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少し離れたところに男が立っている。あたりではツクツクと蝉の声が響いているが、それ以外の音はしない。
「噂なんて当てにならないと思ってたけど、まさか本当だったなんてなぁ」
声の様子から、アルバートは自分より若い男に違いないと思った。同時に「背はわたしと同じくらいか」と目算する。
「高圓寺」
不意に東雲の声が聞こえた。視線を移せば、まだ若干虚ろな眼差しで東雲が男を見ている。唇にほんの少しついていた血を舌先がぺろりと舐め取るのがやけに色っぽい。
「つれないなぁ。前みたいに一哉って呼んでよ」
男の言葉に答える声はない。
「知り合いか?」
「……少し」
問いかけに東雲がそう答えると、男が「少しだなんて、ほんとつれない」と小さく笑った。
「一年前までは仲良く一緒に暮らしていたじゃないか。それなのに『少し』だなんて、それこそ少しひどくないかなぁ」
男の言葉にアルバートの片眉がひょいと上がった。天野も若彦も東雲は人嫌いだと話していたが、男の言葉が本当なら人間嫌いではなかったということになる。どういうことだと男に顔を向けたまま横目で東雲を見た。虚ろげにとろんとしていた黒目は無機質に戻り、何の感情もなく男を見ている。
「っていうかいま、その異国人の血、飲んでたでしょ」
男の言葉にアルバートは内心驚いた。「この男も東雲さんが鬼だと知っているのか」と思うと、警戒心だけでなくモヤモヤとしたものが胸に広がっていく。
「生は飲まないって言ってたのに、あれって嘘だったんだ」
「……」
「生でも飲むんなら、ぜひ俺の血を飲んでほしかったなぁ」
「……」
「そうしたらもっと気持ちがいいことできたかもしれないのに。それこそ交合だって」
「高圓寺」
いつもよりも鋭い東雲の声が響いた。東雲がそうした声を出すということは、いまの会話に何か問題があったに違いない。
(もしかしてコウゴウという言葉か?)
アルバートには「コウゴウ」という響きから「交合」の漢字を思い浮かべることができなかった。官能小説で目にしていても音として聞き慣れない言葉はすぐに結びつかない。それでもよくないものなのだろうということは想像できた。
「だから高圓寺なんてよそよそしい呼び方しないでよ、多希さん」
(たき……?)
初めて聞く言葉だったが、すぐに東雲の名前に違いないとわかった。トムのリストには“東雲”としか書かれていなかったが、この国にも家名と個人を示す名があることは知っている。
(名前で呼ぶということは、それだけ親しい間柄ということか)
なんともいえない感情がじわりと広がっていく。「名前くらい親兄弟でも呼ぶだろう」と思ったものの、高圓寺と呼ばれた男がそういう関係でないことはアルバートにもわかっていた。まるでお気に入りのおもちゃを取り上げられたような気分になり、そう感じている自分に顔をしかめる。
「っていうかさ、いつまでそんな異国人の手、掴んでるの?」
指摘された東雲がアルバートの手をそっと離した。見れば噛みつかれていた場所にはわずかな引っ掻き傷と何か細いもので刺したような痕だけが残っている。
(これが東雲さんの噛み痕か)
それを見ただけでアルバートの中に燻っていた嫌な気持ちがすぅっと消えていった。先ほどの会話から、高圓寺が血を啜られていないことはわかった。つまり東雲が啜るのは自分の血だけということだ。そう思うだけでほのかな優越感がわき上がる。
「なんでその異国人は笑ってるのかな? もしかして自分のほうが多希さんに求められてるとでも思ってるとか? いやいや、そんな勘違いされたら困るなぁ。だってあんた異国人だろ? 毛唐人ごときが、多希さんみたいな綺麗で強い鬼に好かれるはずがない」
にこやかだった高圓寺の黒目がアルバートをギロッと睨みつけた。そうして短い黒髪を揺らしながら近づいて来る。
(毛唐人とはまた古い侮蔑の言葉だな)
日本が国を開いた当時、異国人はすべてそう呼ばれていたと聞いている。しかし大勢の異国人が行き来するようになるとそうした蔑称は消え、代わりに遠い西の地域からやって来る異国人は「妖術使い」と呼ばれるようになった。
(妖術使いもどうかと思うが、なるほど毛唐人か。つまりこの男は異国人をひどく嫌っているということだ)
睨みつけるように近づいて来る高圓寺の足がわずかに逸れた。そのまま建物の脇に生えていた赤い花に近づくと、そっと手を伸ばす。その手にはこの国の人間には珍しい漆黒の手袋が着けられており、その黒い手が葉のない真っ赤な花の茎をポキンと手折った。
「多希さんには、やっぱり黒目黒髪の日本男児がぴったりだと思うんだよね。もちろん、ただの男じゃ駄目だ。多希さんを丸ごと愛せるくらいの男じゃなきゃあね。それに血も飲ませてあげないといけない。そのための健康管理も大事だ」
真っ赤な花は変わった形をしていて、細い管のような花びらが放射状に広がっている。その花を見ながらニィッと笑った高圓寺がザッザと足音を立てながらアルバートに近づいた。
「でもね、一番大事なのは多希さんを鬼から人にしてあげることだ」
そう言った高圓寺の黒い手がバッと振りかぶった。何をするのかとアルバートが見上げていると視界に東雲が入り込む。男が赤い花を振り下ろすのと東雲が庇うように手を伸ばすのはほぼ同時だった。
バチンと音がした。見ると花ではなく切り取った茎のほうが東雲の手に当たってる。
「まったく、相変わらずですね」
東雲の手には白い液体がついていた。高圓寺が持つ花の切り口にもついているから、赤い花のエキスか何かだろう。
「多希さん」
「彼岸花でもっとも毒性が強いのは鱗茎ですが、ほかの部分にも毒は含まれています。例えば花の汁が目に入っても何かしら影響が出るかもしれません」
「さぁて、どうだろう? 毛唐人は俺たちとは違うから平気かもしれないよ?」
高圓寺の言葉にアルバートが眉をひそめた。いまの言葉から赤い花が毒草らしいことはわかった。その毒が含まれているエキスを問答無用でぶつけようとしていたことに不快感が広がる。
「ねぇあんた、試しに根っこを食べてみる気はないかい?」
嫌な笑みを浮かべながら高圓寺がそんなことを口にした。
「遠慮させてもらう」
「なんだ、毛唐人のくせに恐がりなんだな」
「人種は関係ないと思うが?」
「俺は毛唐人を人だとは思ってない。彼岸花くらい食べても平気さ」
(ヒガンバナ……あぁ、彼岸の時期に咲くという花か)
祖母が「生まれ育った田舎の田んぼにたくさん咲いていた」と懐かしがっていた花だ。一度見てみたいと思っていたが、喜べない方法で知ることになってしまった。
「遠慮する」
アルバートの返事に「それが正解ですね」と東雲が言葉を続けた。
「もし食べれば、間違いなく彼岸に連れて行かれることになりますよ」




