プロローグ
彼は、森の中をたったひとりで歩いていた。
今は午前二時である。当然、周囲は闇に包まれていた。街ならば、どこかしらに明かりがついている。夜中でも、出歩くことが可能だ。
しかし、ここはとある山のふもとだ。明かりなどない。数センチ先ですら見るのが困難な、本物の暗闇である。
その上、歩いている場所はアスファルトのように平らなものではない。土に覆われた地面は、でこぼこが多く起伏が激しい。また、木の根っこなども盛り上がっており、普通の人間では、進むことなど出来ないはずだった。
そんな状況にもかかわらず、彼は何の苦もなくスタスタと歩いていく。その足取りは、昼間にアスファルトで覆われた道路を歩いているのと大して変わらない。
だが突然、彼は足を止めた。同時に、ガサリという音がする。
何者かが、彼の前に姿を現したのだ。
十メートルほど先に、光るものがふたつ浮かんでいる。獣の目だ。目の位置からして、野犬だろう。かなり大きなサイズだ。もともと人間に飼われていた大型犬が、飼い主に捨てられて野犬になったのだろうか。
直後、ウウウという声が聞こえてきた。威嚇の声だ。間違いなく野犬である。それも、こちらに敵意を抱いている。近づけば殺す、という意思表示をしているのだ。どうやら、この辺りは野犬の縄張りらしい。
犬は、人間にとって身近な動物である。したがって、さほど脅威に感じない者が少なくない。特に、自宅で犬を飼っている人間は、よその犬にも親しげな態度を取る。
しかし、それは間違いだ。犬は恐ろしい生き物である。中型犬ですら、大半の人間より力は強い。牙は鋭く、本気で噛みつけば指など簡単にちぎれてしまう。動きも速く、走って逃げても追いつかれる。
まして、野犬ともなると始末に負えない。野で生きる犬は、ほぼ狼と同じである。人間の飼い犬と違い、強くなければ生きられないのだ。野ネズミやウサギのような動物を仕留めて食らう生活である。時には、クマやイノシシのような猛獣と闘い、生き延びてきたのだ。
そんな野犬にとって、人間など単なる餌に過ぎない。ウウウと唸りながら、少しずつ間合いを詰めてきた。
一方、彼の表情は変わっていない。恐れる様子もなく、どんどん犬に近づいていく。
すると、茂みから新たな犬が現れた。縄張りに侵入してきた者を、協力して倒そうというつもりらしい。
次の瞬間、犬は襲いかかった──
数分後、彼はポケットからスマホを取り出した。何事もなかったかのような表情で、スマホを耳に当てる。呼吸は乱れておらず、しっかりとした姿勢で立っている。
もっとも、彼の足元には野犬の死骸があった。それも二匹。どちらも、血まみれで倒れている。
(頼みましたよ。できるだけ早く殺してください)
(任せとけ。都会のガキなんか、崖から落とせば終わりだよ)
スマホからは、そんな声が聞こえてくる。彼は苦笑した。
「こんな物騒な話を、スマホでするとはね。不用心な人たちですね」
そう言うと、スマホをポケットにしまう。やれやれ、とでも言わんばかりの様子でかぶりを振った。
「それにしても……たかが高校生ひとり殺すのに、そこまで面倒くさいことをするのですね。これだから、一般人は困ります」
・・・
その日、天城光一は、ひとりで電車に乗っていた。
天城は、見た目からしてパッとしない少年だった。身長は百六十センチで、十五歳という年齢を考慮しても小さい部類に入るだろう。体重は五十キロあるかないかの、ガリガリに痩せこけた体である。Tシャツの袖から覗く二の腕は細く、棒きれのようであった。
風貌の方も、陰気で冴えない雰囲気が漂っている。肌は青白く、顔からは気の弱さがにじみ出ている。おどおどした態度で、常に他人の顔色を窺っているような少年だ。
そんな見た目の印象通り、この少年はスポーツ関連はまるでダメである。走れば遅く、腕力は女の子にも劣る。
水に入れば浮くことすら出来ず、ボールを投げれば数メートル先でバウンドする始末だ。体育教師からは「ここまでくると、ひとつの才能だ」と評されるほど運動神経がない。
どこのクラスにも必ずいる、特筆すべき能力が何ひとつない……それどころか、全ての能力が人より劣っている内気で陰気な少年。それこそが天城なのである。
そんな天城が、なにゆえにひとりで電車に乗っているのか。それは、この電車の行き着く先にある白土市に行くためであった。
天城は、もう一度パンフレットを見てみる。
(大自然の中で、楽しい集団生活を送ろう!)
こんなことがデカデカと書かれた表紙には、自分と同じ年代の少年たちが、ニコニコ笑いながら農作業をしている姿が写されていた。
天城は、さらにパンフレットをめくる。中には、様々な文言が書き連ねられている。
(青春は一度きり! 引きこもるのをやめ、ここで楽しく過ごそう!)
(君も、ここで美しく輝く十代を過ごそう!)
天城は、フンと鼻で笑った。載っている写真は、全て作り笑顔の少年と教師ばかりだ。
「どうせ、嘘に決まっている」
呟いた時だった。不意に、後ろから声をかけられた。
「あなたも、人道学園に行くようですね」
天城は、ビクンと反応した。思わず立ち上がり、周囲を見る。
すぐ後ろの席に、少年が立っていた。
何とも不思議な雰囲気を醸し出している少年だった。端正な顔立ちだが、妙に青白い肌をしている。身長は百七十センチほどか。髪は長くなく短くもない。綺麗に切りそろえられている。
体つきは、痩せてはいないが太ってもいない。いわゆる中肉中背だ。黒いTシャツと黒い短パンという出で立ちで、まっすぐに天城を見つめている。
天城は、思わず後ずさる……が、すぐに前の席の背もたれに当たった。思わず顔をしかめる。
「大丈夫ですか? 急に声をかけてしまって、驚かせてしまい申し訳ありません。ところで、あなたも人道学園に入学するのですよね?」
「えっ……あっ、はい」
天城は答えたが、どうにもぎこちない。それ以前に、同年代の人間と喋ること自体が久しぶりだ。
そう、天城は二年近く家の中に引きこもっていた。学校でいじめに遭い、それからずっと不登校のまま卒業したのである。
すると、相手の少年はクスリと笑った。
「僕の名は、灰谷誠司といいます。あなたのお名前は?」
あまりにも丁寧な口調である。こんな風に、同年代の少年に敬語で話しかけられたのは初めてだ。天城は、まごつきながらも答える。
「えっと、僕の名は……天城光一です。よろしくお願いします」
その時、灰谷の目がスッと細くなった。同時に、漂う空気も変わる。
「敬語は使わなくていいですよ」
「は、はい?」
「聞こえなかったのですか? 敬語は使わなくていい、と言ったのです。あなたも僕も、同じ学校の新入生です。ならば、堅苦しい敬語を使う必要などないでしょう」
「えっ、でも──」
敬語を使っているのは、あなたの方ですけど……と言おうとした時だった。突然、灰谷の顔が近づいてくる。
その目には、異様な光が宿っていた──
「いいですか、僕がなぜ敬語を使うか……それは、人によっていちいち言葉遣いを変えるのが面倒だからです。しかし、あなたにそんな面倒な人間関係があるとは思えません。したがって、僕に対しては、もっと砕けた口調……いわゆるタメ口を使ってください。いいですね?」
灰谷の口調は静かなものだった。しかし、その奥底には有無を言わさぬものがある。天城は、慌てて頷いた。
「は、はい……じゃないや、うん」
「それでいいんです」
灰谷は、ニッコリと笑った。同時に、周囲に漂っていた異様な空気も消えた。
天城はというと、目の前にいる異様な少年をどう判断すればいいのかわからなかった。だが、とにかく機嫌を損ねたくはない。とりあえずは、あやふやな笑顔で頷いた。
が、それで終わりでなかった。灰谷が、とんでもないことを聞いてきたのだ。
「ところで……天城さんは、キノコの林とタケノコの森、どっちがすきですか?」
天城は、さらに混乱した。突然、何を聞いてくるのだろうか。彼は何も言えず、唖然となっていた。
と、灰谷が顔を近づけてくる。
「聞こえなかったのですか? では、もう一度言います。キノコの林とタケノコの森、どちらが好きですか?」
間近で問われ、天城は凍りついていた。キノコの林もタケノコの森も、チョコレート菓子の名前である。どちらが好きかなど、考えたこともなかった。
しかし、答えないと解放してもらえそうにない。天城の口から咄嗟に出たのは、この言葉だった。
「た、タケノコの森!」
「ほほう、なるほど。そうでしたか……あなたは、実に運がいい」
そんなことを言ったかと思うと、灰谷の表情が変わった。興味をなくしたかのように、冷めた表情で席に座る。
何がなんだかわからないが、どうやら気は済んだようだ。天城もまた、席に座ろうとした。
その時だった。
突然、胸の奥に異様な感覚が走る。次いで、背筋がゾクリとなった。何かがおかしい、と体の奥底にあるものが訴えていた。
これは何なのだろう?
困惑しつつも、天城はその感覚を無理やり抑え込んだ。目の前にいる少年は変だが、そんなことをいちいち気にする必要はない。合わないようなら、付き合わなければいいのだ……と己を納得させた。
なにせ、今の天城には人道学園以外に行く場所がないのだから──
後になって、天城は思い知ることとなる。
あの時の違和感は……人間が、まだ獣だった頃に備えていた勘。異質なものを嗅ぎ分け、危機から逃れるための本能が、天城の中で警鐘を鳴らしていたのだ。




