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角と翼 ―ツノとツバサ―  作者: ☆しえる☆♪


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第4部 漆黒の血

 「――小春先輩、いい加減に起きてください。また夜更かししてマンガ読んでたでしょう」


 あれから八年。カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝の陽光が、望月家のリビングを白く照らしている。麗夏は手際よくエプロンを締めながら、ソファで丸くなって寝息を立てている同居人――木崎小春の肩を優しく揺り動かした。


 「……んぅ……あと五分。魔王に二度寝の禁止は、死罪よ……」


 小春が微かな寝言を漏らし、クッションに深く顔を埋める。23歳になった彼女は、少女の頃のどこか刺々しい空気を今もなお纏っていた。知的な美しさを湛えてはいるものの、不機嫌そうな眉間の皺や、安易に人を寄せ付けない鋭さは健在だ。


 「はいはい、魔王様。でも、朝食を食べないと力が出ませんよ」


 麗夏は困ったように微笑み、腰まで届くほどのストレートのロングヘアをさらりと流した。かつて中学生だった彼女も今年で22歳。その瞳には大人としての落ち着きと、小春を包み込むような深い慈愛が宿っている。


 二人は今、麗夏の家で共に暮らしている。あの日、高層マンションの火災現場から一人の少女を救い出した光景は、生中継を通じて日本中に衝撃を与えた。ツノと翼を持ち、超常的な魔法を操る「異形の人間」の存在は、瞬く間に世間の知るところとなった。かつて東京を震撼させ、さらに火災現場での英雄的な救出劇がその知名度に拍車をかけた。今や彼女たちの顔と名前を知らない者はいないほどだ。

 だからこそ、二人は今でもその姿を隠して生活している。かつては異形として蔑まれ、通報されることを恐れて身を潜めていた。だが今は、路上で一歩声をかけられれば、あっという間に人だかりができてしまう。平穏な日常を守るための隠蔽。それは、少しだけ不自由で、けれど平和な制約だった。


 「……ふぁ……。麗夏、おはよう」


 ようやく上体を起こした小春が、鋭い目つきのまま眠そうに目を擦り、麗夏を見上げる。


 「おはようございます、先輩。パン、焼けてますよ」

 「ありがと。……麗夏も、短大卒業したんだから、いい加減その『先輩』って呼び方、どうにかならないわけ?」


 小春は刺のある言葉を口にしながらも、テーブルに並んだ朝食に手を伸ばした。乱れた髪の間から覗く彼女の左側のツノは根元から無残に折れたままだ。かつての敗北の痕跡。一方で、麗夏の艶やかな茶髪の隙間からは、折れることなく緩やかなカーブを描いた対のツノが顔を出している。形こそ違えど、二人の頭上に宿るその異形は、もはや忌むべき呪いではない。彼女たちが共に歩んできた証そのものだった。外の世界では、彼女たちは今も語り継がれる特別な存在なのかもしれない。けれど、この小さなリビングに流れているのは、コーヒーの香りと、穏やかな朝の沈黙だけだった。


 「……美味しい」

 「よかったです」


 23歳の小春と22歳の麗夏。かつて世界を揺るがした強大な力は、いまやこの温かな食卓を、誰にも邪魔させないためにだけ存在しているようだった。




 角と翼 ―ツノとツバサ― 第4部 漆黒の血




 都内の外れ、厳重なセキュリティに守られた私立「新領域生体科学研究所」。その地下深くでは、八年前に小春と麗夏が施設に提供したデータに基づき、魔法という名の超常現象を解明するための研究が今も秘密裏に続けられている。


 「――青野。この黒い液体は何だ」


 冷徹な声が、防音設備の整った実験室に響く。研究主任の上司が、強化ガラスの向こう側に安置された試験管を顎で指した。中では、粘り気のある黒い液体が、生き物のように鈍く光を反射している。


 「……八年前に木崎小春の翼から抽出された液体です」


 白衣を纏った研究員、青野は充血した目をこすりながら答えた。


 「分析したところによると、この黒い液体はおそらく血液であることは確かなのですが、依然として未知の部分が多く、その成分は謎に包まれています。我々は、この未知の黒い血液が魔法を発動させる何らかのキーになっていると考えているのですが……。色々試してみても、何も起こらないのです」


 青野はそこまで言って、デスクに並んだ数々の失敗データに視線を落とした。


 「電圧をかけ、薬品を合成し、ありとあらゆる刺激を試みました。ですが、何も起こらない。彼女たちの体内にある時はあんなにも凄まじい熱や冷気を生み出したというのに、外に取り出した途端、ただの沈黙した物質に成り果ててしまうんです」


 上司は苛立ちを隠そうともせず、壁掛けのカレンダーに目をやった。


 「能書きはいい。早く結果を出せ。これ以上、この実体が見えない研究に人件費を費やし続けるわけにはいかないんだ」

 「しかし、あと少し時間があれば……!」


 「今日から一ヶ月だ。一ヶ月経っても何も進展がなければ、青野、お前はクビだ。このプロジェクト自体も凍結されるだろう」


 突き放すような言葉を残し、上司は自動ドアの向こうへと去っていく。残された青野は、暗い静寂の中で試験管を見つめ、震える手で自身の髪を掻きむしった。


 「……この俺が、クビだと……!? そんなこと、あり得ない……! 常に組織の頂点に立ち、数々の実績を積み上げてきたこの俺を……! 他の無能な研究員どもと一緒にしているのか……!!」


 青野の瞳に、焦燥と執着が入り混じった昏い火が灯る。一方で、廊下を歩く上司の口元には、冷酷な好奇心が浮かんでいた。

 「黒い血を持つ生き物など、本来この世に存在しないはず。実に興味深い……」


 一ヶ月という期限。追い詰められた青野のプライドは、やがてその矛先を、かつての「被検体」であった二人の女性へと向けようとしていた。




 翌日。望月家の静かな朝を破ったのは、執拗に打ち鳴らされる玄関のチャイムだった。


 「はい、どなたですか?」


 麗夏が不審に思いながらドアを開けると、そこには寝不足で充血した目をぎらつかせた、スーツ姿の男が立っていた。男は麗夏の姿を見るなり、焦った様子で手帳を取り出し、早口でまくしたてた。


 「新領域生体科学研究所の青野という。……そのツノと翼、間違いないな。お前が木崎小春だな?」


 あまりに無礼な問いかけに、麗夏は困惑して眉をひそめる。

 「いえ、私は望月麗夏といいます。……小春先輩にご用なのですか?」


 奥のリビングから、騒ぎを聞きつけた小春がゆっくりと歩み寄ってきた。マンガを片手に、隠そうともしない不機嫌さを全身から漂わせている。


 「誰? 誰が来たのよ、朝っぱらから」

 「お前が木崎小春か!」


 青野は麗夏を突き飛ばさんばかりの勢いで身を乗り出し、小春を凝視した。


 「早速で悪いが、火の魔法を実際に見せてもらえないだろうか。今すぐ、ここでだ!」

 「はぁ? 随分偉そうじゃない。それが初対面のレディにお願いする態度ってわけ?」


 小春は冷ややかな視線を青野に向け、鼻で笑った。だが、青野の焦燥はもはや常軌を逸していた。


 「俺には時間がないんだ! 見せてくれないというなら、力づくでも――」

 「……力づく、ねぇ」


 小春の瞳に、かつての刺々しい、好戦的な光が宿る。彼女は口角を吊り上げると、マンガを麗夏に預け、一歩前に踏み出した。


 「そんなに見たいなら見せてあげるわ」


 次の瞬間、小春の右手のひらに、ボッと音を立てて、手のひらサイズの炎の球が具現化した。


 「ほら、受け取りなさい!」


 小春がその熱塊を投げつけると、炎は青野の至近距離で炸裂した。


 「素晴らしい……! なんというエネルギー密度だ! これだ、これこそが私が求めていた真理……!」


 青野は恐怖を感じるどころか、恍惚(こうこつ)とした表情で熱風に晒されながら、狂ったように手帳にペンを走らせる。


 「熱い、熱いぞ! だが、実測値が取れる……ぐあぁっ!」


 自身のスーツが半分ほど黒焦げになり、髪から煙が上がるのも構わず、青野は書き殴った手帳を抱きしめるようにして、そのままの勢いで走り去っていった。嵐が去った後のような静寂が玄関に流れる。小春はパッパッと手のひらを払い、何事もなかったかのように呟いた。


 「……で、今の誰?」

 「確か、何とか研究所の青野さんって……名乗ってましたけど」

 「ふーん、研究所の人ね」


 小春は吐き捨てるように言うと、再びソファへと戻っていった。だが、去り際の青野のあの異常な眼光は、単なる好奇心以上の「毒」を孕んでいるように、麗夏の目には映っていた。


 麗夏が溜息をつき、ようやく玄関の鍵を閉めようとしたその時だった。再び、今度は控えめだがどこか洗練されたリズムでチャイムが鳴った。


 「……また、青野さん?」


 警戒しながらドアを数センチだけ開けると、そこには青野とは正反対の、柔和な笑みを浮かべた仕立てのいいスーツの男が立っていた。


 「突然の訪問、申し訳ございません。私、JBSテレビの座馬(ざま)と申します。……望月麗夏さんですね? 実は、来月放送予定のバラエティ番組に、ぜひお二方にご出演いただきたく参りました」


 これまで、彼女たちのもとには数えきれないほどの取材依頼が舞い込んできた。そのほとんどが「悲劇のヒロイン」や「かつての事件の真相」を暴こうとする湿っぽいものばかりで、二人はすべて門前払いにしてきた。だが、「バラエティ番組」という斜め上の提案は初めてだ。麗夏は一瞬迷ったが、これまでの記者たちとは違う座馬の穏やかな物腰に、少しだけ話を聞いてみようという気になった。


 「……どうぞ、中へ。散らかっていますが」


 麗夏は座馬をリビングへと招き入れた。


 「……今度は誰?」

 「テレビ局の座馬さんという方です。バラエティ番組に出演してほしいそうです」


 座馬がテーブルに丁寧に名刺を置くと、ソファで横になっていた小春は、読んでいたマンガをパタンと閉じ、身体を起こして座馬の方を向いた。その鋭い眼光は相変わらずだが、見慣れない「プロデューサー」という人種に、わずかながらの好奇心を抱いた。


 「改めて、お初にお目にかかります。木崎さん、望月さん。今日伺ったのは、単なる出演のお願いだけではありません。実はお二人のこれまでのアーカイブ映像の使用料、そして今回ご出演いただいた際の謝礼として、これまでのテレビ業界でも異例と言えるほどの多額の出演料をご用意しております。お二人の今後の生活を、数年は優に支えられる額です」


 座馬は番組の内容に深く触れる前に、まず現実的な「対価」を提示した。その具体的な数字を聞いた瞬間、麗夏の瞳がわずかに揺れた。


 「……多額の、出演料」


 麗夏は手元のコーヒーカップをじっと見つめ、何かを決意したように隣の小春へと向き直った。


 「……小春先輩。実は私、ずっとやってみたかったことがあるんです」


 小春が怪訝そうに眉をひそめると、麗夏は真っ直ぐに見つめ返して続けた。


 「私、そのお金を元手にして……コンビニを開業したいです」


 唐突な告白に、リビングに一瞬の静寂が流れた。小春は信じられないものを見るような目で後輩を凝視し、やがて噴き出すように笑った。


 「……は? コンビニ? あんたが物販? むりむり、絶対にむり。あんた、接客とか計算とか、そのツノを出しながらできると思ってんの?」

 「やってみなきゃわからないじゃないですか! 私、ずっと考えてたんです。自分たちの居場所を、自分たちの手で作りたいって。先輩も、いつまでもここでゴロゴロしてないで、私と一緒にコンビニで働きましょうよ!」


 麗夏が勢いよく立ち上がって詰め寄ると、小春は「ちょっと、近寄らないでよ」と顔を背けながらも、どこか楽しげに鼻を鳴らした。


 「勝手に人を巻き込まないで。誰がそんな地味な仕事やるっていうのよ」


 麗夏は期待と不安が入り混じった表情で、具体的に何をすればいいのかを座馬に問いかけた。


 「具体的、ですか……。そうですね。我々が企画しているのは、『世紀の再戦:悪魔の真剣勝負(ガチンコバトル)』という特番です。お二人がかつてのように魔法を振るい、全力でぶつかり合う姿をゴールデンタイムで放送したい。今、日本中がそれを、お二人が本気で戦う姿を見たいと渇望しているんです」


 座馬の瞳に、プロデューサーとしての冷徹な情熱が宿る。その言葉を聞いた小春は、ニヤリと不敵に口角を上げた。


 「……面白いじゃない。いいわよ、受けて立とうじゃない。麗夏、ちょうどいい機会だわ。あんたに先輩の、そして『上』の威厳ってやつをたっぷり叩き込んであげる」


 小春はすっかり乗り気で、その背中の翼をわずかに羽ばたかせた。かつての戦いを知る者としての血が騒いだのかもしれない。

 しかし、麗夏は小春とは対照的に、顔を伏せて沈黙した。


 (……二度と、誰かを傷つけるためには使いません。誰かの盾になり、誰かの日常を支えるために、この命を捧げたい……)


 あの日、燃え盛るマンションの前で、カメラのレンズ越しに全国民に誓った言葉が、頭の中でリフレインする。魔法で戦う姿を晒すことは、その誓いを踏みにじることにならないだろうか。


 「……すみません、座馬さん。やはり、このお話はお断りさせてください」

 「えっ!? 麗夏、あんた本気?」


 小春が驚いて声を上げるが、麗夏の瞳には迷いがない。


 「私は誓ったんです。この力は、もう戦いのために見せびらかすものじゃないって。……でも、座馬さん。一つ提案があります」


 麗夏は少し考え込んだ後、顔を上げて座馬を真っ直ぐに見据えた。


 「魔法ではなく、テニスで対決するのはどうでしょうか?」

 「テニス、ですか?」


 座馬は虚を突かれたように目を見開いた。小春も「……は?」と呆気に取られている。


 「魔法の真剣勝負を期待している国民の皆さんには、物足りないかもしれません。でも……異形の姿を持つ私たちが、普通の人と同じようにスポーツで競い合う姿。久しぶりに公の場に現れる私たちが、真剣にボールを追いかける姿なら、見たいと思ってくれる人もいるのではないでしょうか」


 座馬は手元の資料に視線を落とし、数秒間、プロの顔で計算を巡らせた。魔法の爆発的なビジュアルはない。だが、「悪魔」と呼ばれた二人が、テニスコートでラケットを振るという意外性。そして、その異質なビジュアルが画面に映るだけで、視聴率は確実に跳ね上がる。


 「……分かりました。面白い、やってみましょう。『悪魔のテニス・デスマッチ』……いや、タイトルは追って考えますが、その条件で企画を書き直します」


 座馬は満足げに頷くと、名刺を指先で弾き、足早にリビングを去っていった。


 「……ちょっと、麗夏。あんたねぇ……」

 小春はソファに深く沈み込み、呆れたように折れたツノをなぞった。


 「テニスなんて、何年ぶりだと思ってるのよ。……まあ、いいわ。ラケットだろうが何だろうが、あんたに恥をかかせてやることに変わりはないから。覚悟しなさいよ?」


 小春はソファに背を預け、天井を見つめた。その瞳には、今朝の不機嫌さとは違う、遠い日の景色が映り込んでいる。


 「……そういえば、私たちが初めて会ったのもテニスがきっかけだったわよね。あんたがまだ、入部したてのひょろひょろな中一だった頃」


 小春の言葉が呼び水となり、麗夏の脳裏に鮮明な情景がフラッシュバックする。


 放課後のグラウンド。西日に照らされたテニスコートの真ん中で、一人の少女が傲然と立っていた。中学二年生の木崎小春は、腕を組んで後輩たちを見下ろしていた。その姿は、周囲から浮き上がるほどの異質な威圧感を放っている。


 「甘いわよ! 腕立て、腹筋、追加で100回!!」鋭い声が響く。

 「終わったら、そのまま校舎の外周20周! 一秒でも遅れたら、もう一セット追加だからね!」


 小春の指導は苛烈を極めていた。コートの隅で、三年生の部員たちは困ったような顔をしながらも、決して小春を止めようとはしなかった。実力至上主義の運動部において、二年生でありながら部内の誰よりも速いサーブを打ち、誰よりも正確なショットを放つ小春に、意見できる者などいなかったからだ。

 入部してまだ二週間の麗夏は、泥だらけになった膝を震わせ、地面に伏せたまま荒い息を整えていた。隣にいた同じ一年の部員が、小声で吐き捨てる。


 「……ねえ、何なのあの先輩。三年生ならまだしも、たかが二年生でしょ? 私たちよりたった一年早く生まれただけなのに、超偉そうなんだけどー。……麗夏もそう思うでしょ?」


 この頃の麗夏にとって、小春は尊敬の対象などでは決してなかった。ただただ傲慢で、権力を振りかざす近寄りがたい存在。麗夏は顔を上げず、小さな声で本音を漏らした。


 「……うん。どれだけ上手なのか知らないけど、ちょっと天狗になりすぎだよね」

 「ねー!」


 一年生同士がクスクスと笑いながら同意し、二人が顔を見合わせたその瞬間――。


 「ふ~ん。私のことを、そんなふうに思ってたのね」


 ふいに回想が途切れ、現実の小春の声がリビングに響いた。小春はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、麗夏の顔を覗き込んでいる。


 「……あっ、すみません……」

 麗夏は顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。


 「別にいいわよ。実際、当時は周りの人間なんてどうでもいいと思ってたし」


 小春はソファに座り直すと、窓の外の青空を睨むように見つめた。その横顔には、23歳になった今でも消えない、あの日への複雑な感情が滲んでいる。


 「……でも、あんた。偉そうな先輩って言ってたわりに、私が学校をメチャクチャにしちゃった夏には随分と変わってたじゃない。……三ヶ月で変わったきっかけは何だったのよ?」


 小春の問いに、麗夏はコーヒーカップをテーブルに置き、静かに目を閉じた。


 「……ゴールデンウィークにあった、高校生との合同練習です。八年経った今でも、あの日のことは鮮明に覚えています。……私にとって、あの先輩が初めて『尊敬』できる存在に変わった日のことを」


 五月の爽やかな風が吹く、新緑のテニスコート。だが、麗夏の心は晴れなかった。隣に立つ同級生の香奈が、ラケットを杖代わりにして溜息をつく。


 「麗夏ぁー、あの偉そうな先輩がいるせいで、テニス全然楽しくない……。部活、やめよぉ?」

 「うーん……」


 麗夏は言葉を濁した。小春の苛烈な指導への不満と、テニスへの未練。迷いを抱えたまま、二人は高校生との合同練習に参加していた。

 練習が始まると、麗夏たち一年生は、高校生のお姉さんたちにラケットの握り方から優しく丁寧に教わっていた。小春の怒号がない、穏やかな時間。

 だが、隣のコートでは、空気を切り裂くような凄まじい打球音が響いていた。


 ドォォォン!!


 麗夏と香奈がふと目を向けると、そこには小春が、高校生のエースを相手に異次元のテニスを繰り広げていた。高校生が放つ渾身のショットを、小春は微塵も動じずに打ち返し、逆に相手のコートの隅へ、目にも止まらぬ速さのボールを突き刺す。


 「……次は、誰が相手になるの?」


 小春はラケットを肩に担ぎ、息一つ乱さずに高校生たちを見下ろした。その圧倒的な強さに、周囲からは感嘆の声が上がる。


 「あの中学生すごい…! まだ二年生らしいよ。将来有望すぎるっしょ」


 その光景に、麗夏と香奈は言葉を失った。


 「小春先輩、すごい……」


 二人は、小春の球に、ただ高校生に勝っているという事実以上のものを感じ取っていた。それは、驕りではなく、「ここまで上達しなさい」という、言葉にされない、けれど強烈なメッセージのようだった。この瞬間、麗夏の中で「嫌な先輩」という認識は、純粋に圧倒される「凄い先輩」へと上書きされた。


 やがて練習が一段落し、小春がベンチに戻ってきた。彼女はタオルで汗を拭うと、ずれたヘアバンドを直した。……その瞬間だった。麗夏は、小春が一瞬だけ、どことなく寂しそうな、孤独な顔をしたのを見逃さなかった。

 コート上の絶対的な強さと、ふいに見せた消え入りそうな寂しさ。その強烈なギャップが、麗夏の胸を締め付けた。ただ「凄い」だけではない、彼女の抱える何かを知りたい、支えたい。そのとき初めて、麗夏の中で彼女は、心から「尊敬する先輩」に変わったのだ。


 麗夏は香奈の手を引き、気づけば小春の元へ駆け寄っていた。


 「……せ、先輩! 見てました。凄かったです!」


 麗夏が勇気を振り絞って声をかけると、小春は冷ややかな一瞥をくれた。


 「……そんなことを言うために、わざわざ来たわけ?」

 「はわわ! す、すみませんっ……!」香奈が慌てて頭を下げる。


 小春の相変わらずの刺々しさに、二人は気圧され、練習に戻ろうと背を向けた。


 (……でも、あの顔)


 麗夏は、先ほど小春が見せた、あの寂しそうな表情がどうしても気になり、ふと振り向いた。すると、ベンチに座る小春の体操服の背中が、いつも以上に大きく膨らんでいるのに麗夏は気づいた。


 「……あ、あの、先輩。背中が……」麗夏が再び小春の元へと戻り、おずおずと指摘する。


 「うるさい。下着がずれてるだけ」

 「でも、ちょっと変です」


 麗夏と香奈は、不審に思って小春の背中をジロジロと見つめた。その視線に、小春の顔が恐怖と屈辱で真っ赤に染まる。


 「――見ないで!!」


 小春はベンチからバッと立ち上がり、更衣室に走り去った。


 更衣室に駆け込んだ小春は、内側から鍵を閉めると、鏡の前へ崩れ落ちた。震える手で体操服を脱ぎ、鏡の中に映る自分の背中を凝視する。


 「……っ、また大きくなってる……」


 そこには、以前から生え始めていた漆黒の翼が、日に日にその存在感を増していた。隠そうとしても、もう体操服の下では収まりきらないほどに成長してしまった異形。それは、彼女を「人間」から切り離していく、残酷なカウントダウンのようだった。


 「何で……何で私だけ、こんな思いをしなきゃいけないの……」


 小春は自分の黒い翼を抱きしめるようにして、更衣室の冷たい床で、一人、音もなく震えていた。


 「……あの頃は、まさか先輩の背中に、こんな翼が生えていたなんて思いもしなかったです」


 麗夏は少し照れくさそうに、冷めかけたコーヒーを一口啜った。回想の重みが、今の温かな沈黙に溶けていく。


 「本当? あんた、本気で下着がずれてると思ってたの?」


 小春が意地の悪い笑みを浮かべて身を乗り出すと、麗夏はあからさまに視線を泳がせた。


 「それは、あの……その……」


 二人は顔を見合わせ、クスクスと笑い合った。黒い翼もツノも、今ではこうして冗談の種にできる。その事実が、八年の歳月の重みを肯定しているようだった。




 外の平穏を拒絶するように、地下の研究室は冷徹なLEDの光に支配されていた。


 「……クビだと? この私が、あんな上司(ヤツ)に切り捨てられるなど、あるわけがない……!」



 焦りと苛立ちが限界に達した青野は、震える手で机上のナイフを手に取った。迷いはなかった。鋭い刃先を自身の前腕に押し当て、薄く切り裂く。じわりと、鮮やかな赤い血が滲み出した。

 青野は手帳に記された複雑な術式と配合比率を狂信的な眼差しで追いながら、スポイトを使って、自身の赤い血をシャーレに落とした。そこへ、厳重に保管されていた過去の遺物――小春の翼から抽出された、あの黒い血を慎重に一滴、混ぜ合わせた。


 ジッ……!


 混ざり合った瞬間、シャーレから鼻を突くような白い煙が立ち上がった。赤と黒。相反する二つの色は、混ざり合うことなく激しく拒絶し合い、瞬時に蒸発するようにして消滅した。後に残ったのは、焦げたような跡だけだった。


 「……やはりそうだ。間違いない」


 青野は漏れ出そうとする歓喜を抑えるように、自身の口元を覆った。


 「人間の生命エネルギーを喰らい、対消滅させることで膨大な魔力へと変換する……。魔法の原動力は、この忌々しくも美しい『黒い血』そのものにあるのだ!」


 青野は確信した。魔法を再現するために足りないのは、より新鮮で、より高濃度な「漆黒の血」なのだ。


 「……もっとたくさんの黒い血を、採取しに行かねば」

 暗い研究室に、青野の乾いた独り言が冷たく響いた。




 数日後。都内で一番の広さを誇る巨大ドームを貸し切って行われる「二人の悪魔によるテニス対決」の特番収録の告知が、ついに解禁された。テレビCMやネット広告には、かつての事件の象徴である二人の姿が、おどろおどろしくも美しく映し出されている。


 「……ねえ、これ、どういうつもり?」


 リビングのソファに深く沈み込んだ小春は、テーブルに放り出された観覧車募集の宣伝チラシを、忌々しげに指先ではじいた。その視線の先には、自分よりも一回り大きく、中央に配置された麗夏の姿がある。


 「なんで、あんたの方が私より大きく写ってんのよ。主役は私でしょうが」


 チラシの中央、よりダイナミックなポーズでラケットを構えているのは麗夏だった。背景で翼を広げている小春は、一歩引いた位置にレイアウトされている。


 「それは……。このテニス対決を提案したのが私だったからではないでしょうか?」


 麗夏は申し訳なさそうに、けれど正論を口にした。座馬プロデューサーが最初にコンタクトを取り、この「魔法を使わない」という新企画をまとめ上げた交渉相手は麗夏だった。彼にとって、このプロジェクトのキーマンは間違いなく麗夏であり、その印象の強さがそのまま紙面に現れたのだろう。 

 だが、プライドの高い小春にとって、それは許しがたい「序列の乱れ」だった。


 「ふん、理屈はいいわよ。……いい? これからは私の許可なく、勝手なことをしないでちょうだい。番組の打ち合わせも、カメラの位置も角度も、全部私が決めるから。あんたは黙って私の後ろについてればいいの。……わかった?」


 小春は自分勝手な言葉を一方的に投げつけると、麗夏の返事も待たずに、翼を小さく震わせて自室へと引っ込んでしまった。


 「……すみません、先輩。次からは気をつけます」


 背後から向けられた麗夏の謝罪を聞きながら、小春は寝室のベッドに倒れ込んだ。


 一方、リビングに残された麗夏は、小さく溜息をついた。

 (……あーあ。また先輩の、自分勝手な悪い癖が出ちゃった。中学の頃から、追い詰められるといつもこうなんだから……)


 大人になり多少は穏やかになったと思っていたが、大きな舞台が近づくにつれ、かつての尖った部分が再び頭をもたげてきているようだった。




 テニスの公開収録当日。昼下がりの澄んだ青空を、二つの影が横切った。巨大なドームの白い屋根が陽光を反射して眩しく輝く中、小春と麗夏は翼を大きく羽ばたかせ、群衆の頭上から入口前へと優雅に舞い降りた。


 「わーっ! 小春と麗夏だ!」

 「空から来たぞ! 本物だ!」


 着地の衝撃でわずかに土煙が舞い、翼を畳む二人の姿に、集まった一般人から地鳴りのような歓声が沸き起こる。小春はラケットバッグを背負い直し、胸の鼓動を整えるように深く息を吸った。隣に立つ麗夏の瞳も、期待と緊張でわくわく、ドキドキと波打っているのがわかる。

 二人はスタッフに導かれ、熱狂する群衆を後にすると、静かなVIP用の控室へと向かった。


 「……ふぅ。やっと落ち着けるわ」


 小春は、ひんやりとした静寂に包まれた控室の椅子に腰を下ろした。鏡に映る自分の姿を見つめながら、一週間前の、とある夕方の記憶を反芻する。


 夕闇が迫る公園の片隅。小春は一人、古びたコンクリートの壁に向かって、淡々とボールを打ち込んでいた。すべては、あの中学生時代の全盛期の感覚を取り戻すため。一打ごとにフォームを確認し、打球の芯を捉える感触を指先に刻み込んでいく。


 パンッ! パンッ! と、鋭く乾いた音が夕闇に響く。

 「……ふぅ。私に勝てると思ってるのかしら、麗夏のやつ」


 誰に聞かせるでもなく、小春は独り言をこぼした。それは決して慢心ではなく、自分があの頃のキレを取り戻しさえすれば、後輩相手に負けるはずがないという絶対的な自負の表れだった。

 ちょうどその時。夕飯の買い物袋を提げた麗夏が、偶然その横を通りかかった。街灯の下、一心不乱に壁打ちを繰り返す小春。その背中の翼が、スイングに合わせて力強く、しなやかに動いている。


 (ふふ。口ではああ言いつつ、結局一番負けず嫌いなんだから。……本当に、昔と変わらないわね)


 麗夏は声をかけずに、どこか懐かしむような微笑みを浮かべてその場を通り過ぎた。


 「……何笑ってるのよ、麗夏。気味悪い……」


 小春は、隣でどこか楽しげにしている麗夏を軽く睨む。


 「いえ、別に。……先輩、今日は最高の試合にしましょうね」

 「……当たり前でしょ。あんたに負ける気なんて、さらさらないから。格の違いってやつを見せてあげるわ」


 小春は立ち上がり、コートへと続く扉を見つめた。その向こう側には、5万人の大観衆が作り出す圧倒的な「熱」が渦巻いている。アリーナからスタンド最上階まで、隙間なく埋め尽くされた客席。観客たちが振る応援タオルや、手作りのうちわが波のように揺れ、二人の登場を待つ熱狂がドーム全体を震わせている。


 「木崎様、望月様。……入場してください!」


 スタッフの合図と共に、巨大なスクリーンに二人の名が劇的に映し出される。眩いスポットライトが通路の出入口を照らし出し、小春と麗夏は並んで場内に入り、地響きのような大歓声が渦巻く光り輝くコートへと足を踏み出した。

 小春は大きく翼を広げ、観客席の隅々にまで届くように優雅に手を振る。かつては隠したくてたまらなかったこの姿も、今は自分を輝かせるための最高のステージの一部だ。対照的に、麗夏はラケットを抱え、耳まで真っ赤にしながら縮こまって歩いている。


 「……は、恥ずかしいです、先輩。こんなに見られるなんて……」

 「シャキッとしなさいよ。あんたが言い出した企画でしょ?」


 小春が不敵に笑う。あちこちに設置されたカメラのレンズが、獲物を狙う鷹のように二人を追い、その一挙手一投足を巨大スクリーンに映し出していた。コートサイドのベンチでは、番組プロデューサーの座馬が深く椅子に腰掛け、組んだ指の隙間から鋭い視線で二人を見守っている。モニターに映る数字と、目の前の圧倒的な光景を交互に確認するその口元には、完璧な舞台を整えた確信犯的な笑みが浮かんでいた。


 「さあ、世紀の一戦がいよいよ始まります! 実況は私、田中がお送りします。そして解説には、元プロテニスプレイヤーの鈴木さんをお迎えしました」

 「よろしくお願いします。楽しみですね、悪魔同士の真剣勝負(ガチンコバトル)


 「鈴木さん、テニスといえば独特なカウントですが、なぜ0点のことを『ラブ』と呼ぶんでしょうか?」


 「諸説ありますが、0が卵の形に似ていることから、フランス語で卵を意味する『|l'oeufレフ』がなまったものだと言われています。今日の試合、どちらが先に『卵』を割るのか注目ですよ」

 「なるほど、勉強になります! ではルールを説明しましょう。今回は放送時間の都合上1ゲームマッチ・ノーアドバンテージで行われます。つまり先に四回得点を獲った方が勝ちです。尚、空を飛んでのプレーは許可されますが、魔法で直接相手を攻撃するのは禁止です。あくまでテニスの技術を競っていただきます!」


 ネットを挟んで、二人が向かい合う。


 「いい、麗夏? 手加減なんてしないから。一気に終わらせてあげるわ」

 小春はラケットのガットを軽く叩き、余裕に満ちた表情で言い放った。その瞳には、かつての自信に満ち溢れたエースとしての鋭い輝きが宿っている。


 「……はい。勝てるとは思っていませんが、今の私がどこまで先輩に通用するのか……全力で試させていただきます!」

 麗夏は震える手でラケットを握り直した。小春からすれば、麗夏の勝算など万に一つもない。それでも、必死に自分に食らいつこうとする後輩の意気込みを、小春は「いい度胸ね」と内心で楽しんでいた。


 「フン、威勢だけはいいわね。……来なさい」




 審判の声が響き渡る。

 「ワンゲーム・マッチ! 望月麗夏サービス、プレイ!」


 静まり返る5万人の観衆。麗夏がボールを高くトスし、運命の第一打が放たれた――。


 パンッ! パンッ! と乾いた打球音が、5万人の静寂を切り裂き、巨大なスピーカーを通じて場内に響き渡る。


 (……想像以上にやるわね、麗夏)


 小春はコートを縦横無尽に駆けながら、内心で舌を巻いていた。かつての後輩は、ただ懐かしさに浸っているだけではない。一打一打の重み、コースの鋭さ。それは、小春が想定していた「手応え」を遥かに超えていた。


 「これならどう!?」


 麗夏の放ったボールが甘く浮いた。小春は力強く踏み込むと、地を這うような低い姿勢から全身のバネを使ってラケットを振り下ろした。全盛期を彷彿とさせる、強烈な叩きつけスマッシュが麗夏のコートへと突き刺さる。

 だが、麗夏も必死だった。翼をしならせて空中に舞い、滞空時間を稼いで地面スレスレでラケットを差し出す。


 「……返した!?」


 泥臭くも執念のリターン。麗夏のラケットに当たったボールは、勢いなく山なりに小春のコートへと戻ってきた。誰もが「チャンスボールだ」と確信したその瞬間、小春は不敵な笑みを浮かべてボールを迎え撃つ。


 「甘いわよ」


 小春がラケットを鋭く振り抜くと、放たれたボールは麗夏の足元へ吸い込まれるように飛んでいった。そして着地した瞬間、小春が込めた「仕掛け」が牙を剥く。麗夏のコートに落ちたボールは、物理法則を無視したような鋭い角度で急激に真横へと跳ね上がった。


 「っ……え!?」


 麗夏は反射的にラケットを出したが、ボールは虚空を切り、そのままサイドラインの外へと消えていった。


 審判のコールが響く。「フィフティーン・ラブ!」


 審判の鋭いコールが響いた直後、一瞬の静寂を置いて、ドーム全体を揺るがすような大歓声が爆発した。

 「うおおぉぉーっ! 見たか今のスピン!」

 「マジかよ、あんな角度で曲がるのか!?」


 5万人の観客が総立ちになり、地鳴りのような拍手と口笛がアリーナから天井まで突き抜けていく。興奮したファンたちが身を乗り出し、名前を叫ぶ。かつての恐ろしい悪魔としてではなく、圧倒的なテクニックで観衆を魅了するスターに向けられた、純粋な称賛の嵐。

 その熱狂の渦の中心で、小春は満足げに口角を上げた。


 「決まったーっ! 小春選手、まずは先制! 今のプレー、見ましたか鈴木さん! 着地したボールが生き物のように真横に跳ねましたよ!?」

 「……驚きましたね。あのアングルでの跳ね方、尋常ではない高速スピンがかかっていた可能性があります」


 田中実況員の興奮した声に、鈴木解説員も身を乗り出してモニターを注視する。


 ネット際で、麗夏が息を切らしながら小春を真っ直ぐに見つめた。


 「……先輩。もしかして今、魔法を使いませんでしたか?」


 小春はラケットを指先でくるりと回し、何食わぬ顔で不敵な笑みを浮かべる。

 「あら、知らないわ。魔法で直接相手を攻撃するのは禁止って言ってたけど、魔法を使っちゃダメとは言ってなかったし」

 「……ふふ、そうくるんですね。先輩らしいです!」


 憧れの先輩は、正々堂々なんて言葉よりも「勝利」に貪欲で、自由奔放な人だ。麗夏の瞳に、諦めではなく、より強い闘志の火が灯った。




 第二打。ラリーの応酬が再び始まった。


 パンッ、パンッ、と乾いた音がドームに響き渡る。小春は最小限の動きで、麗夏の鋭いショットを淡々と打ち返していた。


 (……やるじゃない。中学の頃のあんたとは、正直比べ物にならないくらい上達してるわ)


 小春はラリーを続けながら、内心で麗夏の成長を認めていた。かつて自分の背中を追いかけていた少女の打球は、今や一打ごとに重みを増し、コースの厳しさも格段に上がっている。


 「……けど。この程度じゃ、私が本気を出すまでもないわ」小春は誰にも聞こえない声で低く呟き、不敵な笑みを浮かべた。


 一見すると互角の攻防に見えるが、決定的な違いがあった。試合が始まってから、小春は一度も翼を広げず、地に足をつけたまま最小限の動きでボールを捌いているのだ。

 一方の麗夏は、小春の鋭い打球に食らいつくため、時には大きく宙を羽ばたき、ドームの空間を縦横無尽に駆け回らざるを得ない。


 (……このままじゃ、先に動けなくなるのは私の方だわ)


 麗夏は肩で息をしながら、焦燥に駆られていた。スタミナが底をつく前に、勝負を仕掛けなければならない。麗夏は翼を一気にしならせ、高く跳躍した。小春を上空から射抜くような、渾身のスマッシュを放とうとしたその時――。

 観客席の最前列、熱狂する群衆の中で異質な静寂を纏った「白衣姿の男」が、麗夏の視界に飛び込んできた。


 (……青野!? なんで、あいつがここに……っ!)


 一瞬の動揺。その隙が命取りとなった。振り抜こうとしたラケットの芯が狂い、麗夏のスマッシュは威力を失ったひょろひょろとした弱々しい球になって、ネットを越えていく。


 「あら、どうしたの? サービスタイムかしら」


 小春にとって、それは絶好のチャンスボールだった。小春は不敵な笑みを浮かべ、軽く手首を返すようにラケットを振る。放たれたボールは、麗夏のコートの角ぎりぎりをかすめるように着地すると、そのまま場外へと飛び出していった。


 審判のコールが響く。「サーティ・ラブ!」


 「決まったあぁ! 木崎選手、盤石の強さ! 望月選手のミスを逃さず、コースギリギリへの鮮やかな一撃です!」

 「小春! 小春! 無敵すぎるだろ!」


 ドーム内は再び地鳴りのような「小春コール」に包まれる。しかし、コート上の二人の表情は対照的だった。


 余裕の表情でラケットを回す小春。 それに対し、麗夏は着地した拍子に膝を突き、青野がいたはずの客席を凝視していた。


 「……麗夏? あんた、今の何よ。あんな甘い球、私を馬鹿にしてるの?」

 小春の鋭い声が飛ぶ。小春の視線からは、観客の波に紛れた青野の姿はまだ見えていない。


 「……あ、いえ。すみません、先輩。……ちょっと、嫌な予感がしただけで」

 麗夏は震える手で立ち上がった。青野が来ている。それも、この大観衆の最前列に。彼がただ試合を見物に来ただけとは到底思えなかった。




 第三打、ラリーが再開される。麗夏は必死にラケットを振るが、その視線はボールではなく、絶えず客席の最前列を彷徨っている。


 (……いない。どこに行ったの……?)


 つい先ほどまで白衣姿で不敵に佇んでいた青野の姿が、かき消すように消えていた。きょろきょろと周囲を窺いながら、かろうじて球を返す麗夏。その集中力が欠けたリターンは、全盛期のキレを取り戻しつつある小春にとって、あまりにも格好の餌食だった。


 「どこ見てんのよ!」

 小春は容赦なく、麗夏の逆を突く鋭いショットを叩き込む。逃げるように跳ねるボールに、麗夏の一歩は届かない。


 審判のコールが響き渡る。「フォーティ・ラブ!」


 「うおおぉぉーっ!! あと一球!」

 「小春! 小春! 圧倒的すぎるだろ!」


 小春の勝利を確信した5万人の観客が、割れんばかりの声援を送る。地鳴りのような「小春コール」がドームの屋根を震わせる中、実況席も興奮の絶頂に達していた。


 「決まったーっ! 木崎選手、ついに王手! あと1ポイント取れば、この歴史的一戦を制することになります! 鈴木さん、ここで気になったのですが、テニスは15点、30点ときて、なぜ次は45点ではなく40点とカウントされるのですか?」


 「それも諸説ありますが、中世フランスで時計の文字盤をスコアボード代わりに使い、15分刻み(15-30-45-60)でカウントしたという説が最も有力ですね。45(フォーティファイブ)だとコールが長くて言いにくいため、40(フォーティ)に短縮されたと言われています」

 「なるほど、言葉の響きの問題だったんですね!」


 ネットを挟んで、小春が冷ややかな視線を麗夏に向けた。

 「……ねえ、麗夏。あんた、さっきから何なの? やる気あんの?」


 小春は苛立ちを隠さず、ラケットのガットを突きつけるように麗夏に向けた。圧倒的な実力差を見せつけているはずなのに、相手の心がここにあらずという状況は、小春のプライドにとって何よりの屈辱だった。


 「す、すみません……」麗夏は肩で息をしながら、力なく謝る。

 (……私の見間違いだったの? でも、確かにあの顔は……。……いえ、今は集中しなきゃ。先輩に失礼だわ)


 麗夏は震える脚に力を込め、再び構えをとった。「気のせいだったのかもしれない」と自分に言い聞かせ、目の前のボールだけに意識を向けようとする。




 第四打。5万人の視線が一点に集まる中、運命のラリーが再開された。


 麗夏は迷いを振り払ったかのように、鋭い視線でボールの軌道を追う。その瞳に宿った強い光を見て、小春は口角を上げた。


 「……そうよ。その目よ、麗夏」

 小春は流れるようなフットワークでボールを捉え、完璧なコースへと打ち返す。格の違いを見せつけ、このまま華麗に幕を引く。そのはずだった。

 しかし、次の瞬間。小春の視界の端に、決してそこにいるはずのない影が映り込んだ。


 (え……?)


 観客席の中段。色とりどりのタオルやうちわが揺れる群衆の中で、二人だけ、微動だにせずコートを見つめている男女がいた。中学二年生の夏までの14年間、衣食住を共にし、自分を慈しみ育ててくれた父と母。魔王を自称し、家族という形を自ら壊して以来、一度もまともに言葉を交わしていない両親が、そこにいた。

 数年の月日が流れても、見間違えるはずがない。その立ち姿、その眼差し。


 (……なんで。なんで、お父さんとお母さんがここに……!?)


 偉そうに振る舞い続けてきた小春の心に、修復不可能なはずの過去が濁流のように流れ込む。鉄壁だった集中力に、ほんのわずかな、けれど致命的な「隙」が生まれた。


 「今よ……!!」


 麗夏はその瞬間を見逃さなかった。翼を最大限に広げ、ドームの空気を切り裂くような跳躍。小春の虚を突く、文字通り渾身のスマッシュがコートの中央に突き刺さった。


 審判のコールが響く。「フォーティ・フィフティーン!」


 「決まったあああぁぁ!! 望月選手、土俵際での猛追! 王手をかけられていたとは思えない、気迫の一撃です!」

 「すげえ! あの小春からエースをもぎ取ったぞ!」


 一気に麗夏コールが巻き起こり、ドームのボルテージはさらに一段階跳ね上がる。実況席の田中もマイクを握りしめ、叫ぶように言葉を紡ぐ。


 「鈴木さん! 今のは小春選手のミスというより、麗夏選手の執念が勝ったように見えましたが!?」

 「ええ、驚きました。麗夏選手の集中力、実に見事です。これでまだ分からなくなってきましたよ!」


 「やった……! やったわ……!」

 麗夏は激しく上下する肩を抑え、初めて小春から奪ったポイントの感触を噛み締めていた。その顔には、隠しきれない歓喜と高揚が溢れている。

 一方、ポイントを奪われたはずの小春は、ゆっくりと顔を上げた。その視線はもう、客席の中段には向いていない。


 「……ふん。そうこなくちゃ面白くないわ」

 小春は不敵な、それでいてどこか清々しい余裕の表情を浮かべてみせた。




 その頃、薄暗い青野の研究室には、重苦しい足音が響いていた。青野の上司が、不機嫌そうな面持ちで部屋を訪れたのだ。


 「青野はどこだ」


 端末に向かっていた研究員が、肩を震わせて振り返る。


 「わ、わかりません。気がついたときにはいなかったです……」

 「……ふん。今日結果を出さなければ、約束通り青野はクビだ。だが安心したまえ、君たちはクビではない。別の研究へ異動となるだけだ」


 上司は冷淡に言い放つと、以前訪れた際にあの禍々しい「黒い血」が安置されていたデスクに目を向けた。しかし、そこにあるはずの試験管は跡形もなく消え失せている。


 「そこにあった液体は?」


 「そういえば見当たらないですね……。実験で、すべて使い切ったのかもしれません」

 「そうか」上司はそれだけ言い残し、興味を失ったように研究室を去っていった。


 一方、ドームでは第五打が始まっていた。ラリーの応酬は激しさを増し、ボールの風切り音が空気を震わせる。しかし、小春の脳裏からは、先ほど捉えた両親の姿が離れない。


 (お父さん、お母さん……。私のこと、今どう思ってるの?)

 (魔王なんて言って家を出た、ただの生意気な娘……?)

 (それとも……生きてて良かったって、少しでも思ってくれてるのかしら)


 一打ごとに、封印していた「娘としての自分」が心の内側を掻き乱す。迷いはテニスに影を落とし、わずかに反応が遅れる。

 ふと見上げると、そこには翼を大きく広げ、最高点から獲物を狙う鷹のようにラケットを振り下ろす麗夏の姿があった。


 「いけえええええ!!」


 麗夏の魂がこもった一撃が、迷う小春の足元を鋭く射抜いた。

 審判の声が、小春を現実に引き戻す。

 「フォーティ・サーティ!」


 「信じられない! 望月選手、さらに1ポイントを奪い返しました!」

 「ドームが揺れている! 観客のボルテージは最高潮だ!」


 「……はぁ、はぁ。……やった、やったわ……!」麗夏は激しい鼓動を感じながら、確かな手応えに身を震わせた。勝てる。あの憧れの先輩に、手が届く。その予感に突き動かされ、彼女の瞳には強い光が宿る。


 「勝てる……!」


 思わず口から漏れた麗夏の言葉。それを聞いた瞬間、俯いていた小春の肩がピクリと跳ねた。


 「……ふん。いい気になるんじゃないわよ」


 ゆっくりと顔を上げた小春の顔から、先ほどまでの余裕の笑顔は完全に消えていた。冷たく、射貫くような眼差し。それは目の前の敵をただ純粋に打ち倒すことだけを見据えた、凄絶な闘争心の表れだった。




 客席の中段、人波に紛れるようにして立ち上がった二つの影があった。小春の両親は、コート上で誰よりも激しく、誰よりも輝きながらラケットを振る娘の姿をじっと見つめていた。


 「……元気そうで、本当に良かった」


 母が誰に聞かせるでもなくそう呟くと、二人は静かに背を向け、喧騒のドームを後にした。その去り際に気づく余裕など、今の小春には微塵もなかった。


 試合は第六打、極限のラリーへと突入していた。小春の放った打球が、ふわりと山なりに浮く。それは麗夏にとって、これ以上ない絶好のチャンスボールに見えた。


 「いける!!」


 麗夏が確信を持って踏み込んだ、その瞬間。小春の額に生えた角が、パチリと青白い火花を散らした。放たれた微弱な電流が空中でボールを捉え、その落下の軌道を強引に捻じ曲げる。


 「ふん。電流を当てやすいように、わざと打ちやすい位置へ返したのよ」

 小春が不敵に口角を上げる。だが、麗夏は止まらなかった。底をつきかけたスタミナを根性で振り絞り、翼を羽ばたかせて強引にその変化球に食らいつく。


 「はぁ、はぁ……先輩が私に隠れて、こっそり公園で練習していたこと、知ってますよ」

 麗夏が息を切らしながら叫んだ言葉に、小春の眉が跳ねた。


 「でも、それは私も同じです。……もちろん、魔法の練習だって!」

 麗夏の表情が一変し、その瞳に凍てつくような鋭さが宿る。彼女が左の手の平を天にかざした瞬間、高く打ち上げられたボールが、渦巻く極寒の冷気に包まれた。パキパキと音を立てて凍りついたボールは、白銀の(つぶて)となって、小春のコートのど真ん中に垂直に突き刺さった。バウンドすら許さない、絶対零度の一撃。


 「……フォ、フォーティ・フォーティ!!」

 審判が動揺を隠せないまま、上ずった声で告げた。


 「な、なんだ今のプレーはーっ!?」

 「ボールが凍った! 垂直に落ちたぞ!!」


 「信じられない……! 木崎選手と望月選手の魔法合戦か!? ドームが……ドームが凍りつくような衝撃です!」


 「鈴木さん、今の魔法は……!?」

 「……驚愕です。テニスボールを瞬時に凍らせて質量を変え、落下速度を操るなんて。もはやこれは、我々の知るテニスの概念を超えていますよ!」


 5万人の観客は、一瞬の静寂の後、これまでにない怒涛の歓声で応えた。地鳴りのような拍手がドームの壁を震わせる。


 「……ちょっと、魔法なんて卑怯じゃないのよ!」

 小春が頬をわずかに赤くし、悔しげに声を荒らげる。しかし、そんな小春に対し、麗夏は肩で息をしながらも、勝ち誇ったような笑みを浮かべてみせた。


 「ふふ……。先輩だって、さっきから魔法を使いまくってるじゃないですか」

 ニヤニヤと小春を見つめる麗夏の顔には、かつての「引っ込み思案な後輩」の面影はなかった。対等なライバルとして、真正面から先輩を食ってかかろうとする、不敵な挑戦者の顔。


 「……言うようになったじゃない」

 小春はラケットを握り直し、全身から闘志のオーラを立ち昇らせた。その時だった。


 「その力だ! その力を俺に寄越せ……!!」


 聞き覚えのある、執着に満ちた声。小春と麗夏が同時に声のした方へ振り向くと、悠然とコートへ歩を進める白衣の男――青野の姿があった。


 「青野……!」


 小春が忌々しげにその名を呼ぶ。場内カメラが不審な乱入者を捉え、巨大スクリーンに青野の狂気じみた形相が映し出された。


 「な、乱入者です! 試合が中断されました!」


 コートの左右から二人の警備員が青野を取り押さえようと駆け寄る。しかし、青野は歩みを止めぬまま、懐から銀色の銃身を取り出した。


 ――乾いた銃声が二発。


 崩れ落ちる警備員。その光景を目にした瞬間、5万人の観衆から悲鳴が上がり、ドーム内は一気にパニックへと陥った。スタッフたちが必死に避難誘導を開始し、実況者や審判も腰を抜かしながらゲートへと逃げ込んでいく。

 その狂乱の渦中、プロデューサーの座馬は、逃げ惑う群衆とは逆方向の出入口に身を潜めていた。震える手で柱を掴み、自身の企画が招いてしまった最悪の事態に、どす黒い責任の重さを噛み締める。冷や汗が頬を伝うが、それでも彼は視線を逸らさなかった。自分が舞台に上げてしまった二人の少女が、これから何に立ち向かうのか——その結末を見届けることだけが、今の自分にできる唯一の贖罪であるかのように、事の成り行きを必死に見守り続けていた。


 静まり返ったコートの中央で、青野は二人を指差し、悦に入ったように語り始めた。

 「俺は知っている。本体に流れている赤い血と、翼に流れている黒い血を体内で混ぜ合わせて化学反応を引き起こし、それを魔法のように放出しているのだろう?」


 青野の瞳は血走り、その足取りはおぼつかない。

 「俺には時間がない。今日その力を手に入れなければ、俺は研究所をクビになるのだ。この俺が、クビ……あり得ん……そんなことはあり得ん、あり得んのだ!!!」


 青野はもはや正気ではなかった。彼は震える手で、白衣の胸ポケットから一本の試験管を取り出して見せる。その中には、どろりと濁った不気味な黒い液体が揺れていた。


 「これは昔、貴様の翼から採取した血液だ。……だがあれから八年もの月日が流れた今、この血の力は弱まりつつある。これではダメなのだ!! その翼の血をよこせ。新鮮で高密度な――『漆黒の血』をな!!」


 青野は哄笑しながら試験管の栓を抜き、濁った「黒い血」を一気に喉へと流し込んだ。


 「やめなさい!!!」

 「ダメです!!!」


 小春と麗夏の制止も虚しく、空になった試験管が硬いコートの上に転がり、乾いた音を立てる。直後、青野の体が激しく波打った。ドクンドクンと、血管が破裂せんばかりに脈打ち、肉体が内側から作り変えられていく。


 「ぐ、ああ……あ……ッ!!」


 声にならない絶叫を上げ、青野がうつ伏せに倒れ込む。その背中が異様に盛り上がったかと思うと、白衣を無残に突き破り、どす黒い翼が瞬時に生え揃った。頭部からは、小春たちのものよりも禍々しく太い二本の角が、肉を割いて突き出す。


 「あああああ……!!」


 二人が戦慄する中、変異はさらに加速した。立ち上がった青野の肌は毒々しい紫色に変色し、指先からは5センチを超える鋭利な爪が、凶器となって伸びる。もはやそこには、人間の理性を保った学者の姿は微塵もなかった。


 「……血……漆黒の、血を……!!」


 青野は獣のような足取りで踏み込むと、長く伸びた爪を小春の翼めがけて振り下ろした。


 「く……ッ!」


 小春は身を翻し、紙一重でその爪を回避する。着地と同時に、彼女の両方の手の平には、怒りに呼応するように激しい赤色の炎が灯った。


 「化け物め……! この前はわざと外してやったけど、今度は本当に当てるわよ。死になさい!!」

 小春が両手を振りかざす。放たれた二つの巨大な火の玉が、空気を焼きながら青野の胸元に直撃した。


 ドォォォンッ! という爆発音と共に、青野の全身が猛烈な火炎に包まれる。だが、炎に焼かれながらも、怪物は止まらなかった。


 「うぐああああ!! よこせ、その血をよこせえええええ!!!」


 燃え盛る火だるまのまま、青野は狂乱の叫びを上げ、執念深く小春へとその鉤爪を伸ばす――。


 「先輩! 危ない!!」


 麗夏が自身の翼を爆発的にしならせ、弾丸のような速度で小春へと体当たりを食らわせた。小春の体が弾き飛ばされた直後、青野の鋭い鉤爪が空を裂く。間一髪の回避だった。


 「麗夏、ありがと……」


 小春はそのまま高く舞い上がり、異形へと成り果てた青野を空中から見下ろす。彼女が両手を天に掲げると、手のひらの間に太陽を模したような、眩い超高熱の光球が凝縮され始めた。


 「あれは! ……先輩の最強の魔法だわ……!」


 麗夏が戦慄の表情でそれを見上げる。光球は唸りを上げながら膨張を続け、小春の小柄な身体を飲み込むほどの巨大な熱量へと成長していく。

 それは、中学生の頃。電波塔の展望デッキで佐藤と対峙した際、怒りに任せて放った因縁の魔法。あの時は佐藤に反射され、自らの身を滅ぼしかけた苦い記憶がある。


 「この魔法は使いたくなかったんだけど、火だるまになっても死なないなら、仕方ないよね……!」


 小春が覚悟を決め、その光球を解き放とうとした――その刹那。


 「……オォォォォォッ!!」


 地上で燃え盛る青野が、顎が外れんばかりに大きく口を開いた。その奥底から、空中にいる小春を正確に狙い、眩く太い破壊光線が撃ち放たれた。


 「っ……え!?」


 魔法を放つ直前の硬直。小春の両手は巨大な光球を維持するために塞がっており、回避も防御も間に合わない。空中で標的となった小春を、絶望的な光が飲み込もうとする。


 無人の観客席に残された数台の定点カメラが、激闘を無機質に捉え続けている。ドームの出入口からこの地獄絵図を凝視していたプロデューサーの座馬は、あまりの衝撃に言葉を失い、ただ震える手でその光景を目に焼き付けていた。


 青野の口から放たれた破壊光線が、空中の小春を呑み込もうとするその刹那、麗夏が叫びながら両手を突き出した。


 「先輩……っっ!!!」


 麗夏の両の手の平から、凄まじい勢いで極太の冷気が放出された。それは猛吹雪を孕んだ巨大な渦となり、空中の小春へと真っ直ぐに伸びる破壊光線を、横から飲み込むように包み込んでいく。熱と冷気の衝突によって発生した水蒸気が爆発的に広がり、次の瞬間、物理法則を凍りつかせるかのように、光線の先端から根元までが白銀の氷柱(つらら)と化して静止した。


 「はぁ……はぁ……先輩! 今です!!」


 全身の力を使い果たし、膝をつく麗夏。その頭上で、小春が冷徹なまでの眼差しで両手を振り下ろした。


 「……死ね、化け物!」


 唸りを上げて解き放たれた巨大な光球が、太陽が落下したかのような輝きを放ちながら、地上にいる青野へと直撃する。


 ドオオオォォォォンッ!!


 天地が逆転したかのような衝撃波。ドームに設営されていた特設テニスコートは跡形もなく崩壊し、衝撃の爆風によって頑強な鉄骨や壁面が紙屑のように剥がれ落ちていく。視界を覆い尽くす白光と噴煙。 爆煙がゆっくりと晴れていく中、コートだった場所の凄惨な光景が露わになった。

 小春の最大最強の魔法をまともに受けた青野の肉体は、強引に増幅された異形の構造すら維持できず、完膚なきまでに打ち砕かれていた。瓦礫の山となったコートのあちこちに、頭部、引き千切れた両腕、真っ二つになった胴体、そして左右の脚が、それぞれ無残な肉塊となってバラバラに解体され、瓦礫の中に横たわっていた。

 爆煙が渦巻く瓦礫の静寂の中、小春はゆっくりと舞い降りた。その足元には、無残に転がった青野の頭部が、焦点の合わない瞳を見開いたまま転がっている。

 遅れて、息を切らした麗夏が小春の元へと駆け寄った。二人は言葉を失い、かつて人間だった「それ」を、ただ黙って見つめていた。


 「……私たちの翼に流れている血には、人間を一瞬でこんな凶暴な姿に変えてしまう、恐ろしい力があるのね……」


 小春の声は微かに震えていた。自らの背に生えた、誇りでもあった黒い翼。その内側を流れる黒い血が、これほどの惨劇を引き起こす「呪い」にもなり得る事実に、心の底からゾッとするような恐怖を覚えた。


 「私は先輩の血に間接的に触れただけで、この姿になったとしたら……。それだけでも恐ろしいのに、口から直接体内に取り入れることが、どれだけ危険なことか……」


 麗夏が自分たちの翼を抱きしめるようにして呟く。鏡合わせのような二人の存在が、青野という怪物を通じて、その異質さを突きつけられていた。

 その時だった。カサッ……と、瓦礫の上で乾いた音が響く。二人の視線が音のした方へ注がれると、そこには引き千切られて転がっていたはずの腕があった。その指先が、まるで独自の意志を持った生き物のように、ピクピクと不気味に蠢き始めたのだ。


 「まだ生きてる……!!」


 小春が息を呑む。バラバラに解体され、心臓すら失ったはずの肉体が、いまだ活動を止めようとしない。


 「これも、血の力……!?」

 麗夏が驚愕に目を見開き、その言葉を最後まで言い終えるよりも速かった。小春が両手を突き出し、その手のひらから猛烈な高熱が放射された。凄まじい火炎が瓦礫の山を包み込み、蠢き始めていた青野の肉塊を、細胞の一つ一つに至るまで徹底的に焼き尽くしていく。

 やがて、パチパチと肉の焼ける音すら消え去った。後に残ったのは、命の気配を完全に失った、灰と化した虚無だけだった。




 事件の衝撃は瞬く間に日本中を駆け巡り、インターネットやワイドショーはその話題でもちきりとなった。

 小春と麗夏は、望月家のリビングで肩を並べてテレビを観ている。画面に映し出されているのはバラエティ番組ではなく、座馬プロデューサーの指示で編集され、特番として放映された衝撃のドキュメンタリー番組だった。

 番組のタイトルが画面いっぱいに躍る。


 緊急特番『テニスコートの黙示録 —— 二人の悪魔とその禁忌に触れた怪物の終焉』


 番組の前半は、あの歴史的なテニスマッチのダイジェストが流された。スローモーションで再現される小春の正確なショットと、必死に食らいつく麗夏の姿。

 スコアが「40 - 40」を表示し、効果音と共に画面がCMに入ったその時、麗夏が静かに口を開いた。


 「……試合はここで中断されてしまったけど、もしこのまま続けていても、私、先輩には勝てなかったと思います」

 麗夏の視線は、テレビの中の自分ではなく、隣に座る小春に向けられていた。


 「先輩は、試合を通して一度も空を飛んでいませんでした。動きに無駄がなかった……やっぱり、先輩は凄いです」

 麗夏の真っ直ぐな称賛に、小春は「フン……」と少し気恥ずかしそうに視線を逸らした。


 そして、番組の後半。 空気は一変し、青野が乱入してからの「地獄」が映し出された。変貌していく青野の咆哮、飛び散る爆炎。小春の最大魔法によって粉砕された青野の肉塊には、さすがに厚いモザイクが施されていたが、その異様さは画面越しにも十分に伝わってきた。


 「青野……恐ろしい研究……」


 小春は、テレビの中の燃え盛る炎を見つめながら、ポツリと呟いた。 青野が求めた「黒い血」。それがもたらした破滅。もし自分たちが、あの時力を使わなければ、今頃世界はどうなっていたのか。




 事件の喧騒がようやく落ち着きを見せ始めた頃、事態を重く見た国は「魔法および異能に関する研究」を全面的に禁止する法律を施行した。あのおぞましい怪物を生んだ「黒い血」の闇は、法律という鎖によって封印されたのだ。

 研究所で青野を追い詰めたあの上司も、事件の直後から忽然と姿をくらませていた。公的な記録からは抹消され、責任を追及する手すら届かない場所へと逃げ延びたのか。彼が何を企み、どこへ消えたのかを知る者は誰もいない。


 そんなある日の午後。小春と麗夏は、プロデューサーの座馬から都内にある一軒のコンビニの前に呼び出されていた。


 「来てくれましたか。この店、実は私が副業でプロデュースしたお店なんですが、立地が悪くて売上が伸びず、少し前に閉店してしまったんです」

 座馬は少し寂しげに、店舗を見上げた。


 「あら、内装も綺麗で素敵なお店なのに……もったいない」

 小春が率直な感想を漏らすと、座馬は眼鏡の奥の瞳を優しく光らせた。


 「それで……以前、望月さんのご自宅にお邪魔した際、将来はコンビニを開業したいと仰っていましたよね? もし良かったら、この店を望月さんに譲り受けていただけませんか?」


 「!!!」

 麗夏は目を見開き、驚きのあまり言葉を失った。数秒後、その驚きは爆発的な喜びに変わる。


 「ほ、本当ですか!?」

 「ええ。命がけで素晴らしい番組の制作に貢献してくれたお礼です。ぜひ受け取ってください。従業員が、あの有名な小春さんと麗夏さんなら、きっと売上が伸びるはずですよ!」

 「ちょっと! 私まで勝手に巻き込まないでよ」

 小春が呆れたようにツッコミを入れるが、麗夏の勢いは止まらない。


 「先輩も一緒にやりましょう! 家でだらだらマンガを読んでるより、絶対に楽しいですよ! 先輩なら品出しだってレジ打ちだって魔法みたいに素早くこなせるはずです!」


 「……もう。調子いいんだから」

 毒づきながらも、小春の口角はわずかに上がっていた。


 「座馬さん、本当にありがとうございます! 私、一生懸命頑張ります!」

 麗夏は何度も座馬に頭を下げると、さっそく店の鍵を受け取り、鼻歌交じりに開店準備へと取りかかった。




 シャッターを半分だけ開けた店内に、低く傾いた夕日がオレンジ色の長い影を落とす。麗夏は雑巾を手に、まだ何も並んでいない棚を熱心に拭き掃除していた。

 カウンターに腰掛けた小春が、退屈そうに足を揺らしながら口を開く。


 「ねえ、麗夏。肝心のお店の名前どうするの?」


 麗夏はパッと顔を上げ、掃除の手を止めて身を乗り出した。

 「あ、そうですよね! せっかく座馬さんから譲り受けたんですから、インパクトのある名前にしたいです。……例えば『エンジェル・マート』とか、どうですか?」

 「……パス。あんな騒動の後で天使なんて、恥ずかしくてレジに立てないわ」

 小春は即答して鼻で笑った。


 「じゃあ、『マジカル・ストア』とか! 私たちの魔法で冷やしたドリンクが売り、みたいな!」

 「直球すぎる。それに、国が研究を禁止したばっかりなんだから、魔法を全面に出すのはどうかと思うわよ」


 二人はその後も、いくつかの候補を出し合った。『望月商店』、『翼のコンビニ』、『デビル&ガールズ』……。けれど、どれも今の自分たちにはしっくりこなかった。

 小春はふと、店のガラスに映る自分たちの姿を見つめた。黒い翼、そして折れた痕のある自分のツノ。世間を騒がせ、けれど自分たちが自分たちである証。


 「……ねえ、麗夏。この姿よ。テレビで散々流れたんだし、今さら普通のふりをして接客するのも無理があるでしょ? だったら、このツノと翼が生えている私たちの姿を、そのままお店のコンセプトにしちゃえばいいのよ」


 麗夏はその言葉に、ハッとしたように自分の翼に触れた。

 「……私たちの姿を、コンセプトに……」

 「そう。変に飾った名前じゃなくて、私たちらしさが一目で伝わるような、そんな名前」


 二人は顔を見合わせ、再び言葉を紡ぎ出す。


 「ツノ……と、翼……」

 「……『角と翼』。……ねえ、これでいいんじゃない?」


 小春がレジ横のメモ帳に、サラサラと力強い文字を書いた。それを見た麗夏の瞳が、ぱぁっと明るくなる。

 「いいですね! 短くて、覚えやすくて……何より、私たちそのものです!」


 メモに書かれていたのは、飾り気のない、けれど誇り高い三文字。


 『角と翼』


 「よし、決まり。看板のロゴ、あんたがデザインしなさいよ。私は品出しの続きをやるから」

 「はい! 任せてください、先輩!」


 ドームでの死闘を終え、新しい居場所を見つけた二人の背中で、翼が誇らしげに小さく羽ばたいた。




 そして迎えた新装開店当日。 小春と麗夏は背中の開いた私服姿で商品の補充やレジ打ちを行っていた。


 「いらっしゃいませー!!」


 麗夏の凛とした声が、新装開店した店内に響き渡る。店の外には、事件を解決した二人の悪魔を一目見ようと、日本中から集まった観光客やファンで長蛇の列ができていた。


 店内では「麗夏さん!サインください!」と色紙が差し出される。

 「すみません、今は勤務中ですので。……その代わり、温めますか?」


 一方、小春はわがままな客に対しては相変わらずだった。

 「ねえ、このお弁当、もっと熱々にできないの?」

 「はあ? 自分でレンジに入れなさいよ。……それとも、私の『地獄の業火』で消し炭にしてあげましょうか?」


 小春が指先にパチパチと赤い火花を散らすと、客は「ひぃっ、ありがとうございます!」と、なぜか喜んでお弁当を持って帰った。




 そんな日々が続いた。


 私たちの翼に流れている黒い血は、確かに魔法の原動力になっているのかもしれない。青野のように、生き物を怪物に変貌させる危険な力が潜んでいるのも事実だろう。

 けれど、力そのものに罪はない。たとえ呪われた血と呼ばれようと、使い方を間違えなければ、こうして誰かのお弁当を温めたり、人々の生活に役立てることだってできる。


 すっかり日が落ち、夜の静寂が街を包み込む頃。店内の柔らかな光の中で、二人の翼が静かに重なり合う。


 「……先輩。今日もお疲れ様でした」

 「……お疲れ様。明日も忙しくなるわよ」


 世界を震撼させた力は、今、この小さな店を灯し続ける、優しく力強い日常の光となっていた。




 角と翼 ―ツノとツバサ― 第4部 漆黒の血 (完)

ここまでお読み頂きましてありがとうございます!


第4部では、麗夏が小春のことを尊敬するようになった経緯が明らかに、そして第1部の電波塔で佐藤に翼を斬られたときに飛散した「黒い血」の伏線を回収しました。伏線を回収した瞬間って気持ち良いですね!

ちなみに第4部の執筆は今までで一番時間がかかりました。第1部の後書きでも書きましたが執筆初心者なので、どう表現したら良いんだろう……と○ーグルさんを叩いて調べまくる日々でした。

サブタイトルには、あえて「編」をつけてません。漆黒の血編ちへんってニュアンス的に変ですし、漆黒の血液編けつえきへんっていうのも何か違う気がします。他にも血潮とか色々考えましたが、サブタイトルは「漆黒の血」で。


*意識した点

憧れの先輩を追い続ける麗夏の心境を表す描写が多いため、読者も筆者も途中からどうしても麗夏が主人公のように感じてしまいがちだと思いました。ですので小春の心境や態度の描写も随所に入れることによって主人公はあくまでも小春であるということをぶれさせない工夫をしたつもりです。

テニスの試合の場面では、テニスのルールを知らない方が読んでもわかるように「先に四回得点を獲った方が勝ち」と説明を入れる工夫と、得点のカウントについての「雑学」を入れるという新たな試みをしてみました。試合が淡々と進行して読み手を飽きさせないようにするための自分なりの工夫でもありますが、読みながら勉強にもなる小説なんて素敵すぎると思いませんか? 思惑通り、読みながら「へぇー!」と感じて頂けたなら嬉しいです。


第5部 恋心編 は 2026/6/1 に公開予定でしたが、筆者が「首の手術を受けるために入院」することが決定したため公開は遅れます。申し訳ございません…

公開の目途が立ち次第「活動報告」にて進捗をご報告いたしますので、お気に入りに登録してお待ち頂けますと幸いです。


*更新履歴

 2026/5/1 一般公開。

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