お姫様のお忍び訪問ですか?
翌朝。俺は世界を呪いながら目を覚ました。
頭が痛い。背中が痛い。節々が痛い。
寝ても疲れが取れないのは、もう若くない証拠だ。
加えて酒の残滓が胃の底にどっぷり沈んでいる。これが幸せの代償というやつか。
うめきながら上半身を起こすと、寝巻きの皺が見苦しいほど深く刻まれていた。
まあ、昨日の飲みっぷりを思えば当然かな。三連休を初日で潰した独身男の現実なんてこんなもんだ。
水を飲んで、顔を洗って、ようやく人間に戻りかけた時。
玄関の方から遠慮がちなノックの音がした。
「……誰だ?」
重い足取りで扉を開ける。
外に立っていたのは黒いローブ姿の小柄な女性だった。
一瞬、寝惚けてそういうお店に連絡したっけか、と本気で記憶を漁った。
しかし、すっとローブの中に除かせたその御方の姿を見定めて俺は二日酔いも倦怠感も吹き飛ぶほどに驚いた。
「り、リーヴェ、様?」
一応は教習所の外なので様をつけて呼んだ。
彼女は小さく頷き、周囲を見回す。
人目を避けているのか、帽子を深くかぶっている。それでも、隠しきれない気品と姿勢の良さがにじみ出ていた。
「入ってもよろしいでしょうか?」
「あ、え、と。メサク殿は?」
「おりません。お忍びと言うやつです。私一人でここまで来ました」
「はえ!?」
「どうしてもお話ししたいことがあるのです」
「と、とにかくどうぞ…あ、いえ。五分…いや三分ほど時間をください」
未だかつてここまで焦ったことが他にあるだろうか。そもそも家にアポなしでお姫様がくること自体が初めてなのだから仕方ない。
男の独り暮らしだからな。一国の姫…というか十代の女の子には決して見せられないものの一つや二つある。
俺は慌てて部屋を片付ける。片付けるというよりもダイニングにあった様々な物をリビングにぶち込んで扉を固く閉ざしただけだけど。
どうにか人を招ける程度まで小綺麗にすると、ようやく玄関を開けられた。
「ど、どうぞ。お待たせしました」
「お邪魔いたします」
両親と死別して五年。それ以降は人が訪ねてくることなんて、ただの一度もなかった。
何が言いたいのかと言えば、この家には来客をもてなす支度が何一つとしてない。
恐らくだが、姫様に向かってただの水道水を出した不届き者は俺が最初で最後になるだろう。
リーヴェは何一つ文句を言うことなく、上品な手つきで水を一口飲んだ。
「ど、どういったご用件で? それもお忍びだなんて」
聞きたいことはいくつかあったが、これが第一だろう。
俺がそう尋ねるとリーヴェはフードを外し、顔がよく見えるように姿勢を正した。
彼女の瞳にはいつも通りの落ち着きがあったが、その奥に確かな熱量が込められている。
「ふと…昔を思い出しました」
「え?」
「先生に助けられた時の事です。あれから成長して様々な経験をしましたが、私の中でアレを越えるモノはありません」
「当たり前です。そう何度も賊に襲われては…」
「まだ夢見がちな少女でしたから。一週間もご一緒するうちに、このままレギオン先生と新天地に行き、二人で生きていくのでは…と思ったことも懐かしいですし、今でも寝入る前に空想したりもします」
「ん?」
何だ、話が見えない。その上、リーヴェの放つオーラに冷気のような凍てつく何かを感じた。
しかしそれも束の間、がらりと話題を変えられた。
「いえ…前置きにもならない話は終わりにしましょう。単刀直入に申します」
その刹那、リーヴェの雰囲気が変わった。少女の仮面が引っ込み、完全に王女としての顔つきに変わったのだ。
俺は反射的に背筋を伸ばした。
「レギオン・ランドロス」
「…はっ」
「騎士団に戻るつもりはありませんか?」
「っ」
「初めての教習で不慮の事故から庇って頂いた時から声をかけるつもりはありましたが、昨日の働きぶりを見て確信しました。あなたの技量は…失礼ながら魔導者学校に置いておくにはあまりに惜しい」
「それは、ありがたいお言葉ですが…ご存じでしょう。私は騎士団を一度追放された身ですので」
「あの事件については王国の処遇が不当でした。私が調べた限りでは杜撰や横暴と言った言葉では済まないほど。今さらではありますが、この場を借りて正式に謝罪をいたします」
そう言ってリーヴェはその場に立ち上がり、深々と頭を下げた。
俺も慌てて立ち上がってはソレを止める。
「お止めください。リーヴェ様に非のある話ではありません。それに…そんなことをされては立つ瀬がございません」
どうにかこうにかこの場を納め、俺たちは再び座った。
沈黙と静寂が気まずい。しかし俺がどうこうできる話でもない。
自分の部屋だって言うのに緊張で落ち着かない。姫の放つオーラって言うのはスゴいな。教習の時間のリーヴェからは想像もできない。
するとありがたいことにリーヴェの方から再び話をし始めてくれた。
「昨日、モマ先輩に話しているのを聞いていました」
「…ああ。久々に舞い上がってしまったという事でしょうか?」
「ええ。私には言葉の端々に他者を慮ってるのが見てとれました。そもそもあの事件に巻き込まれたのも、モマ先輩の身を案じての事。ソレを私なりに解釈してみました」
「解釈、ですか?」
「はい。あなたは剣を振ることも戦うことも好きなのでしょう。かといって自己顕示欲が強いとは思えない。ともすれば…誰かのために剣を振ることを目指してると私は強く感じました。端的に言えば「守る」事があなたが戦う理由になっている」
「…」
「それは騎士道の根幹を成す価値観であると私は考えています。同時に騎士以上に何かを守る戦いを求められる者はおりません」
その声には凛とした響きと、かすかな情が混じっていた。
彼女は息を整え、言葉を絞り出すように続ける。
「私はあなたに戦う理由と守る理由…つまりは剣を振る最大の理由を与えられると自負しております。私の本気の思いを伝えるためにも、こうして一人でやって参りました」
一国の姫がそこまで決意を持って俺を求め、剣の腕前を買ってくれている。一剣士としてこんなに嬉しいことはない。だというのに、この期に及んで俺は二の足を踏んでいる。靴底が床に縫いつけられたみたいに重い。
剣なら簡単に抜けるのに、今の場所から一歩踏み出す事が怖い。それが慎重さなのか。臆病さなのかは分からない。
「あなたが守るべきは、国であり、民であり、そして…もしも許されるのなら私であってほしいのです」
窓から入った風が通り抜け、俺たちの髪をわずかに揺らす。それと同じくらいに心が、揺れる。喉の奥で、言葉が固まった。
沈黙がひとつ、呼吸と同じ長さで流れたのち、俺はようやく声を出した。




