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バレンタイン、朱里奮闘記、下

 空気に不透明なものが混じったのは、さらに五分ほど下った辺りだった。

「ちょっとストップぅぅぅぅぅぅ!!!!」

 しかし朱里はしばらく止まらない。再三「止まれ」だの「ブレーキ」だのと叫んでいたから、その類かと思ったのだ。実際、峠道はまだまだ尽きず、片方、山の斜面、もう片方、崖な坂道が続いた山の中腹である。

 櫻花はしばらくわめいていたが、

「鬼がいるから止まってぇぇぇぇ!!!」

「え?」

 その言葉でようやく車は急減速をした。

「うぎゃぁぁぁぁぁ!!!! 止まるなぁぁぁぁ!!!!」

「どっちなんですか……」

 しかし、長いタイヤ痕を残して止まった車の二メートル先に、何かがどさりと落ちてくる。朱里の目にはそれが赤い何かにしか見えなかったが、櫻花は車から飛び出すとすぐに懐から何かを取り出して投げつけた。それは空へ向かって鋭角に飛翔し、まるで風船のように膨れ上がり、落ちてきたもう一つの何かを包み込む。

 が、そのまま櫻花は白目をむいて崩れ落ちた。いろんなGにもまれた彼女は急に地上に降り立ったショックでブラックアウトしてしまったらしい。


「ひゃ!!」

 遅れて降りてきた朱里が小さな悲鳴を上げた。

 赤く見えたものは巫女の緋袴だ。どこから落ちてきたのか分からないが、アスファルトに叩きつけられた若い巫女はピクリとも動かない。

「だ、大丈夫ですか!?」

 駆け寄る朱里と、フワリと軟着陸する風船のような何か。白いそれに受け止められたのやはり巫女のようで、こちらはすぐに飛び起きた。

 朱里を見て言う。

「助かった」

「え?」

「式神札投げてくれたのあなたでしょ? あんなの一瞬で具現できるなら相当のレベルよね?」

「え、あの……」

「鬼は四匹。一匹倒したけど一匹強いわ。加勢よろしく」

「えーーー!? わたしが!?」

「くるわよ!!」

 続いて落ちてくる黒い影。きりもみしながら落ちてきて、派手な音を立てて転がれば、朱里にはその存在が何か分かった。

「架沓師さん!!」

 大きな木箱を背負っていた彼はその木箱がクッションとなる。接地とともにそれがバラバラに砕け、中の札やお守りが散乱したが、バウンドするように投げ出された彼は、うめき声を上げながらも動いていた。

 さらにそれを追うように落ちてくる三体。こちらは意図して飛び降りてきたようで、確かな足取りで着地をした。

 その容姿は、おおよそ人間とは乖離した鬼のものだ。硬そうな頭蓋骨からは二つの角が生えており、身体もところどころが硬い皮膜に覆われていて出っ張っている。体の比率から言って腕が人間よりも長く、丸太のように太い。彼らは武器を持ってはいなそうだが、和服のように袂の大きな服装を身につけているその姿はいかにも魁偉であった。朱里が鬼を見たのは一度ではないものの、突如間近に現れた魍魎に身じろぐ。

「ぐぇぇへへ」

 人間とは言葉が違うのか、ただ嗤っているのか……。鬼は人間では理解できない単音でうなる。

 朱里に声をかけた長身の巫女は言った。

「一番強いのは任せて。後はお願いね」

「ええええええーーーーーーーー!!!」

 朱里の反応もみずに大地を蹴って真ん中の鬼に向かう巫女。その細い身体を捕らえるべく伸ばされた鬼の腕を軽快にかわし左に飛ぶと、横薙ぎに豆を投げた。

が、鬼もそれを予測していたかのように身を翻し、袂を巧みに操ると豆を叩き落とす。

 どうやらあの服装は豆を防ぐためのものらしい。豆はまるで散弾銃のように角度を変えて襲い掛かったが、それをすべて空しくすると彼女の方へ躍り出た。

 鬼の腕はすぐに彼女の制空権を侵して肉薄したが、娘は一歩も引かず右腕の袂に隠し持っていた札をかざす。

「ぐぁ!」

まばゆい光が鬼の目を焼き、攻撃に一瞬の空白が生まれる。その光は札を伝って鬼を包み、彼女は峠道の奥へと走った。光が札と鬼を細く繋ぎ、伸びてゆく。

「よいしょぉ!!!」

 彼女はそれを、まるで縄のように引いた。光がピンと張り、鬼はたずなを引かれた馬のようぐっと引き寄せられる感覚を覚え、身体をもがく。一瞬苦しそうな表情を見せたが、それを怒りの形相に変え、引っ張られた勢いを利用して巫女へ飛び掛った。


 朱里からしてみると、それによって目の前の鬼が一体消えたことになる。手並み鮮やかに距離をとられてしまった残りの鬼たちは一瞬キョロキョロと巫女を探したが、やがて手近にいる朱里にその注意が向いた。

「ちょ……まって……」

 朱里は今、武器も豆も何も持っていない。散乱している札やお守りが役に立つのかもしれないが、その使い方を知ることもなく、もちろん武術や喧嘩の心得もない。

 後ずさるしか、ない。

「わたしは……敵じゃないです」

 通じるはずのない言葉をつぶやきながら、じりじりと近寄ってくる青面の鬼たちから逃れようとする。やがて、片割れが口を開いた。

「ぐ……ワタシ、スコシニンゲンノコトバ、シャベレマス」

「へ……?」

 立ち止まる朱里。サイのような骨格から日本語が飛び出したことに驚く。

「スコシオベンキョウシマシタ。ツウジマスカ……?」

「つ……通じます。わかります!」

「スコシオハナシシマショウ」

「あ……はい……」

 武骨な容姿に似合わぬ丁寧な口調だ。なにを言い出すのか見当もつかないが、これ幸いと朱里が叫んだ。

「あの! わたしは戦いに来たんじゃないんです! だから許してください!」

「ハイ、ユルシマス」

「え?」

 意外すぎる展開だ。言った朱里の方が耳を疑ってしまう。

「許して……くれるんですか?」

「ユルシマス」

「ありがとうございます!」

 ぶんっと頭を下げる朱里。鬼は一つも表情を変えずに言った。

「ユルシマスカラ、タベテイイデスカ?」

「え? なにを?」

「アナタヲデス。オナカスキマシタ」

「は!?」

「ユルスノデ、ワタシガアタマカラムネマデ、コイツガ……」

 隣の鬼を指差す。

「オナカカラアシマデ、タベタイデス」

「ええええーーーーーー!!!」

 今まで後ずさってなかった分をすべて取り戻すように全力で後ずさる朱里。背中が車にぶつかった。

「ワタシ、アナタユルス。アナタ、タベラレル……コウカンジョウケン」

「それ、許してないですーーーーー!!!!!」

「エ?」

 交換条件の意味が分かっているのだろうか。朱里に不安がよぎるが、この場は交渉を持って切り抜けるしか彼女に手段はない。

「助けてください!」

「タスケマス」

「お願いします!!!」

「タスケマスカラ、タベテイイデスカ?」

「意味分かってますかーーーーー!!?」

「エ?」

 朱里は必死になって自分の胸に手を当てた。

「食べられちゃう! わたし死んじゃう! それダメ!!」

 なぜか片言になっている。しかしそれが通じた(?)ようだ。

 鬼はなぜか納得したように「おうおうおう」とうなずくと言った。

「シンジャウ、ダメ、ワカリマシタ」

「あぁ……」

 言葉にもならず、ほっと胸をなでおろす朱里。話の分かる鬼でよかった。

「ジャア、ワタシガミギウデ、コイツガヒダリウデヲ、タベタイデス」

「わかってないーーーーーー!!!!!」

「エ?」

 いや、分かってるのかもしれない。確かに腕だけなら死なないかもしれない。いやしかし、鬼に譲ってもらいたい場所はそこではない。

「食べる! だめ! わたし! おいしくない!!」

「イヤ、ゼッタイオイシイ」

「おいしくないーーーー!!!」

 鬼が一歩近づいてくれば、それだけ朱里の頭から血の気が引いていく。朱里はそれ以上後退できない恐怖に、背筋を凍らせていた。

「まってまってまってまって!!」

「マツ」

「……」

 話の分かる鬼ではある。話の意味は分かっていないが。

「ほかにないですか!? わたしを食べる以外の交換条件!!」

「ム……」

 腕組みをする鬼。何かを考えているようだ。

「ムゥーー……」

 この間に何かできることはないだろうか。しかし、ヘタな動きをすれば途端に襲い掛かってくるに違いない。

 鬼はやがて、一つの提案を思いついたようだった。

「ワタシタチノ、コドモツクッテクダサイ」

「は!?」

「オニ、メス、イマセン。オニノナカマフヤスノハ、ムズカシイ」

「すっごいいっぱいたじゃないですかーーー!!」

 節分の時の鬼の数。何度絶望しかけたことか。

「ニンゲン、ナンオクニンモ、イマス。オニ、イチマンニン、イマセン」

 節分でなぜ巫女ばかりが神社を護るか……。実はここには日本古来の知恵というか、鬼との暗黙の了解がある。

 先ほど鬼自身が述べたとおり、鬼は個体での繁殖能力がない。苗床として人間の女を用いてきたのだが、彼らは基本的に黄泉比良坂が開かれる節分にしか現世に現れることができないため、繁殖もその時に限られることになる。

 その際、出入り口を女で固めておくことによって、彼らの街への拡散を減らし、被害を最小限に抑えることを、日本の民は古来より行ってきている。鬼もそれを水面下で了解し、戦いを神社に絞って、それを突破するまでは街に漏れることなく、彼らの欲望を満たしていた。

 つまり、節分の神社の攻防戦は、現代にも残る人身御供の一種なのである。

「ワタシ、アナタユルス、アナタ、コドモツクル。アナタシナナイ。ワタシアタマイイ」

「ええええーーーーーーー!!!!」

 なんとなくその通りではあるのだが、だからといって絶対に容認できない。

「ほか!! 他はないですか!?」

「アナタワガママ」

「え……?」

「ユルス、コウカンジョウケン、アレモダメ、コレモダメ。ワガママ……」

「だってぇ……」

「ココラデ、テヲウッテオイタホウガ、イイデス」

 なぜか鬼に諭されている朱里。そもそもが理不尽なのだが、その上で論破する術を持たない。

「キョヒスレバ、チカラズクデス」

「ひっ……」

「やめろ……」

 その時だ。朱里と鬼の間に立ちはだかった男がいる。

「架沓師さん!」

 架沓師、榊である。しかし彼は全身を地面にしたたかに打ちつけており、満身創痍の状態だ。朱里の盾になるその姿はいかにも頼りなく、屈強な鬼たちに立ち向かえそうもない。

「オトコハジャマデス」

 おもむろに距離を詰める鬼に対して榊は腰を低くして身構えたが、案の定なす術もなく、鬼の右腕に振り払われた。電信柱をバットにして振り回したようなものだ。男はそれこそ野球ボールのように弾かれて、切り立った山の斜面に叩きつけられる。

「いやああああああああ!!!!」

 朱里は、今起きてる現実に冗談が通じないことを、今さらながらに痛感した。

 先ほどアスファルトに叩きつけられた巫女も死んでいた。今の勢いで叩きつけられて、命があろうはずもない。そんな絶望に、朱里は腰の力が抜けてゆく。

「オット、タオレテシマイマスヨ」

 それを、優しく抱え起こしてくれる鬼。そして言う。

「サア、エランデクダサイ。タベラレルカ、コドモヲツクルカ」

「ひ……」

「ソシタラ、ユルシマス」

「ええええ…………」

 朱里は今、混乱してわけの分からなくなった頭で、必死に今の状況を理解しようとしていた。

 鬼が人間を食べる時はどう食べられるのだろう。生きているままなのか料理されるのか……鬼との行為はどれだけおぞましいのか……正気を保っていられるのか……。

 ……どんな未来を思い描いても、沸き上がる感情は恐怖しかない。

 が、同時に、いずれも受け入れない未来を想像できる状況にないことも理解できた。

 鬼が、自分の腕をつかんでいる。その角度を少し変えるだけで、自分の腕は小枝が折れるような音を発するのだろう。今しがた見せ付けられたあまりに簡単な死が、自分の死をも目前にあることを物語っている。死にたくない。絶対に死にたくない。

 しかし残された手段は、女として思いつく限り最大の不幸だった。

「……」

 気がつけば、朱里の身体はぶるぶると震えていた。今にも気絶してしまいそうなほどの精神的圧迫だったが、握られた腕に鬼の脈を感じて我に返る。

 やがて……、

「こ……」

 ほとんど口も開かないくぐもった声が朱里から漏れる。

「こどもは……どうしたら……いいですか……?」

 彼女は、恐怖をほんの少しだけ先送りにする言葉を発した。生きたまま腕をもがれる恐怖を考えると、食べてくださいとは絶対に言えなかった。

「ツクリカタ、シリマセンカ?」

「……」

 朱里はしばらく沈黙した後「……ここで……?」つぶやく。すると鬼は表情も変えずに言った。

「ドコカトオクヘイキマスカ?」

「いえ」

 即答する。そんなことを認めたらどこに連れて行かれるか分からない。ここなら……まだ帰れる可能性がある。

「ここで……お願いします……」

「ワカリマシタ」

 鬼の手が袴にかかる。

「まって!」

 その手を制し、鬼を見上げる朱里。

「自分で脱ぎます。手を、離してください……」

「ワカリマシタ」

 紳士的な鬼だ……とすら思いながら、彼女は袴の帯をゆっくりと解き始めた。


「よく時間を稼いだね」

 しかしその時、鬼とは別種の声が、鬼の背中からした。次の瞬間、しゃべってなかった方の鬼の身体が中空へ舞い上がる。そのまま懐から一枚の札を取り出すと、その札を両手で勢いよく切り裂いた。

「うぎゃあああおうううう!!!!!」

 打ちあがった鬼がその札と同じ形に"切れ"る。地面に落ちてきた頃には上半身と下半身が分離してアスファルトに飛び散った。

「ゴメンね朱里。まさか気を失うとは思わなかったわ」

 笑顔。美人ではないが笑うととてもかわいらしい。

 ……そこに立っていたのは神楽神社の戦巫女、櫻花だった。

「さ……」

 朱里は一文字だけ声を上げて、その後は言葉にもならない。代わりに櫻花が鬼を睨みつけて言う。

「悪いけど、その子の処女はあたしが予約してんのよ。横取りしないで」

 普段なら「えええええええええーーーーー!」という朱里の声が聞こえてきそうな台詞を吐いて櫻花は続けた。

「朱里のパンツ見た罪は重いわよ? 覚悟しなさいね」

 彼女の体勢がぐっと低くなる。その手には袂から取り出した豆が一杯に握られていた。


「大丈夫? 朱里」

「櫻花さぁぁぁぁぁぁん……」

「よしよし、怖かったね」

 ……戦闘シーンはどこかとクレームが来そうだが、描写するまでもないほど、櫻花と鬼の実力差は歴然としていた。すでに鬼は巫女たちの隣で絶命し、袴の落ちた朱里をやわらかく抱きしめて頭をなでている櫻花がいる。

「あんな鬼に従っちゃダメだよ」

「だってぇ……」

「そりゃあね、自己繁殖できない鬼は人間の女を求めるけど、だからってこっちもおめおめと鬼の子孕むわけにはいかないのよ」

 タンスの洋服を虫に食われるわけにいかないのと同じだよ……と、櫻花はよく分からない例を挙げて、また朱里の頭をなでた。

「なんだ。櫻花、いるんじゃないの」

 先ほど鬼を吊り上げて、向こうで戦っていた長身の巫女も戻ってくる。まぁ、勝ったのだろう。

「うん、ゴメンねぇ。ちょっといろいろあって気を失ってた」

「罰金として神楽神社の賽銭ちょうだい」

「……いっとくけど、初めにアンタが落ちてきたのを助けたの、あたしだから」

「あれ? そっちのお嬢さんじゃないの?」

「んなわけないでしょ。まだ見習いだよ、朱里は」

「ああ、そうなの? 私は泉水いずみ神社のさざなみ、よろしくね」

「あ……はい、朱里です」

「ところでなんで朱里さんは袴下ろしてんの? 鬼相手に売春?」

「ちがいますっ!!」

 それより!……と、朱里は別のことを思い出した。

「架沓師さんは?」

「あ、そうだった。忘れてた」

 櫻花が小走りに彼の元に向かう。その間、朱里は急いで袴を履くと、帯を乱暴に結んでいた。

 そして遅ればせに駆け寄る。が、架沓師の元に着いた時には、櫻花が静かに首を振っていた。

「まぁ、この人自体は戦えるわけじゃないからね……」

「……」

 普通に生きてきた大学生の朱里にとって、人の死などというものは分かっているようで実感がわかない。知らぬ仲ではないが、死を間近に見て、泣き叫ぶような関係でもない。 どのような表情を浮かべたらいいのかわからなかった。

「アンタ、そういやこの人にチョコあげるつもりだったよね」

「……はい」

「せっかく朱里がチョコあげようってのに死んじゃうなんてこの男は……」

 無茶を言う。漣が遅れてやってきて言った。

「まだこの辺うろうろしてるんじゃないの?」

「あぁ、そうかもね」

 櫻花が朱里を見る。

「せっかくだからちょっと話したい?」

「え……?」

「巫女はね。死者の魂を自分に憑依させて話させることができるんだよ」

「……」

 そんなことをさらっと言われてもぴんとこない。

「バーンシュタインなんでしょ? 二度と会えないよ?」

「……」

「チョコ持ってきた?」

「……はい。袂に入りっぱなしです」

「じゃあ、ちょっと話しなよ」

 櫻花が空を見上げる。懐から勾玉を取り出して、穴の開いてる部分を覗き込んだ。

「あ、いたいた。おいで。さかき君」

 どうやらあの架沓師は榊というらしい。地文では紹介したが、朱里自身は初めてその名を聞いた。思えば、名前も知らない人に、死後、チョコを渡したかったことを言おうとしている自分……という、なんともおかしな状況だ。

 やがて、文を唱える櫻花の声に、野太い声が混ざっていく。朱里の方を振り向いた櫻花の目は半分閉じられているが、巫女にしてみればその状態こそ、まさに死者の魂をもやいでいる状態に他ならなかった。

「あ、ども。先ほどは……」

 どう考えても櫻花が発さなそうな歯切れのいい男言葉が漏れ出す。

「スミマセン、こんにちは……」

 朱里はそれにどう対処していいのかわからない。

「無事でよかったっす」

「あ……」

 そうだった。この男は自分を助けてくれようとしたのだ。

「ごめんなさい……わたしのために……死んじゃって……」

「いやぁ、なんだか死の実感ってないんすよーー。だから平気っす……とは言えないっすけど、とにかく……えと、無事でなによりっす」

「ありがとうございました……」

「まぁ、来年はまた別の架沓師が札とお守り届けにくると思うんで」

「……」

 容姿が櫻花なのでなんとなく実感がわかないが、話しているのは確かにあの架沓師だ。

 彼は死んだ。これが現世での最後の会話になるかもしれないのに、こんな無為な時間を過ごさせていいのだろうか。

「あの……なにか、話しておきたいことはありませんか?」

「話しておきたいこと……うーん、なんだろう。そだなー、あ……」

 目が半開きなのにやけに軽快に櫻花の身体が動く。

「今日はバレンタインじゃないすかー。思えば生まれてこの方一度もチョコももらわない人生だったなー」

「……」

 それが遺言でいいのか。

「榊さんは今からいなくなっちゃうんですよ? もっとちゃんと話したいことを話してください!」

「うーん……」

 朱里にたしなめられ、腕を組む榊。

「思いつかないな……」

「……」

 死を迎えることを、死を迎えるまで気づかなかった人の死は、こんなものなのかもしれない。

「自分、あんま物考えるのニガテなんで……」

「……」

 朱里は、ようやく袂に手を入れた。赤い包み、白い箱、中にはハート型のチョコが、ハート型に敷き詰められている。それを、櫻花の榊に見えるように両手に乗せた。

「これ……わたし、榊さんに渡そうと思ってました」

「え……?」

「バレンタイン……」

「……」

「どうぞ」

 おそるおそる渡し、おそるおそる受け取る。二人のぎこちなさがこの場に長い沈黙を呼ぶ。

「……これで、一度もチョコをもらわない人生じゃなくなりましたよね……」

「義理でもうれしっす」

「義理じゃないです!」

「え?」

「……」

 でも、本命でもない。彼女にとっては、これがなにかの始まりかもしれないチョコレートだった。

「好き……とか、まだ分からないけど……渡したかったんです」

「……ははっ」

 彼が、笑う。さびしそうに。目を泳がせて……。

 ひょっとすれば、彼女が意図するこのチョコレートの意味を察したのかもしれない。……声だけは笑ったまま、おどけたように頭を掻いた。

「せっかくチョコもらったのに……死んじゃったナァ……俺……」

 口が、わなわなと震えてくる。涙をこらえているようだった。そして朱里に頭を下げた。

「ありがとう、ございました」

 ……それっきり、彼の気配が彼女に届くことはなくなった。


「どうだった? ちゃんと話せた?」

 いつもの櫻花の調子に櫻花が戻れば、朱里は静かに櫻花に抱きついた。そしてほんの少しだけ泣き、彼女の元を離れる。漣がそれを待って口を開いた。

「警察には私が立ち会うから、二人は帰っていいよ」

「悪いね」

 櫻花が軽く礼を言うと、

「悪いと思ったら神楽神社の賽銭ちょうだいね」

「……いっとくけど、あたしら間に合わなかったら、苗床になってたの、アンタなんだからね」

「次回は同じ台詞を櫻花にプレゼントしてあげる」

「次回……」

 二人の会話を聞きながら、朱里はその言葉を呆然と聞いていた。それに二人は反応して振り返る。

「なににしても朱里。今回はアンタがお手柄だよ。あたしだけじゃ、誰も助からなかったからね」

「どういうことなの?」

 漣が説明を求めると、

「この、「虫も殺せません」みたいな顔してる娘が、実は公道の中島悟だったってことよ」

 昭和臭漂う例を挙げる櫻花。そのまま自分の車を見て、これに気絶させられた事実を思い出す。

「アンタ、レーサーになった方がいいんじゃないの?」

「そっち目指してもいいですか?」

 この現実から逃れたい朱里が、思う以上に話に乗ったので櫻花が珍しく慌てた。

「あ、いや、レーサーなんて向いてないと思う。巫女に向いてると思う」

「だってわたし、巫女になってからいっつもヒドい目に遭ってる気がします……」

「それはしかたないよ」

「え?」

 朱里は、ハトが豆鉄砲食らったような顔をした。櫻花には何か確証めいたことがあるというのか。

「なんかね、萌えをウィキペディアで調べると『架空のキャラクターに対する「萌え」には性的興奮の意味合いが含まれることもある』って書いてあんのよ。だからこの話のテーマは『朱里が如何にひどい目に遭うか』ってことなんだと思う」

「どんな事情ですかぁぁぁぁぁ!!!!!」

「だからぁ、アンタが出てくる=ひどい目に遭うってことよ。巫女とか関係なく」

「ひ……ひどい……」

「世が世ならアイドルだって全然いけるルックスなのにねぇ……カワイソ」

「軽いーーーー!!!!」

 ともかくさ……櫻花がウィンクをする。

「同じひどい目に遭うなら、助けてあげられるあたしがいるだけマシだと思わない?」

「……」

「いいじゃん、まだ、袴下ろしたくらいでしょ? 考えてもみなさいよ。この話が十八禁じゃないって言ったって、『ボロゾーキンみたいにされて、鬼の体液まみれの中、朱里の胎内では新たな生命が静かに鼓動を始めました』……くらいのことは簡単に描けちゃうんだよ?」

「……」

「それに泉水神社の見習い巫女なんて登場と同時に死んでんだよ?……それを思えばアンタなんてまだまだ大事にされてる方だと思わなきゃ」

「さっきから変な内部事情話さないでください!」

「巫女は潮来いたこにもなれるのよ。あたしにはいつでも作者の魂宿るんだから」

「……」

そんな世界にいる自分が心底嫌になる。

「だから、がんばろうよ。アンタはちょっと戦えるようになってもいいよね。今度は一緒に鬼を倒せるようにもなろうね。あ、そうそう」

 櫻花はさっき朱里に渡された高級チョコを見せて微笑んだ。

「これはあたしにくれたんだよね。食べたかったんだこれ。アリガト」

「え……ちが……」

 そのまま袂にしまわれていくチョコを唖然と見送る朱里の、今年のバレンタインは終わった。


 彼女が報われる日は、はたして来るのだろうか?

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