鋼鉄の扉
1879年。冬。
息が詰まるように狭い石造りの廊下を白衣を着た研究者のアサガオがただ一人歩いていた。
ーーー我が家は滅びる、この実験が失敗すれば。世界が滅びるのは。成功すれば…か。
石造りの廊下の先には墨の塊のような黒い鋼鉄の扉が立っている。
アサガオは両手を扉に押し当て、小声で「アブレラプエ…」と言った。
最後は全く聞き取れないほどの小声だった。
結果的に扉はビクともしなかった。
「ダメなのか…」
アサガオは両手を扉から離し、扉を見つめる。
そして、クルリと振り返り、扉を後にした。
その直後だった。
扉が開き、吐き出されるように一人の男性がバタリと倒れながら出て来た。
アサガオはすぐに駆け寄って「大丈夫か?」と叫ぶ。
倒れている男性は見たこともない服装で、恐らく“わいしゃつ”と呼ばれる物だろう。
「うーん」
男性は固く目を瞑っており、到底口が利ける状態ではなかった。
「待ってろ。すぐに人を呼ぶからな…!!」
アサガオはすぐに部屋の隅にある電話機をとった。
「どうした?」
アサガオは最初、“ボス”の声を聞いたときに思わず「実験が成功した」と言うところであった。
だが、言いそうになる直前にハッと我に返り、出かけていた言葉を噛み殺し、
「怪我人が出た医者を寄越せ」
と、言った。
「医者…だと?」
「そうだ。医者だ」
「…ついに爆破させて扉を壊そうとしたか。分かった。今すぐに送る。待っていろ」
プツン。
アサガオは受話器を置き、ホッとため息をつく。
そして、人が倒れているにも関わらず、「実験が成功した」などと言おうとした“研究者としての自分”に酷く嫌悪感を抱いた。
「私はいつから変わったかな…」
「ウーン」
あの男性のうめき声が背後から聞こえる。
アサガオは振り返って、外傷が無いかどうかを確認しようとしたが、その男性は無気力感はあれど、立っていた。
「大丈夫か!?」
「ウーン」
男性はおぼつかない足取りでアサガオに向けて歩いて来る。
「ゔゔゔん」
男性は突然アサガオを押し倒し、肩に噛みつく。
「何をする!!」
「アアア!!」
もう男性は一種の猛獣のようだ。
何度跳ね飛ばしても、起き上がってアサガオに飛びつく。
「この野郎ー!!」
アサガオの声はこの廊下全体に響き渡っていた。
ーーーーーー
昨晩の雪はなかなかの量だった。
今は昼頃なのにまだ十センチほど、雪が残っている。この町では雪が降ることは珍しく、雪が積もるとなればなおさらだった。
俺は愛犬と一緒に興奮気味に庭に出た。
庭は言うまでもなく一面銀世界である。
愛犬は雪を見るなり大はしゃぎで庭の雪に無邪気に飛び込んで行った。
俺も犬のように雪に飛び込もうとしたその瞬間、「すみません」と声がした。
「カルーナ様はいらっしゃいますでしょうか?」
「俺ですが、何か用でしょうか?」
「ご当主様の、アサガオ様の行方が分かりました」
俺はすぐに玄関に向けて走り出し、鍵を開ける。
扉を開けると二人の警察官と地元の人一倍大きな四十代の警察署長の三人いた。
「本当ですか!?」
「はい。…ですが、少々厄介な所にいましてですね」
「…どういうことですか?」
警察署長は気まずそうな顔をしながらしばらく黙り込む。
「どこに、いますか?」
「現在はこの山奥の屋敷にいるとのことです」
「なぜそんな所に…」
「我々も全く分かりません。ただ、“万が一”に備え、カルーナ様。ともに来ては頂けないでしょうか?」
「…分かりました」
外に数歩出ると、すでに道路には質素な馬車が待機しているのが見えた。
「一刻を争います。準備が出来ましたら、お越し下さい」
そう言って彼らは扉を閉め、馬車の出発準備を始めた。
俺はすぐにバッグに水や食料、護身用のナイフを詰め込み、最後に兄さんへの置き手紙を残して外に出た。
「お早いですな」
警察署長はそう言って俺の格好をジロジロと見つめる。
「遅刻間際の学生でしたからね」
俺がそう返すと、警察署長は苦笑いをした。
現地には馬車や電車を経由しながらも結局丸一日以上掛かった。着いたのは翌朝の午前六時頃だった。
親父がいると思われる山は山頂に大きな屋敷とその屋敷をグルリと囲むように村があること以外、何の変哲もない山だった。
俺達の乗っている馬車は山から数キロ離れた地点にある薄暗い林の真ん中で止まった。
「なぜ止まるんですか?」
「ここからは徒歩です。あそこへの道は固いですからな。下手をすれば馬の蹄が割れてしまいます。それとここに増援が待機しておりますからな」
「増援?」
「降りれば分かりますよ」
そう言って警察署長は真っ先に馬車から降りる。
俺もそれに釣られるように恐る恐る馬車から降りた。
すると、突然、木々の後ろからライフルを持った警察官達がぞろぞろと現れ、警察署長の前に隊列を組んだ。
「この人達は一体…」
「主力警備隊。我々の護衛部隊ですよ」
主力警備隊とは近代化して間もないワ国の不穏な社会情勢への対応や一揆の鎮圧、国民の護衛のために創設された部隊であり、軍隊に匹敵する練度を誇る精鋭である。
「行くぞ!!」
警察署長は意気揚々に声を上げ、山に向かって前進を開始した。
山の中はきちんと整備されており、石畳の道が山頂の屋敷へと続いている。
屋敷の手前には村がある。
警備隊が村に入ると、村人達は珍しい物を見るよう続々と道端に集まった。
その人数は時間が経つごとに、屋敷に近付くごとに倍に倍に膨れ上がっていた。
ついには村長と思わしき小柄で白髪の老人が警備隊の針路を遮るように道の真ん中に立っている。
「何用でしょうか?」
「そこの屋敷に用がある。屋敷に誰かいないか?」
「よければご案内致しましょうか?」
「そいつは助かるな」
村長のような老人に先導され、警察署長は屋敷へと吸い込まれるように入って行く。
警備隊員達は不安そうな顔で周りをキョロキョロと見渡していたが、結局警察署長の後をアリのようについて行くだけだった。
屋敷に入ってすぐ目の前に地下へと続く階段がある。
その階段を降りると、その先にはまるでバリケードのように机や椅子が通路を塞いでいた。
「少々お待ちを」
そう言って老人は年代物のしわくちゃな手で椅子や机を通路の端にどかし始めた。
その手際の良さは筋骨隆々で名の知れた警備隊員達も驚きを隠せなかった。
もはやこの時点でこの老人はただ者では無いのは明らかだ。だが、警察署長は「何をボサッと突っ立ている。貴様らも手伝え!!」と騒ぎ立てるだけである。
バリケードは瞬く間に解体され、目の前には鉄の扉が現れた。
「この奥には、何があるんだ?」
突然警察署長が我に返ったように冷静な口調で言う。
しかし、老人どころか警備隊員までこの問いに反応すら示さなかった。
扉はすぐに開かれ、俺達は無言で警察署長を見つめる。
この時には、もう引き返しても遅かった。警備隊の背後には白色のフードとマントで姿を覆い、ショットガンを手にした村人達が圧をかけていた。
背後を取られている以上、戦っても勝ち目は薄い。
どうする事も出来ずに彼らは地下へと入った。
地下に入ると老人はすぐに扉を閉め、鍵をかけた。
幸い、地下はランタンが等間隔にぶら下がっており、光は心配しなくとも大丈夫だった。
しかし、今はそんな事は些細な事に過ぎない。
それよりも重要なのは警備隊が反乱寸前であるということだ。いくら彼らに強い忠誠心があったとしても、敵の懐にのびのびと入って行く愚将には一切の忠誠も無い。
現に一人の隊員が扉を銃床で叩き始めた。
警察署長は「止めんか!!」と叫んだが、隊員は聞く耳すら持たずに一心不乱に扉を叩く。
次第に他の隊員達も何かに取り憑かれたかのように叩き出す。
もはや扉を叩いていない隊員は数えるほどしかいない。
警察署長は扉と隊員の間に入って必死に止めさせようとするが、焼け石に水だった。
俺は一人で先に進むことにした。
彼らは信用ならない。
俺はヤモリのように静かに息を殺しながらその場を離れる。あそこまで興奮している人達を下手に刺激すればどうなるか分かったものじゃないからだ。
しばらく迷路のような地下を右も左も分からない中進んだ。
それでも、警備隊の扉を叩く音は地下全体に響き渡っているようで、耳から離れない。
「ちょっと、そこの少年!」
背後から聞いたことのない声がした。
振り返ると、そこには警備隊の服装をした二十代ぐらいの凛とした青年がいた。
「何ですか?」
俺はその青年を睨見つけながら強気の口調で言う。
「一人じゃ危ないぞ。ついて行く」
彼の優しい口調はまるで子供に対して話す感じだった。
俺は不愉快には思いながらも静かに頷く。
それとほぼ同時に目の前に白い“わいしゃつ”を着た人がふらりと現れた。
「誰だ?」
警備隊員は咄嗟に銃を構える。
だが、その人は臆することなく進んで来る。
ついに警備隊員は発砲した。
不思議なことに発射された弾は肉眼でもはっきり見えるほど遅く、赤い光の軌道を描きながらその人にコテッと当たる。
もちろんあんな弱い弾ではノーダメージである。
ーーーまさか、あの弾は…。
俺はあの弾に見覚えがあった。
あの弾は軍事パレードの際に盛り上げのために空に放つ曳光弾だ。
いつもであれば儀仗隊専用の弾丸である。
俺は警備隊員を睨みつけた。
警備隊員も想定外だったようで、焦りながら弾を確認している。
「馬鹿な。全部安全曳光弾だ…」
「…つまり、そのライフルは」
「使い物にならない…」
もうその人は目の前で迫っていた。
「ヴヴヴッ」
唸り声とともにその人は獣のように警備隊員に飛び掛かった。
警備隊員は瞬く間に床に押し倒される。
その人はアサガオにした時と同じように噛み付こうとしていた。
一応ライフルをその人の口元に押し込んではいるが、ミシミシと不穏な音を立てている。
「今退かす!」
そう言って俺はその人の背後に周り、引き剥がそうとしたが、岩のようにビクともしい。
「少年、先に行け!」
警備隊員が叫んだ。
「お前一人で逃げれそうに無いから手伝ってんだろ」
「腐っても警備隊だ。少年、早く逃げろ!」
「一つ言って置くと俺は少年じゃない。カルーナだ」
俺はバッグからナイフを取り出した。
パンッ
「待て!」
警察署長がまだ白い煙が立ち上る拳銃を握りながら言う。
「カルーナ。来い」
署長は俺の腕を強引に掴むと、そのまま部屋の奥に引きずって行く。
「お前、何すんだよ!!」
俺がそう叫んでも、署長は「カルーナがいればカルーナがいれば」と訳の分からない事を言いながら操り人形のようにどこかへ向かって歩く。
だからと言ってどれだけ手を振り解こうとしても離せない。
ただ、抵抗虚しく引きずられるだけだ。
一人残った警備隊員の表情はにこやかだった。
ーーー署長が逃がしてくれた。
そう思っていた。
署長が来た場所からはぞろぞろと同じ警備隊員の服装を来た人達がやって来る。
ーーーもしかして扉を叩くのを止めたか?
だが、彼らの表情は絶望を体現したような表情だ。
そして署長達を追わずにこの警備隊員に向かって来る。
「よせ。止めろお前ら!!」
瞬く間に哀れな警備隊員はかつての仲間達に群がられ、山のように重なっているその中に姿を消した。
一方、カルーナが辿り着いた先は鋼鉄の扉の前だった。
扉は開いていた。
署長は俺ごとその扉に俺と入ろうとしている。
俺は思わずナイフを振り上げた。
するとようやく署長は手を離した。
「なんでここに連れて来た!!」
俺がそう叫ぶと、署長は狼のような顔で睨みながら言った。
「この扉の奥には異世界がある。私はそこに行きたい。そして未来を見たいだけだ!」
署長は再び俺の腕を掴もうとする。
「動くな!!!」
デカい声が響き渡った。
声がした方向を見ると、そこにはライフルを構えたあの警備隊員が立っていた。
署長もすぐに警備隊員に向けて拳銃を構える。
「署長、現時刻を以て転属を願い出たいのですが」
「ハッハッハ。お前もやっとジョークを使うようになったか。だが、それが最後のお前のジョークだ。噛み傷はいくつある?」
よく見ると、警備隊員の腕や肩、足にはしっかりと噛み傷がついていた。
しかし、警備隊員はそれがどうしたと言った感じで余裕な表情である。
「お前、もうそろそろか?」
そう言って署長は、笑っていた。
「アイツらはな、ゾンビってんだよ。ハッハッハ。これで奴らの仲間入りだ」
これにはさすがの警備隊員も明らかに顔の色が変わり、真っ青になった。
すると、そこに警備隊員が無理矢理振り払って来た彼ら、ゾンビ達がウヨウヨと後ろから迫っていた。
「署長…、それがジョークですか?」
警備隊員は真っ青の顔のまま言った。
「ハッハッハ。ジョークじゃないさ。現実さ」
「本当ですか?」
「本当だ。私は都合のいいことは脚色せず、正直に言うのでね」
「…ならよかった」
警備隊員は不気味にニヤリと微笑み、指をパチンと鳴らす。
「ウオオオオ!!」
ゾンビ達の集団の中から突然恐竜のような咆哮が響き渡った。そしてノロノロと歩くゾンビ達を跳ね飛ばしながら彼は来た。
彼はゾンビの群れから出ると、警備隊員の横を目にも止まらぬ速さで駆け抜け、署長に飛び掛かる。
「うわああ。よせ!」
署長は必死に拳銃を乱射したが、一発も当たらずに弾切れになった。
彼は弾切れになった警察署長の襟元を握り、持ち上げる。
その時になってようやく彼の顔が見えた。
「…アサガオ」
署長は小さな声でそう言った。
アサガオの身体は肌色から灰色に変わり、ボロボロに黒ずんだ白衣が当時の状況を静かに伝えている。
「離せ、離すんだ…」
署長は虫の羽音のような声になっていた。
もちろんアサガオの人間としての意思なのかは分からないが、一向に彼は離そうとはしない。
「ボス…。実験は成功です。ボス。医者を下さい。ボス。ボス?」
アサガオは壊れた機械人形のように繰り返し同じことを言い続ける。
「父さん!!」
俺はアサガオの元に近寄ったが、父さんは、アサガオはチラリと見るだけだ。
「少年、何してる。早く逃げるぞ!!」
警備隊員の後ろにはゆっくりだが、ゾンビ達が波のように迫っていた。
「でも父さんが」
「今は無理だ。それよりも、大事なのは俺達の命だ」
周りを見渡すと、この部屋は今ゾンビが押し寄せて来ている廊下以外道が無い。
一か八か、どこに繋がっているか不明瞭な鋼鉄の扉に入る他無かった。
署長曰く異世界だそうだが、どんな世界なのかこの惨状を見ればあらかた想像がつく。
もはやゾンビは目の前にまで迫っていた。
警備隊員は無駄だと知っていながらも、曳光弾を撃ち続ける。
「少年、急げ!!」
俺は父さんを後にすぐに扉に入り込んだ。
扉の先は、真っ暗だった。
右も左も上も下も分からない。両足が浮いているような感覚だった。
いや、本当に浮いている。
真っ暗だった視界に朝日が入り込む。
右側から太陽が昇ってきたのだ。
目の前は真っ暗な空間からオレンジや赤色の景色に変わる。
飛行機が存在せず、まだ気球が楽に空を飛ぶ唯一の手段だった1879年。カルーナのいる世界ではまだ雲の上を飛んだという記録は少なく、一般人からすればほとんど無縁な話だった。
しかし、空に憧れを抱いた者達もいる。
カルーナがその中の一人になるのは、この景色だけで十分だった。
俺は手を太陽の方向に伸ばし、そのまま落ちて行く。
やっとオレンジ色のモヤが薄れたかと思えば、下は一面海で遠くに弓の弦のような形をした陸地が見えていた。
それともう一つ、銀色の鳥のような物が空をゆっくりと滑るように飛んでいる。
飛行機だった。
この飛行機の翼には「Help」と白いペンキで書いてあった。
俺は何とか飛行機の胴体にしがみつき、先頭へと向かう。先頭には窓ガラスが卵のように割れた誰もいない操縦席があった。
俺はそこに入り、本能的に操縦桿を握る。操縦桿を引くと、機体はすぐに反応し、機首がやや上を向く。
ゴォォォォォォ
両翼からは低いエンジン音が鳴り始めた。
機体はまるで何かに導かれるように目の前の陸地に一心不乱に進む。
瞬く間に眼前には遠くに見えていたはずの陸地が広がった。
ーーー後もう少しで陸地に着く。
そう思ったのも束の間、機体は突然態勢を崩し、空中で何度も回転する。
俺の視界は空が見えたかと思えば次の瞬間には海面、もしくはその両方が同時に見えた。
そしてついに飛行機はくるくると回りながら海面に白い水柱を立てて墜落した。




