お正月、弓之江の儀、ご多幸祈る、下
午後三時。
弓之江の儀がこの時間に決められているのは、参道に降り注ぐ日の光が射手の邪魔をしない場所まで移動するからだ。馬を受け取ったのが昼時だから、二時間ちょっと練習できたわけだが、朱里の才能の壮絶さに、さすがの櫻花も苦笑いが止まらない。
巫女神楽をあれほど巧みに舞い、自動車の運転にかけては曲芸師のようなのに、矢を射る才能は幼児以下だ。
しかし、朱里は泣きそうになりながらも練習を続けた。それがけなげで、「やっぱりやめようか」とはさすがの櫻花も言えなかった。
「大丈夫。"事実は小説より奇なり"だよ。これで、アンタが当てる偶然を、きっと誰もが知ってるから」
変な励ましだが、それ以上の言葉がかけられないほどに、朱里のセンスのなさは有無も言わせない。
……長く続く参道にはすでに柵が設けられ、長細い八十メートルの敷地の周りを、モーゼの描いた割れた海の如く、見物客たちが脇で猛っている。
それらの視線が注がれる先に……朱里を乗せた"大五郎"が悠然と姿を現した。櫻花に引かれ、射位につく朱里の姿は顔の良さも手伝って、見る者の魂を揺さぶったが、本人はといえば、観衆の熱気に揺さぶられすぎて、逆に魂が抜けていた。
「しっかりね。朱里」
励ます櫻花も、さすがに今回は成算がない。万一矢が人間のほうに向かった際は、式神を使って矢を叩き落とそう。そのタイミングは一瞬の予断も許さず、彼女も彼女でただならぬ緊張感を纏っていた。
……ところで、朱里が緊張している原因は見物人の数だけではない。
時間を迎えて、いざ馬に乗ろうと準備をした際、ふと、戦場へ向かうような面持ちの朱里を呼び止めた影があった。
「がんばってください!」
子供。いや、子供といっても、朱里とそこまで年齢に差はない。
「僕、今年高校受験なんです。兄ちゃんが三年前、マトに当たった矢を見て勇気もらって……それで合格しました! だから当ててくれたら僕も合格できます! なので、よろしくおねがいします!!」
ぺこりと深く頭を下げる男子中学生。朱里はうなずくしかない。
「気にしなくていいよ」
彼が去ってから櫻花が言う。
「ここで朱里が外したから受験に失敗するなら、当たったって失敗するよ。縁起に頼るのはいいけど、それにもたれかかっちゃいけない。うまくいかない時、それのせいにするようじゃ、甘えもいいとこだわ」
「……」
そうは言われても、朱里だって、占いとかおまじないとか大好きな女子なのだ。彼が縁起にすがりたい気持ちはよくわかる。
何とかしてあげたい……そういう気持ちが、彼女をなおさら地蔵のようにさせていた。
「がんばってね。大丈夫。先代の射手の命中率は半分切ってたから」
実際、仕損じると人に当たる可能性が出てくるから、気後れが生じる。そんな状態ではなおさら命中率は落ちてしまうのは道理だろう。もっとも朱里の場合、それ以前に矢がまともに飛ぶのかということの方が問題なのだが。
馬脚をめぐらし、的に対して、やや斜め右を向く大五郎。弓を射るならその角度が一番射やすいので、櫻花が操作した。
緋袴の巫女衣装に漆黒の弓が映えて、外見上は八百万の意思が遣わした神明の如くりりしい。緊張した面持ちが、まるで他国に攻め入った夫に代わって城を護ることを決意した姫君のようで、見てる者たちの期待はさらに高まった。
それがなおさら……彼女の心を締め上げている。下手な矢は迅らせられない。血が引いて真っ青の顔で、朱里は八十メートル先の的を見た。
的は扇ではなく、板だ。杉の八分板であり、八十メートルもの曲線を描いてきた矢が当たれば、刃引きされた矢でも、板は間違いなく飛散し乾いた音を響かせる。それを盛大な拍手で掻き消してゆくのが、この神事の醍醐味であった。
ちなみに八十メートルも離れると、三十センチ四方の板は点にしか見えない。馬上から見ればなお、命中の困難さが実感できた。
(むり……)
やめといた方が、謝ってしまった方がまだ、神楽神社の名を汚さずに済むんじゃないだろうか。朱里は唇を噛み締めながら、今まで握ったこともない弓を握り締めて震えた。
が、的から目をそらしたその先に、ふと先ほどの中学生が映る。
彼は朱里を見上げて、目を輝かせている。それがいたたまれない。
(わたしなんかに……)
どれほどの期待を寄せているんだろう。本当に当たるとでも思っているんだろうか。
当ててあげたい……櫻花の言う通り、受験とは関係あるまい。でも、こんなことで勇気を得ようとしてくれているのだ。
裏舞台も知らず、ただの素人である自分に運命を賭けて、彼は試験会場へ向かうのだろう。
当てたい。当ててあげたい。身の程知らずの願いでも、彼女は今、本気で他人のための成功を、この正月に願った。
『やれやれ……』
声がした。その声の異質に、ふっと朱里は顔を上げる。
『当てたもう。拙者の力を貸す』
誰もいない。斜め下には遠く的を臨む櫻花。遠くまでずっと……的への花道のような無数の観衆。しかし、それらどの声とも異質の、耳の中に直接響く声が、朱里の頭脳に再びの血の流れを与えた。
『弓を上げよ。より上方……微々左じゃ』
何者だろう。いずれにしても朱里に否やはない。というより、拒否の出来ない巨大な意思につつまれているかのようだ。
『止めよ。弦を絞れ。そして拙者と共に唱えよ。そなたに神明の加護宿れば、矢は自ずと向かうべき場所へ向かいたもう』
朱里が漆黒の弓を引く。きりきりと抵抗力を増していく弦が、朱里の細腕を重く圧迫してくるが、奥歯を食いしばって引き続ける。そして流れてきた言葉を合わせて復唱した。
「南無八幡大菩薩! 我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神! 願わくば、あの目標の真ん中射させてたばせたまへ」
「え!?」
目が覚めたように朱里を見上げたのは櫻花。詠唱はさらに勢いを増す。
「……これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面を向かうべからず。今一度本国へ迎えんと思し召さば、この矢、外させたもうな!!」
「やばっ!!」
一息に言い尽くした朱里の言葉に呼吸を簿われ、懐の式神をまさぐるタイミングを逸する。矢が射ち放たれた刹那の後、ようやく一反木綿のような式神を追尾させありったけの声を上げた。
「式神追いつけぇぇーーー!!!」
その必死な形相に、何事かと目を向ける観衆の脇を、高速の矢と一反木綿が通り過ぎる中、櫻花は全神経を式神に集中した。
数え切れぬほどの鍛錬を重ね、精練された彼女は知っている。矢の軌道は目標に対して、やや上に逸れている。
外してもいいと思っていたし、まさか当たるとも思っていなかったが、事情が変わった。
「もっと急いで!!!!」
実際、飛翔する矢に対してたとえ刹那でもロスは痛い。わかっていながら櫻花は叫ぶのをやめない。
「急げーーー!!! 寿命でも何でもやるからいそげぇぇぇ!!!!」
速度の上がる一反木綿。しかし何かの無茶があるのか、尻尾の部分から発火し始めた。
飛距離は七十メートルに達し、いよいよ矢が的を飛び越えようとした時、一反木綿はほとんど燃え尽きながらも矢を追い越す。
「風はやむ儀、執り行いて御座候!!!」
それと前後して櫻花が印を結ぶ声がはじけ、式神は風を切り裂き燃え尽きる。その凝縮された爆風のエネルギーが矢尻を押し込んで、軌道を変えた。
針の如く研ぎ澄まされた圧力の高い風切り音は、板を鋭角に貫き、その向こうの石畳を粉砕して止まる。その際生じた渇木の音で、櫻花に気をとられていた見物客も、ようやく自分たちがなにを見に来たかを思い出した。
多くはその瞬間を見られなかったのだから、不平の声が飛び交うが、櫻花にはそれに関わる余裕がない。馬上の朱里に対して、一転その場に額づき、言った。
「確かに、当たりましたね? 朱里からお退きください。宗高様」
宗高は那須与一の別名である。櫻花は今、目の前に神楽神社の神明を迎えている。
朱里の目が紅く燃えた。彼女の声のまま、彼女ではない何かがしゃべりだす。
『拙者を愚弄するか。只今の命中は式神の力ありてこそ。かかる枉惑は到底捨て置けぬぞ』
「いいえ、そうではございませぬ。そもそも只今の射、朱里の力では絶対に的までは届きませんでした。不屈の意思を携えた努力の神、宗高様のご助力あってこそでしょう」
『然り』
「であれば、屋島での宗高様と同じではありませんか」
『ぬ?』
"屋島"とは、那須与一が例の伝説を残した戦場の名だ。
「宗高様が必中を願った際、挙げた神の名は単独ではござりますまい。さらば複数の神が分担し、命中へ導いたと考えるのが道理というものかと」
『ぬぅ……』
「同じことでございます。式神も八百万の神の力を用いたものにはかわりありませぬ。朱里は複数の神の力を得て見事弓之江を成功させた。……これを枉惑と申されては、屋島での射も不正ということになりまするが如何?」
『……』
「ご助力に多大なる感謝をいたします。本殿にお戻りください。後、お神酒をお持ちします」
『……』
与一と思われる神はしばらくの間、沈黙を保っていたが、やがて観念したかのように『……相分かった』と発し、気を消した。
それを境に、朱里の目から毒気が抜ける。目が覚めたかのように呆けて、キョロキョロと辺りを見回している彼女に、櫻花はやわらかい声をかけた。
「さ、戻ろう。朱里」
そのまま馬を引く手負いの巫女。喧騒覚めやらない弓之江の舞台を後にする二人であった。
「いや~~ごめんごめん。まさか与一様が宿っちゃうとは思わなかったわ」
社の裏、人気も途切れた場所で朱里を馬から下ろした櫻花は気まずそうに笑いながらぺこりと頭を下げた。
「何かあったんですか?」
「うん」
この様子だと、彼女にはほとんど意識はなかったらしい。
「アンタがあんまりに緊張しすぎて魂に隙を作っちゃったから、ウチの神様がのりうつっちゃったの、てへぺろ☆」
「そうだったんだ……」
いやしかし、あの"声"が耳に響いた後、朱里は自分でも驚くほどに落ち着くことができた。すべてのプレッシャーをかき消して、静かに、静かに弓を射ることのみに集中することができた。
「矢、当たってましたよね」
「あ、知ってるんだ」
「神様のおかげじゃないんですか?」
「おかげだね」
「じゃあ大丈夫です。よかった、当たってくれて……」
「大丈夫じゃないんだよ……」
先ほどの、櫻花の慌てようは知らないようだ。
「アンタ、あの時自分で叫んだ言葉の意味、わかってる?」
「いえ」
「もしさっきのを外してたら、アンタあそこで取り憑かれたまま自害するんだったんだよ?」
「へ……?」
空気が白んだ。ひょっとすれば朱里は自分で何を言ってたのかもあまり覚えていないのかもしれない。
「<これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面を向かうべからず>……これはそういうことなの」
「えええええーーーーーー!!!!」
「神楽神社の記録を見ると、今までもそれで何人か死んでる」
「え! でもでも! そのヨイチサマが射るんなら当たるんじゃないんですか!?」
「なら誰も自害してないはずよね?」
"ヨイチサマ"の性格なのだろう。おそらく彼は当てる力を貸すだけで、当たるかどうかは射手に委ねるのだ。屋島の戦いでも神の名を挙げつつ、力を借りただけで最終的には自分の実力で当てたという自負があったのではないだろうか。
だから、実際は朱里に射させた。あの矢は目標から逸れていた。
……自害、一直線である。
「さ・く・ら……さぁぁぁん……」
ようやく状況を理解した朱里が、ちょっと涙目で櫻花の袖にしがみつく。
「ごめんごめん、でもよかったよ。式神が間に合って」
朱里はもう一つ知らない。式神の構造をだ。
……あの時、櫻花は己の寿命を少し削って、朱里を救ったのである。が、櫻花はこれより先も、そのことを口にすることはない。
「良かったですぅ……」
「それにしても今回は本当に良くやってくれたね。はい。今日のお礼」
櫻花が懐から取り出す封筒。
「え!?」
中を開ければなんと、福沢諭吉が五人ですましているではないか!
「ええええええええええーーーーーーー!!!!!」
「ま、お正月だしね。たまには気持ちよくお話を終わらせるのもありじゃない? とも思った」
「さ、さっ……さくらさんが!!! わたしにお金をーーーー!!!!」
「コラコラ、いつも何もあげてないみたいじゃない」
いや、いつも何もあげてないから朱里はヒキツケを起こしそうになってるんじゃないだろうか。
「とにかくありがとう。今年もよろしくね。朱里」
「うきーーーーーーーー!!!」
「わあ!!! 朱里が狂ったぁぁ!!!」
……という声が、がばっと抱きついてきた朱里の歓声に消えた。
おまけ
「今日はもう一つだけやろ」
拝殿に戻った櫻花と朱里。
「もう一つ?」
「うん。お正月だからね。みんなの幸せを祈願しておこ」
「みんな……?」
「ここまで読んでくれてるみんな。2018年の幸せを……ね」
「ええーーーー。そんな……何人見てるかわからないのに?」
「心配しないでも片手で数えるくらいしか見てないよ」
「かなしい」
朱里はかわいらしく苦笑い。そして大きな瞳をころりと動かした。
「怪我は大丈夫ですか?」
「大幣振ることくらいならできる」
懐をまさぐって、彼女は白木の棒に紙垂と麻苧のついた幣を取り出した。
「さぁ、朱里も願いを思い浮かべて」
「願い?」
「なんでもいいよ。願いを、具体的に、言葉になるように」
「神様に祈るんですか?」
「自分に、だよ」
「え……?」
「与一様もそうだったけど、神様は力を貸してくれるだけだから。大事なのは自分がその願いに対してどれだけ強く想って、それに向けてまい進するか、なんだよ」
宝くじ当たれって願っておきながら、宝くじ自体を買わなければ、絶対に当たらないのと一緒だよ……と、この際例として適当かどうか怪しい例を挙げた櫻花は大幣に両手を添えた。
「今思い浮かべた願いを、一年間毎日言葉にして祈りなさい。そうすれば少なくとも自分が今年何を願ったかは忘れない。願いを叶えたかったら、その願いを唱えることが自分で恥ずかしくないくらい毎日唱えようね。そのひたむきさに、八百万の神様たちは心惹かれるんだよ。朱里が与一様を呼び出したようにね」
「殺されるところでしたけど……」
「殺されるくらい願ってみなさい。そしてがんばろう。2018年」
大幣が右へ、左へ、願いの障害となる穢を払うかのように揺らめく。音を鳴らさず、静かに、静かに、それぞれの願いが魂へ浸透していけと祈る。
いい年になりますように。健康でありますように。
皆様の2018年が幸せでありますように……。
櫻花の修祓はその後、夜が更けきるまで続けられた。




