交流
維月は、せっせと縫物に勤しみ毎日を過ごしていた。
明日は、綾がやって来て一緒に香合わせをする日だ。
それまでには、ある程度の事を終えておきたかった。
闇達の着物は、十六夜に託して闇の城へと持って行ってもらい、十六夜の着物を縫い終えて、維月の着物の仮縫いをやっと進めることができた。
維月が凝るはずのない肩を動かしてホッとして茶を飲んでいると、そこへ杏奈が入って来た。
「維月様。励んでおられるのですね。」
維月は、振り返った。
「まあ。杏奈様。」と、維月は笑って迎え入れた。「どうぞ、お入りになって。あらあら、杏子様もいらしたの?」
維月からしたら、記憶が全くないのだが、蒼の妃とその子なので、嫁と孫という感覚になる。
蒼が結婚して子供が居ると聞いた時にはそれは喜んだものだが、蒼曰く、もうもっと昔に迎えた妃達は、皆亡くなってしまったのだという。
言われてみたら記憶が浮き上がって来て、確かにそうか、と維月は思う。
つまり、杏奈は最近に迎えた妻なのだ。
杏子は、神世ではまだ幼い20歳だ。
人で言うと、幼稚園児ぐらいの大きさだった。
息子も居るらしいが、その息子はコンドル城の方へ修行に出ているらしく、ここにはいなかった。
杏奈がコンドルなので、コンドル、つまりは鷹しか生まないので、その息子の納弥は、将来的に、ここを出てどちらかの宮へと移籍するしかないからだそうだ。
杏子は、維月を見て嬉しそうに寄って来て、その膝に取り付いた。
「維月様、あのね、お着物ありがとうございます。お母様が、お礼をお持ちしましょうと仰ったので、来ました。」
維月は、杏子の頭を撫でた。
「まあ、ありがとう。何を持って来てくださったのかしら?」
杏子は、嬉しそうに杏奈を振り返った。
杏奈は、笑ってついて来ていた侍女を振り返った。
「…こちらを。我が嫁いで参った時に、維月様がお教えくださったものですのよ。覚えておられないとは思いますが…台番所で作って参りました。」
侍女が厨子を開くと、そこには綺麗にイチゴタルトが並んで鎮座していた。
「まあ!」維月は、懐かしくて手を叩いた。「嬉しいわ!私が人の頃に、よく蒼や子達に作ってあげたものなのよ。そう…前の私は、これを杏奈様にお教えしておったのね。」
杏奈は、頷いた。
「はい。こちらへ来てから、いろいろお教えくださいましたわ。杏子と我の着物を仕立ててくださったので、その御礼にと。共に戴きませんか?」
維月は、頷いた。
「もちろんですわ。楽しみですこと。」と、二人に椅子を進めた。「お座りになって。今、ちょうどひと段落したところでしたのよ。後は、私の着物だけなので。お正月が近くなると、忙しくなりますわ。」
杏奈は、仮縫いを終えた着物を見て、言った。
「維月様は何でもおできになられるのですね。我など、着物を縫うのはあまり。あちらの洋服でも、上手くは縫えなくて職人頼みでしたから。」
維月は、首を振った。
「蒼に聞くと、そもそも王妃様はこのようなことはなさらぬものなのでしょう。よろしいのよ、もし必要ならお教えしようと思いましたけれど、蒼がそのように申すのですから。私は王妃ではありませぬから。」
杏奈は、それを聞いて複雑な顔をしたが、微笑んだ。
「はい、維月様。」
本当は、お母様とお呼びしようか迷った。
だが、蒼は名の方が良いと言う。
蒼の母であった維月は、一度黄泉に行ってしまって、この維月は新たに生まれた月の維月だからだった。
正直に言うと、杏奈は月の宮に戻ってからの維月は苦手だった。
話せば普通に愛想良く話してはくれたが、何やら距離を感じる強い月の気がして、それがまたどこか畏怖の念を起こさせる陰の闇よりの気。
それに、恐怖を感じてしまっていたからだ。
だが、今の維月は、穏やかに微笑んで杏子にイチゴタルトの切り分け方などを教えている。
気も、ゆるゆると穏やかで安心する心地がする。
杏奈は、維月が元に戻って欲しいのか、もう、分からなくなって来ていた。
次の日、綾がやって来た。
維月からすると、綾は友なのだが詳しい経緯は全く覚えていない。
綾は、自然に思い出さねばご負担が大きいのでと、回りに止められているからと話してはくれない。
だが、綾を最初に見た時の嬉しい気持ちは本物で、すぐに綾の名が口から出たのも確か。
綾が居ると、とても楽しかった。
どうして知っているのかも覚えていない香合わせを、二人は畳の間で向かい合って進めていた。
それにしても綾は美しい。
維月は、ふと手を止めて綾を眺めていた。
綾が、それに気付いて顔を上げた。
「まあ維月様?いかがなさいましたか。」
維月は、ハッとして言った。
「…申し訳ありませぬわ。つい、綾様に見とれてしまいました。なんとお美しいのかと、いつも和む心地です。紫のお着物が、大変にお似合いでいらして。」
綾は、苦笑した。
「…これは、維月様が仕立ててくださいました着物。」維月が驚くと、綾は続けた。「本日戴きました着物と同じように、お手ずから誂えてくださったのですわ。この布は、龍の宮でしか作られない万華という布でありますの。」
維月は、頷いた。
「そうでありましたか。覚えておらずで申し訳ないわ。万華は、確かに蒼が龍の宮から戴いたと、我にも多くくれました。十六夜と、我の着物を縫うためにくれたので、それに使うようにと申して。そんな貴重な布なのですね。」
綾は、何も覚えておられない、と寂しげに頷いた。
「はい。お正月には我もこちらにお邪魔致しますし、またお話致しましょう。他の妃の方々も、維月様にお会いするのを楽しみにしておられますわ。他の方々のことは、覚えておられますか?」
維月は、寂しげに首を振った。
「いいえ。お顔を見たら、もしかしたら思い出すやも知れませぬ。誠に…皆様には、失礼なことでありますわ。」
気落ちしている感じの維月に、綾は慌てて言った。
「よろしいのです、維月様は我らのために闇と戦って記憶を失くされたのですから。それでも、我の名を覚えていてくださったではありませぬか。我は…それだけでとても嬉しくて。」
綾が涙ぐむと、維月は慌てて言った。
「まあ綾様、とても親しい友であったのだと記憶しておりますの。詳しいことは思い出せませぬが、綾様のお顔を忘れるはずはありませぬ。どうか、これからもお見捨てにならずに友で居てくださいませ。」
綾は、手にしていた道具を放り出して急いで維月の手を握った。
「そのような。見捨てるなどあるはずもありませぬのに。我らは友。ずっと変わりませぬわ。」
維月は、感謝しながら頷いた。
「ええ、綾様。」
綾は本当に美しい。
こんなに美しい女神が親友だったなんてと、人の維月が己の幸運に心の中で身悶えしているのを感じる。
だが、別の維月が綾は美しいからこそ、とても苦労したのだとどこかで言っている気がする…。
維月は、湿っぽくなってはいけない、と話題を変えた。
「…それより、香ですわね。どうですか、良い香りができそうですか?」
綾は、維月から手を離して自分の香を見下ろした。
「…どうですかしら。今年はまた、仁弥様の香木を使ってみようかと励んでおるのですけれど、どうにも合わせる他の材料が合わぬようで。維月様はいかが?」
維月は、自分の香を見下ろした。
仁弥は、確かに新しい香木をいつも提供してくれるのだと最近の記憶でも知っている。
前の自分もそれを当然と知っているようだが、いまいちこれに合わせる材料の決め手に欠けるのだ。
「…そうですわね。確かに、何かが足りぬ心地にさせられますの。そうですわ、確か龍の宮の奥に、梅の…、」
そこまで言ってから、維月はハッとした。
龍の宮の奥に…?
どうして自分はそれを知っているのだろう。
維月は、己が言ったことに困惑して黙り込むと、綾は気遣って言った。
「まあ、梅でありますか?ならば、我も焔様にお問い合わせして宮の秘伝の梅を分けて戴こうかしら。」
維月は、まだ困惑しながら頷いた。
「はい。梅なら合いそうでありますわ。上手く熟しておればですけれど。」
綾は、頷く。
「はい。早速帰って急いで御文を書きますわ。」
維月は、頷いた。
だが、考えていた。
自分は、どうしてこんなに香のことを知っているのだろうか。
誰かが教えてくれたのだ。
何も知らない維月に、一から丁寧に手ずから教えてくれた、その誰かが思い出せない。
龍の宮に行儀見習いに行っていたから…?
維月は、思いながらも口には出さずに、そこからは綾と茶を飲みながら歓談したのだった。




