「役目を果たした後に、何を残すかまで見ろって言われた」


男の眉がわずかに動く。


「ほう」


「難しい」


「難しいだろうな」


男は川面を見ながら言う。


「武も同じだ。一太刀入れて終わりではない。その後、相手がどう崩れ、味方がどう動き、自分がどこへ残るかまで含めて一手だ」


犬千代は、その言葉に胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


つながった。


庭での木刀。

庭の外での役目。

水桶を置く判断。

全部、どこかで同じことを言っている。


一つの動きは、その場で終わらない。

その先に流れを残す。


男はそこで犬千代を見た。


「お前は前へ出たがる。だから、前にあるものばかりを見やすい」


「悪いか」


「悪くない。だがそれだけでは浅い」


犬千代は黙って聞く。


「前に出る者ほど、自分の後ろに何を残すかを知らねばならぬ」


その言葉は、今までのどの言葉よりも深く腹へ入った。


前へ出る者ほど、自分の後ろに何を残すかを知れ。


犬千代は、ゆっくりと木刀を握り直した。


荒子の川原。

朝の光。

静かな水。

だが自分の胸の中では、那古野の庭や広間の空気まで一緒に鳴っている。


「……まだ全然足りねえな」


ぽつりと漏らすと、男は静かに笑った。


「ようやく、そこへ来たか」


犬千代は顔を上げた。


「何だそれは」


「足りぬことを知るほど、前へ出る足は強くなる」


男はそう言うと、いつものようにそれ以上は名も告げず去っていく。


犬千代はその背を見送り、しばらくその場に立っていた。


任される重さ。

見られる深さ。

その先に何を残すか。


那古野へ通う前の自分には、考えもしなかったことばかりだ。

だが今は、それを面倒だとも、嫌だとも思わない。


むしろ、その先へ行きたい。


もっと見たい。

もっと任されたい。

もっと前へ出たい。


そして、その前へ出た跡に、何かを残せる男になりたい。


犬千代は木刀を構えた。


今度はただ前へ出るのではない。

一歩出て、その先を思い描きながら。

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