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角と翼 ―ツノとツバサ―  作者: ☆しえる☆♪


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第3部 再誕編

 静まり返った廃校の教室。窓から差し込む昼下がりの陽光が、埃の舞う室内を無機質に照らしている。床には胸を貫かれた香奈と、喉元を赤く染めた小春が倒れていた。小春の周囲には溢れ出した鮮血が広がり、彼女たちは微動だにせず、ただ静かに伏している。

 その静寂を、遠くから迫るサイレンの音と、複数を走る足音が無慈悲に踏み荒らした。


 「こちら応援部隊、現着! これより対象の確保および生存者の救出のため、現場へ突入する! 続けッ!」

 怒号と共に、隊員たちが教室になだれ込んでくる。


 「……っ、逃げるぞ、麗夏!」


 佐藤の鋭い声に、力なく立ち尽くしていた麗夏の肩が跳ねる。彼女の服には、小春の体温を吸い込んだ生々しい返り血が、逃れようのない惨状としてべっとりとこびりついていた。二人は窓から廊下へと飛び出し、なりふり構わず駆け出す。だが、階段へ向かう角を曲がった、その瞬間だった。


 「止まれ! 動くな!」


 廊下の先から現れた別の部隊と、正面から衝突しそうになる。逃げ場のない狭い空間。佐藤は麗夏を庇うように一歩前に出るが、数人の隊員たちと至近距離で視線がぶつかり合った。


 「……っ、行け!」

 佐藤が隊員の隙を突いて強引に道を開け、麗夏の腕を引いて裏階段の闇へと転がり込む。




 背後で「二人だ!」「逃がすな!」という叫び声が校舎に反響する中、先行して教室に突入した部隊は、凄惨な光景を前に足を止めていた。

 「状況を報告しろ」リーダー格の隊員が冷徹な声で命じると、床に伏した二体に歩み寄った隊員が、手際よく容態を確認し始める。


 「……こいつは実験室に毎日足を踏み入れていた早坂香奈ですね。事切れています。――こっちは特異災害指定個体の木崎小春」


 隊員が小春の左胸に指を当て、わずかに目を見開いた。


 「心臓が動いています……生きています!」


 その瞬間、周囲の隊員たちの間に殺気が走った。一人が銃口を向け、引き金に指をかける。人外の力を振るい、世界を恐怖に陥れようとした魔王。今ここで止めを刺すのが、治安維持としては正解だった。


 「待て、撃つな!」


 鋭い制止の声が響く。リーダーが銃口を手で押し下げた。


 「こいつの能力……火や電気を操るあの力は未知の領域だ。ここで死なせれば、その謎を解明する機会が永遠に失われてしまう」

 リーダーは忌々しげに舌打ちをし、通信機を叩いた。


 「こちら第一班! 指定個体・木崎小春を確保。重症だが生存している。……繰り返す、生存だ。直ちに緊急搬送の手配を!」


 倒れたままの小春に、慌ただしく医療キットを手にした救急隊員たちが駆け寄る。貴重な「実験体」として。

 小春の命は、本人の意思とは無関係に、冷え切った科学と国家の都合によって繋ぎ止められようとしていた。




 角と翼 ―ツノとツバサ― 第3部 再誕編




 お茶の間のテレビ画面には、ヘリコプターから撮影された廃校の空撮映像が映し出されていた。


 『――速報です。先ほど、廃校となった旧校舎内で、現場から血のついたナイフ一本と、行方不明となっていた早坂香奈さんと見られる遺体、そして自称「魔王」の木崎小春が発見されました』


 キャスターの無機質な声が、平穏な日常に冷水を浴びせる。


 『木崎小春については、発見時、首の辺りから激しく出血しており、現在、厳戒態勢のなか病院へ緊急搬送されています』


 その瞬間、日本中に一瞬の動揺が走った。あの恐怖がまだ生きている。だが、アナウンサーが「意識不明の重体であり、身柄は完全に当局の管理下にある」と付け加えると、国民は「当分は大丈夫だろう」と胸を撫で下ろし、再び日常の喧騒へと戻っていった。


 しかし、その安堵から遠く離れた場所。都市の底を貫く巨大な下水道の闇の中に、二人の姿はあった。


 「……っ、はぁ、はぁ……」


 麗夏は、中央を流れる暗い汚水の両脇に設けられた、狭いコンクリートの通路に座り込んでいた。等間隔に並ぶ壁のライトが、湿った通路をぼんやりと照らしている。

 背後の暗闇を振り返るが、そこに追いかけてくる足音も、忌々しいライトの光ももう届かない。重い静寂とカビ臭い湿気だけが二人を包み込んでいた。これだけの迷路を駆け抜け、この深淵まで辿り着けば、もはや誰にも見つかることはないだろう。

 だが、外の世界の脅威が遠のくほど、内側の痛みは鮮明に疼き出す。


 (私が……殺した。大好きな、先輩を……)


 外の様子など知る由もない。ニュースで小春の生存が報じられていることなど、思ってもみなかった。麗夏にとって、小春は間違いなく自分の手で引導を渡した「亡き人」だった。震える手を見つめると、小春から飛び散った鮮血が、コンクリートの白さに不気味に浮かび上がって見えた。




 「血圧低下、80を切った! 早く、第二ルート確保! 輸血を急げ!」


 執刀医の怒号が響く中、看護師たちが慌ただしく動き回る。無影灯の鋭い光が、血に濡れた小春の肌を白く浮き上がらせていた。突き刺された喉からは、彼女が呼吸を試みるたびに泡混じりの鮮血が噴き出し、ドレーン(排液管)は一瞬で赤く染まっていく。


 「損傷が深すぎる。食道まで達しているぞ。吸引、もっと強く! 術野が確保できない!」

 医師の額から大粒の汗が流れ落ちる。小春のバイタルは、モニター上で絶望的な波形を描いていた。アラームが不規則に鳴り響き、死の足音が刻一刻と近づいていることを告げる。


 「……くそっ、背中の『これ』が邪魔だ! 仰向けに固定できん!」

 執刀医が忌々しげに吐き捨てた。処置の妨げになっているのは、彼女の背中から生えている虫食いのような穴がいくつも開いた漆黒の翼だった。


 「先生、切除しますか? 救命のためなら……」


 助手の震える問いに、執刀医は一瞬、迷うようにメスを握る手に力を込めた。人間ではない。世界を滅ぼそうとした怪物だ。ここでこの異形を切り落とし、ただの「人間」として繋ぎ止めるべきか。それとも、このおぞましい生命力をそのまま生かすべきなのか。


 「……いや、勝手な真似はするな。我々の仕事は、この『検体』を預かった時の状態のまま生かすことだ。……吸引を続けろ!」


 医師は自らの内に湧き上がる生理的な恐怖をねじ伏せるように叫んだ。医師たちはすぐさま、細い糸でズタズタになった血管と筋肉を縫い合わせていく。小春の身体は、麻酔に反応しているのかさえ判然としないほど冷え切っていたが、その指先は時折、痛みに耐えるようにかすかに痙攣していた。




 「……出血、止まりました。バイタル、低値で安定」


 数時間に及ぶ手術が終わり、執刀医が血にまみれた手袋を脱ぎ捨てた。小春は生き延びた。だが、彼女の喉には痛々しい縫い跡と、生命維持のための幾本ものチューブが繋がれた。




 「麗夏、大丈夫か」


 通路の先を警戒していた佐藤が、低い声で振り返る。彼の足音が、円形の天井に反響して不気味に響いた。


 「……佐藤さん。私たち、もう終わりですよね。外に出たら、すぐに警察に捕まって……。私、先輩を殺した人殺しとして、一生……」


 麗夏の瞳から涙がこぼれ、乾いたコンクリートに小さなシミを作る。顔を見られた。証拠のナイフも置いてきた。この閉ざされた下水道の通路だけが、唯一、自分という罪人を世間から隠してくれる、地獄の入り口のように思えてならなかった。




 どれぐらいの時間が過ぎたのか、もうわからない。等間隔に並ぶ壁のライトは、昼も夜も関係なく無機質な光を放ち続けている。時折、頭上のマンホールを隔てて、くぐもった車の走行音が重低音となって響く。その音を聞くたびに、すぐ数メートル上には「普通の世界」があるのだと思い知らされ、麗夏の胸は締め付けられた。


 「……今、何時かな」麗夏が膝を抱えたまま、掠れた声で呟いた。


 「さあな。だが、この音の激しさからすると……学校の昼休みか、放課後の時間帯だろうな」

 通路の縁に腰掛けた佐藤が、地上を見上げるように首を動かした。


 学校。今の自分たちから、最も遠い場所にある言葉だ。


 「学校……しばらく、行けないですよね。部活も……」

 麗夏は自分の汚れた靴先を見つめた。


 「……実は私、先輩が実験室に入って、毎日通うようになってから……もう、まともに学校行ってないんです。ずっと、無断欠席ばっかり」


 自嘲気味に笑う麗夏の言葉に、佐藤は意外そうに目を細めた。


 (……こんなに真面目そうに見えて、学業を捨ててまであいつに尽くしていたのか)

 麗夏のどこか危うい献身ぶりを、佐藤は改めて認識した。


 「そうだったのか。……俺は、二、三日前まで普通に教室にいたぞ」

 「えっ、佐藤さん、あんなことがあったのに、学校ちゃんと行ってたんですか!?」


 麗夏の驚く顔に、佐藤は肩をすくめて短く息を吐いた。


 「行かない理由もないからな。……お前みたいに、何かにかかりきりになるような性質じゃないんだよ、俺は」


 「いいなぁ……」と麗夏は溜息を漏らし、再び項垂れた。

 「私、もう無事に卒業なんて、絶対できないですよね。人殺しの指名手配犯になって……」


 佐藤はふっと、場違いなほど穏やかな声で笑った。

 「案ずるな。俺だって追われている身だ。今さら『明日から出席します』なんてツラはできない。俺も、お前と一緒でドロップアウトだ」


 佐藤は麗夏の肩を軽く叩く。

 「お前だけじゃない。俺も、お前の『終わり』に付き合ってやるよ」


 真っ暗な下水道に、佐藤の笑い声が静かに反響した。その響きに、麗夏はほんの少しだけ、呼吸が楽になるのを感じた。




 ぐうぅ…


 静まり返った下水道の通路に、情けないほど大きな音が反響した。麗夏は赤らんだ顔を伏せ、力なくお腹をさする。


 「……すみません。お腹、空いちゃって」

 「謝るな。俺だって、さっきから腹と背中がくっつきそうだ」


 佐藤もまた、通路の壁にもたれかかりながら、力なく笑った。廃校から逃げ出して以来、二人が口にしたのは、下水道の設備点検用に放置されていたらしい、賞味期限の切れた古い備蓄の乾パンが数枚だけだった。


 「私……何か買ってきましょうか」

 麗夏がよろよろと立ち上がろうとする。だが、佐藤は即座に首を振った。


 「無理だ。お前のその服を見ろ」


 ライトに照らされた麗夏の服には、小春から浴びてしまった返り血が、赤黒い染みとなってこびりついている。


 「そんな格好で店に入ってみろ。レジに着く前に通報される。……俺が行く。お前はここで待ってろ」


 佐藤は立ち上がり、頭上のマンホールへと続く錆びついた梯子(タラップ)に手をかけた。慎重に地上を窺い、車の音が途切れた瞬間を見計らって外へと消えていく。




 麗夏は暗闇の中、一人きりで待った。地上から聞こえるサイレンの音が、すべて自分たちを探す警察のように聞こえて、心臓が痛いほど脈打つ。




 暫くして再びマンホールの蓋が重く動き、佐藤が戻ってきた。その手には、パンや握り飯が詰め込まれた大きな袋と、適当な衣類が入った紙袋が握られていた。

 「……佐藤さん!」

 「待たせたな。ほら、食え」

 「警察に……見つかりませんでしたか?」麗夏はおずおずと問いかけた。その瞳には、自分のために佐藤まで捕まってしまうのではないかという恐怖が色濃く浮かんでいる。


 「ああ、大丈夫だ。おたずねものにしては、案外世間は俺たちの顔に気づかないもんだよ」

 佐藤は事も無げに答え、麗夏におにぎりを差し出した。


 「……よかった」麗夏は心の底から安堵し、受け取ったおにぎりを震える手で包み込んだ。

 「ありがとうございます。……本当に、ありがとうございます……」


 冷たい下水道の通路で、二人は並んで食事を摂った。




 下水道での生活を始めてから、数週間が過ぎた。


 カビ臭い空気にも、絶えず響く水の音にも、いつの間にか慣れてしまった。佐藤が調達してきた食料を分け合い、ただ息を潜めて日々をやり過ごす。

 佐藤がおにぎりを頬張りながら、ふと思い出したように麗夏へ問いかけた。


 「……なぁ、麗夏。小春を刺したこと、後悔してないか?」


 その問いに、麗夏は持っていたパンを止め、揺れる水面を見つめた。しばらくの沈黙の後、彼女は静かに、しかし迷いのない声で答えた。


 「後悔は、していません。大好きだった小春先輩がそう願うなら……私は、その望みを叶えてあげたいと思ったから。それが先輩の救いになるなら、私は何度でもあの日と同じ道を選びます」


 麗夏はそこで言葉を切り、少しだけ声を震わせた。


 「ただ、ひとつだけ後悔しているとすれば……佐藤さんを、こんなことに巻き込んでしまったことです。私一人で逃げればよかったのに、佐藤さんの人生まで壊してしまって……」


 俯く麗夏に対し、佐藤はふっと、どこか吹っ切れたような笑顔を見せた。


 「俺のことなら気にするな。俺が勝手に付いてきたんだ。……それに、お前一人じゃ、こんなところで一週間も持たなかっただろ?」

 佐藤の冗談めかした言葉に、麗夏の口元がわずかに綻ぶ。


 「本当に……あいつ、小春のことが好きだな、お前は」

 「……はい」


 麗夏は胸元をぎゅっと握りしめた。その掌には、あの日、先輩を貫いた時の熱い感触が、今も消えずに残っているような気がした。




 一方、その頃。


 木崎小春は、どこにでもあるような総合病院の病室で、重い瞼をゆっくりと押し上げた。


 (……ここは……?)


 喉が、燃えるように熱い。声を出そうとしても、喉の奥が引き攣れたように痛み、掠れた吐息が漏れるだけだった。首周りには何重にも包帯が巻かれ、身体中にチューブが繋がれている。

 小春の意識が、混濁した記憶の沼から少しずつ浮上してくる。廃校の教室。麗夏の涙。そして、自分の喉元を貫いたあの衝撃。確かに自分は、あの時、麗夏の手によって永遠の眠りにつくはずだった。


 「私……麗夏に、殺されたはずじゃ……?」


 声にならない呟きが、乾いた唇から零れる。小春は、自分が生き延びてしまったことを悟った。顔を横に向けると、窓からは10階ほどの高さから見下ろす街並みが広がっている。平和な日常を走る車や、遠くに見えるビル群が、自らの死すら許されなかった残酷な現実を無関心に映し出していた。

 静かに入ってきた若い女性看護師は、小春が目を開けていることに気づき、小さく息を呑んだ。


 「……気がつきましたか?」


 小春は掠れた喉を震わせ、苦しげに、しかしはっきりと答えた。


 「うん。……見ればわかるでしょ」


 その刺々しい物言いに、看護師は一瞬たじろいだが、テレビの向こう側で絶望を振りまいていた姿とは裏腹に、目の前の彼女は、単に機嫌の悪い、しかしどこか意志の強さを感じさせる一人の少女だった。看護師は恐る恐る、小春の翼とツノに視線を向けた。


 「その、ツノや翼……本物なんですね。テレビで観てはいましたけど、こうして実際に見るまで、どこか信じられなくて……」

 「……ジロジロ見ないで。こんな姿、私だって見せたくて見せてるわけじゃないんだから」


 小春が拒絶するように顔を背けると、看護師ははっとしたように表情を緩め、努めて明るい声を作って歩み寄った。


 「ごめんなさい。……あ、私、石津(いしづ)真悠子(まゆこ)って言います。今日からあなたの担当。真悠子だと堅苦しいから、みんなには『まゆちゃん』って呼ばれてるの。あなたも、気軽にまゆちゃんって呼んでね」


 そう言って微笑みながら、真悠子は手慣れた動作で小春の検温と点滴の確認を終え、そのまま退室した。死の淵から戻ったばかりの重罪人である自分を、まるで学校の転校生でも迎えるかのようなその軽い調子に、小春は毒気を抜かれたように押し黙った。

 真悠子はそのままナースステーションを通り過ぎ、担当の男性医師のもとへ向かう。


 「先生、1001号室の木崎小春、意識が戻りました」

 「そうか。意識レベルはどうだ?」

 「……はっきりしています。ただ、その……」


 真悠子は言い淀み、先ほど交わした会話を思い返した。


 「テレビで観ていた印象とは、全然違います。破壊を繰り返すような怪物というより……ただの生意気な女の子というか。まるで普通の人間と話しているようでした」


 担当の男性医師が静かに病室に入ってくると、小春のバイタルを確認しながら、現在の体調と今後の容態について淡々と、しかし具体的に説明を始めた。

 「手術は成功したが、喉の損傷は深い。しばらくは流動食すら難しいだろう。だが、君の生命力なら回復は早いはずだ」


 医師は一度言葉を切ると、少し声を落として続けた。


 「……ここでの治療が終わり次第、君の身柄は専門の研究室……実験室へ移されることが決まっている。あそこへ行けば、ここほど自由な環境ではないだろう。だから、それまではここでゆっくり休みなさい。困ったことがあれば、何でも相談に乗るよ」


 小春は窓の外に視線を向けたまま、短く息を吐いた。


 「……相談なんて別にないわよ。それより、一つ聞きたいことがあるんだけど」


 包帯越しに痛む喉を庇いながら、小春は医師のほうを振り返り、ぶっきらぼうに問いかける。


 「麗夏……私を刺した女の子がどうなったか、何か知らない?」


 医師は一瞬だけ表情を曇らせたが、隠す必要もないと判断したのか、記憶を辿るように答えた。


 「ニュースで見たよ。現場から逃走して、今は同年代の少年と二人で逃亡中だそうだ。警察も行方を追っているが、まだ見つかっていないようだな」


 少年……。小春の脳裏に、佐藤の顔が浮かんだ。おそらく彼が麗夏を連れて逃げたのだろうと、小春はすぐに悟った。


 医師が部屋を出て、再び静寂が訪れると、小春は窓の外の広大な空を見つめ、力なく笑みを漏らした。


 「麗夏……。私を殺し損ねるなんて、本当に詰めが甘いんだから……」


 喉の奥から込み上げるのは、怒りでも悲しみでもない、形容しがたい感情だった。


 「それとも……わざと、生かしたの……?」


 その問いに答える者はなく、ただ午後の穏やかな日差しが、小春が横たわる白いベッドを静かに照らし続けていた。




 それからさらに数週間。逃亡者の日々に、変化という変化はなかった。


 麗夏は佐藤が買ってきたおにぎりを口に運びながら、自分の顔に手をやった。額の両側に、黒くて小さな突起のような膨らみができていることに気づいたからだ。指先で触れると、それは皮膚の内側から骨が突き出してきたような、奇妙な硬さを持っていた。


 「……あれ。たんこぶ? 私、どこかで頭打ったっけ……?」


 独り言のように呟いた麗夏に、少し離れた場所に座っていた佐藤が声をかける。彼は、腰に携えている真剣を鞘からわずかに抜き、壁のライトの光をその身に反射させていた。


 「ここは一面コンクリートだからな。暗いし、怪我には気をつけろよ」


 佐藤は麗夏の方を見ようともせず、ただ吸い込まれるような刃文の輝きをじっと見つめている。その眼差しは、慈しんでいるようでもあり、同時に忌み嫌っているようにも見えた。麗夏はその張り詰めた空気と、彼の手に握られた業物の美しさに、ふと疑問を口にした。


 「……そういえば佐藤さんって、剣道部なんですよね?」

 「剣道部『だった』、が正しいな」


 佐藤はカチリ、と静かな音を立てて刀を鞘に収めた。


 「ずっと部活にも顔を出してない。今頃は出席日数も足りなくて、強制退部させられてる頃だろうさ」

 「そう、なんですか……。あんなに強いのに、もったいない気がします」


 麗夏の言葉に、佐藤は自嘲気味な笑みを浮かべた。


 「……俺の家は代々、剣道の名門でな。剣以外の選択肢なんて、生まれた時から用意されてなかったんだ」


 佐藤の生家には、常に張り詰めた静寂と、古い木の床が放つ独特の匂いがあった。庭には立派な道場があり、夜明けとともに竹刀が空を切る音と、厳格な父の怒号が響くのが日常だった。


 『佐藤の家の男は、剣に生き、剣に死ぬ。迷いは刃を鈍らせる。私情を捨てろ』


 幼い佐藤にとって、父は絶対的な存在だった。遊びたい盛りの放課後も、友人たちとの約束も、すべては「稽古」の名の下に塗り潰された。佐藤家の剣は、勝つための技術ではない。相手を圧倒し、屈服させるための「力」そのものだった。試合で一本取ったとしても、その所作に隙があれば、父の拳が飛んだ。


 『お前の剣には、覚悟が足りん。守るべきものなど作れば、それがお前の弱点となる』


 代々受け継がれてきた名門の看板。それは佐藤にとって、誇りというよりは、首を締め上げる鎖のようなものだった。剣道の名門としての期待。親族からの重圧。佐藤は、そんな血の滲むような日々の果てに、自分という人間がただの「剣を振る機械」として扱われていることに気づいていた。


 「……だから、部活を辞めたところで、今さら失うものなんて何もないんだよ」


 佐藤は短くそう締めくくった。その言葉には、名門の重圧から解放された安堵と、すべてを捨ててしまった虚無感が入り混じっていた。麗夏は、佐藤が自分と一緒に逃げてくれている理由が、単なる義理ではないことを、彼の横顔から感じ取っていた。

 佐藤の話を聞き終えた麗夏は、ふと彼の腰元にある真剣に視線を落とした。


 「そういえば、佐藤さんのその剣……小春先輩との戦いで折れてしまったはずですよね? なのに、どうして……」


 小春が魔王として東京を焼き尽くしたあの日、激闘の末に粉砕されたはずの刀が、今こうして佐藤の傍らにある。その矛盾に麗夏が首を傾げると、佐藤は刀身を鞘に戻しながら、どこか拍子抜けするような調子で答えた。


 「ああ。代々の名門だからな、蔵に行けばたくさんあるんだ」佐藤は可笑しそうに笑い、今度は逆に麗夏へと問いを投げた。


 「麗夏はテニス部だよな」

 「テニス部『だった』、が正しいです」


 佐藤の先ほどの言い回しを真似て、麗夏はクスクスと笑い返した。その一瞬のやり取りだけは、まるで下水道にいることを忘れた、放課後の教室のようだった。


 入部初日のテニスコートは、夕日に照らされてオレンジ色に輝いていた。麗夏は、親友の香奈と一緒に、期待と緊張を胸にコートへと足を踏み入れた。

 離れた場所にある壁打ち用のコートから、一定のリズムで重い打球音が響いていた。そこには、一人で黙々と壁に向かう木崎小春の姿があった。


 「……挨拶しに行こぉ?」

 香奈に促され、二人は小春の元へ駆け寄った。


 「あの、今日入部した、一年の望月麗夏と早坂香奈です! よろしくお願いします!」


 麗夏たちが元気に声をかけると、小春はラケットを振る手を止め、ゆっくりと振り返った。だが、その瞳に歓迎の色は微塵もなかった。


 「新入り? 邪魔だからあっちへ行って。私のペースを乱さないで」


 小春は冷淡にそう言い放つと、再び壁に向き直った。その背中は、誰の助けも必要としないと言わんばかりに、頑なで孤高だった。


 少し離れた場所まで戻ると、香奈が肩をすくめて麗夏の耳元で囁いた。


 「なんか、感じ悪い先輩だねー。体操服の襟とか立てちゃって、いかにも『私に話しかけないで』って感じ」

 「……うん。ちょっと怖そう」


 麗夏も顔を見合わせ、苦笑いを浮かべるしかなかった。


 「……それが、まさか数ヶ月であんなに憧れの存在になるなんて、あの頃は思わなかったです。……香奈だって、あんなに先輩のこと、尊敬してたのに」


 麗夏の言葉は静かな下水道に溶けていった。脳裏にこびりついて離れないのは、二ヶ月前のあの光景だ。麗夏と同じように小春を慕い、背中を追いかけていたはずの親友。その胸を、憧れの対象であった小春の手から放たれた無慈悲な雷撃が貫いた瞬間。


 (香奈……ごめんね。痛かったよね……っ)


 自分たちを導いてくれると信じていた先輩に、最も大切な親友を奪われた。その事実に心が削られながらも、麗夏はまだ、孤高で、どこまでも凛としていた小春の姿を捨てきれずにいた。優しく髪を切らせてくれた時の、あの少しだけ柔らかかった先輩の表情。


 (先輩……)


 その瞬間、瞳から溢れた大粒の涙が、コンクリートの冷たい床に落ちた。大好きだった。小春を心から敬愛していた親友も、そしてその心臓を焼き抜いた孤高な先輩も。泣きじゃくる麗夏の横で、佐藤は何も言わず、ただ静かに彼女の背中を見守るように見つめていた。


 その時だった。


 「――おい、そこに誰かいるのか!」


 通路の先、カーブの向こう側から鋭い怒声と、コンクリートを叩く激しい足音が響いてきた。二人の心臓が跳ね上がる。反射的に顔を上げると、闇の向こうから二筋の強力な懐中電灯の光が、網膜を刺すように迫ってくるのが見えた。


 「止まれ! 警察だ!」


 二人組の警官だ。逃げ場のない一直線の通路で、光の矢が麗夏の濡れた頬を無慈悲に照らし出す。


 「っ、麗夏、立て! 来い!」


 佐藤が麗夏の腕を掴み、強引に引き立たせた。二人は背を向け、死に物狂いで駆け出す。背後からは「待て! 止まらないか!」という警告と、壁に反響して膨れ上がった重い靴音が追いすがってくる。


 「こっちだ!」


 佐藤は迷わず、本流から枝分かれする細い分岐へと飛び込んだ。そこは街の血管のように複雑に入り組んだ、終わりなき闇の迷路だった。右へ、左へ。ライトの光を遮るように角を曲がり、入り組んだ構造の奥へ奥へと潜り込んでいく。どれだけ走っただろうか。何度も分岐を繰り返し、背後の足音が完全に遠ざかり、やがて水音にかき消されていったところで、二人はようやく足を止めた。

 コンクリートの壁に背を預け、二人は激しく上下する鼓動を抑える。


 「……はぁ、はぁ……っ。……撒いた、みたいですね」


 麗夏が、震える声で途切れ途切れに呟いた。まだ恐怖で膝が笑っている。佐藤は暗闇の中で周囲を警戒しながら、短く息を吐いた。


 「ああ。……こんな場所まで、奴らも深追いしてこないだろう。だが、長くは留まれないぞ」

 「……わかってます。でも……もう少しだけ、このままでいさせてください」


 麗夏は冷たい壁に頭を預け、再び訪れた静寂の中で、行き場のない孤独を噛みしめるように目を閉じた。




 一方、小春は驚異的な回復力を見せていた。

 喉の痛みはまだ残っていたが、点滴の支柱に掴まりながらであれば、室内をゆっくりと歩き回れるまでになっていた。


 「暇……。実験室にいた頃よりも、ずっと暇……」


 窓の外を眺めるのにも飽きた小春は、小さく溜息をついた。かつて魔王として君臨していた彼女にとって、何もせずにただ生かされている時間は、どんな拷問よりも退屈だった。

 ふと、自分の背中と頭に意識を向ける。


 「私のツノや翼の存在は、もうこの国の誰もが知ってる。今さら隠す必要なんてないよね。この姿で院内を少し歩き回ったところで、何の問題もないはず」


 そう独り言ちると、小春は病院のパジャマのボタンを外し、それを脱ぎ捨てた。拘束されるもののない背中から、黒い翼がゆっくりと広がる。点滴の薬剤が身体に馴染んでいるせいか、翼の虫食い穴は心なしか小さく塞がり始めていた。

 小春は翼を軽く動かし、そのまま病室の扉へと手をかけた。外の廊下に出て、少しでもこの退屈を紛らわせたい。

 だが、扉を数センチ開けかけたところで、彼女の手が止まった。


 (……待って。かつて東京を焼け野原にした私が、いきなり目の前に現れたら……。ここの人たちは、どう思う?)


 リハビリに励む老人や、静かに療養している一般の患者たち。彼らにとって自分は、平和な日常を奪い去った悪夢そのものだ。そんな「恐怖の象徴」が、平然と公共の場を歩き回れば、せっかくの平穏を台無しにしてしまう。

 小春は小さく苦笑し、静かに扉を閉めた。


 「……今はまだ、やめておきましょ」

 彼女は再びパジャマを羽織ると、大人しくベッドの上へと戻った。


 ベッドに戻った小春は、手近な場所にあったメモ用紙に視線を落とした。指先をわずかに動かすと、紙は重力に逆らうようにふわりと浮き上がり、そしてまたパサリと机に落ちる。


 「……はぁ。退屈すぎるわ」


 浮かせては落とし、浮かせては落とす。そんな単調な繰り返しにすぐに飽きた小春は、今度は人差し指の先に意識を集中させた。シュッと小さな音を立てて、指先にビー玉ほどの大きさの火の玉が灯る。ゆらゆらと揺れる橙色の光を見つめ、退屈を紛らわせようとしたその時だった。


 「小春ちゃん、何やってるの!!」


 血相を変えた真悠子が、勢いよくドアを開けて入ってきた。その剣幕に、小春は思わず火の玉を消す。


 「……何よ。ちょっと退屈だったから、暇つぶししてただけじゃない」


 「ダメだよ、火なんて! スプリンクラーが作動しちゃったらどうするの」

 真悠子は呆れたように溜息をつくと、ベッドの横まで歩み寄ってきた。


 「そんなに退屈なら、テレビでも観に行く? エレベーター前の談話室に大きなテレビがあるよ」

 「……遠慮しとくわ。私が人前に出れば、みんな怖がるに決まってるでしょ」


 小春はそっぽを向いて、ぶっきらぼうに答えた。自分のような異形の存在が、平穏な療養の場に現れることが何を意味するか、彼女なりに理解していた。


 「それなら、私と一緒にいこ? 私がついてるから大丈夫。ね?」


 真悠子は屈託のない笑顔でそう言うと、小春の点滴の支柱を引き寄せた。


 「ほら、ゆっくり立って」


 小春は「勝手に決めないでよ……」と不満げに零しながらも、差し出された真悠子の腕を借りてゆっくりと立ち上がった。パジャマの上からでも目立つ、背中の翼の膨らみを少し気にしながら、二人は連れ立って病室を出た。


 歩調を合わせてくれる真悠子に付き添われ、小春はエレベーター前の談話室へと足を踏み入れた。自動ドアが開いた瞬間、談話室にいた数人の患者たちの視線が一斉に小春へ集まる。彼女の頭に生えた黒いツノと、パジャマの下で不自然に盛り上がる翼に気づくと、彼らは一瞬で表情を凍り付かせた。数人が恐怖に顔を歪め、椅子の背もたれを盾にするように部屋の隅へ縮こまろうとする。


 (……やっぱり、こうなるよね)

 小春が自嘲気味に視線を逸らそうとした、その時だった。


 「あの……木崎さん、ですよね?」


 ソファに座っていた一人の男性が、恐る恐る、しかしはっきりとした声で彼女に問いかけた。小春は一瞬、戸惑いを見せたが、ぶっきらぼうに「……うん」とだけ返事をした。

 すると男性は、「やっぱり!」とパッと表情を明るくした。


 「いや、テレビで観た時はもっと……こう、恐ろしい感じだったから。実際に見ると、案外普通の、綺麗な女性なんだなって……」


 男性が屈託のない笑みを浮かべ、小春を一人の女性として受け入れたのを見て、他の患者たちの間にも張り詰めた空気が緩んでいく。


 「本当だわ、お肌も綺麗だし……大変だったわねぇ」

 「そのツノ、痛くはないのかい?」

 一人、また一人と、好奇心や同情を交えながら会話に加わってくる。


 小春は、思いがけない周囲の反応に面食らっていた。麗夏や佐藤以外にも、自分を「一人の女」として、あるいは「ただの人間」のように見てくれる人がいる。


 (……なによ、勝手なことばっかり言って。……まあ、この世界も、案外悪くないのかもね)


 そんなツンとした思いを抱きながらも、彼女の頬はわずかに緩んでいた。


 「じゃあ、小春ちゃん。私はナースステーションに戻るから、ゆっくりしててね」

 真悠子が笑顔でそう告げて去っていくと、小春は患者たちと肩を並べ、流れるテレビの映像を眺めながら、穏やかな対話の輪に身を置いた。




 下水道の冷え切った空気の中で、時は残酷に過ぎていった。


 麗夏の背中の肩甲骨のあたりが、内側からじりじりと焼けるように熱く、そして猛烈に痒い。


 「……っ、ん……」


 麗夏が落ち着きなく体を揺らし、背中を丸めたり伸ばしたりしているのを見て、傍らで刀の手入れをしていた佐藤が手を止めた。


 「……麗夏、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

 「あ、はい……大丈夫、です。ちょっと……服が擦れるみたいで」


 麗夏は無理に笑顔を作って答えたが、その直後、背中に稲妻が走るような鋭い痛みが突き抜けた。内側から皮膚を突き破ろうとする異物感。もはや、布一枚隔てていることすら耐え難い。


 「……ごめんなさい。やっぱり、ちょっと……我慢できなくて。服、脱いでもいいですか?」

 「え、あ、ああ……。だが、ここは冷えるぞ」


 佐藤が戸惑いながら答えると、麗夏は顔を赤らめ、消え入りそうな声で付け加えた。


 「……あっち、向いてて。絶対、見ないでくださいね」

 「……わかった」


 佐藤が気まずそうに背を向けるのを確認してから、麗夏は震える手で服のボタンを外し、ゆっくりと肌を露わにした。

 そこには、透き通るような白い背中に似つかわしくない、どす黒く脈動する皮膚の塊があった。麗夏が痒みに耐えかねて背を反らせた瞬間、ミシリと湿った音を立てて皮膚が裂け、そこから黒く濡れた肉の塊がせり出してきた。それは力なく左右に展開し、まだ小さいながらも、紛れもない蝙蝠のような翼となって麗夏の背に現れた。


 「……ぁ……あぁあああッ!!」


 麗夏の悲鳴が下水道の奥底まで響き渡る。その異変に、約束を忘れて佐藤が反射的に振り返った。


 「麗夏! 何が——」


 佐藤の言葉が止まる。彼の視線の先には、泣き崩れ、自分の背中に生えたおぞましい異形を必死に触ろうとしては怯える麗夏の姿があった。


 「どうして……なんで、私が……っ!」


 麗夏は絶望に打ちひしがれ、激しく首を振った。自分がその手で刺した、あの人の姿が脳裏に焼き付いて離れない。


 「先輩の……小春先輩の怨霊が、私に取り憑いたんだわ……! 私を、呪ってるんだ……!」


 麗夏の嗚咽は止まらず、その背中で産声を上げたばかりの小さな翼は、まるで主の絶望を吸い取るかのように、どす黒く脈動していた。額では、先ほどまで「たんこぶ」だと思っていた黒い突起が、もはや言い逃れのできないほど鋭く、硬い「悪魔のツノ」の形へと成長していた。

 パニックに陥り、自分のツノを自傷するかのように掻きむしろうとする麗夏の両肩を、佐藤は力強く掴んだ。


 「落ち着け、麗夏! 怨霊だの呪いだの、そんな現実離れしたことが起きるもんか!」


 佐藤はあえて厳しい声を張り上げた。だが、叫んだ直後、自分の言葉の矛盾に奥歯を噛み締める。目の前の少女には、現に蝙蝠の翼と悪魔のツノが生えてきているのだ。呪いなどという言葉よりも、よっぽどこの光景の方が「現実離れ」していた。

 麗夏は激しく呼吸を乱しながら、ふと自分の掌を見つめ、何かに気づいたように呟いた。


 「……血だわ。……血のせいだわ、きっと」

 「血……?」


 「あの時……廃校で先輩を刺した時、私、至近距離で……浴びるほど先輩の血を被ったから。あの血に、何か『悪魔になるための因子』みたいなものが入っていて、それが私に感染したんだわ……!」


 麗夏のその推測は、下水道の湿った空気に妙な説得力を持って響いた。あの悪魔のような力を持つ小春の血が、一種のウイルスのように麗夏の体を作り替えているという理屈だ。佐藤も、非科学的な呪いという言葉よりは、その「感染」という仮説に深く納得せざるを得なかった。

 だが、麗夏はすぐに新たな疑問に突き当たり、震える瞳を佐藤に向けた。


 「……でも、それなら佐藤さんだって。佐藤さんも、あの戦いで先輩の血を浴びたはずですよね? なのに、どうして佐藤さんには何も……」


 佐藤は問いかけられ、当時の記憶を辿るように沈黙した。電波塔での戦い。あの日、自分は確かに小春と戦った。刀が折れ、極限の状態だった。しかし——。


 「いや……。しばらく思い出そうとしてみたが、俺はあの時、小春に直接は触れていなかった気がする」


 佐藤は自分の手を見つめながら答えた。

 「俺は小春が放った魔法を刀で返した。お前みたいに、喉元を直接突き刺して返り血を全身に浴びるような事はしていない。それに……」


 佐藤は言いかけ、自嘲気味に笑った。

 「俺みたいな男の体には、悪魔の血も馴染みたくなかったのかもな」


 麗夏の視線は、血の汚れにまみれた自分の下着、その隙間から覗く肌に向けられていた。そこには、人間のものではない禍々しい熱が宿り始め、自分という存在を書き換えていく。

 佐藤は、麗夏の背中から突き出した小さな翼や、額に芽吹いた異形を静かに見つめ、淡々と告げた。


 「その様子じゃ、ただ外見が変わるだけじゃ済まないだろうな。力も……継承されているはずだ」

 「ツノや翼があるなら……きっと、魔法も使えるはずですよね」


 麗夏は震える指先を見つめながら、ポツリと呟いた。もし今の自分が小春と同じ「悪魔」に作り変えられつつあるのなら、彼女が自在に操っていたあの神秘的な力も、自分の中に眠っているのではないか。

 麗夏は恐る恐る、記憶の中にある小春の姿をなぞるように、魔法の使い方を手探りで試し始めた。目を閉じ、体の中を流れる血の熱さに集中する。自分を蝕む「感染」の力を、逆に指先へ押し出すような感覚。


 「……っ!」


 集中がピークに達した瞬間、ポッと小さな音がして、麗夏の広げた手のひらの上に小さな火の玉が灯った。下水道の湿った闇を、淡い橙色の光が照らし出す。


 「出た……。こうやって、魔法を出すんだ……」


 掌の上の熱は、不思議と心地よかった。かつて実験室で、あるいは廃校で見せつけられた小春の魔法。


 「先輩……小春先輩はいつも、こんな風に魔法を出してたんですね」


 麗夏は火の玉を見つめながら、少しだけ小春の孤独な心に近づけたような気がして、切ない微笑を浮かべた。

 ふと、視界の端を何かが横切った。


 「っ! 麗夏、消せ!」


 佐藤の鋭い制止に、麗夏は反射的に火の玉を握りつぶして消した。再び訪れた濃密な闇の中、二人は壁に身を寄せて息を殺す。数メートル先の暗がりの奥で、カサリ、と何かが乾いた音を立てて動いた。


 「……警察? 追っ手ですか!?」


 麗夏が耳元で消え入るような声を出す。佐藤は無言で刀の柄に手をかけ、闇を睨みつけた。ライトの光は見えないが、足音を消して近づいている可能性はある。


 「……いや、待て」


 佐藤がわずかに緊張を解いた。二人の視線の先、配管の影からひょっこりと姿を現したのは、一匹の大きなドブネズミだった。ネズミは鼻先をヒクつかせながら、人間の存在など気にする様子もなく通路を横切っていく。


 「……なんだ。ネズミ、ですか」


 麗夏は安堵から大きく息を吐き出した。しかし、高ぶった神経はすぐには収まらない。彼女は去りゆくネズミの背中を見つめながら、思いついたように、その方向へ手のひらをかざした。

 今度は「火」ではない、もっと鋭く冷たいものをイメージする。


 シュンッ!


 麗夏の意思に応えるように、手のひらから透明な小さな氷の刃が高速で放射された。刃は空気を切り裂き、ネズミのわずか数センチ横のコンクリート壁に突き当たって、カランと虚しい音を立てて砕け散った。


 「あ……」


 間一髪で難を逃れたネズミは、驚いて闇の奥へと逃げ去っていく。

 麗夏は自分の手を見つめたまま立ち尽くした。望んだわけではない、けれど確実に手に入れてしまった「破壊の力」。


 「すごい……本当に、使えちゃうんだ……」


 その言葉は歓喜ではなく、もはや後戻りできない場所まで来てしまったことへの、深い喪失感に満ちていた。

 闇の広がる下水道の中で、麗夏の背中の翼は小さく、けれど確かに存在を主張していた。


 「……その姿で地上に出れば、間違いなく周囲の人間たちから拒絶の目を浴びることになるだろうな」


 佐藤が冷徹な事実を告げると、麗夏は自分の肩を抱くようにしてうつむいた。かつて小春がその異形で世界を震撼させたように、今の麗夏もまた、平穏な日常からはじき出された「怪物」の一員なのだ。


 「麗夏。お前は……小春のように世界征服をしてみたいか?」


 佐藤の問いは静かだったが、重かった。強大な魔力を手にし、人間を超越した存在になりつつある少女。その力があれば、自分を拒絶する世界を力でねじ伏せることも不可能ではない。


 「……わからないです」


 麗夏は、掌に残る魔力の余韻を見つめながら答えた。

 「今はまだ、自分の体の中で何が起きているのかを受け入れるだけで精一杯で。考える時間が……ほしいです」


 沈黙が二人の間に流れる。滴り落ちる水の音だけが響く中、麗夏は意を決したように顔を上げた。


 「もし……もし、いつか私が自分を見失って、小春先輩のように世界を征服しようとしたら。その時は……佐藤さんは私を止めてくれますか?」


 佐藤は、腰に携えた真剣の柄にそっと手を置いた。その瞳は、覚悟を秘めていながらも、どこか穏やかだった。


 「……下水道生活を共にした仲だからな。放っておくわけにもいかないだろ」


 佐藤は少しだけ口角を上げ、冗談まじりに言葉を継いだ。

 「小春の時と同じように、片方のツノをへし折ってしまうかもしれんが……その時は許してくれよ」


 その言葉に、麗夏の脳裏に左のツノが折れた小春の姿がよぎった。


 「うわぁ……それは痛そうなので、絶対にやめてくださいね」


 麗夏は顔をしかめ、困ったように、けれど今日一番の明るさで苦笑いした。佐藤の狙い通りだった。絶望に飲み込まれ、怪物への変異に怯えていた少女の顔に、束の間の「人間らしい」笑顔が戻った。たとえこの先、どれほど体が作り替えられようとも、こうして笑い合える絆がある限り、彼女はまだ「望月麗夏」でいられるのだ。




 病院の10階。窓から見下ろすと、中庭の桜の木が見事に花を咲かせていた。


 小春の、かつてボロボロだった漆黒の翼は、いまや虫食い穴ひとつなく艶やかな膜を広げている。点滴の支柱もすでに取り払われ、彼女の体には魔力が満ちつつあった。

 喉の包帯はまだ巻かれているが、それも「念のため」に近い。だが、どうしても元に戻らないものがあった。


 (……やっぱり、ここは生えてこないのね)


 小春は鏡も見ずに、左側のツノの断面に指を這わせた。昨年夏の佐藤との戦いで折れた、あの無残な感触がいまだに残っている。悪魔にとって、折れたツノは敗北の印だ。断面をなぞるたび、彼女の口からは重い溜息が漏れた。

 そこへ、真悠子が弾んだ足取りで入ってきた。背中には何かを隠している。


 「小春ちゃん、クイズです! 今日は何の日でしょうか!」

 「……何よ、いきなり。どうせろくな日じゃないんでしょ」


 小春は冷めた声で返し、窓の外を眺めた。


 「退院の許可でも出たの? もしそうなら、ここよりひどい『実験室』に直行することになるんだけど。……それのどこがクイズなのよ」


 自嘲気味に吐き捨てた小春に対し、真悠子はひるむことなく「ブッブー!」と大きなバツ印を作った。


 「残念、ハズレ! 正解はね……小春ちゃんの、15歳のお誕生日です!」

 真悠子はパッと手を広げ、弾けるような笑顔で歌い出した。


 「ハッピーバースディ・トゥー・ユー♪」


 小春は一瞬、呆然とした。去年の夏、魔王として世界を震撼させた彼女だが、彼女の肉体と精神は、今日でようやく15歳になったばかり。世界からは「恐るべき悪魔」と畏怖されていても、その内側はまだ、誰かに守られ、慈しまれるべき子供のままだった。


 「……誕生日、なんて。忘れてたわ」


 ぶっきらぼうに答えたものの、胸の奥から溢れ出す純粋な喜びを抑えられなかった。15歳の少女にとって、誕生日を祝ってもらえることがこれほどまでに誇らしく、温かいものだなんて。去年の夏、孤独な王座で世界を拒絶していた自分には分からなかった感情だった。


 「はい、これ。プレゼントだよ!」

 「……開けていいの?」


 受け取った箱を開けると、そこには小春が今まで見たこともないほど洗練された、シックな黒色の洋服が入っていた。


 「これ……」


 小春が服を広げて驚いたのは、その背中のデザインだった。大きく開いていて、肩甲骨から腰にかけて肌が露出する作りになっている。黒い生地は小春の白い肌と漆黒の翼に、驚くほどよく似合うはずだ。


 「これなら、翼を出したままでも着られるでしょ? いちいちパジャマを脱がなくてもいいし、なんなら……そのまま空だって飛べちゃうかも!」


 小春は、手の中にある黒い布地の柔らかさを噛みしめた。この服には「あなたの翼は隠すべき醜いものではない」という、優しいメッセージが込められているような気がした。けれど、小春は不思議そうに、どこか照れくさそうに尋ねた。


 「……ねえ。なんであんた、私の誕生日なんて知ってるのよ」


 真悠子は窓の外の下、風に揺れる桜を見つめながら静かに答えた。


 「……一週間くらい前にね、小春ちゃんの御両親が来てたんだよ」

 「えっ……」


 予想もしなかった言葉に、小春の動きが止まった。目を見開き、驚きで言葉を失う。


 「このお洋服、御両親からの預かりものなの。小春ちゃんに似合うものをって、時間をかけて探してくれたみたいだよ」


 真悠子は、小春が複雑な表情を浮かべるのを静かに見守っていた。彼女がまだ「魔王」としての自負や、自分の仕でかしたことへの罪悪感から、親に対して合わせる顔がないと思っていることを察し、無理に面会させるのではなく、今日という日まで大切に贈り物を預かっていたのだ。


 「……お父さんとお母さん、何か言ってなかった?」 小春は掠れた声で、縋るように問いかけた。

 「『あんまり一人で抱え込まないでね』って。そう、優しい言葉を残して帰っていったよ」


 その言葉を聞いた瞬間、小春の視界が急激に歪んだ。


 「…………っ、……ぅ……!」


 小春は咄嗟に顔を背け、両手で顔を覆った。溢れ出しそうになる涙を、喉の奥を鳴らして必死に堰き止めようとする。しかし指の間から一筋、二筋と涙が零れ落ちる。親の変わらぬ慈愛に触れ、15歳になったばかりの少女の心は、強がりな仮面の裏側で激しく震えていた。

 真悠子は、そんな小春の不器用なプライドを尊重するように、何も言わずにただ優しく、その背中をさすり続けた。


 静かになった病室に、突如として場違いな革靴の音が響いた。ドアが乱暴に開かれ、黒いスーツに身を包んだ二人組の男と、白衣を着た担当医師が無機質な表情で入ってきた。その冷徹な佇まいは、小春がようやく取り戻しかけた平穏を一瞬で凍りつかせた。


 「だいぶ傷が回復したようだな、木崎小春」


 スーツの一人が、車のキーを人差し指にはめてクルクルと回しながら告げる。その傍らで、担当医師は手元のバインダーに綴じられた紙の資料をめくり、事務的な口調で追従した。


 「ええ。致命的だった喉の傷もほぼ塞がり、発声機能も正常です。体力も、これなら『検体』として現場で存分に役に立ってくれるでしょう」


 医師の言葉には、患者を思いやる響きなど微塵もなかった。スーツの男は満足げに頷くと、小春の瞳を正面から覗き込んだ。しかし、その視線は一人の少女に向けるものではなく、珍しい標本を値踏みするかのような、湿り気を帯びた冷たいものだった。


 「木崎小春よ、決定事項を伝えに来た。一ヶ月後、君の身柄を『神奈川県立特殊生物学研究センター』へ移送することが正式に決定した。あそこへ行けば、ここでのような『患者』扱いは終わりだ。これまでの分も含めて、人類のために、しっかり検体として働いてもらうぞ」


 男はそう言い捨てると視線を外し、キーをポケットに放り込んだ。そして同僚らしき男と共に翻って部屋を出ていく。担当医師もまた、小春に目を向けることなく、紙の資料を閉じると男たちの後を追うように無言で退室した。


 「……一ヶ月後」


 小春は、もらったばかりの黒い服をぎゅっと握りしめた。残された自由な時間が刻一刻と削り取られていくのを悟り、震える指先を隠すように拳を作る。研究室に行けば、二度と人の温かさに触れることは叶わないだろう。


 「小春ちゃん……」


 真悠子は、男たちが去った後の病室の重苦しい空気に胸を締め付けられた。せっかく誕生日を祝い、家族の愛に触れて少しだけ心を開いてくれたばかりの少女に、あまりにも残酷な通告。

 真悠子は小春のそばに寄り、その強張った肩にそっと手を置いた。小春が絶望の淵に突き落とされ、また心を閉ざしてしまうのではないか……その精神状態を案じ、かけるべき言葉も見つからぬまま、ただ寄り添うことしかできなかった。

 沈んだ気分を振り払うように、小春はもらったばかりの黒い服に袖を通した。背中が大きく開いたそのデザインは、彼女の白い肌と漆黒の翼を鮮やかに引き立てている。鏡に映った自分は、これまでの「実験動物」のようなパジャマ姿ではなく、どこか凛とした、かつての「魔王」としての矜持を取り戻したかのようだった。

 小春はその姿のまま気晴らしに談話室へと向かった。


 自動ドアが開くと、談話室にいた患者たちの視線が一斉に小春に集まった。彼女が隠さずに翼を広げて歩く姿は、その場の空気を一変させた。


 「わあ、かっこいい……!」

 「小春ちゃん、その服すっごく似合ってるわよ! かわいい!」

 「まるでお姫様か、夜の妖精みたいだね」


 あちこちから上がる賞賛の声。去年、恐怖で世界を支配しようとした時には決して得られなかった、温かくて純粋な肯定の言葉。小春は照れくさそうに顔を背けながらも、心のどこかで誇らしい気持ちを感じていた。

 一人の小さな子供が、物珍しそうに小春の翼の膜をペタペタと触り始めるのを無視して、彼女は大きなテレビへと視線を移した。


 『続いてのニュースです。逃亡を続けている望月麗夏容疑者と、同行している少年の足取りについて、都内の下水道内部で二人によく似た人物の目撃情報が相次ぎ、警察は現在、数百人態勢で下水道全域のしらみつぶしな捜索を開始しています——』


 画面に映し出された麗夏の顔写真を見つめ、小春の指先がわずかに震えた。自分は今、こうして温かい病室で誕生日を祝ってもらっている。対照的に、麗夏は冷たい泥や悪臭にまみれた地下の迷宮で、逃げ場のない包囲網に晒されているのだ。


 (……麗夏。あんた、そんな場所に……)


 小春は談話室の騒がしさから逃れるように、窓の外を眺めた。小春の胸には鋭い痛みと、消えない執着が渦巻いていた。




 小春の身柄が神奈川の研究施設へ移される前日。地上の桜はすでに散り果て、木々が青々とした若葉を茂らせて初夏の訪れを告げる中、冷たく湿った地下道には激しい風が吹き荒れていた。

 麗夏の背中には、すでに小春のそれと遜色ないほど大きな漆黒の翼が完成していた。彼女はその翼を器用に操り、入り組んだ下水道の壁にぶつかることなく、水面すれすれを自在に滑空するようになっていた。


 「はぁっ……!」


 麗夏が鋭い掛け声とともに手のひらを下水にかざすと、そこから吹雪のような冷たい風が放射状に放たれた。濁った水面は瞬く間に白く結晶化し、周囲の空気を一気に凍りつかせる。


 「魔法、だいぶ慣れてきました……」


 額にうっすらと汗を浮かべた麗夏が、隣で見守る佐藤に言った。だが、そう口にした直後、麗夏は自分の白く細い指先を、恐ろしいものを見るような眼差しで見つめた。熱を操り、氷を紡ぐ。想うままに世界の理を書き換えてしまうこの力は、あまりにも強大で、あまりにも人とかけ離れている。


 (……私は、もう戻れないんだ)


 背中に重くのしかかる翼の重みが、もはや自分の体の一部として馴染んでいる。かつては違和感でしかなかったその異形が、今では呼吸をするように自然に動かせる。それが何よりも怖かった。

 普通の女子中学生として、香奈と笑い合い、テニス部の練習に汗を流していたあの日々。そんな当たり前の生活の未来は、この翼が生えた瞬間に、二度と手の届かない彼方へと消え去った。この先、一生、自分はこの化け物のような姿を抱えて、暗い闇の中を逃げ回り、この「人ならざる力」と共に生きていかなければならない。


 「佐藤さん……私、いつか心まで……先輩みたいに、冷たくなってしまうんでしょうか。人間だった時のこと、全部忘れて……」


 絞り出すような麗夏の問いに、佐藤は答えない。ただ、彼女の震える肩を射抜くような静かな視線だけがそこにあった。麗夏は、凍りついた水面に映る自分のツノと異形の影を直視できず、逃げるように強く目を閉じた。

 その時だった。地上から微かな、けれど切実な叫び声が下水管を伝って響いてきた。


 『助けて――! 誰か、助けて――!!』


 麗夏と佐藤は瞬時に顔を見合わせ、声のする方へと駆け出した。梯子を駆け上がり、重い鉄のマンホールの隙間から地上を覗き見る。そこには、地獄のような光景が広がっていた。真っ昼間の青空の下、目の前にそびえ立つ高層マンションの窓から、どす黒い煙と烈火が噴き出している。

 さらに最悪なことに、火の手はすでにマンションの入口付近まで激しく広がっていた。 逃げ遅れた人々を拒絶するように、エントランスは爆ぜる炎と瓦礫に包まれ、救助隊も近づくことすら困難な状況となっていた。

 周囲は激しく燃え盛るマンションを見上げてパニックに陥り、怒号と悲鳴で騒然としていた。佐藤はその混乱に紛れるようにマンホールから飛び出し、泣き叫びながら助けを求めている一人の女性に声をかけた。麗夏は、自らの異形の姿が露見することを恐れ、息を潜めてマンホールの隙間から佐藤の背中を見守っている。


 「子供が……! 私の愛稀(あき)が、まだ中に、上の部屋に取り残されているんです!!」


 女性は絶望に打ちひしがれながら、天を突くような高所を指差し、佐藤の腕を掴んで激しく叫んだ。入口が火の海と化し、もはや内部へ立ち入る(すべ)すら奪われた絶望的な状況。首が痛くなるほどの高さにある、激しく炎が噴き出す窓を見上げる佐藤。




 移送を明日に控えた小春は、静まり返った談話室で、落ち着かない様子でテレビを見つめていた。明日になれば、ここでの生活も、あの看護師との穏やかな日々も終わる。胸の奥で急き立てるようなざわめきが広がり、逃げ場のない不安に飲み込まれそうになったその時、画面が「緊急ニュース」へと切り替わった。


 「――たった今入った情報です! 都内の高層マンションで大規模な火災が発生しています。現在、マンションの入口付近まで激しい火の手が回っており、救助活動は困難を極めています! 上層階には、いまだ逃げ遅れた子供が取り残されているとの情報も入っています!」


 画面には、昼間の青空を黒く染めるほどの猛烈な煙を上げるマンションが映し出された。アナウンサーの叫び声が響く中、カメラが地上付近の混乱を捉える。

 ふと、小春はテレビのすぐ隣にある大きな窓へと首を巡らせた。晴れ渡った空の果て、はるか遠くのビル群の隙間から、まるで巨大な黒い指が天を突くように、どす黒い煙が立ち上っている。それは画面の中の出来事ではなく、今、この瞬間、彼女と同じ空の下で起きている現実の地獄だった。

 小春は息を呑み、弾かれたように再び画面へと視線を戻した。その刹那、炎が渦巻き、誰も近づけないはずのエントランスへと躊躇なく飛び込んでいく二人の小さな人影を、小春は見逃さなかった。


 「……っ!」


 小春は息を飲み、椅子から立ち上がった。その顔立ちは麗夏と佐藤に酷似していたのだ。中継カメラが捉えたのは、ほんの一瞬、画面の隅を横切るような影に過ぎなかった。しかし、見間違えるはずがない。あの、危ういほどに真っ直ぐな麗夏の瞳も、どこか超然としていながらも、その奥に揺るぎない意志を宿した佐藤の独特の佇まいも、小春の脳裏には深く刻み込まれている。


 (麗夏! 佐藤!! なにしてるのよ!! 二人だけであんな火の中に突っ込んで、どうするつもり!? ……子供を助けに中へ? 馬鹿ね、ほんと馬鹿。自分たちが追われている身だって分かってんの? それに、あんな火の海……死にに行くようなもんじゃない!)


 画面越しに映るその無謀な後ろ姿を目の当たりにした瞬間、小春の胸を突き上げたのは、居ても立ってもいられないほどの焦燥感だった。自分も今すぐあの場所へ駆けつけ、二人を助けたい。窓の外、遠くに見える黒煙を見据え、小春は反射的に窓枠へと手をかける。今すぐ窓を押し開き、この漆黒の翼を広げて空へ飛び立ちたい――。

 しかし、伸ばしかけた指先が、ガタガタと震えて止まった。


 (……ダメ。今ここを飛び出したら「脱走」になる。そうなれば、私を信じてくれた医師や看護師たちに、どんな迷惑がかかるか……)


 無断で病院を抜け出せば、自分は再び「制御不能の怪物」として追われる身になる。病院という温かな場所から拒絶される恐怖と、大切な人への義理が、小春の足をその場に縫い止めた。

 しかし、その焦りをすぐに激しい困惑へと塗り替えた。麗夏の背中には、自分と同じ漆黒の翼が生えているように見えたのだ。


 (どうして……? なんで麗夏に、翼が……!? あんた、人間だったはずじゃない……!)


 ニュース速報が終わり、通常の番組に戻っても、小春の視線は画面に釘付けのままだった。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響いている。


 小春はもやもやとした感情を抱えたまま、重い足取りで自分の病室へと戻っていった。麗夏が自分と同じような姿に変貌していた困惑と、わざわざ指名手配の身でありながら、命の危険を顧みず死地に飛び込んでいった彼女への苛立ちが、胸の中でぐちゃぐちゃにかき混ざっていた。


 火災現場のマンション入口。燃え盛る爆ぜるような熱気に、周囲の人々が後ずさりする中、二人は猛然と炎の壁の前に立っていた。


 「……麗夏、いいのか」


 隣に立つ佐藤が、スマートフォンを向けてくる野次馬たちの不躾な視線を横目で捉え、低い声で問いかけた。


 「ここで力を振るえば、すぐに通報されて警察が来る」

 「分かっています。でも、目の前で助けを求めている人がいるのに、自分だけ隠れて逃げるなんて……そんなの、先輩が許してくれない気がするんです」


 (……見ててください、小春先輩。テニス部で泣いてばかりいた頃より、少しは大人になった私を……。あっちの世界から、ちゃんと見ててくださいね)


 轟々と鳴り響く炎の爆音の隙間から、かつて先輩に叱咤された時の、あの凛とした声が聞こえたような気がした。「あんた、いつまで立ち止まってるのよ」――その幻聴は、今の麗夏にとって何よりも心強い、背中を押し出す風となった。

 麗夏は震える両手を前へ突き出し、自分の中に渦巻く異質な力を指先へと集めていく。その背後では、漆黒の翼が熱風を孕んで大きくしなった。


 「それに……下水道で練習してきた私の魔法を試すには、これ以上ないほど良い機会ですから。……行きましょう! 佐藤さん!」


 麗夏の気合の入った掛け声とともに、両の手のひらから凄まじい勢いで冷気が放出された。下水道での訓練とは比べものにならないほどの魔力が、白銀の吹雪となって荒れ狂う。バリバリと音を立て、真っ赤な炎が瞬く間に白く凍りついていく。熱風は一瞬にして冷気へと変わり、エントランスには氷のトンネルが作り出された。物理法則を無視したその光景に、背後のどよめきが上がるが、ためらっている暇はなかった。


 「今です!」

 「ああ、行こう!」


 麗夏の合図で、二人はまだ熱を帯びた瓦礫を飛び越え、迷いなくマンションの中へと足を踏み入れた。二人は互いに頷くと、黒煙が充満する非常階段を一段飛ばしで駆け上がり始めた。

 翼を得た麗夏の足取りは軽く、彼女が放つ冷気が周囲の煙を押し留めていた。上へ、さらに上へ。麗夏と佐藤は、視界を遮る黒煙を掻き分けながら階段を駆け上がっていく。「はぁっ……はぁっ……!」 麗夏の呼吸は荒く、額からは滝のような汗が流れる。迫りくる炎を冷気の魔法で撃退するたびに、彼女の体力と魔力は急速に奪われていった。それでも足を止めないのは、上の階から聞こえてくる愛稀の泣き声が、次第に大きく、切実なものに変わってきたからだった。


 「……っ、誰か……! 誰か助けて……! 苦しい、熱いよ……おねがい……っ!!」


 パチパチと火の粉が爆ぜる音を切り裂いて、喉をかきむしるような叫びが響き渡る。死の恐怖に震えながら必死に絞り出すその声は、熱い煙を吸い込んだせいで痛々しくかすれ、残された時間がわずかであることを残酷なまでに物語っていた。


 「もうすぐ……もうすぐですからね、愛稀ちゃん!」

 麗夏は自分を鼓舞するように叫び、渦巻く炎を凍らせながらさらに一歩を踏み出した。




 小春は病室に戻った後も、落ち着きなく窓の外を眺め続けていた。遠くに見える黒煙。あの炎の中に、佐藤と麗夏がいる。


 (……あの馬鹿たち。あんな火の海に、二人だけで突っ込むなんて)


 小春は、窓の冷たいガラスに額を押し当て、力なく拳を握りしめた。目を閉じれば、熱風に煽られ、黒煙に巻かれて苦しむ二人の姿が嫌というほど脳裏に浮かぶ。助けに行きたい。けれど、ここで一度でも翼を広げれば、それは明確な「脱走」を意味する。明日には別の施設へ移送される身。法という鎖、そしてかつて犯した罪の記憶が、(くさび)のように小春の自由を奪っていた。どんなに心が叫んでも、翼を広げる勇気だけがどうしても湧いてこない。二人の無事を祈ることしかできない己の無力さに、血が滲むほど唇を噛みしめる。


 「……気になるのね」


 不意に背後から声をかけられ、小春はびくりと肩を揺らした。振り返ると、そこにはいつもの穏やかな笑顔を浮かべた真悠子が立っていた。小春は彼女に、麗夏や佐藤との関係を話したことは一度もない。この部屋からは火災の現場も正確には見えない。だが、彼女は小春の強張った表情と、今にも窓の外へ飛び出しそうな落ち着かない仕草を見て、その内面を悟ったようだった。


 「行ってくる?」


 その言葉に、小春は目を見開いた。移送を明日に控えた今、ここで逃げ出せば、もう二度とこの場所には戻れないかもしれない。


 「……いいの?」


 絞り出すような小春の問いに、真悠子はただ、優しく頷いた。


 「頑張ってね」


 その温かい言葉が、小春の背中を押した。小春は少しだけ顔を赤らめ、視線を逸らしながら消え入りそうな声で答えた。


 「……ありがと。ほんとおせっかいなんだから。……まゆちゃん」


 ずっと「あんた」としか呼んでこなかったその名を、小春は喉の奥で噛み締めるように、けれど確かな温もりを込めて紡いだ。それが彼女にできる、精一杯の「親愛」の証だった。

 照れ臭そうにそう言うと、小春は窓枠に足をかけた。新しい服の背中から、漆黒の翼が力強く広がる。バサリ、と一度大きく羽ばたくと、小春の体は空へと吸い込まれていった。目指すは、黒煙が渦巻くあのマンション。小春は、風を切って加速した。

 一人残された病室で、真悠子は小春が飛び立った後の開いた窓を見つめていた。カーテンが激しく揺れ、冷たい風が入り込む。


 「……やっと、名前で呼んでくれたね」


 不器用で、いつも刺々しかった彼女が、最後に見せた小さな歩み寄り。それが嬉しくて、けれど、もう二度とこの場所には戻ってこないかもしれないという予感に、真悠子の胸は温かな痛みで満たされた。彼女を信じて送り出したことに、悔いはない。真悠子は、昼下がりの眩い光の中へ溶け込んでいく漆黒の影に向けて、祈るようにそっと微笑んだ。




 「愛稀ちゃん! こっちよ、手を掴んで!」


 猛烈な熱気と黒煙が渦巻く部屋の隅、二人はついに愛稀を見つけ出した。佐藤が瓦礫を退け、麗夏がその手をしっかりと握りしめた。


 「……きてくれた、本当に……。よかった……っ、もう死んじゃうかと、思って……!! お願い、助けて……助けて……っ!!」


 麗夏や佐藤と歳近い少女が、限界まで張り詰めていた糸が切れたように麗夏に抱きつく。その細い腕の震えが、彼女がどれほど孤独な恐怖と戦っていたかを物語っていた。


 「よかった……間に合っ――」


 安堵の言葉が最後まで紡がれることはなかった。その瞬間、マンションの中層階で凄まじい大爆発が起きた。


 ドォォォォォン!!


 建物全体が大きく揺れ、足元から突き上げるような衝撃が襲う。爆圧によって窓ガラスが粉々に砕け散り、炎の勢いが一気に増した。

 地上のテレビ中継では、キャスターが悲鳴に近い声を上げて実況を続けていた。


 「今、中層階で大きな爆発が起きました! 建物の一部が崩落しています! 救助のために中へ入った二人の安否も分かりません。現場は、もはや手の付けられない惨状です……!」


 マンションの内部は地獄と化していた。爆発の衝撃で非常階段が崩落し、下へと続く唯一の退路が断たれてしまったのだ。熱風が階下から吹き上がり、壁がミシミシと不気味な音を立てて悲鳴を上げている。


 「……階段が、ない……」


 佐藤が呆然と呟いた。背後の通路からは逃げ場を奪うように紅蓮の炎が迫っている。


 「……上です! 屋上へ逃げましょう!」


 麗夏は愛稀を抱き寄せ、佐藤を促した。もはや一刻の猶予もない。三人は崩れかけの壁を支えにし、熱風に煽られながら最上階への階段を駆け上がった。


 佐藤の刀で鉄扉を破壊し、ようやく辿り着いた屋上。しかし、そこは救いの場所ではなかった。地上からはあまりに高く、足元からは激しい熱気がせり上がってくる。逃げ場のない空の下、三人は吹き荒れる煙の中で立ち尽くした。

 足元からは、コンクリートを焼く嫌な音と、地獄の業火のような熱気がせり上がってくる。麗夏の肩は激しく上下し、右手は魔法の酷使で感覚を失っていた。もはや、迫りくる炎を押し返すだけの魔力は残っていない。


 「麗夏、愛稀を連れて飛べ! ここから逃げるんだ!」


 佐藤の叫び声に、麗夏は顔を上げた。


 「佐藤さんは、どうするつもりですか……っ! まさか、一人で残るなんて言わないですよね!?」


 崩落の振動が足元を襲う中、麗夏は叫ぶように問いかけた。だが、佐藤は煤に汚れた顔をゆっくりと上げ、麗夏の肩にそっと手を置いた。


 「……俺はここで救助隊を待つ。この状況じゃ、三人一緒に脱出するのは無理だ。お前と愛稀だけでも、先にここを離れろ」


 「そんなの……! そんなの、見殺しにするのと同じじゃないですか!!」

 「見殺しじゃない。これが一番、生き残る確率が高い選択だってだけだ。……もしかしたら救助隊が到着する前にここが崩落するかもしれないが……そしたら、まあ、それまでだ。救助隊が先か、ここが壊れるのが先か、ちょっとした賭けだがな」


 佐藤は、震える声を隠すように無理やり作り笑いを浮かべた。その顔を見た瞬間、麗夏の瞳から大粒の涙が溢れ出した。


 「笑わないでください……! なんで、いつもそんなに、自分を後回しにするんですか……っ!!」

 「……悪いな。お前ほど、真っ直ぐには生きられなくて」


 救助隊がここまで到着できる保証などどこにもない。佐藤の言葉は、淡々としていながらも、死を覚悟した言葉に他ならなかった。


 「……だったら、私も残ります。佐藤さんを置いて、一人で逃げたりしません!」


 麗夏は愛稀を抱きしめたまま、崩れ落ちそうな床に膝をつき、絞り出すように言った。その瞳には、恐怖を通り越した、どこか静かな決意が宿っていた。


 (ごめんね、香奈……。もうすぐ、そっちに行くから……。待ってて……ね)


 遠い空の下、もう会うことの叶わない親友の笑顔が脳裏をよぎる。自分が死ぬことへの恐怖よりも、これ以上誰かを失うことへの絶望が、麗夏の心を支配していた。

 だが、その言葉を聞いた瞬間、佐藤の顔から作り笑いが消えた。彼は麗夏の肩を掴み、怒鳴るように声を荒らげた。


 「馬鹿野郎!! お前が残ってどうする!? お前が残ったら、その腕の中の愛稀はどうなるんだよ!!」


 佐藤の指が、麗夏の肩に強く食い込む。


 「自分から死に急ぐような真似はするな! お前は、愛稀を連れて生き残るんだ。それが……お前の役目だろ!」


 その烈火のごとき叱咤に、麗夏は息を呑んだ。肩に食い込む佐藤の指の痛みが、絶望に沈みかけていた魂を無理やり現実に引き戻す。


 「……っ、でも……!」


 言い返そうとした麗夏の視界に、腕の中で震える愛稀の姿が入った。恐怖で顔をくしゃくしゃにし、ただ縋ることしかできない少女。もしここで自分が諦めれば、この子の未来もろとも、紅蓮の炎に消えてしまう。


 (私の……役目……)


 香奈の元へ行きたいと願った自分勝手な弱さが、急激に恥じ入るような熱となって頬を焼いた。小春先輩なら、絶対にこんなところで膝をついたりはしない。どんなに無様でも、最後の一瞬まで抗い続けるはずだ。


 (小春先輩なら……っ、こんな時どうしただろう)


 麗夏は、小春の姿を脳裏に描いた。最強で、傲慢で、けれど誰よりも誇り高かったあの人。もし、あの人がここにいたなら。きっと、運命なんて言葉を鼻で笑い飛ばしたはずだ。佐藤も愛稀も、二人まとめて強引に抱え上げ、この燃え盛る空を我が物顔で飛んだだろう。


 (私には、力がない……。先輩みたいに、強くはなれない……っ!)


 自分の不甲斐なさに、奥歯が砕けるほど噛みしめる。熱い涙が頬を伝うそばから蒸発し、視界が真っ赤に染まっていく。崩落の轟音がすぐ足元まで迫り、もはや一歩も動けない。


 「お願い……小春先輩、力を、知恵を貸して……!!」


 麗夏は天を仰ぎ、亡き小春に祈るように叫んだ。その悲痛な祈りに応えるかのように、黒煙を切り裂いて、凛とした、それでいてどこか呆れたような声が響き渡った。


 「……相変わらず詰めが甘いわね、あんた」


 聞き馴染みのある、尊大なまでの自信に満ちた声。麗夏と佐藤が弾かれたように上空を振り向くと、そこには昼の光を背に受け、漆黒の翼を大きく広げて羽ばたく小春の姿があった。

 新しい黒の洋服を風になびかせ、一本のツノを誇らしげに晒して滞空するその姿は、紛れもなく麗夏が憧れ、そして追い求めた「先輩」そのものだった。


 「せ、先輩……? どうして……」

 「来たか、小春!」


 小春は涙で視界を滲ませる麗夏を見下ろし、不敵な笑みを浮かべた。


 「話は後! まずはここから脱出するわよ!」


 再会の余韻に浸る隙も与えず、小春が鋭く言い放った。足元のコンクリートからは、すでに逃げ場のない熱が伝わってきている。小春は佐藤の両腕を掴み、麗夏は残った力を振り絞って愛稀をその腕にしっかりと抱きかかえた。


 二人の悪魔が同時に地面を蹴り、空へと舞い上がった。そのわずか数秒後だった。


 ドォォォォォォン!!


 背後で空気を震わせる凄まじい爆音とともに、マンションの最上階が崩落した。激しい炎と塵芥が巻き上がる中、二対の黒い翼は煙を切り裂き、ゆっくりと地上へと降り立っていった。




 アスファルトに足がついた瞬間、一人の女性がなりふり構わず駆け寄ってきた。


 「愛稀! ああ、愛稀……!!」


 麗夏の腕から娘を取り込み、狂ったように泣きじゃくる母親。彼女は膝をつき、何度も、何度も床に頭をこすりつけるようにお礼を繰り返した。


 「ありがとうございます……! ありがとうございます、本当に……!」


 その光景を呆然と眺めていた麗夏が、震える声で隣の小春を呼んだ。


 「先輩……。生きて、生きてらっしゃったんですね……」

 「当たり前よ。私を誰だと思ってんの?」


 小春は不敵に鼻で笑ってみせたが、その瞳にはどこか安堵の色が混じっていた。そんな二人の様子を少し離れた場所で見ていた佐藤が、肩の力を抜いて静かに口を開いた。


 「……俺は、小春が生きてると思ってたがな。……電波塔の展望デッキから落ちても死ななかったお前のことだ。今回もどこかで図太く生きてると思ってたよ」


 小春は「失礼ね!」と言いたげに佐藤を睨んだが、言い返すことはしなかった。

 背後では消防車がけたたましくサイレンを鳴らし、懸命な消火活動が続いている。しかし、現場に集まった大勢の住民や避難者たちの視線は、消火活動よりも、目の前に立つ二人の少女にくぎ付けになっていた。

 一人は、一年前に東京を恐怖に陥れたあの「魔王」。そしてもう一人は、その姿にあまりにそっくりな、今まで見たこともない「第二の悪魔」。


 「……あれ、本物の魔王じゃないか?」

 「でも、子供を助けてくれたのは……」


 自分たちを滅ぼそうとした怪物なのか、それとも絶望から救ってくれた英雄なのか。群衆は恐怖と感謝、そして疑念が入り混じった複雑な感情を抱えながら、遠巻きに二人を見つめていた。

 小春は周囲の視線など一瞥もせず、目の前でボロボロになりながら翼を畳んでいる後輩をじっと見据えた。その瞳には、一年前にはなかった鋭い困惑が浮かんでいる。


 「……あんた、その姿。どういうことよ」


 小春の問いに、麗夏は自分の漆黒の翼を力なく抱え、視線を落とした。熱風で焼かれた肺を震わせ、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。


 「……分かりません。先輩がいなくなってから、いつの間にか、こうなったんです」


 麗夏は震える指先で、自身の黒い翼をそっとなぞった。


 「ただ……ひとつだけ、思い当たることがあります。あの時、先輩をこの手で刺したときに浴びた血のせいじゃないかって。ほら、人間が悪魔の血に直接触れるなんて、そんな実例、他にないじゃないですか。……あ、確証はないです。私の勝手な思い込みかもしれませんけど」


 麗夏の頬を、熱い涙が再び伝った。


 「……すごく、孤独でした。先輩を殺してしまった私が、その罪を背負ったまま、これからは『悪魔』として、たった一人で一生生きていかなきゃいけないんだって。そう、思っていたから……」


 世界中を敵に回してでも、一人でこの呪いを抱え続ける覚悟。それは中学生の少女にはあまりに過酷な絶望だった。けれど、麗夏は潤んだ瞳を上げ、今そこに立つ小春の姿を、零さないようにしっかりと見つめ直した。


 「でも……先輩が帰ってきてくれた。生きて、私の前に立ってくれた。……私、一人じゃなくなったんだって思ったら、本当に、嬉しいんです」


 悲痛な過去と、形を変えた再会の喜び。麗夏の言葉は、周囲の野次馬の声をかき消すほどに切実で、小春の胸を深く突いた。


 「私はあんたの両親、そしてあんたの大切な……親友の命まで奪ったのよ。……憎くないの? 恨んでるんじゃないの?」


 小春の声は、低く、かすかに震えていた。麗夏は悲しげに、けれど迷いのない瞳で小春を見つめ返した。


 「……もう、いいんです。先輩のことを赦したわけじゃないけど、人は誰でも過ちを犯す。そのことに先輩は、ちゃんと気付いてくれたから」


 麗夏は一歩、小春に歩み寄った。

 「でも、これからは香奈の分まで……私を引っ張っていってもらいますから。……いいですね?」


 それは、麗夏なりの強引で、けれど最大限に慈愛に満ちた「罰」だった。呆気にとられたように目を見開いていた小春だったが、やがて、堪えきれないといった様子でふっと肩の力を抜いた。


 「……ははっ、何よそれ。何偉そうなこと言ってんのよ、あんた」

 小春の口元に、一年前のあの狂気じみた笑みではない、年相応の、どこか晴れやかな笑顔がこぼれた。


 無数のフラッシュが焚かれ、マスコミのカメラが自分たちに向けられていることに、小春と麗夏はほぼ同時に気づいた。生中継の赤いランプが点灯し、レンズの向こう側には日本中の視線がつながっている。

 麗夏は少し考えた後、決意を固めた足取りでカメラの前へと歩み寄った。


 「……驚かせてしまって、本当にごめんなさい」

 麗夏は震える声を押し殺し、深く頭を下げた。


 「一年前に東京を襲い、皆さんに消えない恐怖を与えてしまったこと……本当に申し訳ありませんでした」


 実際に街を破壊したのは小春だったが、麗夏はまるですべてが自分の罪であるかのように、誠心誠意の謝罪を言葉に乗せた。自分もまた「悪魔」という同じ業を背負った今、先輩の罪は自分の罪でもある。そう言いたげな彼女の横で、小春は腕を組み、「フン」と鼻を鳴らしてそっぽを向いたまま、黙って麗夏の言葉を聞いていた。

 麗夏は顔を上げ、カメラのレンズを真っ直ぐに見据えて続けた。


 「もし、これからの人生を許していただけるのなら……。私は、この醜いと言われる姿を、二度と誰かを傷つけるためには使いません。これからは、この翼を、炎を、氷を、誰かのために差し出したい。絶望の淵にいる誰かの盾になり、今日のように誰かの日常を支えるために、この命を捧げたいと思っています。それが、私が背負い続けるべき贖罪の形だと信じているからです」


 言い終えると、麗夏はふっと背後の影に控える佐藤を振り返った。かつて暗い下水道のなかで、震える自分に「世界征服をしてみたいか」と問いかけた唯一の理解者。彼女は、あの時答えられなかった空白を埋めるように、清々しい微笑みを浮かべて小さく唇を動かした。


 ――これが、私の答えです。


 視線を受け止めた佐藤は、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにどこか誇らしげな笑みを口端に浮かべた。彼は小さく頷き、腕を組んだまま「……上出来だ」と、誰にも聞こえない声で呟いた。


 現場を囲んでいた群衆のざわめきが、一瞬だけ止まった。静寂を破ったのは、一人の記者が突き出したマイクだった。


 「その姿は……あなたたちは一体、何者なんですか!? まだ中学生のように見えますが、どうしてそんな力が……」


 麗夏はその問いに、一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに悲しげな、けれど覚悟に満ちた微笑みを返した。


 「私は……ただの、出来損ないの悪魔です。でも、今の自分から逃げるのはもう止めました。先生、クラスのみんな……今まで休んでごめんなさい。でも、私はこの姿を受け入れて、自分にできることを探そうと思います。いつか……胸を張って学校に戻れる日まで」


 その告白を、小春と佐藤は口を挟むことなく、ただ静かに聞き届けていた。自分には決して吐けないであろう、真っ直ぐで青臭い、けれど強い光を放つ後輩の言葉。




 その後、三人は警察署へと連行された。佐藤には小春への殺人未遂容疑がかけられていたが、麗夏が「刺したのは私です」と真実を自供したこと、そして何より火災現場で子供を救った功績が大きく考慮された。結果として、佐藤はすぐに釈放の運びとなった。


 「……佐藤さん、ありがとうございました。また、どこかで」

 「ああ。元気でな、麗夏」


 署の出口で交わした言葉は短かったが、そこには確かな絆が宿っていた。




 署内で一夜を明かした翌日。小春と麗夏の身柄は、予定通り神奈川県にある「特殊生物学研究センター」へと移送された。護送車の窓から流れる景色を眺めながら、二人は言葉少なに揺られていた。小春は相変わらず不敵な笑みを崩さず、麗夏はその隣で静かに目を閉じ、昨日カメラの前で誓った言葉を反芻していた。

 白く清潔な研究所で、二人はこれまでのわだかまりが嘘だったかのように、穏やかな時間を共有している。


 「麗夏は冷気の魔法が得意なのね」

 「はい! 火も出せますが、やっぱり火力の面では先輩には及びないです」

 「私は逆に冷気はからっきしだわ。微弱な風を起こすのが精いっぱい。あんたのあの凍らせる力、尊敬するわ」

 「尊敬だなんて、そんな……! 先輩こそ、電気の魔法ができるじゃないですか。あんなの絶対無理です!」


 かつて命を奪い合おうとしたことが、まるで遠い昔の出来事のように感じられる。二人は互いの異能を認め合い、時には魔法のコツを教え合いながら、研究所での日々を過ごした。


 彼女たちの態度は至って協力的だった。研究員の指示に素直に従い、検査やヒアリングを完璧にこなし続けた結果、彼女たちの身柄は意外な方向に進展する。三ヶ月後、社会に危害を加える意思がないと公的に判断されたことに加え、連日の過酷な検査によって「生体実験で必要なデータはすべて採取し終えた」という研究者側の結論、そして何より二人がまだ義務教育下にある中学生であるという事実が考慮され、施設から解放されることとなった。




 施設を出た二人の上に、一点の曇りもない青空が広がっていた。もう、怯える必要はない。自分たちのルーツを隠し、人目を忍んで生きる日々は終わったのだ。

 テレビカメラの前で晒したこのツノも、漆黒の翼も、そして手のひらから生み出される魔法の力も。すべてが自分たちの一部であり、誇るべき個性なのだと、今は強く思える。


 「……さて。それじゃあ、約束通り頑張りましょ!」

 「はい、先輩! 勉強して、良い高校に入って、今度こそ普通の……いえ、最強の学生生活を送りましょう!」


 二人は清々しい表情で、未来へと続く一歩を踏み出した。それぞれの夢を叶え、再び「当たり前の日常」を取り戻すために。




 角と翼 ―ツノとツバサ― 第3部 再誕編 (完)

ここまでお読み頂きましてありがとうございます!


第1部・第2部では暗い終わり方をしましたが、第3部では明るい終わり方を(強引に)迎えられました。いくら未成年といえどもあんなにも東京を破壊してたくさんの命を奪ったのに、施設から解放されるなど実際にはありえないのですけどね……。

実はこの第3部、完成した当時は酷い完成度と自ら酷評してました。盛り上がりが火災現場しかない……と。そこで小説をよく読んでいるという知人(私の先生的存在)に公開前のこれを読んでもらって感想を頂いたところ「小春が人間として扱われていき麗夏は悪魔として堕ちていく、その光と闇の対比が素晴らしいです!」や「火災現場しか盛り上がりがないと気付けているのは物語の構成力が高い証拠です!」という、思ってたより素敵な感想を頂きました。ありがとうございます先生! 一方で「下水道の生活が長いためこのお話のゴールは何処だろうと読者が不安になる」というアドバイスも頂いたので、下水道の描写にメリハリをつけるために警察が迫っている描写を後から追加しました。結果、何とか公開できるレベルには仕上げられたと思います。

物語はこれでハッピーエンド……と思いきや、ここまでのお話で様々な「謎」が残されているのにお気付きでしょうか。それらは今後明らかになっていくはずです。更新をお楽しみにお待ち頂けますと幸いです。


*意識した点

実は第2部のラストで小春が刺されて死亡し、第3部で死後の小春が怨霊となってクラスメイトに乗り移って世界征服の続きを行う別パターンも少し書いていたのですが、○ラクエみたいに「何でもあり」の世界観にはしたくないので(あれはあれで良いとは思いますが)、この物語はあくまでも「ツノと翼が生えた少女がいる現実の世界」という世界観を大切にして書きました。


第4部 漆黒の血 は 2026/5/1 に公開します!


*更新履歴

 2026/4/1 一般公開。

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