エピローグ 台本のない世界で
婚約式から十日が過ぎた。
王宮は、嘘のように静かだった。
刺客の件は「式場への不法侵入」として処理され、捕らえた三人は口を割らないまま独房に入れられた。シルヴェスターは何も言わなかった。ユリウスは教会への報告書を書き続けているという話だ。
アリスは、約束通り粛々と動いていた。
教会への帰依申請の手続きが始まり、婚約は「聖女の規則」によって自然に白紙へ戻りつつある。
表向きは、何も起きていない。
そういう意味では、完璧な幕引きだった。
その日の午後、俺は騎士団の訓練場で一人、素振りをしていた。
婚約式の後、しばらくは警戒を続けていたが、シルヴェスターは動かなかった。
次の手を探っているのか、別の問題が生じたのか、それとも——何か別の理由があるのか。
まだ分からない。
ただ、今この瞬間は静かだ。
「カイル」
振り返ると、ルシアンが訓練場の入り口に立っていた。
緩い普段着のまま、手に何かを持っている。
「何をしているんですか、そんな格好で」
「君を探してた」
彼は歩み寄り、手に持っていたものを俺に差し出した。
小さな包みだ。
包み紙は不器用に折られていて、明らかに本人が包んだものだと分かる。
「……なんですか」
「開けてみろ」
俺は包みを受け取り、開いた。
中身は、小さな砥石だった。
高級品ではないが、しっかりした作りの、実用的な砥石だ。
「君の砥石、かなり減ってたから」
ルシアンは視線を逸らしながら言った。
「この前、式の前に全部の剣を研いだだろ。だいぶ削れてたのが気になって。……なんか礼をしたかったし」
「礼など不要です。仕事でやったことです」
「分かってる。それでも、したかった」
俺は砥石を手の中で転がした。
重さも、目の粗さも、ちょうど良い。
こいつは俺が何を使っているか、ちゃんと見ていたのだ。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな、気持ち悪い」
「殿下がくれたんでしょう」
「そうだけど」
ルシアンはむくれた顔のまま、俺の隣に並んだ。
訓練場の柱に背を預け、腕を組む。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「なあ、カイル」
「はい」
「あのゲーム、続きがあったんだ」
「……続き?」
「ああ。本編をクリアした後に、追加コンテンツが出るって噂があったんだよ。俺が死んだ時には、まだ発売前だったけど」
俺は手を止めた。
「……死んだ、とは」
「あ」
ルシアンは少し目を泳がせた。
「その……転生ってそういうことだから。前の世界では、一回死んでここに来たわけで」
「……そうですか」
俺はそれ以上聞かなかった。
聞いてどうするという話でもない。
ただ、この男が「前の世界」を持っていて、そこで一度終わっていることを——今更ながら、実感した。
ルシアンは気まずそうに頭を掻き、誤魔化すように続けた。
「まあ、別に大した死に方じゃなかったと思うけど。気づいたらここにいたし。……なんか、変な顔してるぞ」
「していません」
「してる。……なんで」
俺は答えなかった。
なんでと言われても、自分でも分からない。
ただ、砥石を握る手に、少しだけ力が入っていた。
俺は砥石を懐に入れ、ルシアンの横顔を見た。
「その追加コンテンツに、何が入るか知っていましたか」
「知らない。タイトルだけ。……『新たなる幕』って言ったかな」
「新たなる幕」
「うん。本編とは別の話が始まるやつだって。どんな内容かは分からないまま、俺はここに来た」
ルシアンは空を見上げた。
「でも、なんとなく思うんだよな。この世界の『続き』は、もうゲームの台本とは全然違うところにあるんじゃないかって」
俺は答えなかった。
「台本がなくなったって言っただろ、あの夜。……俺、最近それが怖くなくなってきたんだ」
「怖くない?」
「うん。だって、台本がないってことは」
ルシアンは俺を見た。
「何が起きるか分からないってことだけど、同時に——何が起きても、決まった結末はないってことだろ」
俺は少し考えてから、頷いた。
「そうですね」
「だから、死ぬ必要もない」
「その通りです」
「君が隣にいる限りは、特に」
最後の一言は、独り言のように小さかった。
俺は聞こえなかったふりをした。
聞こえなかったふりをしながら、砥石の重みを左手で確認した。
「殿下」
「ん?」
「今夜の夕食、何が食べたいですか」
「唐揚げ」
「また唐揚げですか」
「いいだろ、好きなんだから」
「厨房に頼んでおきます」
「君が作ってくれ」
「俺は騎士で——」
「分かってる。それでも」
俺はため息をついた。
「……今日だけです」
「それ、毎回言うな」
「毎回、今日だけのつもりなので」
ルシアンは笑った。
声に出して、隠す気もなく笑った。
その笑い声が訓練場に響いて、消えた。
俺は剣を鞘に収め、訓練場を出ようとした。
ルシアンがその隣に並んだ。
半歩でも後ろでもなく、隣に。
廊下を歩きながら、彼は言った。
「この世界、案外悪くないな」
俺は答えなかった。
答えなかったが——いつもより少しだけ、殿下の隣に近く立っていた。
台本はない。
次に何が来るかは、誰にも分からない。
シルヴェスターはまだ動いていない。
刺客の背後にある「手」は、まだ見えない。
この王宮には、まだ明かされていない秘密がある。
それでも今この瞬間、廊下を歩くこの馬鹿殿下の隣で——俺は、ここにいることを後悔していなかった。
辺境伯爵家の三男、カイル・ヴァルツ。
人生最大の目標は、安定した給料をもらい、定時に退勤し、誰にも気づかれず平凡に老け死ぬことだった。
……まあ、それは、もう少し後でいい。
— 終 —




