第四章 声は中にいる
御子柴慎が床に刻んだ文字は、拭き取られることなく第三処理室に残された。
こえは なかにいる。
血で書かれたわけではない。爪で削った床の溝に、指先から滲んだ血がわずかに入り込んでいるだけだった。それでも、その言葉は赤く見えた。颯太にはそう見えた。
御子柴の遺体は第一、第二の死者と同じように処理室の壁際へ移された。凛が死後確認をし、古谷が白い作業用シートをかけた。誰も反対しなかった。死者をどう扱うべきかという倫理よりも、次に誰が死ぬのかという恐怖が、全員の思考を上書きしていた。
中央ホールに戻ると、十人になった参加者たちは互いに距離を取って座っていた。
十人。
その数字は、十三人よりもはるかに少なく感じられた。三つの空白が、人数以上の重みを持っている。藤咲ひかりがスマホを握りしめていた場所。白鳥要が壁にもたれて座っていた場所。御子柴慎が施設図を見つめていた場所。そこだけ空気が濃く、誰も近づこうとしなかった。
モニターには、相変わらず表示が残っている。
参加者十三名
残存十名
第三記録完了
制御室開放条件未達成
制御室。
御子柴は、死ぬ直前にそこへ行けば止められると言った。非常系統を落とせば、放送も処理室も止まるかもしれない、と。だが、制御室はまだ閉ざされている。誰かが、あるいは何かが、そこへ辿り着く条件を満たしていないと告げている。
「条件って何だよ」
黒瀬航が低く言った。
彼は壁に背を預け、両膝を立てて座っていた。最初のころの威圧感は残っているが、今はそれよりも苛立ちと疲労が強い。拳の皮が裂けている。扉や壁を殴り続けたせいだった。
「三人死んで、まだ足りないってことか」
「人の死を条件にしているとは限りません」
倉田透が答えた。
「それ以外に何がある」
「情報かもしれません。記録の取得、区域の探索、あるいは何らかの告白」
「告白?」
黒瀬は鼻で笑った。
「つまり、ここは懺悔室ってわけか」
その言葉に、凛がわずかに顔を上げた。
懺悔室。
言い得ている、と颯太は思った。
名前を呼ばれた者は、死ぬ前に何かを語った。藤咲ひかりは「あの動画」に関係する何かを隠していたらしい。白鳥要は十三年前の記事を握り潰したと告白した。御子柴慎は、内部音声をノイズとして処理したことを認めた。
名前を呼ぶ声は、処刑の合図であると同時に、告白を促す装置でもある。
「声は中にいる」
瀬尾和真が、ぽつりと言った。
その言葉に、全員が彼を見た。瀬尾はびくりと肩を震わせる。
「御子柴さんの残した言葉です。あれ、どういう意味なんですか」
「犯人がこの中にいるという意味だろ」
黒瀬が即答した。
「最初からそうだ。外からこんな細かいことができるわけがない。俺たちの中に、施設を操作してる奴がいる」
「でも、全員ここにいた時間もあります」
久我美咲が言った。
「藤咲さんや白鳥さんが死んだとき、少なくとも何人かは互いに見ています。全員を疑うなら、時間を整理しないと」
「看護師らしいな」
黒瀬が言った。
「死体を見るのに慣れてる奴は冷静でいい」
久我の顔がこわばった。
「黒瀬さん」
凛が静かに言った。
「そうやって誰かを傷つけても、扉は開きません」
「姉を殺された遺族様は綺麗事がお好きだな」
黒瀬の声に、ホールの空気が鋭くなった。
凛は表情を変えなかった。
しかし、颯太は彼女の指が拳を作るのを見た。
「やめてください」
颯太は言った。
「何を」
「誰かを疑うのは必要です。でも、潰し合いは違います」
「お前、本当に仕切りたがるな」
「仕切りたいわけじゃありません」
「じゃあ何だ」
「死にたくないだけです」
黒瀬は黙った。
その言葉には、虚勢がなかった。颯太自身、自分の声を聞きながらそう思った。
死にたくない。
単純で、みっともなくて、それ以外にない理由だった。
凛が机の上に資料を並べた。一次報告書、音声記録装置の配線図、事故後健康調査の断片、そして御子柴が残した言葉を書き写したメモ。
「まず、声について整理しましょう」
凛は言った。
「高科さん。お願いします」
颯太は頷いた。
ホールの全員がこちらを見た。信頼されているわけではない。専門らしい言葉を話せる人間がほかにいないだけだ。それでも、今はその役割を果たすしかなかった。
「これまでに流れた名前のノイズは、三回とも、人間がその場で喋っている音ではありませんでした」
「録音か」
古谷が聞いた。
「録音素材を使った加工音声に近いです。ただし、単純に録音済みの声を再生しているのでもない」
「どう違うんですか」
久我が尋ねた。
「名前の部分には、複数の音が混ざっています。人の声、換気音、金属音、足音のようなもの。声だけを切り貼りしたなら、あんなふうにはならない。むしろ、施設内で拾ったいろいろな音を素材にして、名前に聞こえるよう再構成している印象です」
「つまり、施設が私たちの声を聞いて、加工している?」
倉田が言った。
「可能性はあります」
瀬尾が天井を見上げた。
「じゃあ、僕らが喋るたびに、あの声の材料が増えているってことですか」
「断定はできません。ただ、音声記録装置の資料によれば、この施設には多数の集音マイクがあります。実験中の呼吸音や会話を記録するためです。今もそれが動いているなら、ホールや通路、処理室の音はすべて拾われている」
「誰が加工しているんだ」
黒瀬が言った。
「そこが問題です」
颯太はモニターを見た。
「人間がリアルタイムで操作しているのか。あるいは、事前に組まれたシステムが自動で行っているのか。御子柴さんの言葉は、そのどちらにも読めます」
「声は中にいる」
凛が呟いた。
「建物の中。処理室の中。録音の中。記憶の中」
颯太は彼女を見た。
凛の目は、モニターではなく天井の排気口に向けられていた。
「姉の声も、まだここにあるんですね」
誰も答えられなかった。
それは科学的には、音声記録が保存されているという意味にすぎない。だが、この場所では、その説明だけでは足りないように思えた。三枝灯里の声は十三年前に録音され、誰かによって隠され、ノイズとして処理された。それが今、死者の名を呼ぶ装置の奥から漏れ出している。
声は、死んでいない。
その事実は、救いではなく呪いに近かった。
「三枝さん」
倉田が慎重に口を開いた。
「あなたに確認したいことがあります」
「何ですか」
「あなたは遺族だと明かしました。であれば、この施設に集められた理由に心当たりがあったのではありませんか」
「最初からはありませんでした」
「でも、事故のことは知っていた」
「姉がここで死んだことは知っていました。ただ、ここがその施設だと分かったのは、案内図を見てからです」
「証明できますか」
凛の目が細くなった。
「何をですか」
「あなたが、この監禁に関与していないことです」
ホールの空気が、また変わった。
黒瀬がわずかに口元を歪める。瀬尾は怯えたように二人を見比べた。江波戸理沙は顔を伏せている。間宮紗良は倉田と凛のやり取りを、静かに観察していた。
「証明はできません」
凛は言った。
あまりにあっさりした答えだった。
「できないんですか」
「ここにいる全員がそうでしょう。自分が犯人ではないことを完全に証明できる人はいません」
「あなたには動機があります」
「あります」
凛は否定しなかった。
「姉を見殺しにした人間がいるなら、罰を受けてほしいと思っています。今でも」
「殺したいと思ったことは」
「あります」
江波戸が小さく息を呑んだ。
凛は続けた。
「何度もあります。名前も顔も分からない相手を想像して、その人間が苦しむところを考えたこともあります。そうしないと、眠れない夜があったからです」
「なら」
「でも、私は藤咲さんを殺していません。白鳥さんも、御子柴さんも殺していません」
「信じろと?」
「信じなくて結構です」
凛の声は冷たかった。
「ただ、私を疑うなら、私にできたこととできなかったことを分けて考えてください。感情だけで犯人を決めれば、本当の犯人を見失います」
倉田は黙った。
凛の言葉は、怒りを抑えた理屈だった。それがかえって、彼女を疑わしく見せる。颯太はそう思った。感情的に否定すれば、人は少し安心する。だが、彼女は自分の殺意さえ認めたうえで、犯行だけを否定した。
強すぎる。
その強さは、潔白の証拠にも、危険の証拠にも見えた。
「私は三枝さんを信じます」
久我美咲が言った。
凛が少し驚いたように彼女を見た。
「理由は」
「医療の現場で、人の死を見たことがあります。死に近い場所で、その人が何を優先するかはある程度分かります。あなたは遺体を見たとき、まず確認していました。怒りではなく、救命の可能性を」
「それは医学生だからです」
「だから信じます」
久我の声は静かだった。
黒瀬が舌打ちした。
「感動的な信頼ごっこは終わりか」
「あなたはどうなんですか」
間宮紗良が初めて強い声を出した。
全員が彼女を見る。
間宮は、これまで聞き役に徹していた。泣く者を宥め、混乱する者を落ち着かせ、自分の意見を前に出さなかった。その彼女が、まっすぐ黒瀬を見ていた。
「あなたは、ずっと誰かを攻撃しています。御子柴さんを犯人扱いし、三枝さんを疑い、久我さんを傷つけた。恐怖からそうしているのは分かります。でも、それで何を隠しているんですか」
黒瀬の顔から表情が消えた。
「何だと」
「あなたも十三年前の事故に関係しているのではありませんか」
「黙れ」
「職業を名乗ったとき、あなたは元警備会社勤務だと言いました。この施設の事故当時、警備業務に関わっていた可能性はありませんか」
黒瀬が立ち上がった。
古谷が身構える。
「カウンセラーってのは、人の心を読める気になってるのか」
「読めません。だから観察しています」
「観察?」
「あなたは、扉の話になると怒り方が変わる」
間宮の声は震えていなかった。
「藤咲さんのときも、白鳥さんのときも、御子柴さんのときも、あなたは扉を殴りました。怒っているように見えました。でも、あれは扉の向こうの人を助けたいというより、自分が扉のこちら側にいることへの苛立ちに見えた」
「意味が分からねえよ」
「十三年前も、あなたは扉のこちら側にいたのではありませんか」
黒瀬の拳が動いた。
颯太が間に入るより早く、古谷が黒瀬の腕を掴んだ。二人の体がぶつかる。椅子が倒れ、江波戸が悲鳴を上げた。
「離せ!」
「殴れば図星だと言ってるようなもんだぞ」
古谷が低く言った。
黒瀬は古谷を睨んだ。しばらく力比べのような状態が続いたが、やがて彼は腕を振りほどき、壁を蹴った。
「そうだよ」
黒瀬は言った。
その声は低く、掠れていた。
「いた。十三年前、俺はこの施設にいた」
凛の目が鋭くなった。
「警備員として?」
「新人だった。正確には、外部警備会社から派遣されていた。施設の中のことなんか何も知らなかった。出入り口を見て、許可証を確認して、指定区域に近づくなと言われたら止める。それだけだ」
「事故当日は」
「非常扉の前にいた」
ホールの空気が止まった。
凛が一歩前に出る。
「どの非常扉ですか」
「知らねえよ。番号なんか覚えてない」
「第七処理棟?」
「たぶん」
「扉を開けましたか」
黒瀬は答えなかった。
「開けましたか」
凛の声が震えた。
「命令が出てた」
「何の命令ですか」
「区域封鎖。誰も出すな、誰も入れるな」
「中に人がいると知っていましたか」
「知らなかった」
「本当に?」
「知らなかった!」
黒瀬の怒鳴り声がホールに響いた。
「中に人がいるなんて聞いてなかった。警報が鳴って、上が怒鳴って、無線は混線して、何が何だか分からなかった。俺は新人だぞ。命令されたら従うしかないだろ!」
「でも、声は聞こえたんじゃないですか」
凛は言った。
黒瀬の顔が歪んだ。
「聞こえたんですね」
「ノイズだ」
黒瀬は吐き捨てた。
「御子柴と同じことを言うんですね」
「あれはノイズだった。配管の音だ。警報音だ。扉の向こうから人が叩いてるみたいな音がしたとしても、そう聞こえただけだ」
「そう聞こえただけ」
凛が繰り返した。
黒瀬は顔を背けた。
「俺のせいじゃない」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
「俺が開けたら、漏洩が広がると言われた。外の人間まで死ぬと言われた。命令違反になると言われた。だから俺は」
「扉を閉じていた」
凛が言った。
黒瀬は怒鳴らなかった。
沈黙が、その答えだった。
そのとき、排気口からノイズが漏れた。
全員が天井を見上げた。
まだ夜間放送の時間ではない。御子柴のときと同じだ。システムは、時間に関係なく動き始めている。
モニターが点灯する。
夜間放送ではなかった。
画面には、白い文字が浮かんだ。
第四記録候補確認
黒瀬航
黒瀬の顔が硬直した。
「ふざけるな」
排気口の奥で、金属音が鳴った。低く、長く、床下から這い上がるようなノイズ。そこに、人の声が混ざる。
「……くろ……せ……」
江波戸が泣き出した。
「……こう……」
黒瀬は立ち上がった。
「俺は行かねえ」
ノイズが繰り返す。
くろせ。こう。
くろせ。こう。
しかし、今回は何かが違った。
颯太はすぐに気づいた。音の作りが、これまでより粗い。名前の接続が不自然すぎる。音素の境目に、現在のホール内の音が混ざっている。黒瀬がさきほど発した「俺は」の母音に似た響きが、名前の中に使用されている。
今、この場の音を材料にしている。
「録音します」
颯太はスマホを取り出した。
「そんな場合か」
黒瀬が叫ぶ。
「聞いてください」
颯太は言った。
「今回のノイズは、これまでより現在の音に近い。リアルタイムで作られている可能性があります」
「それで助かるのかよ!」
「助けるために調べるんです」
「理屈ばっかりだな!」
黒瀬は叫んだが、通路へは向かわなかった。彼自身も分かっているのだ。走れば、指定区域へ誘導される。止まれば、何が起こるか分からない。
「全員で黒瀬さんを囲みましょう」
凛が言った。
「本人が動かないように。今度は一瞬も目を離さない」
「縛るか」
古谷が言った。
黒瀬は睨んだが、すぐに視線を落とした。
「縛れよ」
その声は小さかった。
「俺も、自分の足が信用できねえ」
白鳥と同じことを言った。
その事実に、誰も触れなかった。
作業用ベルトと結束バンドで、黒瀬の手首と胴体を椅子に固定した。足は自由にした。緊急時に逃げられるようにするためだ。黒瀬は抵抗しなかった。だが、呼吸は荒かった。
ノイズはまだ続いている。
くろせ。こう。
くろせ。こう。
やがて、その奥に別の音が混じった。
扉を叩く音。
どん、どん、どん。
重い金属を内側から叩く音。十三年前のテープに入っていたものに似ている。御子柴の処理室で聞こえたものにも似ている。
黒瀬の顔が歪んだ。
「やめろ」
どん、どん。
「やめろ」
その音は、ホールの壁の内側からも響いてくるようだった。
颯太は録音しながら、耳を澄ませた。
叩く音の間に、声がある。
開けて。
助けて。
寒い。
息ができない。
複数の声が重なっている。その中に、灯里の声があるのかもしれない。凛は顔を上げたまま動かなかった。唇を噛み、涙を堪えている。
黒瀬が椅子ごと揺れた。
「俺は、開けたかった」
彼は言った。
誰に言っているのか分からない。
「本当だ。開けたかった。でも無線で怒鳴られた。開けたら外が死ぬって。俺の判断で何十人も死ぬって。だから」
「だから、見殺しにした」
凛の声はかすれていた。
「そうだよ!」
黒瀬が叫んだ。
「そうだ。俺は開けなかった。扉の向こうで誰かが叩いてた。女の子の声も聞こえた。聞こえたけど、俺は開けなかった。怖かったんだ。命令に逆らうのも、責任を取るのも、全部怖かった!」
ノイズが一瞬、静まった。
ホールの中に、黒瀬の荒い呼吸だけが残った。
「それで満足かよ」
彼は天井を睨んだ。
「聞いてんだろ。俺は認めたぞ。俺が扉を開けなかった。俺が怖くて逃げた。だから何だ。今さら俺を殺して、あの子が戻るのかよ!」
その言葉に、凛の顔が歪んだ。
だが、彼女は何も言わなかった。
モニターが切り替わった。
第四指定区域
隔離前室B
黒瀬ではなく、別の部屋の扉が赤く点滅している。
「隔離前室?」
古谷が言った。
「処理室じゃないのか」
「分からない」
颯太は施設図を見た。
隔離前室Bは、中央ホールから見て左奥、仮眠室Bの近くにある。現在開放されている区域の中だ。処理室とは反対方向だった。
「黒瀬さんは動かさない」
凛が言った。
「全員ここにいてください」
「誰が見に行く」
古谷が聞く。
「行かないほうがいい」
倉田が言った。
「指定区域と表示された以上、近づくのは危険です」
「でも、何が起きているか確認しないと」
久我が言う。
「カメラ映像が出るかもしれません」
瀬尾がモニターを指差した。
画面が再び切り替わった。
映像だった。
暗い小部屋。壁際に古いベンチ。床に白いライン。隔離前室Bと表示されている。
そこには誰もいなかった。
全員が息を吐きかけた瞬間、画面の端で何かが動いた。
人影。
細い身体。
それは、間宮紗良だった。
「間宮さん?」
江波戸が叫んだ。
いつの間にか、間宮がホールから消えていた。
颯太は慌てて周囲を見回した。たしかにいない。ついさっきまで、江波戸の隣に座っていたはずだ。
「いつ出た」
古谷が叫ぶ。
「誰か見てたか!」
誰も答えない。
全員が黒瀬とモニターに注意を奪われていた。名前を呼ばれた黒瀬を囲み、拘束し、告白を聞いていた。その間に、間宮は一人でホールを離れていた。
モニターの中で、間宮は隔離前室の中央に立っていた。
彼女はぼんやりしているように見えた。藤咲ひかりが処理室へ向かったときと似ている。目は開いているが、焦点が合っていない。
「間宮さん!」
凛がモニターに向かって叫んだ。
当然、届かない。
颯太は走り出そうとした。だが、倉田が腕を掴んだ。
「危険だ」
「でも」
「君が行っても閉じ込められるだけかもしれない」
その間に、画面の中の扉が閉まった。
隔離前室B
処理準備中
「処理室じゃないのに」
久我が青ざめた。
黒瀬が椅子に縛られたまま叫んだ。
「おい、俺だろ! 呼ばれたのは俺だろ!」
モニターは答えない。
処理開始。
表示が切り替わる。
ただし、酸素濃度ではなかった。
鎮静ガス濃度
上昇中
「鎮静ガス?」
凛が言った。
「麻酔系かもしれない」
久我がすぐに反応した。
「濃度によっては呼吸抑制を起こします」
画面の中で、間宮が壁にもたれた。彼女の手が喉元に触れる。口が動いている。何かを言っているが、音声は入っていない。
「開けなきゃ」
凛が走り出した。
今度は颯太も止めなかった。古谷と久我が続く。倉田も少し遅れて走った。
隔離前室Bまでの通路は短いはずなのに、ひどく長く感じられた。赤い非常灯が点滅している。モニターからの警告音が、通路のスピーカーにも流れていた。
扉の前に着く。
表示は処理中。
内部確認窓は曇っていて、中が見えない。
「間宮さん!」
凛が扉を叩く。
返事はない。
颯太は操作盤を確認した。処理室のものより簡易的だが、ロックは同じようにかかっている。古谷が非常停止ボックスを探す。久我は表示を見ながら、唇を噛んでいる。
「濃度上昇が速い」
「どのくらい危険ですか」
颯太が聞く。
「薬剤が分からないと何とも言えません。でも、意識を失ったあとも流れ続けたら危険です」
「解除は」
古谷が壁のボックスを開けた。
「ある」
レバーを下げる。
表示が乱れた。
局所停止要求
拒否
遠隔優先制御中
「またか!」
古谷が叫ぶ。
「誰かが制御室にいる」
颯太は言った。
凛が扉に両手をついた。
「間宮さん! 聞こえますか!」
扉の向こうから、小さな音がした。
何かが床に落ちる音。
それきりだった。
処理完了。
換気中。
白い表示が出る。
ロックが解除されたのは、処理室のときより早かった。三分ほどだったと思う。だが、その三分はあまりに長かった。
扉が開く。
間宮紗良は、床に倒れていた。
凛と久我が同時に駆け寄る。颯太は入口で立ち尽くした。部屋の中には甘いような、薬品のような匂いが残っている。換気はされているが、完全ではない。
久我が間宮の気道を確認する。凛が脈を取る。
「脈が弱い」
久我が言った。
「呼吸は?」
「浅いです」
「ホールへ運びます。ここは危険です」
古谷と颯太で間宮を抱え、ホールへ戻った。彼女の身体は軽かった。軽すぎるほどだった。さきほどまで人の心理を静かに観察していた女性が、今は力の抜けた人形のようになっている。
ホールでは黒瀬がまだ椅子に縛られていた。
「どうなった」
彼が叫ぶ。
「死んだのか!」
「黙ってください!」
久我が珍しく強い声を出した。
間宮を床に寝かせる。久我が呼吸を確認し、凛が脈を取る。医療器具はほとんどない。できることは限られている。気道確保、体位、呼吸の確認。薬剤も酸素もない。
間宮の唇が微かに動いた。
「間宮さん」
凛が顔を近づける。
間宮は目を開けた。
ほんの少しだけ。
「ごめんなさい」
彼女は言った。
「何がですか」
凛が聞く。
「聞こえたの」
「何が」
「名前」
「黒瀬さんの名前ですか」
間宮は小さく首を振った。
「違う」
彼女の目が、天井を見た。
「私の名前」
颯太は息を止めた。
ホールで流れていたノイズは、黒瀬航の名前を呼んでいた。全員が聞いた。モニターにも黒瀬航と表示されていた。
だが、間宮には自分の名前が聞こえていた。
「どういうことですか」
凛の声が震える。
間宮は答えようとした。しかし、呼吸がうまく続かない。久我が「無理に喋らないで」と言う。
それでも、間宮は言った。
「声は……その人に……違って聞こえる」
颯太の背筋に冷たいものが走った。
全員が同じ音を聞いているとは限らない。
ノイズは、人によって違う名前に聞こえる。
あるいは、聞かせたい相手にだけ別の声を届けている。
「誰に呼ばれたんですか」
凛が聞く。
間宮の目が、ほんの少し凛に向いた。
「灯里さん」
凛の表情が凍った。
「姉が?」
「違う」
間宮は苦しそうに息をした。
「灯里さんの声を……使った、誰か」
その直後、間宮の身体が小さく痙攣した。
久我が処置を続ける。凛も手伝う。颯太は何もできず、ただ見ていた。
数分後、久我の手が止まった。
「駄目です」
凛はまだ脈を探していた。
「三枝さん」
久我が静かに言った。
「もう」
凛は手を離さなかった。
その姿を見て、颯太は彼女が姉の死をもう一度目の前で見ているのだと気づいた。十三年前に開かなかった扉。聞こえていたのにノイズにされた声。助けられなかった身体。今、同じ構図が彼女の前で繰り返されている。
やがて、凛は手を離した。
「亡くなっています」
その声は、ほとんど聞き取れなかった。
黒瀬は椅子に縛られたまま、呆然としていた。
「俺じゃなかった」
彼は呟いた。
「呼ばれたのは俺だったのに」
誰も答えなかった。
モニターが点いた。
参加者十三名
残存九名
第四記録完了
その下に、別の表示が現れる。
規則補足
呼ばれた者が死ぬとは限らない
ホールにいる全員が、その文字を見た。
江波戸理沙が声にならない悲鳴を上げた。瀬尾和真は頭を抱えた。倉田透は呆然と画面を見つめていた。古谷仁は拳を握りしめている。久我美咲は間宮の傍らで目を閉じた。
黒瀬が低く笑い始めた。
「何だよ、それ」
笑いはすぐに嗚咽のように崩れた。
「何なんだよ、それ。じゃあ、名前に意味なんかねえじゃねえか。誰が死ぬか分からねえってことかよ」
「いいえ」
颯太は言った。
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
「意味はあります」
凛が顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「名前を呼ぶことと、殺すことは同じじゃない」
颯太はモニターを見た。
「ノイズは死刑宣告じゃない。少なくとも、それだけではない。黒瀬さんの名前を呼んだのは、黒瀬さんに過去を語らせるためだった。間宮さんが死んだのは、別の理由です」
「別の理由?」
「彼女は何かを知っていた」
間宮紗良の最期の言葉が蘇る。
声は、その人に違って聞こえる。
灯里さんの声を使った、誰か。
颯太は排気口を見上げた。
「ノイズは、殺人の合図じゃない」
言いながら、彼自身もその考えに追いついていく。
「犯人が命令しているわけでもない。あれは、名前を呼んでいるんじゃない。罪を呼び起こしている。記憶を掘り返している。十三年前に消された声を使って、ここにいる人間に何かを告発させている」
凛が呟いた。
「告発」
「はい」
颯太は頷いた。
「あれは、告発です」
その瞬間、排気口の奥で、微かな音がした。
笑い声のようにも、泣き声のようにも聞こえた。
ホールに残された九人は、誰も動けなかった。
名前を呼ばれた者が死ぬ。
その単純なルールは壊れた。
だが、恐怖が小さくなったわけではない。むしろ逆だった。もう誰が呼ばれても安心できない。呼ばれなかった者も死ぬ。自分だけに違う名前が聞こえるかもしれない。自分の声が、誰かの死を呼ぶ材料になるかもしれない。
声は中にいる。
御子柴の言葉が、別の意味を持ち始めていた。
犯人が中にいる。
施設の中に声がある。
そして、人間の中に、消したはずの声が残っている。
颯太は、録音されたノイズの波形を見つめた。小さな画面の中で、音は細かく震えている。そこには、黒瀬の名があり、扉を叩く音があり、灯里の声があり、間宮だけに届いた別の名前があった。
ひとつの音が、全員に同じ意味を持つとは限らない。
その事実が、この事件の形を変えた。
凛が立ち上がった。
顔色は悪い。だが、その目には、さきほどまでとは違う光があった。
「高科さん」
「はい」
「間宮さんの荷物を調べましょう」
「今ですか」
「今です」
凛は間宮の遺体を見た。
「彼女は、自分の名前が聞こえたと言いました。何かを知っていたから呼ばれた。殺されたのも、おそらくそのためです」
「彼女が知っていたこと」
「十三年前の事故後に関わった人間の中に、心理職かカウンセラーがいたはずです。事故の生存者、遺族、関係者。その証言をどう扱ったか。間宮さんがそれに関係していたなら」
凛は言葉を切った。
「彼女は、次に語るはずだった真実を封じられたのかもしれません」
颯太は頷いた。
モニターにはまだ、規則補足の文字が残っている。
呼ばれた者が死ぬとは限らない。
悪意ある冗談のような一文だった。
しかし、颯太にはその背後に、別の言葉が隠れているように思えた。
呼ばれなかった者も、黙っていれば死ぬ。
排気口の奥で、ノイズがまた低く鳴った。
今度は名前にならなかった。
だが、颯太には聞こえた気がした。
まだ終わっていない、と。




