誕生
「控えなさい!」
維月が叫ぶと、流れ込んで来た霧は一斉にひれ伏すように下へと流れた。
座り込んでいた多香子は、慌てて立ち上がったが、その足元には霧が静かに流れている。
維月は、怯えたような顔をした、目の前の裸の男児を見た。
「良い子ね。分かる?私は陰の月の維月よ。あなたは私の愛する命。これからよろしくね。」と、周辺の霧を手を振って巻き上げた。「ほら、こうして。霧で着物を作るの。体は隠すものなのよ。」
霧は、多香子が見ている前で綺麗に着物を形作って、その子に纏わり付いた。
その子は、躊躇いがちに言った。
「…はい。維月様?我は、なんだかぼうっとしています。漂うばかりだったのに。」
維月は、微笑んでその子の頭を撫でた。
「そうね、あなたは今、闇という存在になったのよ。人や神から生まれた霧を司り、産みの親であるそれらを守って他の霧を調節する役目を負っています。あなたは、人や神を傷付けるのではなく、それらが霧に毒されぬように、上手く回すことができるの。私と、他の闇が教えましょう。あなたの王は、ルシウスという始祖の闇。この膜から出たら、それについて学ぶのですよ。分かりましたか?」
その子は、素直に頷いた。
「はい、維月様。仰る通りに。」
多香子が、それをじっと複雑な顔で見ている。
維月は、多香子を見た。
「こちらは、多香子という名の私の友です。大切な神よ。あなたも仲良くしてちょうだいね。」
その子は、頷いて多香子に言った。
「多香子様。よろしくお願い致します。」
多香子は、愛らしい顔立ちのその子に、慎重に、頷いた。
「…よろしくの。」
維月は、その子を抱き上げた。
「愛らしいこと。名を与えましょうね。何が良いかしら…大陸の名前が良いわね。キリル。キリルにしましょう。あなたのことは、これよりキリルと呼びます。」
キリルは、維月に抱き付きながら、微笑んで頷いた。
「キリル…はい。我の名ですね。」
キリルの髪は、闇の例に漏れず黒っぽいが、少し紫色掛かっている。
目は、真っ赤だった。
多香子は、言った。
「…それは良いが、ルキアンは?どうしていきなり膜が開いたのだ?気が補充されて良かったが。」
維月は、そうだった、と慌ててルキアンの方を見た。
霧はもう、落ち着いていて、ルキアンがこちらを見ているのが分かる。
維月は、いったい今のはなんだったのだろう、と思いながらも、腕に抱いているキリルを見せた。
「闇よ。でも、あなたが思うておるような、悪い存在ではありませぬ。生まれたばかりの、生まれながらに良い性質を持った闇よ。きっと、私たちを助けてくれる。安心して。」
だが、ルキアンは苦々しい顔でキリルを見る。
…神なのだから、仕方がないのかもしれない。
維月は、息をついたが、そのままルキアンには背を向けて、キリルに言った。
「キリル、闇はね、神や人に悪いことをする闇も居たことから、嫌がる者も居るの。でも、あなたは違うわ。それを、わかってもらえるように生きて参るのよ。さあ、では回りに影響が出ないようにする術を教えましょうね。私が言うように、力を抑えて。」
今は、維月が強制的に抑えている闇の力を、自分の意思で抑える術を教えねばならない。
それから、維月は多香子が見守る中、キリルに基本的なことを教えて行ったのだった。
天井の穴は、いつの間にかまた閉じていた。
漸は、匂いを追って町中にずんずんと入って行く。
人には、神の姿は見せなければ見えないので、誰も漸には気付いていないが、無意識に場所を開けて行くのが見えた。
その漸を追って飛んでいると、漸は一つの粗末な家の前に到着した。
《…ここ。あちこち行きおったから、振り回されたがここが一番匂いが強い。そして、ここで匂いが途切れておる。》と、回りを嗅ぎ回る。《…だが、相変わらず同じ人の匂いと共ぞ。つまりは、その人の家に居候でもしておるのかの。中には、誰の気配もないようだが。》
すると、いきなり空から声が割り込んだ。
《おい、その家知ってるぞ!》え、と皆が空を見上げると、声は続けた。《あの、やたら気が大きな人、ええっと、ニコールだ!ニコールの家!》
志心が、眉を寄せた。
「やたら気が大きな人?なんだそれは。」
維心が、言った。
「十六夜、ということはそこにルキアンは居なかったのか?ニコールとルキアンの匂いが混じっているようぞ。漸は二人の匂いを追ってここへ来たのだ。」
だが、十六夜の声は答えた。
《全く。神の気なんざしなかったぞ。どういうことだ?ルキアンの匂いが、ニコールの家に続いてるって?》
維心が、考え込む顔をした。
「…失踪事件の後で、十六夜が地上を探っておってルシウスも見つけていたようだったが、やたらと気が大きな人だと言ってしばらく警戒しておったのだ。それが、ニコールというここに住む人であったらしい。ということは、失踪事件とは関係ないと言うておったが、何かしらの関わりがあったのやも知れぬな。」
志心が、顔をしかめた。
「…まさか、神憑きか?」
十六夜の声が、言った。
《なんだよ、神憑きって。》
維心が説明した。
「神憑きとは、神が人や岩などに入ることぞ。とはいえ、地上に依り代がなく、それでも何かを物理的にせねばならぬ時にやることであって、気を自在に操れるのにわざわざそれを行う神は今居らぬ。穢れておらぬ人など少ないし、そんな中に入ったら苦しいからの。我など気が大き過ぎるゆえ、やればまず岩なら砕け、人なら死ぬ。やったと聞いたことは、ここのところない。」と、志心を見た。「それでもやったと言うのなら、やはりルキアンはわざと逃げて参ったということか?そして、気を抑えてニコールの中に潜んでいたと。しかし、そのニコールという人は持つのか。長くは持つまいが。」
志心は、息をついた。
「分からぬ。だが、それなら匂いの件の説明がつく。やはりルキアンは、他の4人を殺したか。」
深刻な顔をしている二人を後目に、漸が言った。
《…まあ、それぐらいやっておってもおかしくはないやもな。》二人が漸をみると、漸は続けた。《匂いぞ。あの、神の戦場という場所で感じた嫌な匂いが、ここへ来てもまだ続いておるのよ。人に憑いておるとして、己は霧に憑かれておったとかではないのか。その三つが人の中に居て、回りに影響がなかったのかの。》
それには、十六夜が暗い声で答えた。
《…母親が干からびて死んだ。通ってた店の店主も。まさか、そのせいなのか。》
漸は、頷いた。
《ならば、我にはそう思えてならぬがの。奴の怒りの矛先になったりしたら、内に霧憑きの神を持っておるのだし、無意識にそうなる可能性はある。》
維心は、言った。
「ここから匂いは?追えぬのか。」
漸は、ため息をついた。
《…ほんの微かだが、匂いが続いておる方向がある。とはいえ、風で流れておってな。何しろ、維月達の匂いを追っておった時と、変わらぬレベルの量なのだ。行ける所まで行ってみるか?しかし、相手は神憑きだとしたら、こっちが見えるぞ。》
維心は、言った。
「匂いが減っておるのなら、ここで膜に囚われた可能性が高い。つまり、相手は自由が利かぬのではないか。逃げようにもにげられぬから、それ以上被害が出ておらぬのやもしれぬ。己で入ったのならこの限りではないが…とにかく、追ってみようぞ。」
漸は頷いて、先ほどよりも険しい顔で匂いを嗅いだ。
《…こちらぞ。》
そうして、維心と志心はまた漸を追って、町を出て荒野へと向かって行ったのだった。




