第2話「最果ての地と強面な出迎え」
車輪が跳ね上げる乾いた土の音が、冷たい空気の中に響き続けていた。
馬車はひび割れた大地の上を容赦なく進み、リリアーナの細い身体は硬い座席の上で何度も揺さぶられる。
窓から差し込む光はすでに薄暗く、灰色の雲が空を重く覆い隠していた。
吹き込む風は氷のように冷たく、着古したドレスの生地を簡単に通り抜けて肌を刺す。
リリアーナは両腕で自分自身を抱きしめるようにして、ただひたすらに寒さと空腹に耐えていた。
そんな中、ルークだけが彼女の冷え切った膝の上で淡い光を放ち、小さな温もりを与えてくれていた。
やがて、馬車の速度がゆっくりと落ち始めた。
窓の向こうに、黒い岩肌を削り出して作られたような巨大な城壁が見えてくる。
その威容は、王都の華やかな城とはかけ離れた、戦いのためだけに存在する要塞そのものだった。
重厚な鉄の門が鈍い音を立てて開き、馬車はゆっくりと敷地内へと滑り込んでいく。
石畳の上を馬の蹄が叩く音が、静まり返った中庭に響き渡った。
馬車が完全に停止すると、御者が無言で扉を外から開け放った。
冷たい風が車内に流れ込み、リリアーナは身震いをしてから、ゆっくりと石畳に降り立った。
足元は長旅の疲労でふらつき、冷えた石畳の感覚が靴底からじんわりと伝わってくる。
見上げると、そこには灰色の石で造られた巨大な屋敷がそびえ立っていた。
装飾は一切なく、ただそこにあるだけで威圧感を感じさせるような冷たい外観だ。
屋敷の重い扉が内側から開かれ、一人の大柄な男が姿を現した。
男の背丈はリリアーナが見上げるほど高く、肩幅は広い。
闇のように深い黒髪は無造作に伸ばされ、鋭い三白眼が獲物を探す鷹のようにリリアーナを見下ろしていた。
顔にはいくつもの小さな傷跡があり、分厚い黒の外套からは、微かに鉄と血の匂いが漂ってくるような気がした。
彼が辺境伯家の長男、アレクセイ・ヴォルツに違いない。
冷酷無惨と噂されるその姿は、リリアーナの心に冷たい恐怖を植え付けた。
『こわくないよ』
ルークがふわりと飛び上がり、男とリリアーナの間を遮るように揺れる。
しかし、アレクセイの視線はルークには向かず、ただ真っ直ぐにリリアーナの震える身体を捉えていた。
彼は無言のまま、ゆっくりとリリアーナに近づいてくる。
重いブーツの足音が石畳を叩くたび、リリアーナの心臓が早鐘のように鳴った。
何をされるのだろう。
怒鳴られるのか、それとも突き飛ばされるのか。
リリアーナがぎゅっと目を閉じ、身をすくめたその時だった。
ふわりと、頭から肩にかけて重く温かいものが掛けられた。
「……え」
恐る恐る目を開けると、アレクセイが自分が羽織っていた分厚い毛皮の外套を、リリアーナの肩に掛けてくれたところだった。
外套には彼の体温が残っており、冷え切ったリリアーナの身体を優しく包み込む。
ほのかに日差しを吸い込んだ布の匂いと、微かな焚き火の匂いがした。
鉄や血の匂いなど、どこにもなかった。
「……冷える」
アレクセイの口からこぼれた声は、地鳴りのように低かったが、どこか不器用な響きを持っていた。
彼はそれ以上何も言わず、リリアーナの足元に置かれていた古びた鞄を軽々と片手で持ち上げた。
そして、顎で屋敷の中へ入るように促す。
リリアーナは戸惑いながらも、毛皮の外套を両手でしっかりと握りしめ、彼の広い背中を追いかけて屋敷の中へと足を踏み入れた。
屋敷の中は外見の冷たさとは裏腹に、暖炉の火が赤々と燃え、心地よい温かさに満ちていた。
木の壁には使い込まれた武具が飾られているが、どこか生活の匂いがする。
広間の中央には大きな木のテーブルがあり、そこには二人の人物が待っていた。
一人は熊のように大柄で、豊かな髭を蓄えた初老の男性。
もう一人は、凜とした美しさを持つが、目元に優しい皺を刻んだ女性だ。
「よく来てくれた、リリアーナ嬢」
男性が大きな声で笑いながら、両手を広げて歓迎の意を示した。
彼が現在の辺境伯であり、アレクセイの父親であるガウェインだった。
その声は屋敷中に響き渡るほど大きく、リリアーナは思わず肩をビクッと跳ねさせた。
「あ、ああ、すまない。声が大きすぎたな」
ガウェインは困ったように頭を掻き、申し訳なさそうに眉を下げる。
その様子は、噂に聞く冷酷な辺境伯とはまるで別人のようだった。
「長旅で疲れたでしょう。さあ、こちらへ」
女性が穏やかな声で微笑みかけ、リリアーナの冷たい手を取った。
彼女はアレクセイの母親であるエレナだった。
エレナの手は温かく、少しだけごつごつとしていて、働き者の手だった。
リリアーナの手を包み込むように握ると、その温もりが指先から体中へと伝わっていく。
「こんなに手が冷え切って……。お腹も空いているでしょう。すぐに温かいものを用意させるわ」
エレナの瞳には、打算や偽りのない、純粋な思いやりが浮かんでいた。
侯爵家で、こんな風に誰かに手を握られ、心配されたことなど一度もなかった。
王都から追放され、恐ろしい場所に捨てられたと思っていたリリアーナの心に、小さな戸惑いが生まれる。
アレクセイは無言のまま、リリアーナの鞄をそっと部屋の隅に置いた。
彼の表情は相変わらず硬く読み取れないが、暖炉の火を調整するその背中は、不思議と安心感を与えてくれた。
毛皮の外套から伝わる熱と、エレナの手の温もり。
ガウェインの不器用な笑顔。
リリアーナの目頭が不意に熱くなり、視界がじんわりと涙で滲む。
それは悲しみではなく、今まで知らなかった温かさに触れたことによる、名状しがたい感情の揺れだった。
ルークが嬉しそうにリリアーナの周囲を飛び回り、柔らかな光の粉を散らす。
最果ての辺境の地で、リリアーナの凍りついていた時間は、ゆっくりと溶け始めていた。




