(66)先輩は有言実行の人:1
鮫尾先輩が、私に家に来て家族に挨拶をした翌日。
私は朝からちょっと緊張していた。
先輩はこの週末に引っ越しを済ませて、あのアパートで生活するのは、その後になるとこと。
だけど、私の送り迎えは、今日から実行するそうだ。
ついさっき、その確認のメッセージが、枕元に置いていたスマートフォンに届いたのである。
――冗談だと思っていたのに。
普段の私は目を覚ましてからしばらくはボンヤリしているけれど、今朝は、先輩からのメッセージを読んだ瞬間、眠気が吹っ飛んでいった。
「七時半に行くからって……、先輩、本気!?」
ベッドの上にペタリと座り込んでいる私は、スマートフォンの画面をまじまじと見つめる。
先輩に好意を寄せているたくさんの女子たちから鋭い視線を向けられたことに対し、私のお父さんが先輩にどうするのかと尋ね。
先輩は送り迎えをして、私の身の安全を図ると答えた。
そうしてもらえると助かるけれど、先輩の家は私の家からだいぶ離れているから、先輩が実際に送り迎えをするのは、来週からだと思い込んでいたのだ。
私は自分の目を拳でゴシゴシと擦ってから、スマートフォンの画面に指を滑らせる。
「えっと、おはゆ……、間違えた。おはようござあみせ……、ああ、もう。起きたばっかりだと、指が動かない……」
フリック入力にはいまだに慣れていない私は、寝起きだとさらに遅いし、誤字を連発してしまう。
それでも、なんとか「おはようございます」と入力し、私の家に来るのは、来週からでいいというメッセージを送った。
帰りは先輩に送ってもらってもいいかもしれないけれど、いつもの登校時間よりもだいぶ早めに家を出てこっちに来てもらうのはやっぱり申し訳ない。
見た目がちんちくりんキノコで頭の中身がお子様の私でも、一応、こういった気遣いはできるのだ。
「さてと、顔を洗わなくちゃ……」
フワァッと大きなあくびをして、私はベッドを降りる。
次の瞬間、私のスマートフォンが着信を告げる。
この音はメッセージの受信ではなく、通話だ。
「え? まさか、先輩?」
枕元に放り出したスマートフォンを慌てて手に取ると、画面には電話がかかってきている表示と、『鮫尾先輩』という文字があった。
とりあえず、私は通話のアイコンをタップし、スマートフォンを左耳に当てる。
「も、もしもし……?」
オズオズと声を掛けたら、『おはよう、チコ』と返ってきた。
その声に、私の心臓がドキンと跳ねる。
先輩の声は見た目と同じく大人びていて、同じクラスの男子のものよりも低い。
だけど、怖くなくて、いい声だなと思っていた。
その声がすぐ耳元で聞こえてきたから、うっかりときめいてしまったのである。
間近であれこれと囁かれたこともあったけれど、スマートフォンを通すと、直接声が頭に響くように感じられて、すごくドキドキしてしまう。
私は一回深呼吸してから、「おはようございます」と返した。
すると、先輩がクスッと小さく笑う。
スマートフォンだと吐息までもはっきり聞こえてくるので、私の心臓がまたドキンと跳ねる。
そこにきて、『電話越しでも、チコの声は可愛い』なんて、優しい声で言われたものだから、頭の天辺から湯気が出そうなほど恥ずかしくなった。
「いえ、あの……。そういうことは、言わなくていいですから……。ところで、どうして電話をかけてきたんですか?」
ついさっきみたいに、用事があるならメッセージを送ってくれたらいいのだ。
わざわざ電話をする理由は、どこにあるのだろうか。
私の問いかけに、先輩がまたクスッと笑った。
『一つは、チコにおはようって言いたかったから』
甘さを増した声で囁かれ、私の頭から火柱が吹き上がった。
――先輩は自分の声のよさを、もっと自覚するべきだよ!
私は思わず、そう叫びたくなった。
しかし、このことを告げてしまうと、先輩は「恥ずかしがるチコが可愛い」とかなんとか言って、今後、私の耳元で囁くことが増えそうだ。
それはマズい。
私の心臓にとって、非常にマズい。
なので、黙っておくしかなかった。
私がその場でジタバタしながら羞恥に耐えていると、先輩が話を続ける。
『あと、メッセージだと、はぐらかされそうだから』
「え?」
『俺が迎えに行くって言ったのに、チコは来週からでいいって返してきたよね』
「あ、はい。だって、先輩はまだ自分の家に住んでいるじゃないですか」
『でも、送り迎えをするって、チコのお父さんと約束した』
「それは……、先輩がこっちに引っ越してきてからでもいいですって。平凡な私の顔なんて、女子たちはもう忘れていますよ」
先輩の言葉に、私は苦笑を浮かべた。
昨日は先輩と一緒にいたから、鋭い視線を向けられたのだ。
私一人だったら、誰も私の存在に気付かないのではないだろうか。
先輩に好意を寄せている女子たちは先輩の顔を絶対に見間違えたりしないだろうけど、ちんちくりんキノコの私の顔なんて、即刻、記憶回路から削除しているのではないだろうか。
いくつもの鋭い視線を向けられた時は怖くて仕方がなかったが、一晩眠ったら、その怖さがだいぶ薄れていた。
これは、私の長所と言っていいだろう。
そのことを茜ちゃんと琴乃ちゃんに話した時、『あ、まぁ、長所って言ったら、長所よね……』、『のん気ではなく、切り替えが早いって捉えたら、そうかもしれないし……』と、なんとも言えない表情を浮かべていたのは、なぜだろうか。
ともかく、私は一人で学校に行っても問題ないと、改めて先輩に伝えた。
すると、ため息が聞こえる。
『チコが俺に迷惑を掛けないように気遣ってくれているのは分かった』
――よかった。
その言葉に、私は心の中でホッと息を吐いた。
ところが、次に聞こえてきた先輩の言葉は、私の予想通りではなかった。
『チコにそう言われると思って、すでに家を出た』
「……はい?」
『さっき電話したのは、必ず迎えに行くと伝えたかったから』
「…………はい?」
『それと、今から電車に乗る。あと四十分くらいしたら、そっちに着く』
「………………はい?」
――う、嘘っ。先輩、ぜんぜん分かってないじゃん! っていうか、私が迎えに来なくていいって言ったの、ちっとも意味ないじゃん!
こっちに向かっているというのなら、今さら止めても無駄である。
この先輩のことだ。
私がなにを言おうと、絶対に迎えに来るだろう。
それでも私は往生際悪く、「本当に迎えはいいですから!」と、何度も繰り返した。
ところが。
『チコ、遠慮しないで。ああ、電車が来たから、電話はいったん切るよ。また、あとで』
先輩が通話を切ってしまったので、もう、どうにもならない。
私は慌てて部屋を飛び出し、洗面所へと駆けていった。




