第三話 ノイズ解析班
牧野カイの遺体が運び出されたあと、共有スペースには誰も近づこうとしなかった。
そこには、昨夜まで彼が触っていた端末と、天井に向けて固定されたマイクだけが残されている。まるで、遺品のように。
「……続けるしかない」
沈黙を破ったのは、高科颯太だった。
目の下にはくっきりと隈ができ、口元は乾いている。けれど、その目だけは妙に冴えていた。焦点が合ったり、泳いだりを繰り返しながらも、どこか決意の色を帯びている。
「カイがやろうとしてたこと、全部、俺がやる。やらなきゃ意味がない」
誰も返事をしない。返せなかった。牧野を思い出すと、胸の奥がざわざわして、まともに言葉が出てこない。
高科はひとりで端末の前に座り、深呼吸を一つしてから電源を入れた。暗い画面に、システムのロゴが淡く浮かび上がる。
「……やっぱり、これ、専用にカスタムされてるな」
ブツブツと独りごとを漏らしながら、高科はソフトウェア一覧を開く。見慣れないアイコンがいくつか並んでいた。その中に、牧野が昨夜起動して見せた音声解析ソフトと思しきものがある。
クリックすると、画面いっぱいに黒地のウィンドウが現れた。中央には、時間軸に沿って伸びる波形。その下には、色とりどりの帯が上下に広がっている。
「これ、何?」
後ろから覗き込んだ凛が問うと、高科は少しだけ肩の力を抜いた。
「スペクトログラム。音の周波数を縦軸にして、時間ごとにどの部分がどれくらい鳴ってるかを色で可視化したやつ。赤いところが音が強い部分、青は弱い部分って感じ」
波形の上では、昨夜のノイズが再生されている。スピーカーのボリュームは絞ってあるが、耳を澄ませば、あのざらざらとした音がかすかに聞こえた。
黒い画面には、縦方向に細かい線が無数に並び、ところどころで赤や黄色の筋が濃く浮かび上がっている。ただの空調音にしては、あまりにも複雑な模様だった。
「空調のノイズだけなら、もっと単純な帯になるはずなんだよ」
高科は画面を指でなぞる。
「一定の周波数にピークが一つか二つ、せいぜいそのくらい。でも、これは……たくさんの山が重なり合ってる。しかも、人間の声の帯域と被るところだけ妙に濃い」
「つまり?」
「このノイズ、最初から『何か』の声を混ぜてる設計なんだよ。空気を循環させながら、同時に音声を流すシステム。換気と放送を兼ねてるみたいな」
凛は背筋に薄ら寒いものを感じた。
「昨夜みたいに、名前が聞こえたのは偶然じゃない。意図的に仕込まれてる。問題は、その声が──」
「誰のものか、ですね」
静かな声が、二人の背後から届いた。
振り向くと、東雲遥が立っていた。腕を組み、眼鏡の奥の瞳で端末の画面を見下ろしている。
「昨日の録音データ、みんなにも聞かせましたよね。あれを聞いてから、皆さんの顔色が一気に変わった。自分の声に似ている部分を、無意識に探していたから」
そう言われると、凛は思わず唇を噛んだ。自分もそうだったからだ。
あの「カイ」という囁きの中に、自分の声の響きが確かに混ざっていたような気がする。耳が勝手に罪悪感を拾い上げ、勝手に重ね合わせてしまう。
「だから確かめましょう」
遥は端末横のマイクを見やった。
「これは私たちの心を追い詰めるための“トリック”なのか。それとも本当に、私たちの声を素材にしているのか」
「……サンプルを集める、ってことか」
高科は少し考え、それから頷いた。
「いいですね。それしかない。ここにいる全員の声を録音して、ノイズの中の波形と照合する。声紋として重なるなら、本当に俺たちの声ってことになるし、違うなら、外の誰か──少なくとも“別の人間”の声だってことになる」
「じゃあ、やりましょう」
遥が振り返る。
「皆さん、共有スペースに来てください。順番に自己紹介を、今度は機械に向かってしてもらいます」
少しして、ざわめきを纏った十三人……いや、すでに二人が欠けた十一人が共有スペースに集まった。皆、疲れと恐怖で顔色が悪い。口を開けば何かをこぼしてしまいそうで、ただ黙って椅子に座っている。
「一人ずつ、マイクに向かって数秒話してもらいます」
遥が説明する。
「内容は、さっきやったような簡単な自己紹介で構いません。名前と年齢、職業。いつもの話を、今度は機械に聞かせましょう」
「俺たちの声で、俺たちの声を疑うってわけか」
誰かが皮肉を言ったが、それ以上反対する者はいなかった。
「じゃあ、トップバッターは俺で」
高科が立ち上がり、マイクの前に立つ。少し咳払いをしてから、意識的にゆっくりと口を開いた。
「高科颯太、二十歳。大学で情報工学を勉強しています」
端末の画面には、彼の声に合わせて波形が描かれていく。スペクトログラムにも、暖色系の帯が浮かび上がった。
「はい、ありがとうございます。次」
遥に促され、順番に全員がマイクの前に立っていく。
「黒川凛、高校三年です」
「御子柴慎、三十四歳。元高校教師」
「志村誠、四十三歳。元刑事。今は……フリーのセキュリティコンサルみたいなことをしている」
「東雲遥、二十九歳。臨床心理士です」
「百瀬蓮、二十二歳。元アイドル。今は……何もしてない、かな」
蓮の声は、少しだけ震えていた。彼女の茶髪は、派手さを抑えたボブカットに整えられている。かつてステージのライトを浴びていたことを伺わせる華やかさは、今はほとんど萎んでいた。
「アイドルって……有名な人?」
司が小さな声で尋ねると、蓮は苦笑した。
「地下でちょっとだけね。フォロワーはそこそこいたけど、炎上して全部終わっちゃった」
その一言に、何人かの視線が向けられた。蓮はその視線から逃げるように肩をすくめ、席に戻る。
録音は滞りなく進んだ。
端末には、十一人の声がサンプルデータとして保存される。ファイル名の横には名前のタグが付けられ、いつでも呼び出せるようになった。
「じゃあ、ここからが本番」
高科の声には、少しだけ勢いが戻っていた。
「昨日の『カイ』って囁きが録音されてる部分と、みんなの声を照合する。ほら、ここ」
画面の波形が拡大され、「カイ」と聞こえた瞬間のあたりが赤い枠で囲まれる。その真下には、縦に帯状のスペクトログラムが細かく刻まれていた。
「この帯の中に、人間の声の特徴的な山がいくつもある。ざっと見ただけでも……男声のフォルマントが二つ、女声が一つ、それに子どもっぽい高めのピークも」
誰も完全には理解していない。だが、高科の説明と指先の動きから、「単純な空調ノイズではない」ということだけは嫌でも伝わってきた。
「ここに、さっき録ったサンプルを重ねてみる。まずは俺の声から」
高科は自分の音声ファイルを読み込み、解析ソフトの別ウィンドウに表示した。スペクトログラムの山の位置を比較すると、「カイ」と囁いた音の中の一部と、高科の声紋の形がほぼ一致していた。
「……マジかよ」
彼は小さく笑い、すぐにその笑いが消えた。
「じゃあ……次、黒川くん」
「え?」
「いいから。ほら」
凛の音声も同様に重ねる。すると、今度は別の山がぴたりと重なった。
「黒川くんの声の特徴が、ここ。『イ』の部分のピークが同じ位置にある」
さらに、御子柴、東雲、志村、百瀬、司……と、次々に照合していくたび、どこかしら一致する帯が見つかった。
ノイズの中で「カイ」と聞こえたその瞬間。その波形は、一人の声ではなく、複数の声の特徴が少しずつ混ざり合ったものだった。
まるで、誰かが十一人それぞれの声を分解して、バラバラにしたパーツを組み立て直したかのように。
「……牧野の名前を呼んだ声、全部“俺たち”の声だ」
高科の言葉は、震えていた。
「特定の誰かじゃない。十二人分の声紋を、一つの名前に合成してる。『俺たち全員が、牧野の名前を呼んだ』って形に、加工してある」
背中に冷水を浴びせられたような感覚が走る。
誰か一人を犯人に仕立て上げるのではなく、全員に均等に罪悪感を分配する装置。そんなものがあっていいはずがないのに、現に今、それが目の前で結果を突きつけている。
「こんなこと、何のために……」
蓮が、唇を噛みしめながら呟いた。
「俺たちを疑心暗鬼にさせるため、でしょうね」
東雲が静かに答える。
「『自分の声が、誰かの死を呼ぶ』と思わせることができれば、誰も簡単に名前を呼べなくなる。会話は減り、互いに距離を取ろうとする。孤立と不信を強制するには、これ以上ない仕掛けです」
「ゲームの運営が、プレイヤー同士を潰し合わせたいってわけか」
御子柴が吐き捨てるように言う。
「教師時代から、そういう連中は嫌いだった。ルール作って、数字いじって、『あとは勝手に争ってください』なんて顔してるやつら」
言葉は荒いが、その目には自分自身への怒りも混ざっていた。
「ただ、それだけじゃないかもしれません」
遥は、画面に映るノイズの帯を見つめながら続ける。
「私はこれを、『集団の無意識を音声化した装置』だと考えています」
「集団の……無意識?」
凛は、聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「私たちは今、極限状態に置かれている。閉鎖環境、外部との断絶、見えない敵、自分もいつ死ぬか分からない状況。その中で、『誰を信じられるか』と同じくらい、『誰を憎んでいるか』『誰を怖がっているか』が強く意識される」
遥は言葉を選びながら話す。
「口では『助け合おう』と言っていても、心のどこかで『こいつが邪魔だ』『こいつがいなくなればいい』と思ってしまう。その矛盾した感情が、このノイズの中に蓄積されているのかもしれない」
「感情が、ノイズに?」
「もちろん、そのままの形ではなく、何らかのセンサーやアルゴリズムを挟んでいるはずです。脈拍、呼吸、視線の動き、発汗量、言葉の内容。私たちの細かな反応を全部拾い上げて、『誰にどれだけ負の感情が向いているか』を数値化する」
遥はノイズの帯を指さした。
「その結果、最も憎まれている、あるいは怖れられている人間の名前が、このノイズから抽出される。そんな仕組みがあるとしたら、これはまさに『集団の無意識が選んだ死刑宣告』です」
誰かが息を呑んだ。
自分の口からそんな言葉を出した覚えはないのに。誰かを殺したいと願った覚えはないのに。
でも、本当に? と脳が問いかけてくる。
誰かの態度が気に入らなくて、心の中で悪口を言ったことはないか。
誰かの失敗を、どこかで喜んだことはないか。
誰かがいなくなれば楽になる、とほんの少しでも思ったことは。
「で、でもさ」
蓮が、おそるおそる口を開いた。
「牧野くんのこと、そんなに憎んでた人、いる? もちろん、昨日今日で仲良くなったわけじゃないけど……」
「……正直に言っていいですか」
小さな声で言ったのは蓮自身だった。
「私、あの子のニヤニヤした感じ、ちょっと苦手だった」
皆の視線が、一斉に彼女に集中する。
「何もかも分かってます、みたいな顔して、人のことを上から分析してる感じ。『あー、この人、絶対こういうタイプっすね』とか、軽く言うじゃないですか。ああいうの、ステージに立ってた時、一番嫌いだった」
蓮は唇を震わせながら続けた。
「アイドル時代、裏でファンのことバカにしてるって噂を立てられて、それで炎上して……全部失ったことがある。だから余計に、ああやって人のことを『データ』みたいに扱うタイプを見ると、イラッとしちゃう。昨日も、心の中で何回か『うざい』って思った」
最後の方はほとんど涙声だった。
「だからって、殺したいなんて思ってない。でも……もしかして、そういう小さな『うざい』が積み重なって、あのノイズを作ってるんだとしたら……私、私……」
蓮は堪えきれず、顔を両手で覆って泣き崩れた。
自分の心の醜さに気づいてしまったこと。その醜さが、誰かの死と結びついているかもしれないという恐怖。それらが一気に溢れ出している。
「百瀬さんだけじゃない」
遥が静かに言った。
「きっと皆、心のどこかで、牧野くんに対して不安や苛立ちを抱いていたはずです。彼のハッキング体質を、『頼もしい』と思う一方で、『勘弁してほしい』とも感じていた」
高科は、蓮の背中を見ながら顔を歪めた。
「……正直に言えば、俺もそうだ。カイのコードの書き方、時々怖いなって思ってた。倫理ラインなんてあってないような、ギリギリのこと平気でやるから。『こういうのって犯罪じゃないの?』って言うと、『捕まるまでは仕様っすよ』って笑うし」
自嘲混じりに笑おうとして、失敗する。
「でも、それでも……死んでいい理由にはならない」
「そうです。でも、“理由にならない”からこそ、ここで“理由にされている”んですよ」
遥はノイズの画面から視線を離さない。
「ここは、私たちの心の中で普段なら見て見ぬふりをしているものを、全部可視化して、責任を突きつけてくる場所です。『あなた、心のどこかでそう思ってたでしょう?』って」
誰も反論しなかった。できなかった。
議論はしばらく紛糾した。
「じゃあ誰が一番憎んでいたんだ」「カイのハッキングのせいで前の仕事を失ったんじゃないか」と疑う声が出て、「そんなこと言ってない」「人のせいにするな」と怒号が飛ぶ。
何度も「落ち着いてください」と東雲が間に入り、志村が「今は犯人探しをしても何も出ない」と冷静さを強要する。
そのたびに、「犯人探しをするな」と言われること自体が、逆に「犯人はここにいる」と暗に宣告しているようで、空気がさらに重くなる。
やがて、感情の波が一巡した頃、凛がぽつりと口を開いた。
「……じゃあさ」
皆の視線が、意外そうに彼に向いた。
「今夜、全員で黙ってみない? 誰のことも考えないようにしてさ」
思いつきに近い言葉だった。けれど、口にした瞬間、それが唯一の「抵抗」に思えてきた。
「ノイズが集団の無意識を拾ってるんだとしたら、俺たちの心の中をなるべく真っ白にしておけば、名前が選ばれないかもしれない」
「無理だろ、そんなの」
御子柴が呆れたように笑う。
「何も考えないようにしようとして、何も考えないやつがいるか。『考えるな』って言われた瞬間から、『考えるなって言われたこと』を考え始めるのが人間だ」
「それでも、何もしないよりはマシかもしれません」
遥が凛の案に乗った。
「少なくとも、『誰かを憎む時間』を減らす努力にはなる。『誰にも矢印を向けない』ことに集中する夜が、あってもいいと思います」
「……試す価値はある」
志村も、しぶしぶ頷いた。
「作戦名は『全員で仏像になる』ってところか」
「ダサい」
誰かが小さく笑った。その笑いが、初めてこの部屋に生まれたほんのわずかな緩みのようで、凛は少しだけ救われた気がした。
◇
その夜。
三度目の非常灯が点る時間がやってきた。
消灯前に、高科は端末とマイクの状態を再確認した。録音テストも行い、ノイズに対してどれくらいのレベルで音を拾うか調整する。
「よし。これで、今日も全部記録できるはず」
「本当に……何も考えなければ、誰も呼ばれないと思う?」
司が不安そうに尋ねる。
「分からない。でも、やってみるしかない」
高科は、そうとしか言えなかった。
ベッドに戻り、それぞれが横になる。薄い毛布を胸まで引き上げ、目を閉じる者、天井を睨みつけたまま瞬きもせずにいる者。
凛は心の中で「何も考えない、何も考えない」と念じた。
昨日のひかりの顔も、今日のカイの背中も、意識の表面に浮かび上がってくるのを、必死に押し戻す。
かわりに、無意味な数字を数える。1、2、3、4……。
百まで数えたら、また一から数え直す。ただ、それだけに集中する。
天井の排気口から、例のノイズが流れ始めた。
ゴォォ……ザザザ……という、低く、粘りつくような音。耳に入るだけで、心がざわざわと波立つ。
凛はむしろそのノイズを「ただの音」として聞くよう努めた。波。雨。ラジオの砂嵐。
意味を乗せない。誰の声とも結びつけない。
この音は、この音だけで完結している。そう決めつけるように。
(何も考えるな。誰も想像するな。ひかりも、カイも、百瀬さんも、誰も──)
心の中に浮かび上がる名前を、出てきたそばから潰していく。
それでも完全には消せない。人間の脳は、空白を嫌う。空白を埋めるために、勝手に映像や声や記憶を流し込んでくる。
凛は息苦しさを覚えながら、それでも数字を数え続けた。
五十、五十一、五十二……
ノイズは途切れない。いつものように、ただ流れ続けているだけに思える。
その時だった。
ノイズの一部が、ふっと薄くなった。
空気が、一瞬だけ変わる。凛の全身が、条件反射のように強張った。
(来るな)
叫ぶように思った。誰の名前も出るな、と。
しかし、その願いは、容赦なく踏みにじられた。
「……レン」
ささやきだった。
けれど、はっきりと聞き取れる。一音一音を、確かに認識できてしまうくらいには。
百瀬蓮の「レン」。
布団の中で、蓮の肩がびくりと揺れたのが見えた。彼女の息が一瞬止まり、その後、荒くなるのが聞こえる。
「ちょ、ちょっと待って……今の、聞こえた……?」
絞り出すような声。涙声だ。
「聞こえた」
凛は、歯を食いしばりながら言った。
何も考えないようにしていたはずだった。誰かを憎まないように、恐れないように、名前を浮かべないようにしていた。
それでも、結果は変わらなかった。
「録音は?」
「されてる。大丈夫だ」
高科の声も、震えていた。
「……明日の朝、確認しよう。今は……動くな。扉はまだ青になってない」
志村の声が、闇の中で低く響く。
そう言われても、誰も眠れなかった。百瀬蓮に至っては、息をするのさえ怖いという顔で、毛布を頭までかぶって震えていた。
「何も考えない」作戦は、あっさりと破られた。
◇
翌朝。
それを確認するまでもないと、全員が薄々覚悟していた。
それでも、ランプが赤から青に変わった瞬間、どこかで「何かの間違いであってほしい」と願ってしまった自分がいた。
ガス処理室の扉が、重い音を立てて開く。
冷たい空気が、足元から這い上がってくる。その奥に──
「……嘘、でしょ」
誰かが、かすれた声で呟いた。
床の上に、百瀬蓮が倒れていた。
元アイドルだったと本人が語った、その面影はもうほとんど残っていない。顔は苦痛にゆがみ、喉を掻きむしった爪痕が生々しく刻まれている。
ステージでは歓声を浴びていたかもしれないその喉は、今はもう二度と声を発することはない。
凛は、視界がぐにゃりと歪むのを感じながら、奥歯を噛みしめた。
(何も考えないようにしてたのに)
それでも名前は呼ばれた。
ノイズは、彼らの意志とは関係なく、名前を選び出している。
高科は、膝から崩れ落ちそうになりながらも、端末の方へとふらふら歩き出した。
「録音……」
唇から漏れた単語が、そのまま彼を前に進ませる。
端末の電源は入っていた。昨夜設定した通り、自動録音が作動している。再生ボタンを押すと、またあのノイズが流れ始めた。
しばらくすると、画面の波形がピクリと変わり、例の瞬間が訪れる。
「……レン」
百瀬蓮の名前を告げる囁き。
高科は震える手でスペクトログラムを拡大し、昨夜と同じようにサンプルの声を重ねていく。
結果は、牧野のときと寸分違わなかった。
ノイズの中に浮かぶ声紋は、ここにいる全員のものだった。男の低音、女の高音、若者の甲高さ。バラバラの特徴が、名前一つ分の波形の中に、歪に混ざり合っている。
「前より……」
凛が、気づいたことを口にする。
「前より、はっきりしてないか?」
画面の色が、昨日よりも鮮明に見えた。赤や黄色の帯がくっきりと浮き上がり、ノイズの中の「声」の輪郭がよりはっきりと形を成している。
「そうだな」
高科は喉を鳴らした。
「昨日より、解析が進んでる。こっちの端末じゃなく、向こう側の『装置』の方が」
ノイズは、彼らの反応を学習している。
名前が呼ばれるたび、誰かが死ぬたび、集団の動揺が、恐怖が、罪悪感が積み重なっていく。その感情の渦そのものを、ノイズは取り込んでいる。
そして、そのたびに──自分たちの声で、自分たちの仲間の名前を呼ぶ精度を上げている。
ガス室のノイズは、静かに、容赦なく研ぎ澄まされていった。




