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アラクネ 或いは アラベスク  作者: 百花蜜
7.COMMENCE(コメンス)
11/11

 日常は平穏を取り戻す。ちせの面影など欠片もない毎日。出逢うことなく、何事もなかったかのように悠理は学校に通う。

 下校路の途中、あの路地裏に足を踏み入れてみたこともあったが、娼館への入り口は見つからない。同じ経路みちをぐるぐると廻り、気付けば大通りに出てしまうという、散々な有様だ。

 一連の出来事は何だったのだろう。不思議な雰囲気を纏った、薄い色素の少女。バスの中で逢った女装の淑女さえも、幻だったのか。

 釈然としない悠理に迫るのは、巻町に突きつけられた選択の期日である。けれど、今の悠理には迷うことも惑うことも無い。巴里パリ行きの航空券をあっけなく破り棄てることが出来た。

 人は誰でも、いつかは親離れのときを迎える。ただそれが少しだけ他の学友達とは形が違うだけ、悠理はそんな風にも思い自分自身を納得させ、今日も植物園に向かう。

 午後の授業を抜けだし、独りきりで、蔦絡む入場口アーチを潜るのはもう幾度か目にもなった。

 また逢いたいと願う想いは認めざるを得ない。妖精のような白金の髪と睫毛をして、悪戯っぽく微笑う姿が思い出される。巻町しか知らなかった悠理の心を突然に掠め取り、靄のように消えた少女娼婦。母親との愛憎に塗りつぶされていた心に、新しい色彩を加えてくれた。

 それなのに……

(初恋だなんて云った癖に。嘘だったのか?)

 悠理はため息を零しては、憂鬱に沈む。

 結局、遊ばれたのだろうか。ちせにとっては気まぐれな玩びに過ぎなかったのか。花婿に成る人なの。結ばれる定めなの。ずっと想い馳せていたの……紡がれるたび、呆れを覚えた彼女の妄想。あれほどに熱の籠った言葉を吐いておいて、姿を消すなんて、裏切りであり、非常識だ。

 ……ちせに常識など求めてはいけない?

 少しも現実感のない、別世界アラベスクの住人なのだから……

 そう想うと、苛立つどころか、少し微笑える。

 貴方存在していたのね、この現実世界に。初めて対面したとき彼女はそうも云ったが、云った本人のほうこそが、画の中から抜けだしてきた幻想のようだ。

 ふと宙を見上げれば、蝶が舞っている。極彩色を身に付け、温室内を戯れる亜種達。あの日も見た光景。プラタナスもラナンキュラスも、ちせと歩いた順路みちに変わらずに映えている。

 立ち止まると、震えるのはポケットに仕舞った携帯電話だ。突然の振動に取り出せば、表示されている名前は巻町六花。

 しばらくは躊躇ったが、結局は通話を受けとめる悠理だった。

 逃げるのは格好悪い。

「もしもし、母さん」

 敢えてそう呼ぶ。混線した関係を紐解いた。巻町は愛人でも恋人でもない。母と呼んだのは、生まれてはじめてかも知れなかった。

『……残念だわ』

 少しの沈黙のあと、巻町は嘆く。

『ヴィヴィエンヌを選んだのね、悠理』

「違う。選んだんじゃない。あんたから離れるんだ」

『一緒に行きたかったわ。二人で暮らすアパートメントも用意していたの。お伽話の絵本に出てくるような愛らしいしつらえの窓でね、エッフェル塔が見えるんだから』

「このままじゃ大人になれない」

 悠理は突き放す。電話の向こうではため息が零れた。

『もう私の描いた黄金豹の少年はいないのかしら』

「俺に投影し、押しつけるのはやめてくれ」

『貴方は私が生み出した作品なのに……?』

「確かにあんたが、俺をこの世界に創った。だからと云って、思い通りになるわけが無いんだ」

『私に、新しい少年りそうを見つけろと云うの? ねえ、悠理!』

 叫びと共に、フライトのアナウンスが聞こえてくる。悠理は思い出した、今日は巻町の出国日である。彼女は空港に居るのだ。

 航空券を貰っていた癖に、今の今まで忘れていた事実に悠理は微笑む。あれほどに心を侵食され、支配されていたような自分はもういないのだと思った。

 巻町に掻き乱されることはもう二度とない、そう云いきれる。

 女は未だ、何事かを叫んでいた。名前も繰り返し呼ばれる。けれど悠理は耳から離し、電源を切った。


 空間は静寂に戻る。


 何かが終わった気がして、悠理はほっと息を吐いた。身体を縛りつけていた錘が、外れていく心地。重圧が消えていく。

 電話をしまうと、再び視線を頭上にやる。鉄骨と硝子の幾何学アラベスクが美しい。碧空を透かす高い天井は高い湿度と温度のせいで、本物の南洋の碧空のように感じられた。

 眺めたあとで瞑目すれば、背後からは足音。

 聞き覚えのある響き。

(まさか……)

 近づいてくるそれに、唾を飲み込んだ。振り向いてみると、心は一瞬にして鷲掴まれることとなる。

「……あっ……!」

 木底靴ロッキンホースに黒衿のラブジャケット、斜め被りのベレー帽、ガーターで留めたニータイツ。鞄には宝珠オーブが光り、指には琥珀とアーマーリングが並ぶ。その姿はまさしく、ヴィヴィエンヌの正装。

「ご機嫌よう」

 おどけて云い、ちせは近づいてきた。自然な動作で、悠理に腕を絡めてくる。

「なにか感傷に浸ってるようだったわ、ユウリ」

「後をつけてたのか?」

「いいえ、女の勘よ。こんな晴れた日には、きっとユウリは植物園に繰り出すんじゃないかって思ったの」

 間近で見る笑顔は極上だった。悠理の心は瞬時に嬉しさに満たされてゆき、そんな自分自身に戸惑う。だが、己の『変化』を歓迎した。怪訝に感じていた筈の少女のぬくもりが、今は快いのだ。

「俺達は波長が合うのかな」

 何気なく云うと、ちせは嬉しそうにする。当たり前だわ、とすぐに弾んだ返事が返ってきた。

「あたし達はもう、立派な恋人同士だもの!」

「良く云うよ。消えたくせに。もう二度と会えないのかもと思っていたんだ、俺は」

「幻想のままにするか、現実にするか、ユウリに選ばせてあげたのよ。温室ここを彷徨っているということは、あたしとあたしの世界アラベスクを現実と見做したということね」

 勿論だ。確かにちせは奇妙だし、館も淑女も妖しいことこの上ないが、夢幻ではない。

「ユウリの心があたしを現実にしたわ。あたしの心が黄金豹の皇子アティスを現実にしたように!」

「……俺はもうアティスじゃない。やめたんだ」

 腕組みを解かないまま、順路を辿って歩きつつ、ユウリはうち明けた。ちせは一瞬驚いたような表情を見せる。

「あら、どうしちゃったのかしら? 巻町六花を溺愛のご様子だったのに」

「いつまでも、子供じゃいられないんだ。あの人は俺をずっと少年でいさせたいみたいだったけど。俺は前に進みたい」

「じゃあ、巻町女史は今でも少女なのね。お気に入りの愛玩具を取られまいと、駄々をこねる小さな女の子」

「巧い喩えだな。そうだ、母さんは……ずっと画の中と、幻想に生きるんだろうな」

 悠理の呟きに、ちせは真面目な表情で頷く。

「産み落とされる処を、選ぶことはできない。でも生きていくしかないのよ。変えられないから」

「そんな貌も出来るんだ」

「なによ。真剣に云ったのよ」

 顔を合わせてから、お互い共に吹き出した。疑似の亜熱帯は深緑を増してゆく。歩きながら、ちせはジャケットから一枚のトランプを取り出し、悠理の制服のポケットに突っ込む。

「あたしの連絡先が書いてあるわ。もう一度出逢えたときに、渡そうと極めてたの。さあ、シナリオを次の展開へと運びましょ」

「出逢えなかったら?」

 悠理が尋ねると、ちせはくすりと笑む。

「そんな展開になるわけがないって信じてた」

 ドラセナとシェフレラの向こうに、泉がある。さわやかな水の綾に浮いているのは白蓮。

 近づいたちせは鎧環の嵌まった指を伸ばして、花びらを弄る。




END




『突然の画風の変化、特にアティスの容姿変化は著しい。理由を尋ねてみても女史は告白しなかった。生活をフランスに移したのも大きな理由の一つではあろう』

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