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第五話 名前を呼びたい指

 九人になった。


 たった四晩で、四人が消えた。


 数を意識した瞬間、頭の奥が冷たくなる。ガス処理室の鋼鉄の扉と、そこから出てきた遺体の顔が、ひとつずつ脳裏をよぎる。


 藤咲ひかり。牧野カイ。百瀬蓮。そして、志村直哉。


 誰もが「自分は死なない側だ」と信じたかった。だが四人目が倒れたところで、その幻想は完全に砕け散った。


「もう、無理だろ……こんなの」


 誰かが漏らした弱音に、誰も突っ込まない。突っ込む気力が、誰にも残っていなかった。


 共有スペースのテーブルは、空席だらけになった。パイプ椅子は九脚。丸く囲むには、もう十分すぎるほど少ない人数だ。


 空調のノイズは、昼間でさえ耳につくようになっていた。夜ほど大きくはないが、耳の奥をごりごりと削ってくる。


 ただ座っているだけでも、何かが削られていくような感覚。


 そんな中で、一人だけ妙に落ち着いている男がいた。


 佐久間晶。


 三十代前半、細身のスーツ姿。元々営業職だと言っていたが、その軽薄さが今は逆に不気味だった。


「さっきからさ」


 佐久間は、空になった紙コップを指先でくるくると回しながら口を開いた。


「みんな『誰も憎みたくない』とか『誰の名前も呼びたくない』とか、綺麗事ばっか言ってるけどさ」


 その言い方に、凛の肩がぴくりと動く。


「結局、誰かを嫌いになるのは仕方ないだろ。違うか?」


 共有スペースの空気が、じりじりと乾いていく。


「……何が言いたいんですか」


 高科が低い声で問う。


「簡単な話だよ」


 佐久間は笑った。目は笑っていない。


「だったらいっそ、嫌いなやつの名前をはっきり決めておいたほうがマシじゃないか、ってこと」


「は?」


 凛は思わず顔を上げた。


「俺たちの無意識がターゲットを選んでるんだろ?」


 佐久間は、東雲と高科の方をちらりと見る。


「『集団の無意識が……』『憎悪が……』とか、それっぽい言葉でごまかしてるけどさ。結局は、『誰か一人くらい消えてくれ』って、どこかで全員思ってるんだよ」


「やめろ」


 御子柴が低く唸る。


「いやいや、綺麗事やめようって話」


 佐久間は肩をすくめた。


「みんな表では『助け合おう』とか言いながら、心の中で『こいつがいなけりゃ』って顔してる。だったらもう、開き直ってさ。『嫌いなやつはこいつです』って、決めちゃえばいい」


 佐久間は人差し指を立ててみせた。


 その指先が、ぐらりと揺れて見えた。


「『誰の名前も思い浮かべないようにしよう』なんて、無理なんだよ。だったらもう、いっそ『この人』って決めて、そこに全部押しつけた方が、他の八人は生き残れるかもしれない」


 凛の胃袋がきゅっと縮む。


 その光景を、知っている。


 教室。黒板の前。輪になったクラスメイトたち。誰かひとりを真ん中に立たせて、笑いながら指を向ける。


『あいつキモくない?』

『だよな、無理』

『じゃ、今日からこいつ、ターゲットってことで』


 標的が決まった瞬間の空気。


 笑い声。安堵。自分じゃない、という安堵。


 あのとき、自分も笑っていた。


 心のどこかが冷えたまま、それでも笑っていた。


「……ふざけないでください」


 声が震えているのが分かった。


 それでも、黙っているよりマシだった。


「『嫌いなやつの名前を決める』って、それ……ただのいじめの指差しと、何が違うんですか」


「おや、綺麗なこと言うねえ」


 佐久間は笑い、足を組んだ。


「でもさ、黒川くん。今ここで『誰も嫌いじゃない』なんて言える?」


 口が詰まる。


 言えない。


 言おうとした瞬間、喉が勝手に閉じた。


「ほら、言えない」


 佐久間は、あくまで軽い調子で続ける。


「それが普通なんだよ。『こんな状況で誰も憎んでません』なんてやつがいたら、そいつの方が逆に疑うだろ?」


 凛は必死に言葉を探した。


「でも……だからって、決めていい理由にはならないでしょう。『こいつを嫌い』って、みんなで共有して、そいつに全部押しつけるなんて……」


「押しつける、じゃない」


 佐久間は首を振った。


「『現実を認める』ってだけだよ」


 その言葉が、妙に冷たく響く。


「どういう意味だ」


 御子柴が噛みついた。


「いいか。お前ら全員、自分の心の中では誰かを選んでる。あいつがいなくなれば、場が少し楽になるんじゃないかって。たぶん、その“薄暗い願望”がノイズに吸い込まれて、ターゲットが決まってる」


 佐久間は、排気口を指差した。


「あのノイズは、お前らの指先だ。指を動かしてるのは自分じゃないって顔してるけど、実際には全員、心の中で指差してる」


 凛の指先が、冷たくなった。


 自分の指が、誰かに向かって伸びていくイメージが頭に浮かび、慌てて拳を握る。掌に爪が食い込み、痛みが走る。


「だから、はっきり決めようぜ」


 佐久間は続ける。


「『自分はこいつを嫌いだ』って、自覚しよう。で、その人の名前が呼ばれたら、『ああ、やっぱり』って納得すりゃいい。中途半端に全員ちょっとずつ憎んでるから、ノイズも迷うんだよ」


「めちゃくちゃですよ」


 高科が、堪えきれなくなったように声を上げた。


「そんなの、『誰かを生贄にしよう』って言ってるのと同じじゃないですか」


「そうだよ」


 佐久間はあっさり認めた。


「こんなの、そもそもゼロサムゲームだろ? 誰かが死ななきゃ終わらない。だったら、せめて自分で選んだルールで戦おうぜ。誰だって死にたくないんだから」


 その開き直りが、凛には何よりも怖かった。


 彼は自分の心の底にあるものを、あまりにもあっけらかんと口にする。そこにわずかな罪悪感すら乗せず、「合理的だろ」と言ってのける。


 こんな人間が、いじめの場にいたらどうなっていたか。


 標的は、きっとあっという間に決められていた。


「……」


 東雲遥は黙って佐久間の話を聞いていた。


 その顔はいつにも増して冷静で、感情の揺れを表に出さない。


 だが、彼女の指先は、テーブルの下でぎゅっと握りしめられていた。


     ◇


「ミーティングをしましょう」


 しばらくの沈黙の後、東雲が提案した。


「『誰も憎まない』ためじゃなく、『誰を憎んでいるかを自覚する』ためのミーティングです」


「自覚?」


 凛は顔を上げた。


「さっき、佐久間さんが言ったことには、私も賛成できない部分が多いです。でも一つだけ、認めざるを得ないことがある」


 遥はゆっくりと言葉を選ぶ。


「この中の誰一人として、『誰も怖くない』『誰も信用できなくない』と心から言える人はいない、ということです」


 その言葉に、誰も反論しなかった。


「無意識がノイズに利用されているなら、それを“意識化”することには意味があるはずです。『自分の中の矛先』を把握すれば、その感情に振り回されにくくなる。少なくとも、心のどこに刃を持っているのかを、自分で認識できる」


「だから何だってんだよ」


 管理職の男が吐き捨てる。


「自分の醜さを見て、余計に落ち込むだけじゃないのか」


「それでも、知らないよりはマシです」


 遥は静かに言った。


「今、一番怖い人。一番信用できない人。その名前を紙に書きましょう。ただし、名前は声に出さなくていい。紙は最後に破って捨てる」


「書くだけで意味があるのか」


「書くことで、自分の中の感情を『ここにある』と認められるようになります。隠しているつもりでも、無意識のレベルではもう存在している。それを無理に否定することが、一番精神的に負担が大きいんです」


 高科は、苦い顔で東雲を見た。


「それ……逆にノイズのいい餌になる気がして仕方ないんですけど」


「私も、その危険は分かっています」


 遥は頷いた。


「でも今は、自分の中の『誰かの名前を書きたい指』から目をそらし続ける方が、もっと危険な気がするんです。感情の行き場がないとき、人は一番予想外の行動に出てしまう」


 彼女の視線が、一瞬だけ凛と交錯する。凛の胸の奥が微かに疼いた。


 自分がいつか、誰かに対して「最悪な一言」を口走ってしまいそうな未来が、わずかに想像できてしまったからだ。


「紙なんかあるか?」


 御子柴が周囲を見回す。


 共有スペースの棚に、小さなメモ帳とボールペンがいくつか見つかった。オフィス用品の残りのようだ。


 九枚の紙切れがテーブルの上に並べられる。


「一人一枚。名前はフルネームじゃなくても構いません。自分が分かればいい」


 遥が説明する。


「さっきも言いましたが、紙は最後に破ります。誰が誰の名前を書いたか、ここでは追及しません」


 紙切れとペンが、それぞれの手元に渡った。


 凛は、ペン先を紙の上に置いたまま、動かせなかった。


(今、一番怖い人。一番信用できない人)


 頭にまず浮かんだのは、佐久間晶の顔だった。


 彼の笑い方。開き直った言葉。人を生贄にすることを、ゲームのように扱う態度。


 怖い。


 だが同時に、それと同じくらい、自分が怖かった。


 佐久間の言葉に、どこかで救われそうになっている自分。


「誰かひとりを嫌いだって決めておけば、他の八人とだけは仲間でいられる」


 そんな甘い考えが、一瞬だけ頭をよぎった。


 それは、あの教室で自分が感じた安堵と何も変わらない。


(嫌いなやつを決めて、ラインの外側に逃げる……そうやって、俺は今まで)


 指が震えた。


 佐久間の名前を書いてしまえれば、どれだけ楽か。ペン先が「さくま」と書き始めそうになり、凛は慌てて止めた。


(違う。俺は今、それを否定したくて文句を言ったはずだ)


 自分の中で、二つの声がぶつかり合う。


 誰かひとりの名前を書きたい指と、その指を折ってでも止めたい自分。


 紙はいつまで経っても白いままだった。


「……くそ」


 小さく悪態をつき、凛はようやくペンを動かした。


 書いたのは、名前ではなく、矢印だった。


 右下に向かう一本の矢印。その先に、小さく「自分」と書く。


 自分が怖い。


 誰かの名前を書く指そのものが、一番信用できない。


 それが、今の凛にできる精一杯の正直だった。


「……終わった人から、紙を折ってください」


 遥の声がした。


 周りを見ると、ほとんど全員が何かを書き終えている。佐久間は、妙に清々しい顔で紙を二つ折りにしていた。


 高科は、書いた文字を見られまいと手で慎重に隠しながら、紙を細かく折り重ねている。


 北条司は、顔をしかめながら紙とペンを見つめていた。


「書けないなら、空白でも構いません」


 遥が彼に向かって言った。


「無理に誰かの名前を書こうとしなくていい。でも、もし心のどこかで思いついてしまったなら、それを認めてあげて」


「……」


 司は、唇を噛んだ。


「俺……」


 呟きかけた言葉は、途中で消える。


 ペン先が紙の上を震えながら動いた。彼が何を書いたのかは、誰にも見えなかった。


 九枚の紙が、テーブルの中央に集められる。


 遥は、それを一枚一枚、丁寧に四つ折りにした。


「この中に、誰かの名前が書いてあっても、それはここで終わりです」


 彼女はそう宣言し、九枚の紙をまとめて握りつぶした。


 紙の束が、小さく音を立てて潰れる。


 その音は、何かを傷つける音にも聞こえたし、何かを守る音にも聞こえた。


 握りつぶされた紙はゴミ箱に放られ、さらに彼女は手でぐしゃぐしゃにかき混ぜた。


「……終わり。これでミーティングはおしまいです」


 東雲は、わずかに肩の力を抜いた。


「ノイズが、この行為をどう解釈するかは分かりません。でも少なくとも、自分の中の『名前を呼びたい指』がどこにあるのか、少しは見えた気がしませんか」


 誰も、すぐには答えなかった。


 けれど凛は、掌の中の爪痕の痛みを感じながら、小さく息を吐いた。


 自分の中に、確かに指がある。


 その指は、今も誰かの方へ伸びたがっている。


 その事実を、ようやく認めることができた。


     ◇


 夜。


 ベッドに潜り込みながら、凛は両耳を強く塞いだ。


 耳を塞いでも、排気口のノイズが完全に消えるわけじゃない。頭蓋骨の内側から響いてくるような音は、手で遮ったくらいでは止まらない。


 それでも、何かしていないと持たなかった。


(聞かない。今夜こそ、名前なんて聞かない)


 無茶な誓いだと分かっていた。


 ノイズは、勝手に入り込んでくる。耳からではなく、皮膚や目、空気の振動、その全部から。


 ベッドのマットレスが軋む音。誰かが寝返りを打つ気配。誰かの浅い呼吸。


 その全てが、不穏なリズムに聞こえる。


 高科は、排気口の真下のベッドで身を丸めていた。端末は今夜は使っていない。録音すること自体が怖くなっていたのだ。


「もう……データなんていらない」


 夕方、彼はそう漏らしていた。


「分析しても、何も変えられないかもしれない。ノイズは俺たちよりも早く学習して、先回りしてくる。だったら、せめてこれ以上、自分の声が誰かの死ぬ瞬間に重なるのを聞きたくない」


 その気持ちは、痛いほど分かった。


 集団の無意識を可視化する装置。自分たちの声が凶器に加工されるシステム。


 それを理解してしまったからこそ、その先を見るのが怖い。


(でも、聞こえてしまう)


 凛は目を閉じた。


 暗闇の中で、誰かを思い浮かべないよう必死に抵抗する。


 誰の顔も浮かべない。誰の名前も呼ばない。頭の中を、真っ白な壁で埋め尽くす。


 壁。壁。壁。


 そこに、ぽつりと黒い点が浮かぶ。


 消えろ、と願った瞬間、その点はにじむように大きくなり、輪郭を持ち始める。


 制服。ブレザー。あどけない顔。


 北条司。


(違う。今はやめろ)


 慌てて顔を振る。


 司の事を考えるのは、違う気がした。今日のミーティングで、彼は何も言わなかった。名前も明かさず、紙も見せず、ただ黙っていた。


『俺、本当に何もしてないのに』


 何度も繰り返された言葉が、耳にこびりついている。


 凛の中にも、彼に対する苛立ちは確かにあった。


 何もしていない、と言い続けるその姿が、かつての自分を思い出させるから。


 いじめの輪の外側で、「自分は殴ってない」「自分は何もしていない」と言い張っていた、あの頃の自分。


 何もしていない、という言葉ほど、人を傷つけるものはない。


 救いにもならない言い訳は、誰か一人を切り捨てるための免罪符にしかならない。


(だからって)


 だからって。


 だからって、彼の名前を考えていい理由にはならない。


 指が、疼く。


 名前を呼びたい指。


 「つかさ」と書きたがる指先。


 凛は両手を、布団の中でぎゅっと握りしめた。指の関節が痛くなるほど。


 天井の排気口から、ノイズが濃くなっていく。


 睡眠導入ガスのせいか、頭がふわふわする。意識が曖昧になり、考えたくないことほど、勝手に浮かび上がってくる。


(考えるな)


 何度も繰り返す。


 そのたびに、「考えるなと言われたこと」を考えてしまう。


 幼い子どもに「赤いものを想像するな」と言えば、頭の中は真っ赤になる。


 「誰の名前も浮かべるな」と自分に命じれば命じるほど、名札のようにひとつひとつの名前がくっきりと浮かび上がってしまう。


 志村。ひかり。カイ。蓮。佐久間。東雲。高科。御子柴。司。


(やめろ)


 自分の内側の声と、排気口のノイズが、どこかで交じり合っていく。


 耳を塞いでも聞こえる音。


 頭の中のざわめきが、そのまま外側のザザザに溶けていくような錯覚。


 ノイズの奥に、何かが浮かび上がる。


 誰かが囁いている。


 性別も、年齢も、分からない。だがその声は、聞き覚えのある色をしていた。


 高科の少し鼻にかかった音。東雲の落ち着いたトーン。御子柴の低い響き。司のか細い声。


 それらが少しずつ混ざり、重なり、ひとつの形になる。


「……つかさ」


 名前が、聞こえた。


 凛の指先から力が抜けた。


 布団の中で固く握っていた拳が、ゆっくりと開いてしまう。


 ベッドの上で体を起こしたくても、全身が鉛のように重い。まぶたが、半分以上閉じている。


 それでも、凛は無理やり首だけ持ち上げ、北条司のベッドの方を見た。


 そこに、誰もいなかった。


「……っ!」


 声にならない声が漏れた瞬間、意識は闇に引きずられていった。


     ◇


 朝。


 誰かが喉の奥で悲鳴を噛み殺したような声を上げた。


「い、ない……!」


 凛は飛び起きた。全身に冷たい汗をかいている。心臓がまだ、夢の中の速度で走っていた。


「司が、いない!」


 司のベッドは、きれいに整えられていた。


 まるで最初から、誰も寝ていなかったかのように。


 毛布も枕も、乱れ一つない。


 足元には、脱ぎ捨てられたスリッパだけが、ぽつんと残されている。


 誰かが喉を鳴らした。


「……ガス処理室」


 その言葉が、合図のようになった。


 全員が、足を引きずるようにして鋼鉄の扉の前に集まる。


 ランプは、いつものように赤から青へと変わった。


 ロックが外れ、扉が開く。


 冷たい空気が足元を撫でる。


 床の中央に、北条司が倒れていた。


 制服のまま。ブレザーのボタンが一つ外れ、シャツが少しはだけている。気が弱そうだった彼の顔は、恐怖と苦痛でこの世のものとは思えない歪み方をしていた。


 喉には、爪で掻いたような赤い線。口元には、白い泡。


「……うそ、だろ」


 高科が、かすれた声で呟いた。


 昨日のミーティングで、司のことを書いた奴はどれくらいいるのか。


 その質問が、誰の頭にも浮かんだ。


 だが、それを口に出した者は一人もいなかった。


 誰もが、自分の指を見ていた。


 紙に、ペンを持った指。


 名前を書きたいと疼いた指。


 ベッドの中で、誰かの名札が頭に浮かんだとき、その名前に向かって伸びかけた指。


 凛は、吐き気を堪えながら自分の掌を見つめた。


 そこには昨夜爪を食い込ませた痕が、赤く残っている。


 その痕が、今は司の喉の傷と重なって見えた。


 誰も彼の名前を呼びたくなかったはずだ。


 九人の中で、一番「何もしていない」と繰り返していた少年。


 それでも、無意識のどこかで、「うとましい」と思っていた。


 何もしていないと言い続けるその姿が、自分の過去の弱さと重なって腹立たしかったこと。


 「俺だって大変なのに」という、醜い比較をしてしまったこと。


 今なら全部、自覚できる。


 高科が、小さな声で呟いた。


「俺……あいつが『何もしてない』って言うの、嫌いだった」


 誰かが息を呑んだ。


「前にさ……俺、あるサイトのセキュリティミスのせいで、ユーザーが冤罪かけられたことがあった。システム的な問題だったのに、運営は『利用規約に同意したあなたにも責任があります』とか言って、そいつに全部押しつけたんだ」


 高科の拳が震える。


「俺は知ってた。本当の原因を。でも何も言わなかった。契約守らなきゃいけないから、って。そいつが『俺何もしてません』って泣きながら叫んでるログを見ながら、『でも規約読んでなかったお前も悪いよな』って、心のどこかで思ってた」


 冗談めかして話すこともできたはずの過去を、彼は淡々と吐き出した。


「だからだと思う。北条くんが『何もしてない』って言うたびに、前の自分を見せつけられてるみたいで、イライラしてた。なんかごめんって謝ってほしいのに、謝るどころか『俺は被害者です』って顔するから……」


 そこで言葉が詰まる。


「心のどこかで、『消えてくれ』って思ったかもしれない」


 東雲は、目を閉じてその言葉を聞いていた。


「私もです」


 やがて、静かに告白した。


「カウンセリングの現場で、『私は何も悪くないのに、こんな目に遭っている』と訴える方はたくさんいます。本当にその通りのケースもある。でも中には、少しだけ『自分の責任』から目をそらしている人もいる」


 遥は、自分の胸に手を当てた。


「北条くんの『何もしてない』を聞くたびに、私はどこかで『本当?』と疑っていました。彼の過去の何も知らないくせに。それが、自分の仕事の悪い癖だと分かっていても」


 御子柴も、低く笑った。


「教師やってた頃、『何もしてない』って言葉には散々騙されてきた。だから、反射的に疑う癖がついてる。あいつが『俺、本当に何もしてないんです』って言うと、つい、『お前も加害者だろ』って心の中で決めつけてた」


 それは、自分の告白でもあった。


 凛は、何も言えなかった。


 自分も同じだったから。


 教室で、「何もしてない」と言い続けた自分を、今になって嫌悪している。


 だからこそ、その姿を重ねてしまう北条司に、苛立ちを抱いていた。


(俺の指が、あいつを指差したのかもしれない)


 そう思った瞬間、胃の中身が逆流しそうになった。


 吐き気を堪え、背を丸める。


 自分の指先が、誰かの喉元を選んでしまったような感覚。


 罪悪感は、ガスよりも重くのしかかる。


 遠くで、排気口のノイズが鳴っていた。


 昨日より、また少しだけ濃く、深く。


 まるで、こちら側の告白を愉しむかのように。


 凛は、奥歯をぎりっと噛みしめた。


(もう、誰の名前も考えない)


 心の中で誓う。


 誰かの顔を浮かべるたび、その名前を頭の中で呼んでしまうたび、それが刃に変わるのなら。


 もう、誰のことも、考えない。


 名前を呼びたい指を、へし折る。


 そう決めた。


 けれど、その誓いがどれほど難しいことかは、もう嫌というほど分かっている。


 人間は、何かを考えないようにしようとした瞬間、いちばん強くそれを思い浮かべてしまう生き物だ。


 九人は八人になった。


 そして八人は、誰の名前にも触れられないまま、ただノイズの中で震え続けるしかなくなっていた。

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