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ちせの行き先は最上階、天鵞絨の幕に包まれた妖しげな部屋だった。
壁紙は紫、敷かれているのはダマスク織の絨毯。
シャンデリアの下、薔薇柄のソファに座るようにすすめられる。悠理は腰を下ろし、唖然としながらも見渡した。今までに通過してきた娼館内のどの空間よりも高級感がある。調度品の類も艶があり、上等であることが見て取れた。スツールも、チェストも、鏡台も……猫脚で揃えられているのはちせの好みなのだろうか。
「ねえ、喫茶舖ではミルクアッサムを味わっていたわよね」
部屋内には小さなキッチンもしつらえて在り、荷物を置いたちせは其処から顔をのぞかせる。
「そうだけど……」
「じゃあ、あたしの部屋では何をお飲みになるの? ユウリが望むもの何でも用意してあげる」
「何でも?」
訊き返してから、悠理の脳裏に先ほどのちせの言葉が蘇る。お客様のどのような趣味・主義・嗜好にも、お応えできるように……それは当然の如く、部屋のつくりに限ってでは無いらしい。
「ユウリはお客様だもの。云って頂戴、云わないのならあたしの好きな果実曹達にするわよ」
「良いよ、それで」
背もたれに身体を沈めると、悠理は目をとじる。どうもこの場所は落ち着かない。花詞前の大通りからそう距離の離れていない処に、こんな〈娼館〉が在っただなんて、今も信じられずにいる。
まるで、夢の中に迷い込んだかのようだ。
もしくは狐に頬をつままれている最中。狐とは、もちろん……
「疲れているのね」
ちせが銀の盆に乗せて持ってきたのは、花瓶のような形のグラスに薄紅色の液体が充たされ、縁に新鮮な輪切りのライムが添えられたもの。ストローが挿され、炭酸の白い泡が弾けている。
「あたしが癒してあげる。あたしはこう見えても一等品なの」
向かい合わせに座ったちせは、グラスを手に取った。乾杯、と云って悠理のものと触れ合わせ、それから口に含む。すました動作だ。
「……ユウリはあたしを令嬢と云ったわね。残念でした大はずれ。少女売春婦なの、あたしは」
ちせはとんでもないことを告白した。けれども、悠理はごく普通に聞き流す。現実味のない空間で聞く現実味のない言葉には対して驚けない。現実で聞くからこそ、驚愕を持って迎えられる。夢で非現実的な事柄に際しても、慌てることはない。
「ちせは俺の想像の、何倍も先に行ってしまってる。ちせと居ると、俺の悩みなんてちっぽけに思えてしまうんだ」
悠理もまた、グラスに口をつけた。
「ええ、ユウリがグダグダしてることなんて、とてもちっぽけ。あたしは近親相姦など全く気にならないのよ。アラベスクでは有り触れているから。実親に弄ばれた上に売り払われ、最後辿り着いた場所が此処って子は幾らでもいるわ。あたしだってそうだもの」
畳みかけるように言い放たれる。
悠理は確信した、ちせには自分の抱える闇を見透かされていると。
巻町との詳細を打ちあけていないのにも関わらず。
「……息子の裸身画を描いて、アティスなんて名付けるんですもの。大した変態ね、巻町六花」
「藝術家は皆変態さ」
「それもそうだけれど。ねえ、皇子さま、マザコンは卒業して頂戴。あたしを選んで。しあわせに成れるわ」
身を乗り出したちせは、テーブルに膝頭を乗せる。動作に当たり、グラスが倒れてしまっても気にしていない。床へと垂れ零れる薄紅色液体は絨毯に広がり、染みていった。
「マザコンだと? 俺が、そんな……」
襟元を掴まれながらも、言い方にむっとしてしまう。するとちせはくすくすと笑いはじめた、心底愉しそうに。
肩を揺らして笑むその姿は、整った容姿も相俟り、人形のよう。
肌は白磁、彩度のない髪も人工物、瞳は嵌め込まれた宝玉か。精密にヒトに似せられてはいるが、衣服を脱がせれば球体関節人形のような四肢を暴けるかも知れない。
……此処は女装の淑女が作り上げた館で、ちせも、アリスも、淑女の拵えた手製の少女人形……
悠理の妄想を遮ったのは、ドアを叩く音。意識は現実に還る。
「はい」
ちせはテーブルに座り込んだ姿勢のままで、返事をした。扉はゆっくりと開かれる。現れたのはあの淑女だ。
「ちせちゃん、パイの味見をしてお呉れ。……おや、その貌は洋菓子舖の」
淑女と悠理の視線が交わる。淑女は魔女のような装いをしていた。
黒いロングスカート、フリルのブラウス。首元には三連の黒真珠、カメオ飾りまでも闇色。出逢った夜と同じく、頭から被ったヴェールが貌だちを暈している。
もちろん、指輪は蜘蛛を象ったものだった。
「ママ、黄金豹のユウリよ」
ちせに云われ、淑女は頷いてみせる。
「あの夜渡しただろう、味わったかい、トランプの飴玉は」
「いや、まだ」
飴玉は巻町によって、棄てられてしまった。悠理が答えると、ソファに腰を下ろした淑女は肩をすくめる。
「それは残念。蜜入りだったんだよ」
「蜜?」
「蜘蛛の蜜は脳髄にまで及ぶ。痴れて、動けなくなるのさ」
答える淑女の目の前で、ちせに覆い被さられた。指も絡められる。悠理は振り払おうとした。けれど……
「果実曹達に垂らしておいたわ。あたしの愛しい皇子さま」
「!」
痺れたように、動かない身体。
まさかと思った瞬間にくちびるを奪われた。触れるだけに留まらず、濃密に唾液が混ぜられる。
ちせの舌先を熱く感じるのも、薬のせいなのか。
「画に成るわ。ああ、なんと美しい男の子だろう。ちせちゃんのボーイ・フレンドじゃ無かったら私が手籠めにしたものを」
娘の色事を目の当たりにしても、淑女は止めるそぶりもない。ゆったりと座り、ただ眺めている。
「ママ、何てことを云うの。渡すはずないじゃない」
「お貌だけでも似せて、精巧な少年人形を造ろうかね」
「厭よ。ぜったいに厭。ユウリを穢さないで」
親子の会話も、悠理には遠ざかっていく。四肢はますます重さを増して、鉛を付けられたように沈む。目蓋さえも開けていられない。ゆっくりと閉じる視界。
「ちせ、やめ……」
てくれ、と云いたかった。
だが濃厚さを増す舌先に、言葉も絡め取られ、発せなくなる。
もう……どうでもいい。快楽に手籠めにされ、そんなふうに思うまでにさほど時間は掛からなかった。
蜘蛛の毒は悠理の全てをとろけさせ、堕とした。