匂い
その頃、維心は犬神の宮にいきなり押し掛けて、空が白々とし始めた中で漸を叩き起こして事の次第を話した。
漸は、膝をついて控えている貫を隣りに最初面倒そうに聞いていたが、維月と多香子の居場所がようとして知れないと聞いて、目の色を変えた。
「また面倒な術を。ならば、月にも地にも何も見えぬのか。」
維心は、何度も頷いた。
「その通りよ!主は犬神の王であろうが。まだ嫁ぐ前なのだから、己の眷属は責任を持て。多香子の匂いを追えるか?」
漸は、すぐに頷いた。
「追える。あれは長く我の臣下として仕えておったし、同じ血族なので匂いは嫌になるほどハッキリ覚えておるわ。」
維心は、もう立ち上がって漸をせっついた。
「ならば、共に参れ!志心が追ってくれておるが、主には劣るゆえ主を連れて来いともうしておるのだ!匂いが消えたらどうするのよ!」
漸は、つられて立ち上がりながら、言った。
「何と申した?志心が?あれが匂いを追っておると言うのか。」
維心は、ぐいぐいと漸を引っ張りながら頷いた。
「そうよ!急がぬか!」
漸は、それには構わず考える顔になった。
「…まだ娶ってもおらぬ女のために、あれが匂いをと…。」
維心は、焦れて呑気な漸を掴んで、居間の窓から飛び立った。
漸は、それに引っ張られて空へと舞い上がった。
「あ、こら!待て、臣下に言うてから行かねば!」と、呆然と見上げている、貫に叫んだ。「聞いておったな?!我は北西へ行く!皆にわけを話してから、主も後から参れ!」
そうして、維心と漸はそのまま、北西へと飛んで行ったのだった。
義心は、維心に命じられた通りにベンガルの城に居た。
時差があるのでこちらはまた夜中だったが、緊急の用だと言ってイゴールと対面することになった。
イゴールは、むっつりと義心の前に出て来て、言った。
「…維心殿の遣いだと申すから仕方なく出て参ったが、もう寝ておったのだぞ。維心殿には抗議の文を送る。それで、何ぞ?」
義心は、答えた。
「は。取り急ぎまず、匡儀様の宮を訪問しておりました、我が王の妃であられる維月様と、志心様に嫁ぐご予定の多香子様が、その庭より忽然とお姿を消されましたことをお知らせ致します。」
イゴールは、眉を寄せた。
「妃が消えた?して、それが我に何の緊急の用だと?」
イゴールは、まだ機嫌が悪い。
義心は、続けた。
「…維月様の行方は、ようとして知れず。月から分断されていて、十六夜にも見つけることができておりませぬ。まるで、ベンガルの膜に囚われておるかのように。」
それを聞いたイゴールは、やっとその意味を理解して目の色を変えた。
「…まさかそれが、我の仕業だと?!」
義心は、黙っている。
隣りに控える、ゲラシムやアンドレイも困惑した顔をしていた。
イゴールは、義心を睨んで言った。
「我は何も知らぬ!そも、寝ておったと申したではないか!そのような冤罪をかけるなど、無礼であるぞ!」
そんな様子を黙って見ている義心に、ゲラシムが言った。
「誠に王はこちらにいらして。確かにアンドレイ達軍神は、ルキアンの捜索に出ておりましたが、王はこちらで気を探って探しておりましただけ。匡儀様の結界には、近付くこともありませぬ。」
知っている。
義心は、思って聞いていた。
そして、頷いた。
「…何もイゴール様がその犯人だと、王は思うておられませぬ。ただ、ベンガルの若者が消え、同じようにこちらでも妃が二人消えた。その行方は、月どころか地や闇でさえ、見えず気取れずで、大騒ぎになっておりまする。もしや同じ犯人が、そのベンガルのルキアンと、こちらの妃二人を拐ったのではないかと、こちらでは見ておりまする。イゴール様もご存知の通り、こちらの王族が継ぐ能力であるあの術と、同じような効力を持つ仙術が、世にあるのです。その仙術は、王族でなくともベンガルならば放つことができる厄介なもの。この度は、十六夜や地の碧黎も目視できぬほど、面倒な術である可能性がございます。闇のルシウスも、己の主人である陰の月が分断される事態に血眼になって探しておるようですが、未だに見付かったと報告はございませぬ。その、拐われたルキアンは、もしやその術を操る誰かに囚われ、利用されておるのやも知れませぬ。」
ゲラシムとアンドレイは、まだ困惑した顔でイゴールを見上げた。
イゴールも、落ち着いた様子に戻って考え込む顔をした。
「…もしや、あの五人は利用されるために拐われ、ルキアンだけが生き残り、利用されておるのだと?何故にルキアンだけ…」そこで、ハッとした顔をした。「…ルキアンだからか。あれさえ居ったら他は用無しであったのか。」
その意味を悟ったゲラシムとアンドレイが、顔色を失くす。
義心は、眉を寄せた。
「どういうことでありましょうか。」
イゴールは、苦々しい顔をした。
「…ルキアンは、我の曾々祖母の降嫁した先の血筋の末。つまり、かなり薄いが王族の末ぞ。他とはそこが違うのだ。相手がベンガルの力を利用しようと思うなら、一番利用価値がある。」
義心は、ならばやはり、これは尚更偶然だとは思えぬ、と思った。
「…ならば、そのルキアンを探し出すことで二人の妃も見つかる可能性がありまする。とはいえ、今も申しました通り、月にも地にも、闇にも見えぬ厄介なもの。ルキアンのことも、我らとて探しておらなんだわけではありませぬ。闇の仕業なのかと、勘繰る輩が出て参るのを、面倒に思うてルシウスも探していた次第。イゴール様には、何かお心当たりはありませぬか。」
イゴールは、それを聞いてイライラと言った。
「あったら今頃ルキアンを探し出しておるわ。ここで気を探って日がな一日座っておったが、全く気取れぬのだ。外へ出て元不干渉地域へ行っても同じこと。何も見えぬし気取れぬ。最近では、軍神達も地下まで探しに降りておるが、霧が充満しておって深くには潜れぬしな。ルシウスに抗議したが、あれを地上へ追い出したら逆に地上が大変なことになるが良いのかと言われてそれ以上は探せておらぬのよ。主らの方で、やり方を考えよ。我らが探しておらぬのは、地下だけぞ。」
義心は、息をついた。
「はい。とはいえ、仮に地上に居てもこちらが認識できておらぬだけやも知れませぬ。なので、犬神の王にお頼みして、匂いを追ってみようかということになっておりまする。こちらには、ルキアンの匂いがついた何かはありますでしょうか。それを持ち帰り、漸様に匂いを追って頂くことも可能なのです。」
イゴールは、頷いた。
「ルキアンの親に申して何か持って来させよう。匂いを追ってもらえるのなら、もしや簡単に居場所が分かるのか。」
義心は、首を振った。
「分かりませぬ。というのも、恐らく匂いすら、遮断されておる可能性があるのです。我も、僅かながら匂いを追うことができるのですが、微かに感じる程度ですぐに消え…気のせいではないかと思うておりまして。ただ、何もせぬよりマシであるかと。」
イゴールは、息をついた。
「その通りよ。では、すぐに準備させよう。そこで待て。」と、ゲラシムを見た。「ルキアンの匂いの分かる物をこれへ。とにかく、これだけ手掛かりがないのだ。匂いにすらすがろうと思うもの。まだ生きておるのなら、あれを助け出してそんなことに利用されておるのを阻止せねばならぬ。」
ゲラシムは頷いて頭を下げ、そこを下がって行った。
義心は、これは気休めにしかならぬのではないのか、と、眉を寄せていたのだった。




