マエストロ、楽器に触る
実の父に連れ去られ、アルベルトの部屋に入る。
どうやらコレクションルームとやらはアルベルトの私室の中にあるらしい。先程の会話からして、オーボエのコレクションか何かだろう、とエミールは黙考する。
アルベルトの部屋に入るのは久しぶりだった。
最近はマクダミアンから行動制限を受けたせいで、好き勝手に出歩くことすら困難になっていた。以前はアルベルトやメアリーが所持する楽器の保管場所を探し回っていたが、それも出来なくなっていた。エミールのストレスは溜まる一方だったのだ。
コレクションルームとやらには厳重に鍵がかかっていた。
アルベルトの私室にはエミールといえど、そう簡単に入ることはできない。重要な書類やらなんやらがあるから、という理由もあるが、このコレクションルームも理由の一端を担っているのではないか、とエミールは考えていた。
アルベルトの手によってコレクションルームの扉が開かれる。
エミールは内部の光景に思わず息を呑んだ。
「…! こ、これは!?」
「ふっふっふ。どうだ、凄いだろう? あらゆる伝手を使って取り寄せた、私の自慢の楽器達だ」
アルベルトが自慢げにエミールを招き入れる。
コレクションルーム、そこは想像以上に素晴らしい空間だった。
父が得意とするオーボエだけではなく、ヴァイオリン、リュート、ギター、チェロ、ヴィオラといった弦楽器を始め、トランペット、ホルン、フルート、チューバといった管楽器、その他にも打楽器や鍵盤楽器も数多く備えており、新旧様々な楽器が並ぶ様はさながら博物館のようである。
「素晴らしいですよ、父上!」
「そうだろう、そうだろう。これだけの種類、集めるのには相当な苦労を要したからな。しかし、家族の中でお前が一番食いつきがいいとはな。意外な事だ」
「母上は興味を示さなかったのですか?」
「メアリーはフルートにしか関心がないようでなぁ。あいつも収集癖はあるが、最近は化粧品ばかりに傾倒している。嘆かわしいことだ」
「母上が美しいのは良いことだと思いますけどね」
「まあ、それには同意見だな」
アルベルトがしみじみと頷く。
母であるメアリーにはアルベルトのような楽器集めに執着はないようだ。もっとも、普通の演奏家なら自分の得意でも何でもない、他分野の楽器まで集めることはしない。アルベルトが特殊というわけだが、エミールにとってはこの上なく大歓迎な趣味だ。
「それはともかく、エミールよ。どのオーボエにするかね?」
「あ……」
ズラリとオーボエが並ぶ棚の前で、アルベルトが吟味する目線をこちらに向ける。エミールは気まずそうに頬を掻き、オーボエを陳列した棚から離れた。
「あのー父上、僕はこのヴァイオリンがいいです」
「な……に……?」
目を見開いて後退りするアルベルトを尻目に、エミールはヴァイオリンを手に取った。
柳哲雄が得意としていたヴァイオリンだが、手に取ったヴァイオリンは古式、所謂バロック・ヴァイオリンであり、扱っていたモダン・ヴァイオリンとは少し仕様が違っていた。
指板が短く、ネックが太いため、子供であるエミールには少々手に余る代物である。弦は金属で巻かれていないピュアガットで、手入れを怠れば容易に切れる特性を持ち合わせている。バスバーも長さ高さ共に物足りない。これでは高いピッチの曲や音量を出す場面では不十分だ。おまけに肩当てや顎当ても存在しないので、そこも改造が必要となってくる。
そして最も難アリと判断できるのは弓の違いだ。張りが弱く、半円形となっているため、重音を奏でるには向いているが、速弾きには不向きだ。オーケストラに向いているのは逆反りの形状をした弓である。ここも要改造といったところだろう。
「エミールよ。お前もオーボエを選んでくれないのか」
顔に影が射したアルベルトが暗い雰囲気を纏わせながら尋ねる。
アルベルトが落胆するのもわかる。姉二人はメアリーの影響を受けたためにフルート属の楽器を手に取り、兄に至っては打楽器にしか興味がないからだ。オーボエ奏者の後継者がいないのである。
「申し訳ありません」
「いや、よい。残念ではあるが、強制するつもりはないからな。お前が気に入ったのならとやかく言うまい」
エミールが頭を下げると、アルベルトは手を振って応えた。そして顎に手を当て思案顔を作った。
「となるとヴァイオリンを教える者が必要になるな。奏者は何人か心当たりがあるが、どいつも教師には不向きだな。さてどうしたものか」
「父上。教師は必要ありませんよ」
「……なに?」
エミールはアルベルトの咎めるような視線を受け流し、慣れた手つきでヴァイオリンを構え、おもむろに弾き始めた。
演奏曲は色々と悩んだが、『G線上のアリア』にした。G線一本で一曲を弾けるというアレンジが面白い、バッハの名曲である。
優雅で趣深く、うっとりするような旋律。昼下がりに赤子が揺り籠で船を漕いでいるような光景を想起させる静穏な曲調。
演奏が終わる頃、ふと気づくとアルベルトは目を閉じて聴き入っていた。
「……素晴らしい。教師は必要ないというお前の意見は正しかったようだ。しかし、一体いつ練習したのだ? それに私が知らない曲だった。どこで聴いたのだ?」
「あ、えっと、夢で聴きました。そこで音楽神にヴァイオリンを教わったのです」
「ほほう。神の思し召しに預かったか。息子が神の恩寵を受けたとなれば、私も鼻が高いというものだ」
「あ、あはは」
エミールは苦笑いを浮かべながら小さく息を吐いた。
このアナザステラは音楽神ミューズが創った世界だ。ミューズはこの世界を音楽で溢れさせようと、度々助言紛いの啓示を人々に施していたらしく、「神のお告げを聞いた」とのたまう人間が一人二人と現れ、今ではそれ程珍しいことではなくなっている。
天啓が音楽に纏わることばかりなので、人々は音楽神と便宜上、そう呼ぶようになった。
当の音楽神がメイドとして働いていると人々が知れば、度肝を抜くだろう。或いは暴動でも起こるかもしれない。
「エミールは才に溢れているようだ。どうだ? もう一種類楽器を学んでみては」
アルベルトがちらちらとオーボエの棚の方へ目配せし、陽動する。しかし、エミールはその誘いに乗らず、部屋の奥へと向かった。アルベルトが肩を落としたのは言うまでもない。
奥には大型の楽器が並んでいるため、入り口付近より膨らんだ間取りになっている。その中央に置かれた楽器をエミールは選んだ。
「もう一種類学んで良いと言われるのであれば、僕はこれを選びます」
「ピアノか……まさかそれも教師は必要ないと?」
「はい」
「まあ教師を探すのも苦労するからな。必要ないとあらば否はない。本当に弾けるのか気になるところだが……」
「なら一曲弾いてみせましょうか?」
エミールは鼻息荒く提案したが、アルベルトからは首を振られた。
「いや、やめておこう。聴きたくはあるが、そろそろ出かけなくてはならないのでな。先方が時間にうるさい人なのだよ。
今度ゆっくり聴かせてもらおう」
「わかりました」
エミールは若干残念そうにピアノから離れると、辺りの楽器を見渡した。
エミールにとっては正に宝の山だ。数も豊富なので、ここの楽器だけでオーケストラを構成できそうだ。だが楽団がなければ話は始まらない。
前世の楽団員の顔を思い出し、エミールは少し感傷に浸った。
コレクションルームを後にしたエミールは廊下を歩きながら不可解なことに気付いた。
部屋に入った当初は興奮のあまり気にしていなかったが、部屋を後にして一息つくと、段々とおかしな点が目に見えてくる。
次第に疑問は確信に変わり、エミールは表情を硬くした。とんでもないことになるな、とエミールはため息をついた。
ふと暢気な笑みを浮かべるミューズの顔が思い浮かび、エミールは脳内で腹パンしつつ、自室へと歩みを進めた。