試練の始まり
そよそよと吹く風がヒゲをくすぐる。
風に乗って運ばれてくるのは、香ばしい魚の匂い。
(そういえばお腹すいたな……)
毛布の上で丸くなっていた私は、お腹の音で目が覚めた。
寝た覚えは無いのだけど、不覚にもいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
というか……ここはどこだろう。身体を包み込むように広がる毛布は、我が家のものじゃない気がする。見覚えのない部屋、見覚えのないベッド。大きく立派な窓には、またたく星空が広がっている。
(もう夜なのね……ずいぶんと寝てしまっていたみたい)
私は混乱する頭を整理しようとして、視界に入った手に目が釘付けになった。
丸い。ぬいぐるみのような足には、ピンク色の肉球がついている。猫の手だ。そうだ……兄のせいで猫になってしまったんだった。
そして、問答無用でオルランド様の住むクルス侯爵家へ連れてこられた。ということは、ここは……
「あっ。ロミナ、起きたんだね」
「ぎゃっ」
私は跳ねた。
突然、扉の向こうからオルランド様が現れたのだ。
猫の身体というものはとても軽くて、驚いただけで飛び上がる。
そんな私を見て、オルランド様はクスクスと笑った。
「はは……ごめん、びっくりさせちゃったかな」
「い、いえ!」
まだ、バクバクと心臓がうるさい。寝起きにオルランド様の顔面は強すぎる。いきなり見るものではない。
私は助けを求めるべくお兄様の姿を探した。しかし一緒に来たはずの兄は、なぜか部屋のどこにも見当たらない。
「あの、お兄様は――」
「フェリックスのこと? 帰ったよ」
「帰った!?」
「明日も任務あるし、って」
「嘘でしょ……?」
妹を無責任に猫にしておいて、帰った……?
無理矢理クルス侯爵家に連れて来ておいて、お兄様は私を置いて一人で帰った?
ということは、本当に私はクルス侯爵家でお世話になるの?
オルランド様と同じ空気を吸い続けるなんて絶対に無理なんですけど。
(ここにいたら心臓が持たないのは確実……)
私は毛布からやんわりと起き上がる。そしてオルランド様に向き合い、深々と頭を下げた。
「じゃあ……もう遅い時間ですし、私もこのへんで帰らせていただきます。今日は突然お騒がせして申し訳ありませんでした。このお詫びはまた後日……では」
「だめだよロミナ。帰ったら飼い猫達に殺されちゃうんでしょ」
「え」
「古参猫によそ者扱いされてるって聞いたよ。身の危険を感じてここに連れて来られたんじゃないの?」
(そうだった……)
我が家のボス猫が脳裏によみがえった。全身黒くて目が鋭くて、身体も態度の大きさも比べ物にならない古参猫。
低く唸る鳴き声は、新参者である私への敵意がこもっていた。思い出すだけで身震いする。
「ここにいたほうが絶対に安全だと思うけど」
「で、でも、ここにいても心臓がもたないと思うんです」
「心臓?」
「オルランド様のお世話になると思うと、緊張してしまって……」
恥を忍んで訴えると……オルランド様は胸を抑え、一瞬だけ口を食いしばった。すぐにいつもの笑顔が戻ったけれど、今のは幻だったんだろうか。
「可愛いね、本当に」
「え?」
「なんでもないよ。とりあえずロミナはご飯を食べよう? お腹が鳴っていたようだから、夕食を持ってきたんだ」
オルランド様はそう言って、焼き魚を私の目の前に差し出した。良い香りの正体はこれだったのか。
美味しそうな焼き目のついたお魚が、高そうなお皿にちょんと盛り付けられている。美しい彫りのあるお皿だ。猫に出していいお皿ではないような気がする。
……と、それよりも。
「私……お腹鳴ってましたか」
「寝てるあいだに聞こえたんだよ」
「寝てるあいだ……オルランド様は、そばにいらっしゃったんですか」
「俺が抱っこしていたんだよ」
「ひ……っ!」
目眩がする。
あまりの衝撃に気絶を繰り返すところだったけど、ここで気絶しては本日二回目だ。ギリギリのところで踏みとどまった。
どうやら私は、オルランド様に抱えられたまま気を失っていたらしい。しかもそのまま寝てしまい、腕の中でお腹をぐーぐー鳴らすという体たらく。令嬢の風上にもおけない。
「も、申し訳ありません……私、オルランド様の前でそんなはしたない真似を……」
「気にしなくていいのに、猫なんだから」
「で、でも」
「俺は本当に君を飼いたいと思ったんだ。だからこうしてロミナがいてくれて嬉しいよ。ほら、あーん」
オルランド様によって細かくほぐされた魚が、スプーンに乗って私の前へ差し出される。
目が点になった。これはどういう……?
「オルランド様?」
「猫の手だと、フォークもナイフも使えないでしょ?」
「で、ですが……」
まさか……オルランド様から“あーん”される日がくるなんて。
(え、え……? どうしたらいい……!?)
私の脳内は「無理無理」と全力で後ずさりをしているけれど、猫のままではフォークもナイフも使えない。それはおっしゃる通りなのだった。
これでも私は伯爵令嬢。令嬢のはしくれ。皿に口をつけて食べるなんて、オルランド様の前でそんなこと出来そうにない。となると、食事そのものが出来ないのだ。
空腹とプライドと、羞恥心と……私が葛藤と戦っている間にも、オルランド様のスプーンが私の口元へと近付いてくる。
ああ、お魚いい匂い。
オルランド様、なぜかとっても楽しそう……
その誘惑に耐えきれず、私はぱくりと食いついた。
口の中にひろがる、ふわふわで香ばしい味わい。
魚、美味し過ぎる……涙が出そう。
「美味しい……」
「よかった。ロミナ、もっと食べて?」
私は負けた。
空腹と、機嫌のいいオルランド様に。




