第3話 黒幕の影
「お嬢様……お嬢様、起きてください。そろそろお支度の時間です」
声をかけ、寝ていた身体を揺り動かしたのは使用人の千代だ。
彼女は今年で十五歳。伯爵の地位を賜っているこの菊地家で、当主・江蔵の娘である桜和の小間使いをしている。
「頭のてっぺんからつま先まで、すべて手入れするように奥様から言われていますので」
「そんな大げさな。野宮家の宴に招かれているだけでしょう」
呑気な声を出した桜和は身体を起こし、口を隠しながらあくびをした。
今日は公爵家である野宮家で社交界が催されることになっており、菊地家も桜和とその両親の三人が招待されている。
「なにか隙があれば野宮家の奥様から嫌味を言われるかもしれない、とうちの奥様が仰っていましたよ?」
野宮家の嫡男である煌太郎と桜和は、つい先日結納を済ませて婚約をした仲だ。
半年後の春にふたりの結婚式がおこなわれる予定になっており、野宮家と菊地家は姻戚関係を結ぶことになる。
「煌太郎さんのお母様は厳しいものね。それに、私は嫌われていそうだし」
自虐的に苦笑いを浮かべる桜和を見て、千代は眉を八の字にして悲しそうな顔をした。
「昨晩も夢を見たのですか?」
千代の問いかけに、桜和はふるふると首を横に振った。
桜和は時折、未来を予見するような夢を見る。子どものころからそんなことがあったため、自分だけが特別だと気づいていなかったのだ。
「あちらの奥様、ひどいですよ。お嬢様は野宮家に嫁がれるお方なのに」
「仕方ないわ。急にわけのわからないことを言って、あとでそれが当たるんだもの。気味悪く思うよね」
「私も最初は驚きましたけど、危険を事前に知らせてくださるんですから、逆にありがたいです!」
納得がいかないと言わんばかりに口を尖らせる千代に、桜和は再び笑みをたたえてポンポンとやさしく肩をたたいた。
まだ煌太郎と婚約をする前に野宮家を訪れたとき、桜和は煌太郎の母にその日見た夢の話をした。
玄関先で転んで足をくじくので注意してくださいと正直に話したのだが、当然の如く信じてはもらえなかった。
しかし翌日、煌太郎の母は本当に足をくじいてしまい、なぜか桜和がおかしなことを言ったからだと責められてしまったのだ。
それ以来桜和は気味の悪い娘だと、煌太郎の母から敬遠されている。
「お嬢様、本当に大丈夫ですか? そんな奥様と同居だなんて……」
「大丈夫よ。私には煌太郎様がついていてくださるもの」
「そうですよね。愛の力は偉大です。きっとお嬢様を守ってくださいますね」
千代がウキウキと声を弾ませると、桜和は頬を染めながら恥ずかしそうに微笑んだ。
今の桜和にとっては煌太郎がすべて。身も心も捧げたい相手だ。
彼のもとへ嫁げることはこの上ない幸せで、どんな苦難もふたりなら乗り越えていけると信じていた。
「では、全身を綺麗に整えましょう。昨夜のうちに髪は洗いましたから、ていねいに椿油を施して結いましょうね」
「うん、お願いね」
「今日はみなさん洋装らしいので、お嬢様もドレスですよ」
千代の言葉に、桜和はにこりと満面の笑みを浮かべてうなずいた。
母の言いつけを守り、全身の身なりを整えた桜和は両親と共に馬車で野宮邸へ向かった。
伯爵家である菊地の家もほかと比べると大きいけれど、野宮邸はさらに敷地が広い。
何人もの使用人が出迎えのために玄関先で一列に並び、頭を下げている。
さすがは公爵家だなと、桜和は訪れるたびに毎回圧倒されていた。
社交界がおこなわれる広間へ案内されて足を踏み入れると、上流階級の貴族たちがすでに集まっていた。
桜和と両親もその輪に混じり、お決まりのあいさつを交わしていく。
今日は洋装でと事前に言われていたので、和服姿の者はひとりもおらず、まるで異国に来たみたいだと桜和は緊張が増した。
「あら、桜和さん」
後ろから声をかけられて振り向いた先に、煌太郎の母が憮然とした顔をして立っていたので、桜和はあわてて頭を下げた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「あなたのドレス、ずいぶん地味ね。まぁいいんだけど……」
桜和は母や千代と相談しながら、どのドレスを着ていくかに関しては相当悩んだ。
あまり派手に着飾って誰よりも目立ってしまったら、煌太郎の母は気に入らないだろう。
かといって、あまりにも地味なドレスを選んだら、貧乏くさいと言われるのは目に見えている。
結局迷った末、薄い紫色のドレスにしたのだけれど、やはり嫌味からは逃れられなかった。
だが桜和にとってはこれも想定内。愛想笑いをしながら「すみません」と謝っておけばいいだけのことだ。
「桜和は気を使ったんだよ。奥ゆかしいんだ。本気で着飾ったら桜和が世界で一番美しいに決まってる」
「煌太郎様……」
桜和の後ろに煌太郎が現れ、包み込むようにそっと肩を抱き寄せると、彼女の頬はあっという間に桜色に染まった。
額を隠すサラサラの黒髪、凛々しい眉、やさしさを含んだ黒い瞳。
タキシードを身に纏った煌太郎は背が高く、手足が長い。
こんなに完璧な男性は、どこを探してもほかにはいないと、桜和はあらためて惚れ直した。
「ほら、髪も肌もつやつや。美人だから和装も洋装も似合う」
煌太郎は両手で桜和の手をとって愛おしそうになでた。
それを見た母親は、ぎょっとして眉をひそめる。
「いい加減になさい。はしたない」
「桜和とは結納を済ませたから、もう妻も同然だ。これくらいかまわないと思うけど」
「私はね、まだあなたたちの婚約を認めていないの。予言まがいな夢の話をする嫁なんて気味が悪くて仕方ないわ」
「なんてこと言うんだよ!」
今度は煌太郎が嫌そうに顔をしかめた。
それを見た桜和はすぐさま煌太郎の服の袖を引っ張って合図を送る。
あまり桜和をかばいすぎると、母親はさらにヘソを曲げてしまうだろう。
「ほかにも素敵な令嬢はたくさんいるし、煌太郎なら引く手あまたなのに。まったく……我が息子ながらあきれる」
母親はフンッと鼻をならし、やっていられないと言わんばかりにふたりから離れていった。
「お義母さま……ずいぶん怒っていらっしゃったわ」
「大丈夫だよ。気にしないで?」
「このドレス、地味だったでしょうか?」
小さな声で問いかける桜和に、煌太郎は首を横に振った。
「そんなことない。言っただろう? 桜和は世界一綺麗だよ」
「ありがとうございます。どの色のドレスにしようか迷ったんですが、煌太郎様にいただいた紫苑の花の色を思い出して、これに決めました」
照れて恥ずかしそうに笑みを浮かべる桜和の姿がかわいくて、煌太郎はこの場で抱きしめたくなったが、なんとかその衝動を抑えた。
ふたりの出会いは半年前。
とある侯爵家の社交界を訪れた際、互いに一目惚れに近い形ですぐに恋に落ちた。
母親の言うとおり、眉目秀麗な煌太郎は引く手あまたで、方々から見合いの話が来ていたのだけれど、桜和と出会った煌太郎は彼女しか目に入らなくなる。
娶るなら桜和を、と当主である父親に強く要望したことから、とんとん拍子で見合いを経て婚約へと進み、現在に至っている。
「桜和、ちょっとおいで」
煌太郎がそっと耳打ちをして、社交界の場から桜和を連れ出した。
人目がなくなったところで桜和のやわらかい手を握って歩く。
着いた先は野宮邸の中庭で、花壇には薄紫色の紫苑が咲き乱れていた。
「うわぁ! 綺麗ですね!」
「桜和はこの花、好き?」
「はい。先日いただいたお花も、いつまでも持っていられるようにいくつか押し花にしたくらいです」
キラキラと瞳を輝かせながらうれしそうに話す桜和に、煌太郎は心から愛しい感情が湧いてきた。
中庭に咲いていた花を摘んで渡しただけで、そんなによろこんでもらえるとは思ってもみなかったのだ。
「今の時期しか咲かないけど、こんなのいくらでも届けられるのに……」
「煌太郎様からもらったものだから大切なんですよ。ひとつひとつ全部大事にしたいんです。この先もずっと」
今の言葉で胸を打ち抜かれた煌太郎は、桜和を抱きしめずにはいられなかった。
「桜和、心から愛してる」
煌太郎の胸に顔をうずめながら、桜和がそっと上を向いた。
「私も。心から煌太郎様をお慕いしています」
「仲のいい夫婦になろうな。幸せに暮らそう」
「はい」
煌太郎は満足そうに微笑み、小さくてぷっくりとした桜和の唇に口づけをした。
ふたりには輝かしくて幸せな未来が待っている。
そう信じて疑わなかった。――――このときまでは。
この社交界から十日が経ったころ、桜和は予知夢のようなものを見て目が覚めた。
布団の上で上半身を起こすと、額に汗が滲んでいる。
とても嫌な夢だった。両親と三人で辺りを気にしながら荷物を抱えて逃げる夢……。
だけどそれ以上はわからない。なぜそうなったのか、どこへ逃げているのか。
おそらくなにか嫌なことが近々起こるのだろう。
そうなる前に食い止めねばと思っていたのだが、その日の夜、阻止できずに現実のものとなる。
そろそろ就寝しようとしていたころ、桜和の父である江蔵が住み込みの使用人を含め全員を居間に集めた。
「夜更けにどうされたのですか?」
桜和が呑気な声で尋ねたが、江蔵は渋い顔をしたまましばし考え込んでいた。
隣にいる桜和の母は悲愴な顔つきになっている。
ふたりの表情を見て、桜和は昨夜の夢のことが頭に浮かんだ。
今からなにか起こる。夢のとおりになってしまう。そう考えたら一瞬で恐怖が押し寄せた。
「それぞれ荷物をまとめなさい。早朝にはここを出る」
江蔵は静かな口調で全員にそう告げた。
使用人たちは顔を見合わせて動揺している。
「皆には今まで世話になった。これは少ないが足代にでもしてくれ」
江蔵が使用人たちひとりひとりに茶封筒を渡していく。
みんなわけがわからずそれを受け取り、手にしたまま呆然としていた。
「お父様、いったいどういうことですか?」
桜和があらためて問うと、江蔵はつらそうに眉間にシワを寄せた。
「どうもこうもない。この家は今日で終わりだ。皆、実家にでも帰りなさい」
外に働きに出された使用人は、突然帰れと言われても帰る場所などない。
それは江蔵も重々承知しているが、そうするしかなくなったのだ。
「桜和、お前も荷物をまとめるんだ。当然持ち歩ける分だけにしなさい。あとは置いていく」
「嫌です。私はここにいます」
「会社が潰れた。莫大な借金だけが残っている。明日、タチの悪い借金取りがここに来るだろう」
伯爵の爵位を賜っている菊地家は元々資産家だった。
明治の世になり諸外国との貿易もさかんになったことから、江蔵は先祖から受け継いだ資産を元手に輸入業の会社を営んでいた。
しかしそれがうまくいかず、借金が増え、ついに倒産に追い込まれてしまった。
「タチの悪いって……」
裏街道を行く怖い人たちが大勢で押し寄せてくるのを想像した桜和は、顔から血の気が引いた。
なにか危害を加えられるかもしれない、と。
「お、お金さえ返せば免れるのですよね? それなら野宮のお義父様に話して助けを求めましょう」
野宮家は公爵の地位にある。ほかとは比べ物にならないくらいの資産家だ。
煌太郎と桜和は婚約しているのだから、野宮家に相談すれば力を貸してくれるのではないかと桜和は思った。
みっともない話だが、使用人を含め一家が路頭に迷うくらいなら頼るべきだ。
「断られた」
「……え?」
「頼られても困る、沈む船には一緒に乗れない、と言われたんだ」
「そんな……」
煌太郎の父は品がよく、どんなときでもおおらかにかまえている人だった。
息子が気に入った娘なら、と桜和との縁談もすんなりと認め、来春の婚礼を楽しみにしてくれていた。
そんな温厚な人物でも、自分の家が傾くかもしれないような事柄には巻き込まれたくないと判断したらしい。
あちらは公爵だが、菊地家とて伯爵の身分。
借金を肩代わりしてほしいだなどと頼みに行くのは、プライドの高い江蔵にはつらかっただろう。
苦悶の表情になる父を、桜和は涙を浮かべながら思いやった。
「婚約は……煌太郎様との結婚はどうなるんですか」
「破談に決まっているだろう」
父の言葉で、桜和は後頭部をなにかで打たれたような衝撃を受けた。
十日前に野宮邸を訪れたときは、あんなに幸せだったのに……。
「早朝に家を出るって、どこへ行くの? 鎌倉の別荘?」
「別荘はとうの昔に抵当に入っていて、じきに競売にかけられる。……この家もだ」
「煌太郎様に一目会ってから、」
「ならん。桜和、許せ」
これは昨日今日起こった出来事ではない、と桜和は唐突に理解した。
心配をかけないため、江蔵は経営不振のことを家族にずっと黙っていたのだ。
話を聞きながら震えている母にもつい先ほど伝えたのだろう。
「みんな、荷物をまとめてくれ。夜が明けるころにはここを発つ。すまないがそのあと誰かに我々のことを聞かれたら、知らないと言ってほしい」
使用人たちが嗚咽を上げて泣き始めた。この先自分がどうなるのか不安なのだ。
「お嬢様」
それぞれが肩を落として部屋に戻っていく中、千代が桜和のもとへやってきた。
こらえきれずに大粒の涙をぽろぽろと流している。
「千代……」
「お世話になりました。こんなに突然のお別れになるなんて……」
桜和は思わず両手で彼女の手をぎゅっと握った。
「別れるなんて嫌よ」
「お嬢様、気をしっかり持ってください。今はつらくても、風向きが変わる日は来るかもしれません」
千代は泣きながらも、桜和の目をしっかりと見てそう言った。
自分より三歳も年下で、まだまだ子どもだと思っていたのに……。
千代のほうがよほど理解力があり、順応性が高いと桜和は感心してしまう。
「煌太郎様ともまた会えますよ。お嬢様と運命で結ばれているお方ですから。希望を持ってください」
そう言って涙を拭う千代も、実家に帰っても居場所などなく、すぐに違うお屋敷へ使用人として出されるはずだ。
「千代、今までありがとう。あなたのことは忘れない」
心を込めて感謝を伝えると、千代はついにしゃくりあげて泣いてしまった。
桜和は部屋に戻って荷造りを始めたものの、持ち歩けるように小さくまとめるのはむずかしかった。
身の回りのものを、あれもこれもカバンの中に詰め込みたくなる。
父から、出来るだけ目立たない地味な着物を着るようにと指示が出た。庶民を装う気らしい。
気に入っていた着物やドレス、髪飾りなどは、どれも上等だが全部は持っていけない。
カバンや風呂敷に荷物をぎゅうぎゅう詰めにして、桜和はなんとか支度を終えた。
結納のときに撮った煌太郎との写真を懐紙に挟み、紫苑の押し花と共に着物の襟元へと差し込む。
落ち着いたら、また必ず会えると信じて――。
江蔵は使用人たちを先に家から出し、菊地家には桜和と両親の三人になった。
事業に失敗した代償として、先祖から受け継いだ土地や家屋を手放さなければならない。ついにそのときが来た。
夜逃げのようなまねまでしなければいけなくなったのは自分のせいだと、江蔵は自分自身を責めていた。
「すまないな、目立つから馬は使えない」
江蔵は所有している馬車も置いていくつもりのようだ。
「千葉に遠縁の親戚がいる。そこを頼ろうと思う」
受け入れてもらえるかはわからないが、そうするしかないらしい。
桜和と母はうなずき、朝日が昇りきったころに三人は住み慣れた菊地家を出た。
朝早いので大通りは誰も歩いておらず、人目を避ける心配はなかった。
これ幸いとばかりに、荷物を抱えて足早に街をあとにする。
千葉へと続く街道をただひたすら歩く。
太陽が真上に昇るころには三人とも疲労困憊になり、ついに両親は道端で座り込んでしまった。
「少し休憩しましょ。向こうに沢があったから水を汲んできます。待っていて」
疲れている両親をその場に残し、桜和は清らかな水が流れる沢のほうへ向かった。
もぬけの殻になっている菊地家のうわさが、そろそろ煌太郎の耳にも入ったころだろうか。
沢の水を汲みながらも、自然と頭に思い描くのは煌太郎の綺麗な笑顔。
このまま一生会えないなんて嫌だ、いつか必ず会いにいくと、このとき桜和は強く思った。
そっと胸元に手を当てる。大丈夫、さみしくなったらこの写真と押し花を見よう。
水を入れた水筒を持ち、両親が待つ場所まで戻ろうとして街道を横切ったときだった。
疾風のごとく勢いよく駆けてくる二頭の馬が桜和の視界に入った。どうやらどこかの貴族の馬車らしい。
急いでいるにしても飛ばし過ぎだなと心配した矢先、一頭の馬が暴れ出して桜和のいるほうへ突っ込んできてしまう。
「助けてー!」
そう叫んだけれど、桜和はそのまま馬車と衝突して命を落としてしまった。
「気がついたか? レーナ?」
レーナは見知らぬベッドの上でぼんやりと目を覚ました。
傍らにはレーナの手を握って心配そうに顔を覗き込んでいるオスカーの姿があった。
「ここは……?」
レーナが尋ねながら上半身を起こして辺りを見回す。
頭さえぼうっとしていなければ今すぐ飛び起きていただろうと思うほど、広々とした豪華なベッドだった。
使用人が軽々しく横になっていい場所ではない。
「フィンブル宮殿の中だ。いきなり倒れたけど大丈夫か?」
「はい」
オスカーと花壇の前で話をしているときに、突然気を失ったことを思いだした。
おそらく王太子である彼がここまで運んでくれたのだろうと考えたら、レーナは途端に申し訳なくなった。
「本当にすみません」
「気にしなくていい。君が無事ならそれで」
「前世の記憶が一気に流れ込んできたら、急にひどい眩暈がして……」
小さな声で事情を話すレーナがいじらしくて、オスカーは無意識に彼女の頭をなでていた。
「思い出した?」
「……はい。前世の私は煌太郎様を心から愛していて、絶対にまた会いたいと強く願っていました」
「俺もだ。だからこうして会えたんだよ」
オスカーの瞳が薄っすらと涙で潤んでいる。
その表情を目にしたレーナの瞳にも一気に涙があふれ、ぽろぽろと頬を伝った。
「レーナ、俺と結婚してほしい。このフィンブル宮殿で暮らそう」
「殿下、でも……私は今世ではただの使用人です」
「俺には君が必要なんだ」
オスカーがレーナの両肩に手を置き、力強く瞳を射貫く。
身分違いなのは明らかだけれど、桜和がどれほど煌太郎を愛していたか知ってしまったレーナは、素直にうなずくしかなかった。
「今度こそ幸せになろう。桜和と煌太郎の分まで」
また会えた――運命の人に。ふたりの胸にこの上ないよろこびが込み上げる。
オスカーはレーナを抱きしめ、情熱的に何度もキスをした。
一週間後、あらためてレーナはフィンブル宮殿に呼び出された。
大きな窓の向こうに紫苑が植えられた花壇が見える部屋で待っていたのは、王太子のオスカーだ。
「殿下が私をお呼びだとうかがったのですが……」
レーナは部屋の入口付近でかしこまって頭を下げていたのだが、それを見たオスカーは足早に近づいていき、彼女の手を引いて椅子に座らせた。
「ふたりきりなんだから楽にして」
王太子と使用人では身分があまりにも違うので、普通なら気楽に接するどころか話すのもはばかられる。
しかし、至近距離から愛に満ちた表情で言われると、レーナはうっとりとして頬を赤らめることしかできない。
「まだ正式な沙汰が下されていないんだが、俺に毒を盛った犯人がわかった」
あれから王宮内は普段の落ち着きを取り戻しつつあったけれど、役人たちが調査を続けているのはみんな知っていた。
口には出さないものの不安な毎日を送っていたのだ。
「誰だったのですか?」
「使用人のマリーザだ」
犯行の証拠を掴もうと私も探っていたが、彼女にはずっと無視されている。
青い小瓶のことは、「レーナが部屋に持ち込んだんです。私はハメられました!」と主張していたらしい。
「マリーザは罪を認めたのですか? でもどうして……」
「調べたら、マリーザの父親には多額の借金があったんだが、完済したそうだ。娘がカネを工面したと言っていたらしい。おかしいだろう?」
たしかにそうだ。ただの使用人である彼女が、そんな大金を簡単に用意できるわけがない。
「カネをもらって指示されたらしい。取り調べた結果、口を割った。このあと国王陛下らから裁きが下される」
実行犯はマリーザだが、さらに裏で誰かが糸を引いていたと知り、レーナは自然と苦悶に満ちた顔になった。
いったい誰がそんな恐ろしい指示を?
「ここだけの話だが、王弟のフョードルが黒幕かもな」
「え! ……フョードル殿下はオスカー殿下の叔父に当たるお方ではありませんか」
「自分が王座に就くためには俺が邪魔なんだろう」
フョードルにそんな野望があったのかと、驚いたレーナは両手で口を覆った。
まさか自分の甥を陰で殺めようとするなんて……。
不敵に笑うフョードルの顔が浮かんできてしまい、思わずふるふると頭を横に振る。
「今の話は他言無用で頼む。黒幕があの男なのはわかっているが、まだ証拠を掴んでいない。引きずり出すには、君の予知夢の力が必要になるだろう」
「わかりました。私の夢で、殿下を必ずお守りします」
「今後、政変が起こるようなことは俺が許さない。そんなに心配するな」
オスカーがゆるい笑みを浮かべるのを見て、レーナは苦笑いを浮かべた。
「そうだ、レーナに見せたいものがある」
そう言ってオスカーは立ち上がり、部屋に据え付けられているクローゼットの扉を開けた。
「これを君に」
なにがあるのか気になってあとをついていったレーナに、オスカーは豪奢な宝石や装飾が施されたドレスを掲げて見せた。
レーナにとって、上流貴族……いや、王族が公式の場で身に付けるようなドレスを間近で目にするのはもちろん初めてだ。
「この世界で君に必ずまた会えると信じていた。だからこのドレスを作らせておいたんだ」
「私の……ために?」
「そう。庭に咲いている紫苑の花に色が似ているだろう?」
オスカーが感慨深げに中庭の花壇へ視線を移す。
光沢のあるドレスの生地は、紫苑の花と本当によく似た薄紫色だった。
「これを着て、ふたりで国王陛下にお目通りしよう。正式に結婚すると報告しに」
自分のような身分の低い者が王太子妃に?
そんなことはありえないと思う反面、オスカーから真剣な眼差しを向けられたら、レーナは迷うことさえ許されない気がした。
彼が誠実なのはよく知っているから。前世で煌太郎だったときも、全身全霊で桜和を愛し、守ろうとしていた。
「もう二度と離れたくないんだ」
オスカーが愛しそうにレーナの頬をなでる。
「私もです。この先は、ずっとそばにいます」
レーナをぎゅっと抱きしめたオスカーは、コツンと額を合わせて微笑む。
やっと手に入れた幸せを噛みしめていた。
「ありがとう、レーナ。心から愛している」
互いに溢れんばかりの恋情を捧げるように、ふたりは深い口づけを交わした。
この先どんなことがあっても、ふたりなら乗り越えていけるだろう。
秋麗に咲く紫苑と共に。
――――END.




