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『普通の恋が、したかった。』  作者: vastum


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第40話 前日の空気

文化祭前日。


朝から学校全体が落ち着かなかった。


廊下には装飾。


教室から聞こえる騒ぎ声。


段ボールを運ぶ生徒。


先生たちですら少しだけ浮ついている。


一年一組も例外ではなかった。


「うわ、もう明日じゃん」


倉田が教室へ入るなり言う。


「早すぎる」


藤堂は朝からすでにテンションが高い。


「祭り前日だぞ!」


「お前毎日それ言ってるな」


湊が返すと、教室に笑いが起きる。


その空気の中で、朝比奈湊は少しだけ教室を見回した。


完成している。


射的ブース。


背景。


看板。


全部。


数週間前までは何もなかった教室が、ちゃんと“文化祭の教室”になっていた。


その景色を見ているだけで、胸の奥が少し熱くなる。


「おはよう、湊」


隣。


栞。


今日は少しだけ髪を巻いていた。


たぶん気のせいじゃない。


いつもより柔らかく見える。


「……おはよう」


栞が少し笑う。


「今日、反応遅い」


「いや」


「見てた」


即バレだった。


湊は少しだけ視線を逸らす。


「髪、なんか違うなって」


栞は自分の毛先を少し触った。


「少しだけ」


「……似合ってる」


言った瞬間、湊は少し後悔した。


朝から言うことじゃない。


でも栞は、少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。


「ありがと」


その笑顔が、かなり破壊力高かった。


ホームルーム。


山崎が教卓の前で言う。


「はい、今日は最終準備。怪我だけはすんなよー」


教室から「はーい」と返事。


でも、みんな少しそわそわしている。


本番前。


その空気が、教室全体に漂っていた。


「明日かー……」


誰かがぽつりと言う。


その言葉に、教室が少し静かになる。


楽しみ。


緊張。


終わってほしくない感じ。


全部混ざっている。


湊はその空気が、かなり好きだった。


一時間目から三時間目までは、ほとんど準備時間になった。


教室中が動いている。


机を調整する。


飾りを貼る。


景品を並べる。


その騒がしさが、今日は特に大きかった。


「朝比奈!」


藤堂が看板を持ちながら叫ぶ。


「これ入口でいいよな?」


「ちょい右」


「どっち!」


「逆!」


倉田が笑いながら手伝っている。


三橋は、景品リストを最終確認していた。


その全部が、ちゃんと文化祭だった。


湊は作業しながら、ふと栞を見る。


窓側で、背景の最後の微調整をしている。


女子たちと話しながら笑っている。


その姿を見ているだけで、少し落ち着く。


「朝比奈」


また藤堂。


「何」


「今日、いつも以上に見てる」


「うるさい」


「前日だからなー」


「関係ない」


でも、否定しながら自分でも少し分かっていた。


今日は、いつも以上に栞を目で追っている。


理由はたぶん。


この“今”を覚えていたいからだ。


昼休み。


今日は教室で食べる人がほとんどだった。


準備の途中。


みんな少し疲れている。


でも、その疲れ方が嫌じゃない。


「明日成功するかな」


倉田がパンを食べながら言う。


「するだろ」


藤堂が即答する。


「俺たち結構頑張ったし」


三橋も静かに頷いた。


「ちゃんと形になってる」


その言葉に、湊は教室を見回す。


たしかに。


ちゃんと、自分たちで作ったものがある。


それが妙に嬉しかった。


「湊」


栞が小さく呼ぶ。


「ん?」


「明日、楽しみ?」


その質問に、湊は少しだけ笑った。


「かなり」


「私も」


栞はそう言って、小さく笑う。


その笑顔が、なんだか少し柔らかかった。


午後。


準備は最終段階に入る。


教室全体が忙しい。


でも、その忙しさの中に妙な一体感があった。


誰かがテープを持ってきて。


誰かが机を運んで。


自然に助け合っている。


最初の頃とは、本当に空気が変わった。


「朝比奈!」


藤堂が射的の銃を持ってくる。


「試し撃ち!」


「今?」


「最後の確認!」


結局、放課後直前にみんなで試し撃ちが始まった。


輪ゴムが飛ぶ。


景品が落ちる。


教室に笑い声。


「おお!」


「普通に楽しい!」


「祭りじゃん!」


藤堂が叫ぶ。


その光景を見ながら、湊はふと思う。


ああ。


たぶん自分は、この時間をずっと忘れない。


放課後。


最終確認が終わる。


教室は、ほぼ完成していた。


あとは明日を待つだけ。


夕方の光が、窓から差し込んでいる。


みんな少し静かだった。


達成感と、終わりが近い感じ。


その両方が教室に漂っていた。


「なんかさ」


倉田がぽつりと言う。


「今日、ちょっと寂しい」


誰もすぐには返さなかった。


でも、たぶんみんな同じだった。


明日が本番。


つまり、この“準備期間”は今日で終わる。


それが少し寂しい。


「文化祭始まる前なのに変な感じ」


藤堂が笑う。


三橋が窓の外を見ながら、小さく言った。


「たぶん、今の時間が好きだったんだと思う」


その言葉が、静かに教室へ落ちる。


今の時間。


放課後。


準備。


笑い声。


その全部。


湊は無意識に栞を見た。


栞も、少しだけ同じ顔をしていた。


帰り道。


今日は少し遅くなった。


夜に近い夕方。


駅までの道を、二人でゆっくり歩く。


「今日」


栞が小さく言う。


「ん?」


「なんか、ずっと見てたね」


湊は少し笑う。


「バレてた」


「かなり」


「……なんか」


湊は少し言葉を探す。


「今日の空気、覚えておきたい感じした」


栞は少しだけ黙った。


それから、小さく頷く。


「分かる」


風が少し吹く。


夜の匂い。


文化祭前日の空気。


その全部が、妙に特別だった。


「湊」


「ん?」


「明日終わったら、ちょっと変わるのかな」


その言葉に、湊は少しだけ息を止める。


変わる。


何が。


クラスか。


空気か。


それとも、自分たちか。


湊は少し考えてから、小さく言った。


「変わっても、悪い感じじゃなければいい」


栞は少し笑った。


「またその答え」


「便利だから」


「普通くらい便利」


二人で少し笑う。


駅が見えてくる。


電車が来る。


二人で乗る。


今日は座れた。


並んで座る。


少し疲れている。


でも、その疲れが心地いい。


栞が窓の外を見ながら、ぽつりと言った。


「明日、ちゃんと楽しもうね」


その言葉が、静かに胸へ落ちる。


「……うん」


湊は小さく頷いた。


文化祭前日。


終わりが近づいているからこそ、今が特別に感じる。


そして湊は、その特別な時間の隣に栞がいることを、何より嬉しいと思っていた。

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