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うつけ者と笑われた若き前田利家、槍働きと義理人情で織田家を駆け上がり、やがて百万石の祖となる  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第15話 任される小さな判断

「まだ半歩だ。でも前より、ちゃんと前だ」


那古野から戻る道すがら、犬千代はその言葉を胸の中で何度も転がしていた。


半歩。

また半歩。

少し。

前よりまし。

ようやく。

使える小倅。

面倒な小倅。

周りを動かす側へ半歩入った。


若殿も、又兵衛も、佐脇も、河尻も、皆そんな言い方をする。

一足飛びに「見事だ」とは決して言わない。

だがその代わりに、前よりどこが変わったかを必ず見ている。


それが犬千代には、たまらなく熱かった。


褒められて浮かれるだけなら簡単だ。

だが若殿のもとでは、そうはさせてもらえない。

一つ進めば、その先の足りなさがすぐ見える。

だからこそ、前へ進んだ手応えだけは嘘ではない。


荒子へ戻ったその夜も、犬千代は寝つけなかった。


縁側へ出ると、春の夜風が静かに庭を渡っている。

虫の声はまだ薄く、遠くで水の音が細く続く。

荒子の夜だ。

だが犬千代の胸の中には、那古野の庭の空気がまだ残っていた。


声と足が繋がる。

周りを動かす側へ半歩。

ただ前へ出る者より、ずっと厄介。


その言葉を思い返していると、背後で足音がした。


「まだ起きておるか」


又兵衛だった。


「寝られねえ」


犬千代がそう言うと、又兵衛は当然だというように鼻を鳴らした。


「だろうな」


縁側へ並んで座る。

しばらく二人とも黙っていたが、やがて犬千代の方から口を開いた。


「又兵衛」


「何だ」


「“周りを動かす”ってのは、どういうことだ」


又兵衛は少しだけ目を細めた。


「急に難しいことを聞くな」


「若殿に言われた」


「そうだろうな」


又兵衛は庭の暗がりを見ながら言った。


「前へ出る者は多い。だが、自分だけが前へ出ても、場が崩れれば勝ちにはならぬ。逆に、自分が一歩引いても、周りが生きれば勝ちに繋がる時もある」


犬千代は黙って聞く。


「武でもそうだ。家中でもそうだ。人を見て、流れを見て、今どこへ力を通すかを知る者は強い」


「……俺にできるか」


又兵衛は、そこで初めて犬千代の顔をまともに見た。


「今すぐ全部は無理だ」


犬千代は眉を寄せる。


「だが」


又兵衛は続けた。


「お前は、昔よりずっと“見てから動く”ようになった。そこは大きい」


その言葉は、夜の冷えた空気の中で、犬千代の胸に静かに染みた。


見てから動く。


昔の自分なら、そんなのは弱さだと思っていたかもしれない。

動く前に見る。

噛みつく前に間を取る。

それでは出遅れると思っていた。


だが那古野では、それが違う。

見て、間を測り、今だという時にだけ前へ出る。

その方が、ずっと深い。


数日後、犬千代はまた那古野へ上がった。


今では那古野へ向かう道も、最初ほど遠くは感じない。

もちろん、気は張る。

胸は熱くなる。

けれど、その熱はもう“早く見たい”“早く出たい”だけではない。


今日は何を見る。

何を任される。

自分はどこまで通せる。


そんなふうに、熱の中身が変わってきていた。


館へ通されると、今日はいつもより人の出入りが多かった。

庭へ続く廊下を、小姓が何人も行き来している。

誰かを呼びに走る足。

何かを受け取りに行く者。

控えの間にも、どこかいつもと違う張りがあった。


犬千代は座しながら、それを目で追っていた。


何かある。


ただ、前のように“何があるんだ”とすぐ誰かに聞くのではなく、まず自分で流れを拾おうとする。

その癖が、少しずつ身についてきている。


やがて小姓が現れた。


「犬千代」


「は」


「若殿がお呼びだ」


犬千代は立ち上がる。


庭へ出るのかと思ったが、通されたのは前に箱を運ぶよう命じられたあの広間だった。


信長がいる。

その脇には年長の家臣が一人。

他にも小姓が控えているが、皆どこか少し忙しない気配を隠していない。


犬千代は深く頭を下げた。


「犬千代、参りました」


「うむ」


信長は短く応じ、犬千代を見た。


「今日は、庭へ出る前に一つやらせる」


犬千代の胸が静かに鳴る。


また武ではない用だ。


信長は机上の小さな書付を指先で叩いた。


「庭番へ回す道具が一つ足りぬ」


犬千代は耳を澄ませた。


「木刀ではない。組みの札でもない。水桶だ」


一瞬、犬千代はそれがどうした、と思いかけた。

だがすぐにその考えを押しとどめる。


那古野で“どうした”と思った時ほど、その先に何かがある。


信長は続ける。


「庭へ出る者が多い日は、水桶の位置一つで動きが詰まる。遅く置けば庭番が走る。早く置けば道を塞ぐ。どこへ置くかで、誰がどう動くかが変わる」


犬千代の胸へ、その言葉がするりと入った。


水桶一つ。

だがそれが流れを変える。


「今、庭番は別のことで手が離せぬ。小姓は皆、別の用へ散っておる」


信長の目が犬千代へ向く。


「お前が見て、置け」


犬千代の息が一瞬止まった。


運べ、ではない。

誰かへ渡せ、でもない。


見て、置け。


つまり、決めろということだ。


犬千代はすぐには返事ができなかった。

どこへ置くか。

その小さな判断で、庭の流れが変わる。

自分の判断で。


信長は、その沈黙をそのまま受け止めていた。

急かさない。

助けもしない。

ただ見ている。


犬千代は腹をくくった。


「……は」


声は短かったが、逃げなかった。


信長の口元が、ほんのわずかに動く。


「よい。庭をよく見て決めよ。誰かに聞いてもよい。だが、最後に置く場所を決めるのはお前だ」


その言葉で、犬千代の腹の奥が熱くなった。


誰かに聞いてもよい。

けれど、最後は自分で決めろ。


ただ命じられた通りに運ぶだけではない。

見て、拾って、決める。

若殿はそこを見ようとしている。


犬千代は広間を出ると、すぐには庭へ飛び込まなかった。


まず廊下の角から、庭全体を見た。


何人出ている。

どこに杭がある。

庭番はどこだ。

水桶は今どこに置かれている。

一つ足りぬ、とはどこに対して足りぬのか。


庭では若者たちがすでに足運びを始めている。

佐脇が一人、木刀を持たずに足だけを確かめている。

河尻は年長の若侍と何か短く言葉を交わしていた。

庭番は杭の位置を直しながら、時折庭の端へ目を走らせる。


犬千代はそこで気づいた。


今ある水桶は、庭の奥寄りに一つ。

だが、今日の流れだと出入りは手前側が多い。

もし手前で誰かが汗をぬぐうにせよ、手を湿らせるにせよ、いちいち奥まで走れば人の線が交わる。

だが、手前へ置きすぎれば、今度は庭へ出入りする道を塞ぐ。


どこだ。


犬千代は目だけで庭の線をなぞった。


出入り口。

杭。

立つ者の位置。

庭番の動き。

小姓の行き来。


そこで、ふと気づく。


廊下から庭へ下りる石段の脇に、小さく空いた土の部分がある。

今は誰も使っていない。

だがそこなら、手前からも奥からも取りやすく、しかも出入りの真ん中は塞がぬ。


あそこか。


そう思った瞬間、犬千代の胸が少しだけ軽くなった。

見えた。

少なくとも、自分にはそこが一番ましに思えた。


だが、決める前に一つだけ確かめたい。


犬千代は庭番のところへ近づいた。


「庭番殿」


庭番が振り向く。

以前、書付を渡したあの男だ。


「何だ、荒子の小倅」


「水桶を一つ置くよう仰せつかりました」


庭番の目が少しだけ細くなる。

信長の指図がそのまま伝わったのだろう。


「どこへ置くつもりだ」


犬千代は一瞬だけ息を吸い、それから指で石段脇の土を示した。


「あそこへ」


庭番はそこを見た。

次に、庭全体をひと巡り見た。

そして犬千代へ視線を戻す。


「なぜだ」


犬千代は、そこで言葉を選んだ。


「手前へ寄せすぎると出入りを塞ぎます。奥だと、今の流れでは取りに行く足が交わると思いました。あそこなら、道を切らずに手前からも奥からも届きます」


庭番はしばらく黙っていたが、やがて言った。


「置け」


たった二文字。

だが、それで十分だった。


犬千代は小姓から水桶を受け取り、石段脇へ運ぶ。

重いわけではない。

だが、持っている間じゅう、胸の中で何かが張りつめていた。


ここへ置く。

自分が決めた。

これで庭の流れが少し変わる。

それがうまく通るかどうかは、もう置いてみるしかない。


慎重に下ろす。

土へ安定させる。

傾いていないかを見る。

道を塞いでいないか、少し引いて確かめる。


その時だった。


ちょうど若者が一人、手前から下がってきた。

犬千代は一瞬だけ身構える。

邪魔になったか。


だが若者は、そのまま足を止め、水桶から手を湿らせると、奥へ回り込まずにすぐ場へ戻っていった。


その流れを見た瞬間、犬千代の胸がどくりと鳴った。


通った。


大したことではないのかもしれぬ。

ただ水桶を置いただけだ。

だが、その“ただ”が流れを止めなかった。


その時、背後から声がした。


「そこへ置いたか」


振り返ると、河尻だった。


犬千代は少しだけ顎を上げる。


「置いた」


河尻は水桶と、その周りの出入りの線を見た。

それから短く言う。


「ましだな」


犬千代は少しだけ口元を緩めた。


「少しか」


「少しだ」


河尻は鼻を鳴らす。


「だが、奥よりはずっとましだ。奥だと、さっきの流れは一度ぶつかっていた」


犬千代はその返しを聞いて、胸の奥が静かに熱を持つのを感じた。


河尻も見ている。

庭の流れを。

そして、自分がそこへ手を入れたことを。


それはただの棘ではない。

もう同じ場を見ている者の声だ。


「お前も分かったのか」


思わず聞くと、河尻は少しだけ眉を上げた。


「分かる。……見たくなくても目に入ると言っただろう」


犬千代はそこで、ふっと笑った。


前より少しだけ、腹の立たぬ言い方になっている。


「ありがとう、って言っておくか」


河尻の顔が露骨にしかめられる。


「言わなくていい」


「そうか」


「そうだ」


そのやり取りを、少し離れたところで佐脇が見ていたらしい。


佐脇が近づいてきて、水桶を一瞥し、それから犬千代を見る。


「若殿の用か」


「そうだ」


「お前が決めたのか」


「見て、置けって言われた」


佐脇は少しだけ目を細めた。


「ほう」


それから、水桶の位置と人の流れを見て、小さく頷く。


「悪くない」


犬千代の胸がじんとした。


若殿でも、庭番でも、河尻でもなく、佐脇にもそう言われた。

しかも今度は木刀の一手ではない。

庭の流れを見て、置いた位置に対してだ。


自分の見たものが、少しずつ他人にも通る。

そのことが、ひどく嬉しかった。


やがて信長が庭へ現れる。


皆が頭を下げる中、犬千代も一歩退いて礼をした。


信長の目は庭を一巡りし、その中で水桶の位置にほんの一瞬だけ留まった。

それからすぐに何事もなかったように離れる。


だがその“一瞬だけ留まった”が、犬千代にははっきり分かった。


見た。


若殿が見た。


それだけで、胸の奥が熱くなる。


だが、それを顔へ出す暇はない。

信長はすぐに言った。


「始めるぞ」


庭の空気が張りつめる。


今日は木刀の前に、もう一つ試されていた。

そして、その小さな試しを、自分は通せた気がする。


若殿はそれを見たうえで、次へ進める。


犬千代は木刀を取った。


武だけではない。

だが武もある。

庭の外の判断が、庭の中の立ち方とも繋がっていく。


若殿の近くとは、そういう場所なのだろう。


その日の稽古が終わったあと、広間へ呼ばれた犬千代に、信長は短く言った。


「水桶、悪くなかった」


犬千代は深く頭を下げる。


「はっ」


「だが、お前は少し“置けて嬉しかった顔”をしておった」


犬千代の耳が一気に熱くなる。


見られていた。

やはり全部見られていた。


信長は口元をわずかに歪める。


「嬉しいのはよい。だが、嬉しさで周りが見えなくなるな」


「……は」


「任せるとは、そういうことだ」


その言葉は、犬千代にとってひどく重かった。


任せる。


ただ運べではない。

ただ出ろでもない。

見て、決めろと任せる。

その分だけ、浮かれも見られる。

顔も見られる。

通した後の緩みまで見られる。


犬千代は深く息を吸い、もう一度頭を下げた。


「心得ます」


信長はそれ以上は何も言わなかった。

だが、短く頷いたその仕草だけで十分だった。


広間を辞し、廊下へ出ると、犬千代は思わず長く息を吐いた。


疲れた。

だが、熱い。


若殿の近くでは、小さな判断一つでも任される。

そして、その小さな判断の先に、次の試しがまた続く。


それがたまらなくきつくて、同時に、たまらなく面白い。

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