9.大切な記憶
この村では酪農は行われておらず、小麦とじゃがいもの栽培が主だった。
「これで畑は全部見たな。種蒔きも植え付けも終わってる。何もなければ、今のところは昨年同様の収穫が見込める」
「ありがとうございます。何かお困りの事はありませんか」
他の村では農具の故障や不足が見られたのだけれど——。
「何もない。用が済んだならさっさと帰ってくれ」
一刻も早くいなくなってほしいのか、村長は手を振りながら冷たく言い放った。
険しい顔で何か言おうとしたプラド卿が、副団長の冷たい視線に気づいて言葉を呑み込む。
「わかりました。最後に一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「こちらで育てている豆の事なんですけれど
私の言葉に、村長の眉がぴくりと動いた。
「豆だと?……ああ、領主の館が"お情け“で買ってくれてる豆のことか」
村長が自嘲気味に笑った。
「先祖代々伝わってるんで育ててるが、どうやっても美味くならない豆だ。あんなのを買い取るなんて、先代も物好きだな」
「——村長。流石にそれは言葉が過ぎますよ」
副団長が低い声で言うと、迫力に気押されたのか、村長は黙り込んだ。
——この村でも知られていないのね。あの豆を美味しくする調理法が。
「村長、あの豆は——」
そう言いかけて、私はふと漂ってきた匂いに言葉を止めた。
この匂いはーー!!
居ても立ってもいられず、私は匂いのする方へ駆け出した。
「奥様!?どちらへ行かれるのです!?」
背後で侍女と副団長が叫ぶ。だが、足を止めるわけにはいかない。私は夢中で走った。
ーーやがて、一軒の家の前で私は足を止めた。
ここだわ・・・・・・。
「すみません!失礼します!」
私はノックもせずに、扉を開けた。
「キャッ!」
家の中にいた中年の女性が悲鳴をあげた。
夕食の団欒中だったようで、子供たちもいて、困惑した表情でこちらを見ている。
「なっ・・・・・・!なんなのよアンタ!人の家に突然入ってきて!」
子供達を後ろに庇うようにして女性が怒鳴った。
手には木べらを構えている。
ーーしまった。夢中になって押し入り強盗のような真似を・・・・・・!
「待て!姉さん、この方は辺境伯夫人だ!」
後から駆けつけたプラド卿が女性に説明をする。
「えっ!?」
女性はプラド卿のお姉さんだったらしい。
木べらは置いてくれたが、相変わらずこちらを睨みつけている。
「ふん。高貴なお方は、平気で人の家に押し入るんだね」
「姉さん!」
「いいの!」
怒声をあげたプラド卿を制する。
無礼を働いたのはこちらなのだから、何を言われても仕方ない。
「アンジェリーナ・ブラッドレイと申します。驚かせてしまい、申し訳ございません」
謝罪の言葉を述べて、深くお辞儀をする。
私が謝ったのが意外だったのか、プラド卿のお姉さんは、バツが悪そうに視線を逸らした。
「あ、謝ってくれるなら、いいよ。うちに何か用ですか?」
「はい。こちらの家から懐かしい匂いがしたものですから」
「懐かしい匂い?夕飯時だったけれど、好きなものの匂いでもしたのかい?」
お姉さんが表情を緩めてテーブルを示した。
その上には、パンが入った籠と、おかずの皿がいくつか並んでいる。
ーー違う。
その時、懐かしい匂いが鼻を掠めた。あの匂いだ。
私は引き寄せられるように調理台へ近寄る。
そこには小さな鍋が一つ。
火からおろしたばかりなのか、白い湯気が立っていて、中には見覚えのあるあの豆が入っていた。
「・・・・・・この鍋の豆を食べさせて頂けませんか」
「これ?——ダメダメ!こんなのとても奥様にお出しできないよ」
お姉さんは手を勢いよく振りながら言った。
プラド卿もその隣で頷いている。
「お屋敷で出るものは食べやすいよう塩で味付けしていますが、これは、何も味をつけずに茹でただけのもので、とても——」
「そう。——でも、これを頂きたいの」
「ええっ?でも……」
「……お願いします」
そう言ってお姉さんを見つめると、しばらく困っている様子だったけれど、覚悟を決めたように頷いた。
「わかりました。そんなに仰るのなら」
一口だけですよ、と念押しして、スプーンに掬ってくれた。
息を吹きかけて冷まし、口の中へ運ぶ。
素朴な豆の味が広がり、私の脳裏に浮かんだのは——。
『おじいちゃん、この豆、甘くないよ?』
幼い私ーー前世の私が店の厨房で祖父に話しかけている。
調理台には煮た小豆が入った鍋。
『ああ。餡子になる前の小豆はみんなこんな味だよ』
『本当にあんこになるの?』
私の質問に、祖父はふっと目を細めた。
『そうだよ。丁寧に順番を守って作れば、美味しい餡子になる』
そう言って、しわくちゃな手で私の頭を優しく撫でる。
『お前もいつか、そうやって作ってごらん』
懐かしくて大切な、前世の記憶——。
「——奥様!?」
プラド卿の声で私は現実に引き戻される。
「……プラド、卿?」
「大丈夫ですか!?涙を流されて……そんなに不味かったんですね」
その声には焦りがにじんでいる。
言われて頬に手を当てると、しっとりと濡れていた。
「申し訳ありません」
「いいえ、違うんです」
謝罪するプラド卿に首を振る。
「とても……懐かしい味でした」
そして、強張った表情のお姉さんに笑いかける。
「ご馳走様でした。この豆……煮る前の豆はありますか?」
「へっ?」
私の言葉が予想外だったのか、間の抜けた声を出した。
「そ、それなら売るほど余ってるよ」
「では、いくらか買わせてください」
「はあっ!?」
私の頼みに、今度は素っ頓狂な声をあげる。
「たしかに、売るほどって言ったけど、こんな不味い豆……」
「いいえ」
お姉さんの言葉を遮って、私は首を振った。
「この豆は——美味しくなるんですよ」
次回更新は
6月7日(日) 20時です。
※10話まで毎日更新です




