第8話「収穫の宴と繋がれる手」
日が西の空へ傾き、辺境の空が燃えるような茜色に染まる頃、屋敷の前の広場にはかつてないほどの熱気が渦巻いていた。
長年、瘴気に苦しめられてきたこの土地で、信じられないほどの豊作がもたらされたのだ。
死に絶えていたはずの畑から次々と野菜が採れ、森には果実が実り、痩せ細っていた家畜たちも丸々と肉をつけ始めている。
ガウェインの号令により、急遽、領民たちを集めた収穫祭が催されることになった。
広場の中央には大きな焚き火が組まれ、赤々と燃え上がる炎が人々の笑顔を明るく照らし出している。
リリアーナは厨房で、朝から休むことなく料理を作り続けていた。
これほど大量の食事を任されるのは初めてだったが、疲労よりも喜びの方がはるかに上回っている。
大鍋には、大きな骨付き肉と根菜をたっぷりと煮込んだシチューがぐつぐつと音を立てている。
灰汁をすくい取り、香草の束を沈めると、肉の野性味を包み込むような爽やかな香りが広がった。
別の調理台では、切り分けた果実を生地に並べ、蜂蜜を回しかけてかまどへと運んでいく。
焼き上がったタルトからは、果実の酸味と蜂蜜の焦げる甘い匂いが立ち上り、厨房はむせ返るような幸福な香りに満ちていた。
ルークも忙しく飛び回り、完成した料理の上へきらきらと光の粉を振りかけている。
「リリアーナ様、運び出します」
料理長が若い使用人たちを指揮し、次々と大皿を広場へと運んでいく。
リリアーナは額の汗を手の甲で拭い、ようやく一息ついた。
エプロンを外し、小麦粉で汚れた手を丁寧に洗う。
冷たい水が火照った肌を冷やし、心地よい疲労感が全身を包み込んだ。
広場へ出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でていく。
領民たちは提供された料理を囲み、口々に感嘆の声を上げていた。
音楽に合わせて踊る者、杯を交わして笑い合う者。
誰もが、この土地に訪れた奇跡を心から喜び、生きる活力を取り戻している。
「リリアーナ嬢、本当にありがとう」
ガウェインが歩み寄り、豪快な笑顔で彼女の肩を軽く叩いた。
彼の手には大きな木製のジョッキが握られており、中からは芳醇な麦酒の匂いが漂っている。
「私なんて、ただ料理を作っただけです」
リリアーナが控えめに答えると、エレナが優しく微笑みながら隣に立った。
「あなたがいなければ、この笑顔は戻らなかったわ。あなたは私たちの、本当の家族よ」
家族。
その言葉が、リリアーナの胸の奥に深く、甘く染み渡っていく。
侯爵家では得られなかった、無条件の愛情と居場所。
視界が不意に涙で滲み、彼女は必死に瞬きをしてそれをこらえた。
祭りの喧騒から少し離れた場所で、アレクセイが一人、夜空を見上げていた。
彼の周りだけは静寂が落ちており、焚き火の光がその横顔に深い影を作っている。
リリアーナは少し迷った後、ゆっくりと彼の方へ歩み寄った。
足音に気づいたアレクセイが視線を向け、彼女の姿を認めた。
「少し、疲れたか」
彼の声は祭りの音楽に掻き消されそうなほど低かったが、真っ直ぐにリリアーナの耳に届いた。
「いいえ。皆さんが喜んでくださって、とても嬉しいです」
リリアーナが微笑むと、アレクセイは短く頷き、再び視線を星空へと戻した。
二人の間には、言葉を必要としない穏やかな空気が流れている。
遠くから聞こえる人々の笑い声と、薪がはぜる乾いた音だけが、心地よく響いていた。
ふと、アレクセイが大きな手をリリアーナの方へと差し出した。
無言の誘いに戸惑いながらも、リリアーナは震える指先を彼の手のひらにそっと重ねる。
アレクセイの手はとても大きく、剣を握り続けたことでできた硬いタコがいくつもあった。
しかし、その手は恐ろしいほどに温かく、彼女の冷たい指先を包み込むように優しく握りしめた。
肌と肌が触れ合う感触に、リリアーナの心臓が大きく跳ねる。
体温が指先から伝わり、胸の奥で燻っていた小さな不安の欠片までをも溶かしていくような気がした。
「俺は、口下手だ」
アレクセイが、前を向いたまま静かに口を開く。
「お前が来てから、世界に色が戻った。飯の味も、風の匂いも、人の笑い声も」
彼は繋いだ手に少しだけ力を込め、リリアーナの方へと顔を向けた。
漆黒の瞳が、焚き火の光を反射して揺らめいている。
「お前を、手放すつもりはない」
それは、不器用で、しかし何よりも誠実な誓いの言葉だった。
リリアーナは息を呑み、熱くなった目頭からひとしずくの涙をこぼした。
悲しいわけではない。
ただ、これほどの温もりを与えられる自分が、信じられないほど幸せに感じられたのだ。
ルークが二人の周囲を優しく飛び回り、祝福するように淡い光の粉を散らしている。
夜風に吹かれながら、二人はいつまでもその場所で、繋いだ手の温もりを確かめ合っていた。
辺境の冷たい夜は、もうリリアーナにとって恐ろしいものではなくなっていた。




