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角と翼 ―ツノとツバサ―  作者: ☆しえる☆♪


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第5部 恋心編

使用されているイラストは AI で作成されたものです。予めご了承ください。

 『角と翼』という名のコンビニを開業して、早いもので一ヶ月が経った。店の外では、しとしとと梅雨の雨がアスファルトを濡らし、夜の静寂を深めている。


 閉店後の薄暗いバックヤード。23歳の小春は、背中が大きく開いた黒いTシャツから漆黒の翼を覗かせ、丸椅子に腰掛けていた。隣では後輩の麗夏がデスクに向かい、ノートパソコンで今日の売上を計算している。


 「……ねえ、結果は?」


 小春が退屈そうに翼を揺らしながら尋ねると、麗夏は画面上の数字を確認して小さく息を吐いた。


 「……はい。今日も、黒字ですね」


 麗夏の指先は迷いなく動き、慣れた手つきで利益の計算をこなしていく。毎日毎日、途切れることのない客の対応と店舗運営に追われ、息をつく暇もない。今日も忙しい一日だった。


 「……あのさ、毎日朝から晩までレジに立って、品出しして、賞味期限チェックして……。これじゃ、ろくに休む時間も取れないじゃない」

小春は現状の慌ただしさに対する不満を漏らした。


 「……ねえ、アルバイト、募集しない? 二人だけで全部回すのも限界があるでしょ。いつまでもこのままでいけるわけないじゃない」


 小春からの予期せぬ提案に、麗夏はパソコンの画面から視線を上げ、少し困ったような、躊躇うような表情を浮かべた。


 「アルバイト、ですか……。でも、大丈夫ですか? 新装開店の準備をしていた時に入ってきた、あの女性みたいな方がまた入ってくるかもしれませんよ? ……先輩が大嫌いだった、あの女性です」


 麗夏の言葉に、小春は露骨に嫌そうな顔をして、ふいと顔を背けた。

 開店前、人手を補うために一度だけアルバイトを雇ったことがあったのだ。しかし、小春が容赦なく無茶な指示を出し続けたせいで、その女性は精神的に限界を迎えてしまい、開店を目前にして逃げるように辞めてしまったという苦い経緯があった。


 「あのオバチャンね」

 吐き捨てるように言った小春に、麗夏は苦笑しながら溜息をついた。


 「35歳でオバチャンは酷いですよ。……まぁ、先輩が付きっきりで無理な要求ばかり押し付けるから、ノイローゼ気味になって辞めちゃった面もありますけど」

 「あんなの、私の指示にちょっとついて来られなかっただけでしょ。とにかく、私はあの人間が大嫌いだった。それは認めるわ」

 小春は腕を組んで不満げに鼻を鳴らした。


 麗夏は苦笑いを残したまま再びパソコンの画面へと目を戻し、冷静にキーボードを叩いて数字を弾き出した。

 「……まぁ、あの時の反省を踏まえて、今度はちゃんとしたマニュアルを作って教えれば問題ないですね。一人ぐらい雇っても、今の利益なら十分に黒字を維持できそうですし」

 「そうでしょ。掃除だってしないといけないんだから。今度は、私の指示を素直に聞くような若い子を雇えばいいのよ」

 小春はそう言うと、おもむろに立ち上がった。右の折れていない 1本のツノが、バックヤードの蛍光灯を反射して鈍く光る。


 「……売上の計算、終わったみたいね。先に帰ってるわ」

 「はい。私はこのままアルバイト募集の貼り紙を作って、貼り出してから帰ります。……先輩、雨が降っていますから、気をつけて帰ってくださいね」

 「わかってるわよ。じゃあね」

 小春は裏口から外へと出た。


 夜の雨は、止む気配もなく降り続いているが、小春は傘をさそうとはしなかった。傘を差したまま飛べば、風の抵抗で飛びづらい上に、結局は横殴りの雨で全身が濡れてしまう。空を飛べるのは便利だが、雨の日だけは不便だと、彼女は昔から何度も思い知らされてきた。

 小春は地を蹴り、雨の夜空へと一気に舞い上がった。凄まじい速度で叩きつける雨粒が、容赦なく全身を打つ。びしょびしょになった黒髪が顔に張り付き、黒いTシャツは水分を含んで重く肌にまとわりつく。

 「気持ち悪い……」

 小春は不快そうに小さく呟きながら、最短ルートで自宅へと向かった。


 地上に降り立ち、玄関前に着地した頃には、彼女の身体は芯まで冷え切っていた。翼を畳み、滴る雨水を払いながら、小春は静かな扉を見つめた。


 挿絵(By みてみん)


 翌日の店内も、開店直後から大勢の客で賑わっていた。

 昨日、麗夏が入り口の自動ドアの横に貼った『アルバイト募集』の紙は、さっそく多くの客の目に留まり、応募が殺到した。


 しかし、バックヤードに持ち込まれる履歴書や面接希望の内容は、どれもこれも首を傾げたくなるものばかりだった。

 「小春さんの電気で痺れたいんです!」

 「麗夏さんの澄んだ瞳で見つめられて、氷漬けにされたい……」

 そんな不純な動機を隠そうともしないファンばかりが押し寄せ、真面目に働くスタッフを期待していた二人は、半ば諦めムードになっていた。


 そんな忙しない一日が、夕暮れ時を迎えようとしていた頃。


 小春は売り切れた飲料の品出しをするため、冷蔵庫の前で重いケースを抱えていた。その背中に、一人の女性が声をかけてきた。


 「小春さん、お久しぶりです!」


 小春は飲料を棚に差し込みながら、振り返りもせずに答えた。

 「はいはい、あんたも私が目当てならお断り……って、あれ?」


 ゆっくりと顔を向けた小春は、その場で動きを止めた。目の前に立つ女性の纏う空気に、確かな既視感を覚えたのだ。どこかで、ずっと前に会った気がする。


 「琴山(ことやま)です。琴山 愛稀(あき)です」


 琴山という名字にすぐにはピンとこなかった。だが、愛稀という名を頭の中で繰り返すうちに、記憶の奥底に眠っていた情景が鮮烈に蘇る。愛稀……、愛稀……。


 「……あ!! あの時の!?」


 小春が思わず声を上げると、女性は嬉しそうに頬を緩め、深々と頭を下げた。


 「はい! あの時は助けていただいて、本当にありがとうございました!」


 それは小春が 15歳の頃の話だ。燃え盛るマンションの炎の中から、麗夏がその腕で抱き上げ、救い出した少女。目の前にいるのは、あの時の面影を残したまま成長した彼女だった。


 「なになに!? 愛稀ちゃん!?」


 レジでの会計を終えた麗夏が、異変に気づいて駆け寄ってきた。愛稀の姿を認めるなり、麗夏の瞳が驚きで大きく見開かれる。


 「本当にあの時の愛稀ちゃんなの!? お久しぶり!!」


 驚きを隠せない麗夏に対し、愛稀は少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐに二人を見つめ返した。


 「はい! あの時は本当にお世話になりました。ずっとずっと、ちゃんとお礼を伝えたかったんです。でも、お二人がどこにいらっしゃるか分からなくて……。そしたら、ニュースでこのお店のことを知って、本当にびっくりして!」


 「わざわざ会いに来てくれたのね……。嬉しいわ。そっかぁ、あれからもう八年も経つのね……」

 「はい、今年で 21歳になります!」


 愛稀はハキハキとした口調で答え、満面の笑みを浮かべた。

 小春と麗夏は、当時の泣きじゃくっていた愛稀の顔からは想像もつかないほど、元気いっぱいで快活な女性になった彼女の姿を見て、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 「ずっとお二人への憧れがあって、いつか何か恩返しができないかって思ってたんです。そしたらニュースをよく見ていたら、このお店、アルバイトの募集を始めたって書いてあって……。もしかしたら、私もお二人の力になれるかもしれないって、急いで履歴書を握りしめて飛んできちゃいました」


 愛稀は手元に抱えていたカバンをきゅっと抱きしめ、少し上目遣いで二人を見つめた。


 「あの……そのアルバイトなんですけど、もう、決まっちゃいましたか……?」


 少し遠慮がちに、けれど期待を込めた愛稀の言葉に、小春は「ふん!」と短く鼻を鳴らして顔を背けた。


 「……あたし、何か怒らせるようなことを聞いちゃいました……?」


 愛稀が不安そうに身を縮めると、それを見ていた麗夏がクスクスと楽しげに笑いながら、小春の反応を代弁した。


 「大丈夫よ、愛稀ちゃん。小春先輩は別に怒ってるわけじゃなくて、図星を突かれただけだから」

 「図星……?」

 「そうなの。変な動機の応募ばかりで困っていたところなのよ」


 麗夏にからかわれ、小春はバツが悪そうに肩をピクリと震わせた。愛稀はほっとしたように表情を緩め、今度は真剣な眼差しで二人を見つめた。


 「そうなんですね。あの、もし良かったら、あたしをここで雇っていただけませんか? 当時助けていただいたお礼もしたいですし、今度はあたしがお二人の力になりたいんです! 未経験ですけど、一生懸命がんばりますから……!」

 「え!? 本当にいいの!?」


 麗夏が驚きと喜びの声を上げる。願ってもない申し出だったが、小春は腕を組み、現実的な問いを投げかけた。


 「……気持ちは嬉しいけどさ。あんた今年 21でしょ? 大学生だか何だか知らないけど、自分の生活は大丈夫なわけ? 恩返しなんていいから、ちゃんと自分の本業を優先しなさいよ」


 小春のぶっきらぼうな、けれど愛稀の身を案じる言葉に、愛稀は嬉しそうに目を細めた。


 「あはは、心配ありがとうございます。あたし、今は大学生なんです。学業があるので毎日ずっとお店にはいられませんが、講義の空いた時間や週末とか、働けるときにいつでも駆けつけます! もともとそうやってお二人の力になりたくて、今日ここに来たんです」


 愛稀の曇りのない言葉に、小春と麗夏は顔を見合わせた。不純な動機で押し寄せる群衆の中で、これほどまでに誠実な好意を持って名乗りを上げてくれたのだ。


 「じゃあ……愛稀ちゃんにお願いしちゃおうかしら」

 麗夏の言葉に、小春も小さく頷いた。


 「はい! よろしくお願いします!」


 愛稀はパッと花が咲いたような笑顔で答え、深々と頭を下げた。梅雨の湿り気を吹き飛ばすような彼女の活気が、新しく動き出した店に、また一つ温かな光を灯した。


 採用が決まり、ほっと一息ついた愛稀は、改めてカウンターの中に立つ小春と麗夏の姿をじっくりと眺め回した。二人は新装開店以来、目まぐるしい忙しさに追われていたこともあり、それぞれ動きやすい手持ちの私服を着て業務に当たっていた。

 愛稀は人差し指を顎に当て、何かを思いついたように、あるいは微笑ましいものを見るような目で二人を見つめる。


 「……ん? なによ、ジロジロ見て」

 怪訝そうに眉をひそめる小春に、愛稀はあわてて両手を振った。


 「あ、すみません! 怒らせるつもりじゃなくて……ただ、お二人の雰囲気がすごく素敵だなって思って。でも、ふと気になっちゃったんです。このお店って従業員の制服がないですよね。何か理由があるんですか?」

 ふとした拍子に愛稀が投げかけた疑問に、麗夏はパチリと目を瞬かせた。


 「そういわれてみれば! 確かに……。毎日忙しすぎて、自分たちが動きやすい格好をすることしか考えてなかったわ」

 「特に理由がないなら、あたしが用意しましょうか? 実は服のデザインとか、考えるの好きなんです!」

 愛稀の提案に、麗夏はパッと表情を輝かせた。


 「それはぜひ愛稀ちゃんにお願いしたいわ。センスが良さそうだし、楽しみ!」

 「やった~!」


 愛稀はすっかりノリノリだ。さっそく人差し指を顎に当て、二人の姿を改めてじっくりと観察する。


 「じゃ、まずはデザインを考えなきゃ。……二人は、やっぱり黒が好きなんですか?」


 二人がお揃いのように着ている背中の開いた黒いTシャツを見て、愛稀が尋ねる。小春は腕を組み、当然だと言わんばかりに即答した。


 「黒が一番、このツノと翼に似合うから。余計な色は必要ないわ」

 「ふ~ん、でも、あたしはもっと明るい色の服が着たいです! お店の雰囲気もパッと明るくなるし!」


 愛稀が屈託のない笑顔で理想を語ると、小春の眉がぴくりと跳ねた。鋭い眼光が愛稀を射抜く。


 「あ? なんであんたに合わせなきゃいけないのよ」

 「まぁまぁ。せっかく愛稀ちゃんが手伝ってくれるんですし、ここは愛稀ちゃんに任せてみませんか? 新しい風が入るのも、お店にとっては良いことだと思いますよ!」


 小春は麗夏の顔をじっと見つめた後、ため息混じりに視線を逸らした。


 「……ふん。勝手にしなさい」

 投げやりな言葉とは裏腹に、小春はそれ以上の拒絶はしなかった。


 「ありがとうございます、小春さん!」

 愛稀の元気な声が店内に響き、新しい変化の予感が漂い始めていた。




 翌日。朝からどんよりとした雲が広がり、梅雨の雨がしとしとと街を濡らしていたが、店内に一歩足を踏み入れれば、そこは朝一番から大勢の買い物客で賑わっていた。自動ドアが開くたびに雨の匂いが吹き込むものの、それを打ち消すような活気が満ちている。


 愛稀は、昨日採用が決まったその日のうちに、麗夏と小春からレジの打ち方や品出しの手順など、店舗運営の基本をみっちりと叩き込まれていた。未経験の愛稀だったが、持ち前の素直さと指先の器用さもあって、驚くほどの早さで業務を吸収していった。


 そして迎えた初日の店頭。愛稀は緊張しながらもさっそくレジに入り、教えてもらった通りのハキハキとした明るい接客で店を盛り立てていた。


 そこへ、30歳前後と思われる一人のスーツ姿の青年が買い物カゴを持ってカウンターへやってきた。入れられているのは、甘いデニッシュとブラックの缶コーヒーだ。


 「いらっしゃいませ! 全部で 280円になります。レジ袋は必要ですか?」


 愛稀がハキハキとした声で応対する。青年は小銭を取り出しながら、少し落ち着かない様子で店内を見渡した。


 「……あの、今日は小春さん、いないんですか?」

 「小春さんは今、裏にいますよ! お呼びしましょうか?」


 愛稀が屈託のない笑顔で提案すると、青年は慌てたように首を振った。


 「い、いや、いいです。……大丈夫です」


 青年はどこか残念そうに肩を落とし、商品を受け取ると足早に店を後にした。その様子を、バックヤードの隙間から小春と麗夏がひっそりと覗き見していた。


 「あの男の人、毎日来てますよね。小春先輩がいるか確認して、いないとあんなに分かりやすく落ち込んじゃって……」


 麗夏がクスクスと笑いながら小声で囁く。対する小春は、腕を組んだまま呆れたように鼻を鳴らした。


 「ふん、物好きなやつ。っていうか、あの男、毎日毎日飽きもせず甘いデニッシュとブラックのコーヒーばっかり買っていくよね。よく胃がもたれないわ」


 小春が呆れたようにそう吐き捨てると、麗夏はふと思い出したように顔を上げ、レジカウンターにいる愛稀へと声をかけた。


 「愛稀ちゃん、そういえば昨日の制服の件、どうなった? デザインとか決まったのかしら」


 愛稀は接客の合間にパッと顔を輝かせ、得意げに人差し指を立てて答えた。


 「あ、麗夏さん! ばっちりですよ。もう発注しちゃいました! お急ぎ便で頼んだので、早ければ今日の夕方には届くと思います!」

 「えっ、もう!? 仕事が早いわね……」


 麗夏が驚きに目を見開くと、隣にいた小春も眉を寄せ、半信半疑といった様子で身を乗り出した。


 「ちょっと、勝手に頼んだの? どんなデザインにしたのか見せなさいよ。変なものだったら私、着ないからね!!」

 「ふふ、楽しみにしててください! 絶対に二人に似合うはずですから!」




 外がすっかり暗くなり、しとしとと降り続く雨の音だけが響く。ようやく客足が途絶え始めたタイミングで入り口の自動ドアが開き、宅配便の小包が届いた。


 「あ、来たみたいです!」


 レジカウンターで愛稀が手際よく受け取ると、待ちきれない様子でその場でカッターを差し込み、箱を開封する。その様子を、小春と麗夏も興味深げに背後から覗き込んだ。

 中から現れたのは、目に優しい薄い緑色のポロシャツが三着だった。胸の辺りには店の名前『角と翼』のロゴが丁寧に刺繍されている。


 「かわいい! 落ち着いた色だし、お店の雰囲気も明るくなりそうね」


 麗夏が声を弾ませてポロシャツの生地に触れると、愛稀は「でしょでしょ!」と鼻を高くした。一方、小春は腕を組み、相変わらずの冷ややかな視線を向ける。


 「ふん。貴重な経費を使ったわりには、この程度よね。どこにでもあるような服じゃない」

 「あはは、小春さん厳しいなあ。でも、実はこの服、そのままじゃ着られないんですよね。……ほら、お二人の翼を出す穴が開いていないんです。そこで、じゃじゃーん!」

 愛稀はどこから用意したのか、年季の入った裁縫箱をカウンターの上にドンと置いた。


 「今日の夜、あたしが居残って背中に穴を開けて、綺麗に縁取りしておきます。お二人は先に帰っててください。明日には完成させておきますから!」

 「……へぇ、愛稀ちゃん、お裁縫できるの? 器用なのね」


 麗夏が感心したように目を丸くすると、愛稀は得意げに裁縫箱の針刺しを整えながら胸を張った。


 「はい! 指先の器用さには自信があるんです。ピアノも弾けますよ!」

 「ピアノなんて興味ないわ」


 小春は興味なさそうに視線を逸らし、バックヤードへ向かった。その背中を見送りながら、愛稀は麗夏の方を向き、声を潜めて囁いた。


 「……小春さんって、本当に素直じゃないですよね」

 「そうよね。あんな言い方してるけど、本当は新しい制服、ちょっと楽しみにしてるはずよ」


 二人は顔を見合わせてクスクスと笑い合った。




 翌朝、小春と麗夏が出勤してバックヤードの扉を開けると、そこには丸椅子に座ったまま長机に突っ伏して爆睡している愛稀の姿があった。

 目の前の長机には、丁寧に折り畳まれた薄緑色のポロシャツが二着重ねられている。背中の部分には、翼を出すための綺麗なスリットが器用に施されていた。

 二人の足音に気づいたのか、愛稀がゆっくりと頭を上げた。


 「……ふぁぁ、おはようございます……」

 「おはよう! 愛稀ちゃん、もしかしてずっと起きてたの? その服……」


 麗夏が長机の上のポロシャツを指差すと、愛稀は目をこすりながら満足げに胸を張った。


 「どう? いいでしょ。昨日、夜通しで仕上げたんです。さっそく着てみてください!」


 小春と麗夏は、いつもの黒いTシャツの上から薄緑色のポロシャツに袖を通した。

 小春は手際よく一番下のボタンをひとつだけ留めると、背中のスリットから自身の漆黒の翼を力強く引き出した。一方、麗夏も一番下のボタンをひとつ留めると襟元を丁寧に正し、それから自身の翼をスリットから外へと逃がした。


 「小春さん、襟が立ってますよ!」


 愛稀が小春の首元に手を伸ばし、ピンと立った襟を寝かせようと指先を動かす。


 「ちょっ……! なにすんのよ!」


 小春は反射的に声を上げたが、それ以上は何も言わなかった。愛稀の手が離れた直後、小春は無言のまま、わざとらしく自分の襟を再びぐいっと立て直した。


 「そういえば小春先輩、中学の頃も体操服の襟を立ててたわ。きっと、襟を立てるのが小春先輩なりのこだわりなのよ。そっとしておきましょ?」


 麗夏が懐かしそうに目を細めて教えると、愛稀は信じられないといった様子で声を上げた。


 「えー! 襟を立てるなんて、なんだか昭和のヤンキーみたい!」

 「……開店の準備してくるわ」

 小春は二人のニヤニヤとした視線を振り切るように背を向けると、バサリと翼を翻して店頭へと向かった。




 開店して少し経った頃、スーツ姿のいつもの常連客が姿を現した。例の甘いデニッシュとブラックの缶コーヒーを手に取り、カウンターへと進んでくる青年だ。

 今日のレジ担当は小春だった。


 「……280円。袋は?」

 小春は客の顔をろくに見ず、機械的に問いかけた。


 「いえ、結構です。……今日も、素敵な接客ですね」

 青年が真っ直ぐに小春の瞳を見つめて微笑むと、小春はレジを打つ手を一瞬だけ止めた。


 「……あ? 嫌味なら他所でやって。あんた、毎日毎日よく飽きないわね、この苦い飲み物」

 小春が不機嫌そうに鼻を鳴らすと、青年は困ったように、けれどどこか楽しげに目を細めた。


 「嫌味なんてとんでもない。このコーヒー、確かに苦いんですけど、小春さんにレジを打ってもらうと不思議と目が覚めるというか……シャキッとするんです。デニッシュの甘さともよく合いますし」

 「……っ! 変なこと言ってんじゃないわよ。気色悪いわね」


 小春は耳の付け根が熱くなるのを感じ、動揺を隠すようにレジ袋の束を荒々しく整えた。青年はそんな彼女の反応を楽しむかのように、穏やかな笑みを崩さない。


 「はは、正直な感想ですよ。……あ、その制服、すごく似合ってます。昨日までとはまた違った雰囲気で、素敵です」


 青年の視線が、新調された薄緑色のポロシャツに向けられた。小春は言葉に詰まり、レジの液晶画面を睨みつけながら、ぶっきらぼうにレシートを差し出した。


 「……さっさと持っていきなさいよ。ほら、後ろ、詰まってるんだから」


 小春が顎で示した先には、いつの間にか数人の客が列を作っていた。青年は「失礼しました」と短く会釈し、満足そうな足取りで店を出ていった。

 自動ドアが閉まる音を聞きながら、小春はカウンターを手のひらで軽く叩き、落ち着かない気分を振り払った。


 (……何なのよ、あいつ。普通、あんな言い方されたら怯えるか怒るかでしょ。……変な人間)


 バックヤードから麗夏と愛稀が、声を殺してやり取りを見守っていることにも気づかないまま、小春は次の客に向けて、努めて事務的な声を絞り出した。




 昼休み。店頭を麗夏に任せ、小春と愛稀は自分たちのコンビニで買った弁当をバックヤードで食べながら話をしていた。


 「あの常連客、絶対小春さんのことが好きですよ! いっそのこと、付き合っちゃえばいいのに」


 愛稀が割り箸を割りながら唐突に放った言葉に、小春は口に運ぼうとした卵焼きを止めて、冷めた眼差しを向けた。


 「は? 恋愛なんて興味ないし。そもそも人を好きになるという感情がわからない」


 小春が淡々と、けれど突き放すように言い切ると、愛稀は「ええーっ!」と大仰にのけぞってため息をついた。


 「ダメですね……。小春さん、重症ですよ」

 「何がよ。そんな非合理な感情、生きていくのに必要ないでしょ」


 愛稀は「いいですか?」と人差し指を立てて、勝手に恋愛講座を始めた。


 「恋愛というのは、理屈じゃないんです。相手の姿が見えないと落ち着かなかったり、さっきみたいな変なことを言われて、ちょっとだけ心拍数が上がったり……。そういう『説明のつかないバグ』が起きたら、それが恋の始まりなんですよ!」


 小春は呆れたように鼻で笑い、最後の一口を飲み込むと、空になった弁当箱をゴミ箱に投げ捨てた。


 「……休憩終わり。麗夏と代わってくるわ」


 小春はそれ以上追及されるのを避けるように、足早に店頭へと戻っていった。

 一人残された愛稀は、小春がいなくなった扉をじっと見つめながら、ワクワクを抑えきれない様子で身を乗り出した。


 「……ふふーん。『感情がわからない』かぁ。あんなにわかりやすく動揺しちゃって、もう可愛いんだから!」


 愛稀は丸椅子に座りながら足をパタパタとさせ、まるで好きなアニメの続きを楽しみにする中学生のような無邪気な笑顔を浮かべた。かつて麗夏と共に自分の命を救ってくれた憧れの小春が、まさかこんなに「恋」に疎いなんて、面白くて仕方がなかった。


 「よーし、決めた! あたしが小春さんの恋を応援してあげよう。あのお兄さん、次に来た時にもっと色々聞き出してみちゃおっかな。あーあ、早く明日にならないかな!」


 愛稀は鼻歌を歌いながら、空になった自分の弁当箱をゴミ箱に捨てた。




 翌朝。雨上がりの澄んだ空気の中、いつもの常連客がいつものように甘いデニッシュとブラックの缶コーヒーを持ってレジに現れた。今日のレジ担当は麗夏だ。


 「ありがとうございました。またお越しください!」


 麗夏がにこやかに見送ると、バックヤードでタイミングを計っていた愛稀が、小春の目を盗んで素早く店を抜け出した。そして、入り口を出たばかりの青年の背中に駆け寄った。


 「あの! すみません、ちょっといいですか?」

 青年が驚いて足を止めると、愛稀は周囲を気にしながら直球を投げつけた。


 「あの……突然すみません! 小春さんのことが、好きなんですよね?」


 突然の問いに、青年は一瞬たじろぎ、顔を赤らめて戸惑った。しかし、愛稀の真っ直ぐな瞳に気圧されたのか、やがて落ち着きを取り戻すと、観念したように小さく呟いた。


 「……はい」


 「やっぱり! あなたを見ていると分かります!」

 「はは、バレちゃってましたか。そんなに分かりやすかったかな……」


 青年が照れくさそうに後頭部を掻くと、愛稀はわくわくした様子で身を乗り出した。


 「あたしで良ければ、力になりますよ! 小春さん、恋愛にはすっごく疎いから、応援したくなっちゃって!」

 「本当ですか!? ありがとうございます。心強いです」

 「えへへ、お任せください。あ、差し支えなければ、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 「瀬土(せど)といいます。……あの、もしよろしければ、小春さんの好きなものを教えてもらえませんか? 何か喜んでもらえるきっかけが欲しくて」

 「好きなもの……」


 愛稀は人差し指を顎に当てて考え込んだ。だが、再会してからまだ日は浅く、小春が何に目を輝かせるのか、すぐにはピンとこなかった。


 「うーん、あたしが知っているのは、中学からテニスをしていたことぐらいかも……」

 「テニスが好きなんですね。……なるほど、じゃあ今度、新しいラケットをプレゼントしようかな」

 「わあ、いいと思いますよ! 瀬土さん、応援してますからね!」


 愛稀が拳を握ってエールを送っていたその時。

 混み始めてきた店内から、ガラス戸を突き抜けるような荒々しい怒号が聞こえてきた。


 「おい! 順番に並べって言ってんでしょ!! 割り込んでんじゃないわよ!!」


 小春の容赦ない叱り声に、周囲の客がビクリと肩を揺らす。しかし、瀬土はその声を聞くやいなや、吸い寄せられるように店内を覗き込み、うっとりと頬を緩めた。


 「……やっぱり、あの方は素敵だ。あの凛とした強さが、たまらないんですよね」


 愛稀は、普通の人なら怯えてしまうような小春の怒鳴り声に、より一層恋心を募らせている瀬土を横目で見て、嬉しそうにニヤニヤと笑った。




 その日の閉店後。朝のあの澄み渡った青空が嘘のように、外では再びしとしとと雨が降り始めていた。

 バックヤードでは麗夏がパソコンに向かい、今日の売上の数字をカタカタと打ち込んでいる。その隣で、小春と愛稀は丸椅子に座り、あの常連客についての話を続けていた。


 「ねえ、小春さん。いつ付き合うんですか?」

 愛稀は身を乗り出し、目を輝かせてワクワクしながら問いかけた。


 「ちょっ、何言ってんのよ! バカバカしい。ありえないから」

 「でも瀬土さんは、絶対に小春さんのことが好きなんです! あとは小春さんの気持ちを伝えるだけですよ!」


 愛稀の勢いに押され気味だった小春だったが、ふとその言葉に違和感を覚えて眉を寄せた。


 「……瀬土さん? あんた、なんであの客の名前を知ってんのよ」

 「そ、それは……、か、カバンに名前が書いてあったから! あはは……」


 愛稀は落ち着きなく視線をあちこちへ彷徨わせながら、わかりやすい嘘をついて笑ってごまかした。小春はその動揺を見て、自分に内緒で接触したのだろうとすぐに察したが、あえて深く追及はしなかった。


 少しの沈黙が流れ、雨音だけが店内に響く。やがて、小春が重い口を開いた。


 「……確かに、あの人の私だけを真っ直ぐに見据える一途な目は、素敵だと思うわ」

 小春はそこまで言うと、一度言葉を切った。そして、暗闇に包まれた窓ガラスに視線を向ける。そこには、照明に照らされてぼんやりと浮き上がる、頭の右側に黒いツノが生えている自分の姿が映っていた。


 「でもね、愛稀。あんたもニュースを観ていたなら知っていると思うけど、私ね……昔、たくさんの人間を殺したことがあるの」


 その言葉が出た瞬間、バックヤードの空気が一気に凍りついた。


 「研究施設に唯一無二のデータを提供したことと、当時は未成年だったから、奇跡的に解放されて今の生活を送れている。でも、普通の人間なら死刑にされていて当然。そんな私が、恋なんかする資格なんてない」


 窓に映る自分の異形を見つめる小春の瞳は、静まり返った夜の底のように深く、暗かった。その言葉の重みに、明るい性格の愛稀でさえ、言葉を失ってしまった。


 「……」


 かつて麗夏と共に命を救ってくれた憧れのヒーロー。けれど、そのヒーローが背負っている(ごう)はあまりにも深く、凄惨な過去を持つ者の絶望が、自分のような立場の人間にわかるはずもないことを愛稀は悟っていた。

 麗夏はパソコンのキーを打つ手を止めず、売上の計算をしながら、ただ黙って二人の会話を聞いていた。キーボードの乾いた音だけが、小春の独白を埋めるように響き続けている。


 「私が瀬土と交際するということは、瀬土にもその罪を背負わせるということよ」

 その言葉は、雨音よりも重くバックヤードに響いた。愛稀は「確かにその通りだ」と痛感し、そこまで考えていなかった自分自身の浅はかさに、胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。


 「恋愛の話なんて、もう二度としないでちょうだい」

 小春は拒絶するようにそう言い捨てると、椅子から立ち上がり、裏口のドアを開けて外へ出た。


 降りしきる雨の中、小春が大きく翼を広げ、暗い空へと飛び立とうとしたその時。背後で勢いよくドアが開く音がした。

 振り返ると、そこには雨に濡れるのも構わず、必死な形相で小春を見つめる愛稀の姿があった。


 「あの!……本当に、すみませんでしたっ……!」


 雨粒が頬を伝う愛稀の謝罪を聞き、小春は一瞬だけ表情を和らげた。


 「わかればいいのよ。じゃあね」

 「はい!……あ、明日は大学の講義があるので、午前中は休みます!」

 「わかったわ」


 小春はそれだけ残すと、力強く羽ばたき、夜の雨幕の中へと消えていった。

 一人、静まり返った店内に戻った愛稀。パソコンを閉じた麗夏が、努めて明るい声で話しかけてきた。


 「今日も黒字。愛稀ちゃんのおかげで助かってるわ、ありがとう」


 それは、沈みきった空気を見かねた麗夏なりの、精一杯の気遣いだった。けれど、愛稀の心にはその言葉を跳ね返すだけの力は残っていなかった。


 「こちらこそ、ありがとうございます……」


 短い返事だけで会話は途切れてしまい、期待された明るさは戻らなかった。麗夏はそれ以上何も言わず、優しく微笑んで荷物を手にした。


 「……私たちも帰りましょう」

 「はい」


 二人は裏口から外へ出ると、冷たい鍵の音を響かせてドアを閉めた。

 麗夏は「じゃあね」と短く告げると、雨に濡れるのも厭わず大きな翼を広げた。ひとたび羽ばたけば、彼女の体は重力を振り切って夜空へと吸い込まれていく。

 一方、地上に残された愛稀は、一人静かに傘を広げた。上空へと消えていった麗夏の影を見送った後、雨粒が傘を叩く音だけを連れて、重い足取りで駅の方へと歩き出した。




 翌日。雨は上がったものの、空はどんよりとした厚い雲に覆われていた。昨日の雨のせいで、アスファルトの地面は黒く濡れたままだ。

 昨夜の重い空気や小春の独白など知る由もない瀬土が、大きな箱を大事そうに抱えて店に現れた。彼は、袋菓子の棚の前で品出しをしている小春のもとへ、意を決したように歩み寄る。


 「あ、あの……小春さん、これ、もらってくれませんか?」


 瀬土の声は上ずり、表情は緊張で強張っていた。小春は不審げに首をかしげながらも、その場で箱を受け取り、包装を解いて中身を確認した。そこに入っていたのは、新品のテニスラケットだった。


 「テニス、好きなんですよね? 良かったらこれ、使ってください!」


 小春は一瞬、ラケットのガットを指先でなぞり、消え入りそうな小さな声で呟いた。


 「ありがとう……」


 その言葉に、瀬土の顔にはパッと明るい笑顔が弾けた。しかし、直後、小春は豹変したように顔を上げ、冷ややかな瞳で彼を射抜いた。


 「……なんて、言うと思う? バッカじゃないの!? 確かに私はテニス部だったけど、テニスが好きだなんてこれっぽっちも思ってないし!! 私にとってテニスは、ただの暇つぶしなだけよ!!」


 小春はラケットを箱に押し戻すと、突き放すような動作で瀬土の胸元へ強引に押し返した。瀬土の笑顔は瞬時に凍りつき、気まずそうな苦笑いへと変わった。


 「そ、そう……なんですか? 喜んでもらえると思ったのに……」


 瀬土は肩を落とし、がっくりと項垂れた。そして、「どうすれば小春さんを喜ばせることができるんだろう」と、わざとらしくも聞こえる大きな独り言を漏らした。

 その情けない姿を冷めた目で見ていた小春だったが、ふっと小さく鼻を鳴らした。


 「……でも、あんたのその無駄な努力を、認めてあげなくもないわ。……少しだけ、話をしてあげる。ついてきて」


 小春は手に持っていた菓子の袋を棚にぶち込むと、薄緑色の制服のまま、迷いのない足取りでコンビニを出ていった。


 「はい!!」


 瀬土は一転して明るい表情になり、ラケットの箱を抱え直して、小春の背中を追うように勢いよく店を飛び出した。店内に残された麗夏は、自動ドアの閉まる音を聞きながら、遠ざかる二人の背中を静かに見守っていた。


 コンビニの裏手にある長い木製ベンチ。昨夜の雨で座面はしっとりと濡れていたが、小春がその上に手のひらをかざすと、手のひらから微かな熱風が放射された。瞬時に水蒸気が立ち昇り、ベンチは乾いた木肌を取り戻す。

 小春は乾いたベンチへ腰を下ろした。


 沈黙が流れる。聞こえるのは、遠くの幹線道路を走る車の走行音と、雨上がりの空を喜ぶような鳥のさえずりだけだった。小春は自分の隣の空いているスペースを無造作にポンポンと叩く。


 「……座れば?」


 「あ……ありがとう」


 瀬土がおずおずと隣に座ると、それまで風に乗って届いていた冷ややかな澄んだ空気の匂いが、ふいに別のものへと切り替わった。


 (……ん? なに、この匂い)


 鼻腔をかすかに突いたのは、ツンとする、シンナーに似た独特な油の匂いだった。どこかから風に運ばれてきたものなのか、それとも瀬土が身につけている衣類から匂っているのか。何の匂いだろう、と小春は怪訝に思ったが、口には出さず胸の奥にそっとしまい込んだ。


 小春は前を見つめたまま、静かに口を開いた。


 「瀬土……だっけ。あんた、なんで私なのよ。もっと普通で、可愛い女なんて、他にいくらでもいるでしょ。その方が、ずっと真っ当な人生を送れるはずよ」


 小春の声には、自嘲気味な響きが混じっていた。すると、瀬土は少しだけ俯いて、噛み締めるように言葉を返した。


 「……確かに、君は普通じゃないかもしれない。でも僕は、君の瞳の奥にある、誰よりも真っ直ぐで嘘のない強さに惹かれたんだ」


 その言葉に、小春は僅かに目を見開いたが、すぐに視線を逸らして続けた。


 「テレビ、観てたんでしょ? 私がこれまでどれだけの人間を屠り、どれだけ過酷な地獄を這ってきたか。この背中の翼も、折れたツノも、その過去の証なの。そんな奴の隣に座って、平気な顔をしていられるなんて……やっぱりあんた、変わってる」


 小春は突き放すように言った。自分という存在の重さに、彼が耐えきれず去っていくのを期待しているかのような、鋭い言葉。しかし、瀬土はただ、穏やかな笑みを浮かべていた。


 「……君が何を言っても、僕は今、こうして小春さんと話ができている。その事実だけで、胸がいっぱいなんだ。過去のニュースより、今目の前にいる君の言葉の方が、僕にはずっと価値がある」

 「……おめでたい男ね」


 小春が呆れたようにため息をつき、ふっと視線を落とした。

 再び訪れた静寂。雨が止んだあとの、少し湿り気を帯びた冷たい空気の中で、これ以上言葉が続かず、気まずい沈黙が流れる。小春が手持ち無沙汰に自分の爪を見つめようとした、その時だった。


 「あ、小春さん。……襟が立ってるよ」


 瀬土が親切心からそう指摘すると、小春は動きを止め、ジロリと彼を睨みつけた。


 「あんた、いつも私をジロジロ見てるくせに。……これ、わざと立ててるのよ! 知らないの?」

 「え……? ああ、そうだったのか。ごめん、てっきり直すのを忘れているのかと。……でも、どうしてわざわざ?」

 「別にいいじゃないのよ。私の勝手でしょ」


 小春は、瀬土の視線にさらされて少し倒れかけていた襟を、指先でピンと立て直しながら不機嫌そうに吐き捨てた。しかし、瀬土は恐れる様子もなく、どこか懐かしむような穏やかな声で続けた。


 「……僕は、ちゃんと襟を直している君の方が、ずっと可愛いと思うよ」

 「……っ!?」


 小春の思考が、一瞬にして完全に停止した。


 『可愛い』


 人ならざるツノを持ち、禍々しい翼を背負う彼女の人生において、それは最も縁遠く、最も自分には相応しくないと思い定めていた言葉だった。

 心臓が不規則な音を立て、顔に熱が昇っていく。それを隠すように、小春は震える声で精一杯の毒を吐いた。


 「……バカじゃないの。死ぬわよ、あんた」


 殺し文句のつもりだったが、その声にはいつもの鋭さはなく、どこか弱々しく震えていた。赤くなった顔をこれ以上見られるわけにはいかない。小春は耐えきれなくなり、弾かれたようにベンチから立ち上がった。

 戸惑う瀬土を置き去りにしたまま、逃げるような足取りで店内へと戻っていく。その背中を、瀬土はただ優しく見送った。




 小春がコンビニに戻ると、そこには午前中の講義を終えた愛稀がすでに出勤していた。


 「小春さん、こんにちは!」


 元気な挨拶が響いたが、小春はそれに気づく様子もなく、呆然とした面持ちのままバックヤードへ直行した。そして備え付けの鏡を覗き込み、食い入るように自分の容姿を見つめ始める。

 愛稀は、挨拶を完全に無視されたことに戸惑った。昨夜の重い空気、そして「二度と恋愛の話はするな」という拒絶をまだ根に持っているのかと不安になり、恐る恐る小春の後を追った。


 (……これのどこが、可愛いのかしら)


 鏡の中には、1本の鋭いツノと黒い翼を持つ自分が映っている。小春がそんな自問自答に(ふけ)っていると、ふとした気配を感じて鋭く振り向いた。そこには、扉の隙間から様子を伺っている愛稀の姿があった。


 「愛稀。……私って、可愛い?」

 「え? ……ええーっ!?」


 予想だにしない問いかけに、愛稀の裏返った声がバックヤードに響く。


 「も、もちろん可愛いですよ! 当たり前じゃないですか! あは、あははは……」


 あまりの唐突さに、愛稀は引きつった笑みを浮かべながら後ずさりし、そのまま足早に店頭へと逃げていった。

 瀬土が何気なく放った「可愛い」という一言。それは、小春が頑なに閉ざしていた心の鍵に、逃れようのない亀裂を生じさせていた。


 その頃、店頭に戻った愛稀は、レジにいた麗夏にしがみつくようにして報告していた。


 「麗夏さん、大変です……! 小春さんが、小春さんが壊れちゃいました……!」

 「あらあら、今度は何があったのかしら」


 麗夏は困ったように微笑みながら、小春が籠っているバックヤードの入り口を、優しく見守るのだった。




 そして次の日の朝。


 「おはよう」


 小春がいつものようにバックヤードから入ってくると、すでに開店準備を始めていた麗夏と愛稀は、小春の姿を見るなり作業の手を止めて絶句した。


 「小春さん! 襟、襟が!!」


 愛稀が指を差して叫ぶ。小春が身に纏っている薄緑色の制服の襟は、昨日までのように立てられることなく、綺麗に正されていた。


 「先輩! 襟、今日は立てないんですか……?」


 麗夏も目を丸くして、驚きと少しのからかいが混じった声を出す。中学時代から頑なに貫いてきた彼女のスタイルが、一夜にして崩れたのだ。


 「……うるさいわね」


 小春は耳の先まで真っ赤にしながら、それだけを吐き捨てると、視線を泳がせながら猛烈な勢いで商品の陳列作業を始めた。正された襟元は、彼女の強がりの向こう側にある、ほんの少しの素直さを代弁しているようだった。ふと、陳列中のサンドイッチを置く手を止め、小春は背後にいる二人に声をかけた。


 「ねえ。そういえばさ、あの瀬土って奴……。あんたたち、あいつのことどれくらい知ってるの?」


 唐突な質問に、麗夏は手を止めて指を折った。

 「そうですね……毎朝必ず、甘いデニッシュとブラックの缶コーヒーを買っていくこと、くらいでしょうか」


 愛稀はニヤニヤしながら、おにぎりの棚を整える。

 「あたしが知ってるのは、小春さんに『死ぬわよ』って言われても、うっとり喜んじゃう相当な変わり者だってことくらいかなぁ!」


 「……それだけ?」

 小春が不満げに眉を寄せた。


 「どこに住んでるのよ? 仕事は何? ……もしかして、どっかのスパイとか、私に好意があると見せかけて、隙を狙う暗殺者の可能性だってあるわよね」

 「いやいや、先輩! 暗殺者があんなにデレデレした顔でプレゼントなんて持ってこないですよ!」


 麗夏は笑って受け流そうとしたが、ふと何かに気づいたように首を傾げた。


 「でも、そういえば……。いつもスーツ姿ですけど、名札もつけてないし、名刺を見たこともないですね。お会計もいつも現金か、たまにプリペイドカードを使うくらいで……」

 麗夏の声に、わずかな不安が混じる。


 「気になるんですか?」

 愛稀が意地悪くたずねると、小春は「別に!」と食い気味に否定した。


 「客の素性なんて興味ないわよ。ただ、セキュリティ上の問題ってだけ」


 そう言い放ったものの、小春の心には小さなさざ波が立っていた。

 自分は過去も、犯した罪も、この体の特徴も、全てを全国放送のニュースで晒してしまった。丸裸にされた自分に対し、自分を「可愛い」とまで言ったあの男については、名前以外、何一つ知らないのだ。


 「……今日、来たら問い詰めてやるわ。どこの馬の骨かハッキリさせないと、なんだか落ち着かないもの」


 小春は正した襟を無意識に指でなぞり、品出しの作業を再開した。




 開店して少し経った頃、自動ドアのチャイムとともに、いつものように瀬土が姿を現した。彼はレジカウンターの中に立つ小春を見るなり、その表情をぱっと輝かせた。


 「おはよう、小春さん。……やっぱり、襟を正したほうが似合ってる。すごく素敵だ」


 その真っ直ぐな称賛に、小春の顔が一瞬赤らんだが、彼女はすぐに気を引き締めてカウンターに身を乗り出した。


 「……ねえ、あんた。私、あんたの名前と好物以外、何も知らないんだけど。……一体何者なのよ。どこで何して、どこに住んでるわけ?」


 尋問のような問いかけに、瀬土は一瞬驚いたように目を丸くし、それから少し困ったように頬を掻いた。


 「……そうだね。急に詳しく聞かれると、なんだか照れるな。ええと、年齢は 31歳だよ。君より少し、年上かな」

 「年齢なんて、見たらだいたいわかるわよ! 職業は!?」


 小春がさらに身を乗り出し、鋭い眼差しで問い詰めると、瀬土はふっと柔らかく微笑んだ。


 「……それは、秘密。ごめんね、今はまだ。またいつか、ゆっくり話そう」


 瀬土はそう言い残すと、会計を済ませたデニッシュとコーヒーを手に、ふわりと風が抜けるような足取りで店を後にした。


 「秘密……? ほら見なさい! やっぱり怪しいわよ、あいつ!」


 小春は鼻息荒く、麗夏と愛稀に向かって叫んだ。




 その日の午後、小春の様子は明らかに異常だった。

 自動ドアが閉まっているのに、誰かが入ってきたかのように何度も入り口を振り返ったり、モップを持ったまま同じ場所を一心不乱に磨き続けている。瀬土の「秘密」という言葉が、呪文のように頭から離れなかったのだ。

 その姿を見かねた麗夏が、そっと小春の隣に並んだ。


 「先輩、瀬土さんのことは一旦忘れましょう? そんなにイライラしていたら、お客様に怖がられちゃいますよ」

 「……私に命令しないで。別にイライラなんてしてないわよ」

 小春は俯いてため息をついた。


 「あの瀬土さんという人、確かに謎は多いですけど、小春さんを見る目は本物でした。悪い人には見えませんよ。もしかしたら、本当に恥ずかしくて言えないような、地味な仕事をしてるだけかもしれませんし」

 「地味な仕事……? 公務員とか?」

 「そうです。あるいは、すごく有名な企業の偉い人で、正体を明かしたら騒ぎになっちゃうとか!」


 愛稀も横から口を挟む。

 「あるいは、実は研究施設の……なーんて! あはは!」


 愛稀の笑えない冗談に、小春の瞳がスッと細くなった。

 「……研究施設はともかく、地味な仕事っていうのは当たってるかもね」


 小春は、瀬土と至近距離で話したときのことを思い返していた。彼が自分の隣に座ったとき、その体から、わずかに独特な匂いが漂ってきたことを思い出した。

 (なんの匂いだったっけ……。少しツンとするような、油っぽい匂い。印刷工場とか、ペンキに含まれているシンナーとか、そういう類の……)


 「……何にせよ、あいつは自分については何も明かさない。次に会った時、まともに答えないようなら……」


 小春は拳を握りしめ、パチパチと指先から小さな熱を帯びた火花を散らせた。


 「脅して吐かせてやるわ」

 「ちょっと、先輩! やめてください!」


 麗夏の必死な制止も耳に入らない様子で、小春は窓ガラスに映る自分のツノを、決意を込めた目で見つめ直した。




 翌日。空は今にも雨が降り出しそうな低い雲に覆われ、重苦しい空気が街を包み込んでいた。いつものように、瀬土がデニッシュとブラックの缶コーヒーを手にレジへ現れる。

 しかし、店内に小春の姿はない。彼女は今、コンビニの裏手にある長ベンチの前で、獲物を待つ猟師のように腕を組んで立っていた。万が一、相手が暗殺者やスパイで暴れ出すようなことがあっても、外であれば全力を出せる――それが彼女の立てた「呼び出し作戦」だった。

 今日のレジ担当は、事情をすべて把握している麗夏だ。愛稀は大学の講義があるため不在である。


 「280円になります。ちょうど頂戴しますね」


 瀬土が会計を済ませると、麗夏は努めて自然なトーンで彼に告げた。


 「あの、瀬土さん。小春先輩が裏のベンチで待っていますよ。お話があるみたいです」

 「えっ……小春さんが僕を?」


 瀬土の顔に、隠しきれない喜びが広がった。まるで憧れの相手に呼び出されたかのような、純粋なワクワク感を全身から漂わせながら、彼はデニッシュと缶コーヒーが入った買い物袋を持って急ぎ足で店の裏手へと向かった。


 瀬土が建物の角を曲がると、そこには険しい表情で待ち構える小春が長ベンチの前で立っていた。


 「来たわね、瀬土」

 「小春さん。ようやく僕のことが……」


 瀬土が言い終わるよりも早く、小春の一本のツノが青白い電気を帯び、バチバチと不穏な放電音を立て始めた。彼女の周囲の空気が、一気に戦闘態勢の重圧に支配される。


 「瀬土。あんたの仕事を教えなさい。さもなければ……ここでその余裕な面を、黒焦げにしてやるわ」


 それは脅しではなく、本気の宣告だった。魔法をその身に宿した「人殺しの兵器」としての威圧。普通なら腰を抜かすようなその光景を前に、瀬土は恐怖に震えるどころか、恍惚とした表情で呟いた。


 「……やっぱり、君は可愛い。女性でありながら、その強気な佇まいに、ますます惚れてしまったよ」

 「っ!!」


 小春のツノに集まっていた電撃が、その一言で激しく明滅した。放電は止まらず、ビリビリと火花を散らしたまま、小春の余裕を奪っていく。


 「あんた……、本気で言ってるの? 私、あんたを殺そうとしてるのよ……?」


 小春の頬が朱に染まり、彼女が築き上げてきた鉄の防壁に、大きな亀裂が走り始めていた。

 瀬土は、小春の放つ殺気やツノの電気を恐れる様子もなく、ふんわりとした微笑みを浮かべると、そのまま長ベンチに腰を下ろした。


 「勝手に座らないで!!」


 小春の鋭い叫びが、曇天の下に響き渡る。しかし、瀬土は穏やかな顔を崩さず、真っ直ぐに彼女を見上げた。


 「……話がしたいんだ、小春さん」


 その静かだが芯のある声に、小春は気圧された。完全に瀬土のペースに飲まれている自分を自覚し、忌々しげに舌打ちする。彼女はツノに帯びていた青白い電気をふっと消すと、無言で瀬土の隣に座った。


 少しの静粛が流れる。遠くで雨を予感させる風が吹き抜けた後、瀬土が静かに口を開いた。


 「……ハッキリ言おう。僕は、君が好きだ」


 「……っ。悪魔の私を好きになるなんて、あんたの脳みそどうかしてるわ。死にたいの?」


 小春は精一杯の毒を吐く。だが、瀬土は揺るがなかった。


 「悪魔? いや、小春さんは人間だ」

 「何を言ってるのよ。見てよ、このツノ、この翼。どう見たって悪魔でしょ」


 小春は自分のツノを乱暴に示し、自嘲的に笑った。しかし、瀬土の言葉は彼女の予想を遥かに超えていた。


 「姿こそ悪魔のようだが、本当に悪魔なら、こうして人と対等に会話なんてしないだろう?」

 瀬土は少しだけ声を和らげ、いたずらっぽく微笑んで続ける。


 「それに……『可愛い』と言われたときに見せてくれたあの表情……。あんなに愛らしくて、戸惑いに満ちた顔は、人間にしかできないよ」


 「……!!」


 小春は息を呑み、言葉を失った。

 自分を「悪魔」として律することで過酷な運命を耐え抜いてきた、その長年の自身の在り方を、目の前の男に根底から否定された衝撃。


 「私が……人間……?」


 小春の震える呟きは、湿った空気の中に溶けていった。小春の心の中で何かが音を立てて崩れ、同時に温かな違和感が胸の奥に広がり始めていた。

 ちょうどその時、重く垂れ込めていた雲からポツポツと雨が降り出してきた。冷たい雫が小春のツノを濡らし、乾いたアスファルトに黒い斑点を作っていく。


 「……二週間、待ってほしい。二週間経ったら、僕の仕事も身分も、すべて君に明かそう」


 瀬土はそう約束すると、強まり始めた雨を避けるように、いつになく早足で去っていった。その背中を見送りながら、小春は立ち上がることもできず、しばらく雨に打たれるままベンチに佇んでいた。

 やがて、小春は雨を含んでしっとりと重くなった薄緑色の制服を纏い、重い足取りでコンビニに戻った。


 自動ドアが開き、濡れた靴音が店内に響く。菓子売り場で接客をしていた麗夏が、その音に気づいて顔を上げた。お客様に会釈をして手早く対応を終えると、心配そうな表情で小春のもとへ駆け寄ってきた。


 「どうでした、先輩? ……って、びしょびしょじゃないですか……!」


 麗夏は小春の様子を伺うように声をかけたが、小春はうつむいたままだった。


 「…………」


 小春は何も答えず、まるで幽霊のようにふらふらとした歩みでバックヤードへと入っていった。彼女の頭の中では、瀬土の「君は人間だ」という言葉が、嵐のように渦巻いている。自分は人ならざる力を使いこなす悪魔なのか、それとも、ただ不自由な姿をした一人の人間なのか。


 「……先輩?」


 麗夏は、バックヤードの扉を見つめながら心配そうに声をかけた。扉の向こう側から聞こえてくるはずの返事はなく、ただ、雨の音だけが静かに店内に響いていた。


 暫くして大学の講義を終えた愛稀が出勤してきた。小春の様子が気が気でない麗夏は、愛稀に店番を任せると、足音を忍ばせてゆっくりとバックヤードの重い扉を開けた。

 そこには、濡れた制服を着替えようともせず、丸椅子に深く腰掛けた小春の姿があった。彼女は長机に肘をつき、虚空を見つめたまま考え事に没頭している。


 (……私は、人間の父と母から生まれた。そして 10歳の頃までは、誰が見ても人間と同じ姿だった。ということは……私は、人間なの?)


 これまでの苦悩の根幹を揺るがす自問自答。その沈黙を破ったのは、麗夏の切実な叫びだった。


 「先輩! 着替えないと風邪ひいちゃいますよ!?」


 麗夏の大声に、小春はハッと我に返り、焦点の合わない目で後輩を見つめた。


 「……麗夏」


 それだけをかろうじて絞り出すと、小春は言われるがままに重くなった制服を脱ぎ、私服の黒いTシャツへと着替え始めた。その動作はどこか機械的で、心ここにあらずといった様子だ。


 「先輩。……瀬土さんと何があったのか、話してもらえますか?」


 麗夏が真っ直ぐに問いかけると、小春はTシャツの裾を整える手を止めて、ゆっくり話し始めた。


 「私は悪魔ではなく人間だって言われて……。よく考えたら、私は人間の両親から産まれた。やっぱり……私は人間なの?」


 縋るような、あるいは怯えるような小春の瞳。しかし、麗夏は意外なほどあっけらかんとした表情で、大きく頷いた。


 「なるほどなるほど。……でも先輩、そんなのどっちでも良くないですか? 人間でも、悪魔でも」

 「え……?」


 予想外の答えに、小春は目を見開く。


 「人間だったら何なのですか? 悪魔だったら何なのですか? 呼び名なんて何だっていいんですよ。私たちは、ツノと翼を持っていて、魔法を使える。ただそれだけのことだと思います」


 麗夏の言葉は、あまりにシンプルで、それでいて力強かった。

 小春は返す言葉が見つからず、ただ小さく開いた唇を震わせることしかできなかった。人間か、悪魔か。その二者択一の檻の中で、彼女はずっと独り、冷たい思考を巡らせ続けてきたのだ。自分は人間ではない。ずっとそう思い定めて生きてきた。

 頭上には異形のツノがある。背中には禍々しい翼がある。そして、その翼の奥深くには、普通の人間には決して流れることのない、ドロドロとした黒い血が脈打っているのだ。何よりも、自分はその手で多くの人を殺め、かつて自分が殺してしまった香奈だって、死ぬその瞬間までずっと普通の人間だった。だからこそ、自分は陽の当たる場所を歩いてはならない「悪魔」なのだと、胸に深く刻みつけていたはずだった。

 だが、あのスーツ姿の男――瀬土は、まっすぐに目を見つめて「人間だ」と言い切った。




 その夜、小春はベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。

 しとしとと窓を叩く雨の音を聞きながら、愛用の白い枕に頭を埋め、暗い天井をぼんやりと眺めていた。同じ部屋の少し離れたベッドからは、麗夏の静かな寝息が聞こえてくる。

 自分は人間なのか、それとも悪魔なのか。結局、夜が明けるまで答えらしきものは出なかった。だが、不思議なことに、これまで胸を押し潰していたあの泥のような息苦しさは、以前ほど感じなくなっていた。




 ところが翌日。毎朝必ずやってくるいつもの時間になっても、瀬土は店に現れなかった。


 「……珍しいですね、瀬土さんが来ないなんて」

 午前中、レジのタッチパネルを操作しながら、麗夏がふと外を見つめて呟いた。


 「本当ですね。もしかして、昨日の雨に濡れて風邪でも引いちゃったんじゃないですかー?」

 品出し用のカゴを抱えた愛稀が、心配そうに首を傾げて言葉を続ける。昨日は瀬土と話をしていたときに、冷たい雨が降ってきたのだ。


 「……ふん」

 小春は乾いたスナック菓子の袋を商品棚に並べながら、極めて素っ気ないトーンで答えた。

 「来ようが来まいが、客の自由でしょ。いちいち気にすることじゃないわ」

 そう言ってピシャリと会話を断ち切ったものの、小春の目は、自動ドアが鋭い電子音を立てて開くたびに、無意識のうちに入り口へと向いていた。コンビニのガラス窓に反射する自分の顔が、どこか落ち着きなく歪んでいるように見えて、彼女は何度も小さく舌を打っていた。


 結局、その日は閉店の時間を迎えても、瀬土は現れなかった。




 翌日も。

 そしてその翌日も。

 朝のいつもの時間を過ぎても、瀬土が店にやってくることはなかった。


 「おかしいわね……。毎日あれだけ欠かさず来ていたのに」

 「本当におかしいですねぇ。何か事件にでも巻き込まれたんじゃ……」

 カウンターの陰で、麗夏と愛稀が顔を見合わせて声を潜めている。


 「……」

 小春は二人の会話に加わろうとはしなかった。ただ、無言のまま、入り口の自動ドアへと視線を向ける回数だけが、日に日に、明らかに増えていった。




 瀬土が姿を消してから、一週間が経った日の午後。


 「小春さん!」


 バックヤードから在庫を運んできた愛稀が、ひょっこりと顔を出して、ニヤニヤとした笑みを浮かべた。


 「……なによ、気安く呼ばないで」


 「あのですね、今日だけで小春さん、入り口を23回も見てますよ」

 「数えてたの!?」

 小春が目を剥くと、愛稀は「やった、図星!」と言わんばかりにケラケラと声を上げて笑った。

 「だって、すっごく分かりやすいんですもん。自動ドアが鳴るたびにピクッて動いてるんですよ?」

 「ち、違うし! 私はただ、万が一不審者が入ってきたときのために警戒してるだけ!」

 「へぇ~、不審者ですか。じゃあ、具体的にはどんな服装の不審者なんですかね? デニッシュとコーヒーを持ったスーツ姿の人ですか?」

 「はぁ? 別に私は、あの瀬土って奴のことなんて、これっぽっちも待ってないし!」

 「へぇ~~~~~」

 愛稀はわざとらしく語尾を伸ばし、顔を真っ赤にしている小春をからかいの眼差しで見つめる。ふと隣を見ると、いつもは冷静な麗夏までが、口元を片手で隠して優しく微笑んでいた。

 「麗夏まで何よ! ……もういい、品出ししてくる!」

 小春は二人から逃げるように顔を背け、足早に袋菓子の陳列棚へと向かって行った。




 だが、その夜。

 麗夏の家へと帰り、二人で並んで眠る静かな寝室で、小春はふと深い思考に沈んだ。


 なぜ、自分はこんなにもあの男のことが気になるのだろう。

 最初は、ただの物好きな常連客。それだけの存在のはずだった。


 それなのに――。


 彼は今、無事なのだろうか。

 何かあったのではないだろうか。

 気がつけば、そんなことばかりを繰り返し考えてしまっている。


 そのとき、バックヤードで弁当を食べながら愛稀が言っていた言葉が、鮮烈に耳の奥で蘇った。


 『相手の姿が見えないと落ち着かなかったり……そういう説明のつかないバグが起きたら、それが恋の始まりなんですよ!』


 小春は弾かれたようにベッドの上で起き上がり、暗闇の中で激しく頭を振った。

 「ないないない! 絶対にない!」

 隣のベッドで眠る麗夏を起こさないよう、ごく小さな声で呟く。しかし、どれだけ強く否定しても、胸の奥でチリチリと燃えるような、あの奇妙なざわつきだけは、どうしても消し去ることができなかった。




 瀬土が「二週間待ってほしい」と言い残した約束の日が過ぎた。


 それでも、彼は現れなかった。


 「……やっぱり、研究施設の人間だったんじゃないですか? 正体がバレそうになって、慌てて引き上げたとか」

 閉店後の打ち合わせの中、愛稀が真剣な表情でポツリと言った。


 「その可能性は否定できないわね。私たちの周囲には、まだ監視の目が残っている可能性もあるし」

 麗夏も顎に手を当て、現実的な仮説に同意する。


 小春は、ただ黙って机の上の書類を見つめていた。確かに、二人の言う通りかもしれない。彼は最初から自分を騙すために近づいたスパイだったのかもしれない。もしそうなら、今度会ったときは胸ぐらを掴んで全てを白状させてやる。激しい憤りが湧き上がる。


 でも――。


 それ以上に、裏切られた怒りよりも先に、「どうかどこかで無事でいてほしい」と願ってしまっている不甲斐ない自分が、たまらなく嫌だった。




 さらに時は流れた。


 いつの間にか小春は、薄緑色の制服の襟を、以前のようにピンと立てるようになっていた。瀬土に「襟を正しているほうが可愛い」と言われたから自ら正すようになっていたものの、その言葉をくれた本人がいなくなってしまった今、もう襟を正す必要性なんて、どこにもなくなってしまったからだ。




 そうして心を偽り続けているうちに、梅雨が明け、気がつけば瀬土が店に来なくなってから一ヶ月という長い月日が流れていた。


 夏の強い日差しがコンビニのガラス窓を容赦なく照らす、ある日の午後。聞き慣れた入り口の自動ドアの開閉音が涼やかに響いた。


 「いらっしゃいま――」

 レジに立っていた愛稀の声が、途中でぴたりと凍りついた。その異変に気づき、棚の影から顔を出した麗夏も、驚きで大きく目を見開く。


 入り口の自動ドアの前に立っていたのは、紛れもなく瀬土だった。


 だが、その姿は一ヶ月前とはまるで別人のように変わり果てていた。いつもビシッと着こなしていたスーツはシワだらけで、健康的な張りを持っていた頬は痛々しいほどにこけ、その瞳の下には、濃く暗い隈がべっとりと張り付いている。

 彼は両腕で、茶色いクラフト紙に包まれた、平べったく大きな四角い包みを、まるで宝物のように大切そうに抱え込んでいた。


 「……っ、せ、瀬土……!?」

 菓子棚の前にいた小春の身体は、思考よりも先に動いていた。陳列しようとしていた商品を床に落とすのも構わず、彼女は店頭を突っ切って、瀬土のもとへと猛烈な勢いで駆け出していた。


 瀬土は、目の前に息を切らせて立った小春を見ると、申し訳なさそうに、けれどいつものようにふんわりと困ったように笑った。


 「ごめん、小春さん……。遅くなっちゃった」


 彼は弱々しい足取りでカウンターへと歩み寄ると、抱えていた大きな包みを、そっと慎重に置いた。端から丁寧に巻かれていた紐を解き、包装紙を左右に広げていく。


 中から現れたのは、一枚の油絵だった。


 そこには、夕暮れ時の黄金色の光に包まれた「角と翼」の店舗が描かれていた。そして店の前に凛と佇んでいるのは、小春にそっくりな一人の女性――いや、紛れもない小春自身の姿だった。

 風に優しく揺れる黒髪。内に秘めた意志を感じさせる、凛とした強い瞳。そして、西日に照らされて神秘的な輝きを放つ、頭の右側に生えた 1本のツノと、圧倒的な存在感を持つ漆黒の翼。

 キャンバスの中の彼女は、恐ろしい悪魔などではなく、気強く、そして言葉を失うほどに美しかった。まるで今にも絵の向こうから話しかけてきそうなほど、確かに生きている息遣いが感じられる作品だった。


 小春たち3人は、その圧倒的な絵画の熱量に完全に言葉を失い、静まり返った。


 「……これ、は……」

 小春の口から、かろうじて掠れた声が漏れる。


 「僕、実は……画家なんだ。小春さんを驚かせたくて、今までずっと黙ってたんだ……」

 瀬土は照れくさそうに、シワの寄った後頭部をポリポリとかいた。


 「小春さんに喜んでほしくて、プレゼントするために一生懸命描いたんだよ。君のあの、何にも負けない綺麗な姿を、キャンバスに残したくて……。本当は二週間で完成するはずだったんだ。でも、描き始めたらどうしても妥協できなくなっちゃってさ。ここの光の当たり方とか、翼のグラデーションとか、もっと、もっと良くできるって思ったら、筆が止まらなくなっちゃって。寝るのも食べるのも忘れて部屋にこもっていたら……気づいたら、一ヶ月経ってしまった。本当に、遅くなってごめん」


 しんと静まり返った店内に、瀬土の掠れた声だけが響く。

 次の瞬間、小春の肩が、小刻みに、激しく震え始めた。


 「あ、いや、本当に怒らせるつもりはなくて! 事前に連絡もできなくて本当にごめ――」


 ――ドカッ!!!


 拳がまともに顔面を捉える、鈍く激しい衝撃音が店内に響き渡った。

 瀬土の身体が後ろへと大きくよろめき、カウンターの縁に背中を打ちつける。

 「痛っ……!」

 瀬土が赤くなった頬を押さえて顔を歪めると、小春が大声を上げて叫んだ。


 「この、バカァ!!」


 小春の目には、大粒の涙がたっぷりと浮かんでいた。彼女の肩は激しく上下し、握りしめた拳が震えている。

 「どれだけ……どれだけ心配したと思ってんのよ!!」

 「小春、さん……?」

 「連絡くらいしなさいよ! スマホくらい持ってんでしょ!? どっかの路地裏で野垂れ死んだんじゃないかって、本当に……本当に死んじゃったんじゃないかって思ったじゃないのよ!!」


 声が裏返り、激しく震える。我慢しきれなくなった涙が、彼女の頬を伝って、床へとポロポロと零れ落ちていく。瀬土は目を丸くしたまま、ただ呆然と彼女を見つめるしかなかった。小春は子供のように泣きじゃくりながら、募らせていた感情をすべてぶつけるように怒っていた。


 「勝手に私の心に土足で踏み込んできて! 勝手にいなくなって! 一ヶ月も、一ヶ月も顔見せないなんて……ほんっと最低! 大嫌い!!」


 瀬土はしばらくの間、呆然と小春の泣き顔を見つめていたが、やがて、その目元を優しく和らげると、愛おしそうに小さく笑った。


 「……ごめんね、小春さん」


 その、いつもと変わらない温かい一言に、小春の心の鍵は完全に崩れ去り、さらに激しく涙を流した。


 少し離れた場所で、その様子をじっと見守っていた愛稀は、腕を組んで何度も深くうなずいていた。

 「うわぁ……最高じゃん。めちゃくちゃ少女漫画のクライマックスじゃん……!」


 麗夏もまた、そんな二人を邪魔しないように、ただ優しく、温かい眼差しで微笑んでいる。

 「そうね。先輩のあんな顔、初めて見たわ」


 二人の熱い視線とヒソヒソ話にようやく気づいた小春は、顔を耳の先まで真っ赤に染め上げ、涙を制服の袖で乱暴に拭いながら怒鳴った。

 「見るな!!」


 冷房がよく効いた店内に、一ヶ月ぶりの明るい笑い声が響き渡った。




 ひとしきり騒ぎが落ち着いた後、「せっかくの素晴らしい絵なんだから、今すぐお店に飾りましょ!」という愛稀の提案で、四人は店内の模様替えをすることになった。

 瀬土が顔をしかめながら打たれた頬をさすり、小春が「大袈裟に痛がらないでよ」と不器用な手つきで冷やした缶コーヒーを差し出す。そんな二人を麗夏と愛稀が微笑ましく見守りながら、イートインスペースの最も目立つ壁へと絵を運んでいった。

 「もっと右ですよ!」「いや、これだと少し傾いてない?」 四人があちこちから口々に声を掛け合いながら作業を進めていると、いつの間にか店内には大勢の買い物客が集まり、興味深そうにその様子を取り囲んでいた。注目を浴びる気恥ずかしさを覚えつつも、四人は脚立を支え合い、大勢の視線の中で位置を細かく調整していく。そうして、ようやく絵が壁にしっかりと固定された。

 一歩下がって全員でそれを見上げると、夏の店内に夕暮れの美しい光が本当に差し込んできたかのような、素晴らしい存在感を放っていた。

 小春は恥ずかしそうにしながらも、嬉しさを隠しきれない様子でその絵をじっと見つめていた。




 夕方になり、体力の限界を迎えていた瀬土は、小春に何度も何度も頭を下げ、謝罪とお礼を繰り返しながら帰っていった。


 瀬土が去った後の店内には、これまでの寂しさを完全に塗り替えるような、穏やかで温かい日常の空気が流れていた。


 これで良かった。心から、そう思えた。


 ――その時だった。


 ふらり、と、小春の身体が奇妙に大きく揺れた。


 「……え?」

 「小春さん?」

 異変に気づいた愛稀が、首を傾げて彼女の顔を覗き込む。


 小春は突如として襲ってきた強烈な目眩に襲われ、咄嗟に口元を両手で強く押さえた。

 胃の底からせり上がってくる、これまで経験したことのない、おぞましい吐き気。 そして、影を帯びたかのように、胸の奥――心臓のあたりが、まるで地獄の業火で直接焼かれているかのように、熱く、激しく脈打ち始める。


 「……なに、これ……。あつ、い……」


 口元を押さえている指の隙間から、どろりとした液体が零れ落ちた。

 ぽたり、ぽたり。

 薄緑色の制服を汚し、白い床の上へと落ちていくその液体は――。


 黒かった。


 光を一切反射しない、おぞましい漆黒だった。


 「え……? 先輩……?」

 麗夏の顔から、一瞬にして血の気が引いていく。


 次の瞬間、小春の口から、堰を切ったように大量の黒い血が吐き出された。


 「ガハッ……! ゲホッ、……あ、ぁ……」

 「先輩ーーーー!!!!」「小春さんーーー!!!!」


 店内に、麗夏と愛稀の引き裂くような悲鳴が響き渡る。

 小春の視界がぐらりと上下を失って反転し、冷たい床の質感が急速に目の前に迫ってくる。


 意識が完全に途切れるその刹那、小春の最後に見えた視界は――。

 自分の身体から溢れ出し、白い床の上に不気味な地獄の模様を描くように広がっていく、あの忌まわしい漆黒の血の海だった。


 ……そして、小春の意識は、底のない深い闇へと沈んでいった。




 角と翼 ―ツノとツバサ― 第5部 恋心編 (完)

ここまでお読み頂きましてありがとうございます!


第5部を半分ほど書いたところで筆者の右腕が動かしづらくなるという異変が起こり、病院に行き検査を受けたところ、手術のため来月入院することが決まりました。元々は第5部の続きは退院後に書く予定でしたが、入院まで日にちがあるため無理しながらも第5部を書ききりました。

後半からは人差し指1本のみでキーボードを打ち続けて完走した渾身の第5部を最後までお読み頂きありがとうございます! 笑いあり涙あり、そして続きが気になる終わり方、今までで一番良い作品に仕上がったと自負しています。

登場人物の心情について書きたいことは色々ありますが、瀬土が小春の好きなものを知りたくてコンビニの出口で愛稀に尋ねたシーン。愛稀は「あたしが知っているのは、中学からテニスをしていたことぐらいかも」と言ったのですが、それを聞いた瀬土は「テニスが好きなんですね。」と言っています。愛稀は、テニスが「好き」とは言っていないので、瀬土が勝手に勘違いしてしまったというわけですね。

第6部は退院してから執筆します。小春は無事なのか、突如黒い血を吐いた原因は何だったのか、お楽しみにお待ち頂けますと幸いです。


*意識した点

物語を紡ぎながら書くことに余裕が出てきたため、ハッピーエンドと思わせておいてからの叩き落とす執筆初心者なりの新たな施策は我ながら良くできたと思っています。


第6部 出生の秘密編 は退院後に執筆します。


*更新履歴

 2026/7/1 一般公開。

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