良い話と悪い話
シェリーさんと心を通わせ、満たされた翌日。
私は再び怒りに震えていた。
クルス侯爵家に、兄フェリックスが現れたからだ。
私を猫に変えた張本人。にも関わらず、さっさと一人で帰ってしまった無責任な兄。
ご機嫌取りのつもりだろうか、手には私の大好きな焼き菓子店の箱をぶら下げている。猫だと食べられないでしょうが!
「ロミナどうだい、調子は」
「よくも私の前に顔が出せたわね」
「まあそんな怒らずに。ずいぶんとクルス侯爵家に馴染んだみたいじゃないか」
こちらが怒っていてもお構いなしで、お兄様は「オルランドいない?」とオルランド様の姿を探している。
「オルランド様は任務でお留守よ」
「そうか……いないのか」
「なにか御用があったの?」
「そうだな……オルランドも交えて、と思ったんだが」
いつも空気を読まず言いたい放題言う兄が、今日は珍しく歯切れが悪い。なにか……不味いことでもあったのだろうか。
「実は、良い話と悪い話を持ってきたんだ。どちらから聞きたい?」
ほらね。
「うーん……私はどちらも聞きたくないかも」
「なぜだ? 良い話もあるぞ」
「お兄様の“良い話”って、だいたいろくでもない話なんだもの」
兄は不都合な話を切り出す時、決まってこういう言い方をする。そして良い話は大抵悪い話のオマケのようなもので、しょうもないことが多い。
きっと今日も“悪い話”がメインなのだ。オルランド様を探していたお兄様の態度がそれを物語っている。有能な第三者として、オルランド様を頼りたかったのだろう。
「お兄様が伝えに来たのは悪い話なんでしょ? なら、まず良い話から聞くわ」
「そうか! では良い話なんだが……実は昨日、アレグレー子爵夫妻が謝罪にやって来たぞ」
「え? セシリオじゃなくて?」
「あいつは屋敷に謹慎中ということだ。夫妻だけが頭を下げに来た。ロミナに直接謝りたいと」
兄の話によると、セシリオ本人から婚約解消の話を持ちかけられたアレグレー子爵夫妻は、事の顛末をその時初めて知ったらしい。
息子に婚約者以外の浮気相手がいたことも、学園で勝手に婚約解消を叫んだことも、それが学園で騒ぎになっていたことも知らなかったようだ。
私が学園を休んでいるという話も合わせて聞き、あわててモントン伯爵家に詫びを入れに来たとのことだ。まあ、私が学園を休んでいるのは猫になってしまったせいなのだけど。
というか、やっぱり全然“良い話”なんかじゃなかったな。
「『馬鹿な息子が申し訳なかった』と、何度も謝っていたぞ。本当はロミナに会いたかったようだが」
「そんな……もういいんだけど。婚約解消するんだし」
アレグレー子爵夫妻の謝罪を受けたところで、気持ちは何も変わらない。セシリオには未練もないし、婚約解消できるならそれでいい。
「それがそうもいかなくてな」
ああ、次は“悪い話”だわ。胸の奥がざわざわする。
今日、兄はわざわざこの話を伝えにやって来たのだ。
「子爵夫妻としては、謝罪するから婚約解消は無しにして欲しいと」
「え!?」
「息子の戯れ言として、今回は大目に見てもらえないかと言ってきた」
「戯れ言……? あんな、公衆の面前で叫んでおいて?」
空いた口が塞がらない。戯れ言だなんて……
それ以前に、セシリオはリディアにご執心だ。学園でも二人の仲は公認のようなものだし、きっと今だって関係は続いている。だったらリディアと結婚すればいいのに。
あんな風に私を辱めておいて『やっぱりあれは無かったことに』なんて、私としては納得出来ない。あのせいで卒業試験も失敗したんだし。
「お父様とお母様は、なんて言ってるの?」
「アレグレー子爵夫妻が直接頭を下げに来たからな……建前上はロミナの意志を優先させると言って保留にしているが」
「セシリオ本人は?」
「……ロミナとの婚約継続に、渋々だが同意したと」
「はぁ!?」
はぁーー!?
「私はセシリオとの婚約なんて望んでないのよ!? 同意されても迷惑なの! リディアのこと叫ぶくらい好きなのなら、その意志を貫きなさいよ!」
怒りで腹の底が煮えたぎり、頭が今にも噴火してしまいそうだ。
「頭きたわ……」
「そうだろうな、お前はそうなるだろうと思った」
「お父様達には、絶対に婚約解消して下さいとお伝えして。じゃあねお兄様」
「伝えるが……おい、どこへ行くつもりだ?」
「セシリオにはひとこと言わないと気が済まないの!」
「ロミナ!」
私は怒りのままに屋敷を飛び出した。
お兄様やシェリーさん達の制止も振り切って。
「気が済まないって――分かってるか、おまえ猫だぞ!」
私は忘れていた。
今、自分が猫であるということを。