7夜、よくあるタクシーの話
「いやぁ、本当に助かりました」
タクシーの後部座席で白髪の品の良いスーツを着た紳士が深々と頭を下げた。
「こんな山奥で道に迷うなんて。油断したらいけませんね。もう少しで遭難するところでした」
運転席の男はバックミラー越しに笑う。
「ははは。大げさですよ。山とはいえ道路は舗装されていますし、道なりに下れば町ですから」
愛嬌の良い若い運転手だった。
「それでも助かりました。足ももう限界でしてね」
紳士はそう言って窓の外へ目を向けた。
仕事で訪れた山奥。
夕暮れが近い。
薄暗くなり始めた山道を見ながら、もしこのタクシーを見つけられなかったら今頃どうなっていただろうと考える。
その時だった。
「おや?」
道の先に、一人の女が立っていた。
長い髪を垂らし、こちらへ向かって手を挙げている。
タクシーを呼び止めようとしているようだった。
「運転手さん。あそこに女性がいますよ」
紳士が指差す。
「乗せてあげたらどうです? こんな山の中ですし。私は相乗りは気にしませんので」
だが、返事がない。
運転手は黙ったまま前だけを見つめていた。
聞こえなかったのかと思い、紳士はもう一度言う。
「ほら、あそこです。困っているんじゃ――」
「うるさい!」
怒鳴り声が車内に響き、紳士は思わず身を縮める。
バックミラーに映った運転手の顔は、先ほどまでとは別人のようだった。
「俺は絶対に乗せない」
腹の底から絞り出したような声で答えた。
「乗せないからな」
車は減速することなく女の前を通り過ぎた。
紳士は振り返る。
女は生い茂る草むらの中に立ったまま、いつまでも車を見送っていた。
車内に沈黙が落ちた。
紳士は何か言おうとして、やめた。運転手の背中が、話しかけるなと言っていた。
バックミラーをふと見ると、運転手の目がまっすぐ前を向いていた。さっきまでの愛想のよさが、どこかへ消えていた。
ただエンジンの音だけが続く。
やがて山を下り、町の明かりが見え始める。
タクシーが駅前に停車した。
料金を支払いながらも、紳士は先ほどのことが気になって仕方がなかったので尋ねた。
「失礼ですが、なぜあんなに頑なだったのです?」
運転手はしばらく黙っていた。
そして小さくため息をつく。
「お客さん、あの女の足元まで見ました?」
「え?」
「どこに立っていたか」
紳士は記憶を辿った。
長い髪。
挙げられた右手。
夕暮れの薄暗さ。
だが、足元は思い出せない。
「いえ……そこまでは」
運転手は青ざめた顔で言った。
「あそこ――道なんかありませんよ」
終わり




