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日常は平穏を取り戻す。ちせの面影など欠片もない毎日。出逢うことなく、何事もなかったかのように悠理は学校に通う。
下校路の途中、あの路地裏に足を踏み入れてみたこともあったが、娼館への入り口は見つからない。同じ経路をぐるぐると廻り、気付けば大通りに出てしまうという、散々な有様だ。
一連の出来事は何だったのだろう。不思議な雰囲気を纏った、薄い色素の少女。バスの中で逢った女装の淑女さえも、幻だったのか。
釈然としない悠理に迫るのは、巻町に突きつけられた選択の期日である。けれど、今の悠理には迷うことも惑うことも無い。巴里行きの航空券をあっけなく破り棄てることが出来た。
人は誰でも、いつかは親離れのときを迎える。ただそれが少しだけ他の学友達とは形が違うだけ、悠理はそんな風にも思い自分自身を納得させ、今日も植物園に向かう。
午後の授業を抜けだし、独りきりで、蔦絡む入場口を潜るのはもう幾度か目にもなった。
また逢いたいと願う想いは認めざるを得ない。妖精のような白金の髪と睫毛をして、悪戯っぽく微笑う姿が思い出される。巻町しか知らなかった悠理の心を突然に掠め取り、靄のように消えた少女娼婦。母親との愛憎に塗りつぶされていた心に、新しい色彩を加えてくれた。
それなのに……
(初恋だなんて云った癖に。嘘だったのか?)
悠理はため息を零しては、憂鬱に沈む。
結局、遊ばれたのだろうか。ちせにとっては気まぐれな玩びに過ぎなかったのか。花婿に成る人なの。結ばれる定めなの。ずっと想い馳せていたの……紡がれるたび、呆れを覚えた彼女の妄想。あれほどに熱の籠った言葉を吐いておいて、姿を消すなんて、裏切りであり、非常識だ。
……ちせに常識など求めてはいけない?
少しも現実感のない、別世界の住人なのだから……
そう想うと、苛立つどころか、少し微笑える。
貴方存在していたのね、この現実世界に。初めて対面したとき彼女はそうも云ったが、云った本人のほうこそが、画の中から抜けだしてきた幻想のようだ。
ふと宙を見上げれば、蝶が舞っている。極彩色を身に付け、温室内を戯れる亜種達。あの日も見た光景。プラタナスもラナンキュラスも、ちせと歩いた順路に変わらずに映えている。
立ち止まると、震えるのはポケットに仕舞った携帯電話だ。突然の振動に取り出せば、表示されている名前は巻町六花。
しばらくは躊躇ったが、結局は通話を受けとめる悠理だった。
逃げるのは格好悪い。
「もしもし、母さん」
敢えてそう呼ぶ。混線した関係を紐解いた。巻町は愛人でも恋人でもない。母と呼んだのは、生まれてはじめてかも知れなかった。
『……残念だわ』
少しの沈黙のあと、巻町は嘆く。
『ヴィヴィエンヌを選んだのね、悠理』
「違う。選んだんじゃない。あんたから離れるんだ」
『一緒に行きたかったわ。二人で暮らすアパートメントも用意していたの。お伽話の絵本に出てくるような愛らしいしつらえの窓でね、エッフェル塔が見えるんだから』
「このままじゃ大人になれない」
悠理は突き放す。電話の向こうではため息が零れた。
『もう私の描いた黄金豹の少年はいないのかしら』
「俺に投影し、押しつけるのはやめてくれ」
『貴方は私が生み出した作品なのに……?』
「確かにあんたが、俺をこの世界に創った。だからと云って、思い通りになるわけが無いんだ」
『私に、新しい少年を見つけろと云うの? ねえ、悠理!』
叫びと共に、フライトのアナウンスが聞こえてくる。悠理は思い出した、今日は巻町の出国日である。彼女は空港に居るのだ。
航空券を貰っていた癖に、今の今まで忘れていた事実に悠理は微笑む。あれほどに心を侵食され、支配されていたような自分はもういないのだと思った。
巻町に掻き乱されることはもう二度とない、そう云いきれる。
女は未だ、何事かを叫んでいた。名前も繰り返し呼ばれる。けれど悠理は耳から離し、電源を切った。
空間は静寂に戻る。
何かが終わった気がして、悠理はほっと息を吐いた。身体を縛りつけていた錘が、外れていく心地。重圧が消えていく。
電話をしまうと、再び視線を頭上にやる。鉄骨と硝子の幾何学が美しい。碧空を透かす高い天井は高い湿度と温度のせいで、本物の南洋の碧空のように感じられた。
眺めたあとで瞑目すれば、背後からは足音。
聞き覚えのある響き。
(まさか……)
近づいてくるそれに、唾を飲み込んだ。振り向いてみると、心は一瞬にして鷲掴まれることとなる。
「……あっ……!」
木底靴に黒衿のラブジャケット、斜め被りのベレー帽、ガーターで留めたニータイツ。鞄には宝珠が光り、指には琥珀とアーマーリングが並ぶ。その姿はまさしく、ヴィヴィエンヌの正装。
「ご機嫌よう」
おどけて云い、ちせは近づいてきた。自然な動作で、悠理に腕を絡めてくる。
「なにか感傷に浸ってるようだったわ、ユウリ」
「後をつけてたのか?」
「いいえ、女の勘よ。こんな晴れた日には、きっとユウリは植物園に繰り出すんじゃないかって思ったの」
間近で見る笑顔は極上だった。悠理の心は瞬時に嬉しさに満たされてゆき、そんな自分自身に戸惑う。だが、己の『変化』を歓迎した。怪訝に感じていた筈の少女のぬくもりが、今は快いのだ。
「俺達は波長が合うのかな」
何気なく云うと、ちせは嬉しそうにする。当たり前だわ、とすぐに弾んだ返事が返ってきた。
「あたし達はもう、立派な恋人同士だもの!」
「良く云うよ。消えたくせに。もう二度と会えないのかもと思っていたんだ、俺は」
「幻想のままにするか、現実にするか、ユウリに選ばせてあげたのよ。温室を彷徨っているということは、あたしとあたしの世界を現実と見做したということね」
勿論だ。確かにちせは奇妙だし、館も淑女も妖しいことこの上ないが、夢幻ではない。
「ユウリの心があたしを現実にしたわ。あたしの心が黄金豹の皇子を現実にしたように!」
「……俺はもうアティスじゃない。やめたんだ」
腕組みを解かないまま、順路を辿って歩きつつ、ユウリはうち明けた。ちせは一瞬驚いたような表情を見せる。
「あら、どうしちゃったのかしら? 巻町六花を溺愛のご様子だったのに」
「いつまでも、子供じゃいられないんだ。あの人は俺をずっと少年でいさせたいみたいだったけど。俺は前に進みたい」
「じゃあ、巻町女史は今でも少女なのね。お気に入りの愛玩具を取られまいと、駄々をこねる小さな女の子」
「巧い喩えだな。そうだ、母さんは……ずっと画の中と、幻想に生きるんだろうな」
悠理の呟きに、ちせは真面目な表情で頷く。
「産み落とされる処を、選ぶことはできない。でも生きていくしかないのよ。変えられないから」
「そんな貌も出来るんだ」
「なによ。真剣に云ったのよ」
顔を合わせてから、お互い共に吹き出した。疑似の亜熱帯は深緑を増してゆく。歩きながら、ちせはジャケットから一枚のトランプを取り出し、悠理の制服のポケットに突っ込む。
「あたしの連絡先が書いてあるわ。もう一度出逢えたときに、渡そうと極めてたの。さあ、シナリオを次の展開へと運びましょ」
「出逢えなかったら?」
悠理が尋ねると、ちせはくすりと笑む。
「そんな展開になるわけがないって信じてた」
ドラセナとシェフレラの向こうに、泉がある。さわやかな水の綾に浮いているのは白蓮。
近づいたちせは鎧環の嵌まった指を伸ばして、花びらを弄る。
END
『突然の画風の変化、特にアティスの容姿変化は著しい。理由を尋ねてみても女史は告白しなかった。生活をフランスに移したのも大きな理由の一つではあろう』




