エンディング(下)
シリウスは新月の日に、身内だけの小さな夜会を開いた。
招待客は摂政評議会の執政官たちや、クレスケンティアの関係者など、私を含めてほんの十人ほどだった。
それでも、シリウスの天体観測室はたくさんの人でいっぱいになってしまった。
彼の解説は楽しくてあっという間に時間が経ち、ひとりいなくなり、ふたり抜け、次々に階下のラウンジに降りていき、やがてマイアとヴィルトゥスと私だけになってしまった。
「それじゃ、あたしらも退散しましょうかね」
「俺はここにいるから、お前だけ行ってきなさい」
「何言ってんだい馬鹿だね、あたしらがいつまでも邪魔してたら二人の親睦会にならないだろ!」
ヴィルトゥスはマイアに引きずられるようにして、下に降りていった。
「……手ごわい敵でした」
シリウスがぼそりと言うので、私は裏側でどんな駆け引きがあったのか、なんとなく察した。
おそらくシリウスは、私たちがふたりっきりになれるように、いろんな人に頼み込んで調整をしてくれたのだろう。
たとえ婚約者が相手でも、人目を憚らなければ親密に話をすることもできないなんて、王女は不便だ。
シリウスは手にしていた分厚い本を置いて、私の前に来た。
望遠鏡のそばのカウチに腰かけている私の、そのまた隣を指さす。
「少しおそばに寄りたいのですが、構いませんか?」
嫌なわけではない。でも、触れられるのは少し緊張する。
私は勇気を出して、ひざ掛けを広げてみた。隣にスペースを作って、言う。
「よかったら……あの、どうぞ」
大胆すぎるのではないかと密かに冷や汗をかいていた私に、シリウスはからかいもせず、神妙な顔つきで従ってくれた。
並んで座って、ひざ掛けを共有しているというだけで、早くも私はいっぱいいっぱいだった。以前この部屋で彼と話し込んだときには何も感じなかったのに、足の裏を絶えずくすぐられているような、落ち着かない気分にさせられるのはどうしてなのだろう。宵闇で相手に寄り添っていると視覚以外が鋭敏化するのか、甘いベルガモットの香りがした。
「……グラツィア様は、天文学の話にもまったく文句をおっしゃいませんよね」
シリウスがいつもの調子で言った。
私には名前で呼んでほしいと言うくせに、彼はいつまでも私を王女扱いする癖が抜けない。
「楽しく聞いていたもの、文句なんてあるわけないわ」
「そうでしたか? なるべく早く皆さんにご退場いただこうと思って、わざと分かりにくい話を選んだんですが……」
「シリウスが楽しそうだったから、気にならなかったわ」
シリウスはかすかに笑い声をもらした。星がまぶしいだけの静かな部屋で寄り添っているから、彼のひそひそとした話し声も、小さな抑揚の違いまですっかりよく聞き取れる。
「あまり人から歓迎される趣味ではありませんから、聞いていただけるのは大変に楽しくてありがたいのですが、やはり自分のことばかりではいけませんね。グラツィア様の星というのは、どのあたりにあるんですか? 捜してみましょう」
望遠鏡を指さした彼に、私は首を振ってみせた。
「ええと、空にある星ではなくて……」
私はスカートの内側に吊り下げた小物入れを手繰り寄せると、小さな黒い布袋を取り出した。
袋の中にあるものはベルベットの布で厳重に包んである。
包みをはがすと、透き通った鉱物の結晶が出てきた。
「重晶石、というの」
重晶石を手で隠して、影を濃くすると、ぼんやりと水色に光った。
暗闇で蛍光する性質を持った石なのだ。
「これが、私の青い星。すごく燐光が弱いでしょう? 日光に当てると色あせてしまうらしくて、今ではほとんど光らなくなってしまったの」
ほとんど透明にしか見えない石を、私は彼に手渡した。
「なるほど。月のない夜にだけ見られるというのは、そういう意味だったんですか」
「本物の星ではなくて、がっかりなさった?」
「いえ、ほっとしました。私も知らないような星があるのかと思っていたので。マニアは知らないことがあるのが嫌いなんですよ」
おどけて言う彼に、お愛想で少し笑った。
彼はしばらくためつすがめつ重晶石を眺めていたが、やがてぽつりと言った。
「……綺麗ですね」
「いいでしょう? わたくしの宝物なの」
「どちらで手に入れたんですか?」
「クレスケンティアの山で。実は、標本をつくるのが趣味なの。このあいだシリウスに取り返していただいた本、覚えていらっしゃる?」
「『クレスケンティア博物誌』でしたっけ」
「そう、その本に載っているものを集めるのが好きで。レムールに来てから中断しておりましたけれど、いつか、全部を採集するのが夢なのですわ」
「へえ、そうだったんですか。ずいぶんおかわいらしい夢をお持ちだったんですね」
「かわいい……かしら?」
「綺麗な小石をたくさん集めるのが夢だなんて、小さな女の子みたいでおかわいらしいと思いますが」
「まあ、ひどい。石ばっかり集めてるわけじゃないわ。野草の標本だっていっぱいあるんですからね」
「本に挟んで押しつぶすんですよね? 知っていますよ。年齢より大人びて見えるグラツィア様のご趣味だと思うと、より一層愛おしく感じますね」
シリウスはからかいの一環なのか、小さな子にするように、私の頭をよしよしと撫でた。
意地悪な人だと思うけれど、不思議と嫌ではなかった。
「そういうことなら、人をやって集めてこさせましょうか? ひと月ほどもあれば、全部揃うと思いますが」
「だめ! それだとつまらないわ。自分の足で現地にいって、自分の手で取ってくるのが面白いんですのよ」
「そういうものですか」
私は、重晶石が採れた山の地質がどんな風だったか、透明な結晶がどんなにたくさん埋まっていたか、土地に硫黄が含まれているので黄色い石が多くて、青いものは特別に珍しいのだとかいったような話をした。
シリウスはときどき茶化したりしながらも、ちゃんと聞いてくれた。
「じゃあ、新婚旅行はクレスケンティア巡りにしましょうか。グラツィア様のためなら、どこでもお供しますよ」
彼と一緒に出かける未来に思いをはせて、ちょっとだけ照れながらうなずくと、シリウスは私の腰に手を回して、頬にキスをした。ほんの少しやわらかい感触が触れて、すぐに離れる。
遠慮がちな触れ方だと思っていると、シリウスが耐えきれなくなったように、うめき声をあげた。
「……ご無礼を、お許しください。グラツィア様があまりにも可愛らしかったので、つい」
「無礼だなんて」
少し恥ずかしいけれど、夫婦になるのだから、このくらいは当たり前。
自分自身にそう言い聞かせて、シリウスの肩に頭を乗せ、もたれかかる。人肌のぬくもりが気持ちよかった。
「全然、嫌じゃないわ」
シリウスの、私を抱き寄せる腕に力がこもる。
「あまり甘やかさないでいただけませんか。私は自制心がある方だと思っていますが、グラツィア様からお許しが出てしまうと、どうにも……」
強い抱擁が彼の動揺を表しているようで、私は彼から見えないところでつい、ほほえんでしまった。
でも、余裕を持っていられたのはそこまでだった。頭のてっぺんにキスをされて、こめかみ、耳と唇が移動していったところで、そんなものはどこかに吹き飛んでしまった。
「かわいい」
からかいまじりのささやき声がすぐ耳元でして、心臓が跳ね上がる。
「お嫌でしたら、止めてください。自分ではやめられそうにないので」
ずるい言い方だと思った。
キスをされるのも、触れられるのも、嫌なわけではないのに。
彼が熱っぽくキスをしてくるので、私はしばらく黙ってされるがままになっていた。
触れるだけじゃない、恋人のようなキスを受けたのは、これが初めてだ。それはもう緊張したし、どうしたらいいのか分からなくてうろたえてもいたのだけれど、先に音をあげたのはなぜかシリウスの方だった。
「……困りました。本当にお可愛らしい」
彼は長い口づけを終えると、再び、痛いくらい私を抱きしめた。
そのまま、一向に離してくれない。
私は不自然な格好に胸が押しつぶされて苦しかったのだけれど、抱き寄せた彼の方が態勢に余裕があるにもかかわらず、はるかに苦しそうだった。
「お止めにならないのですか? このままだと、私は……」
たぶん彼は、気持ちが高ぶってしまっている。私が何か言ってあげるべきなのだろうけど、他人の持っている欲望のようなものを目の当たりにしたのは初めてで、私はつい好奇心が働いて、彼が今どんな気持ちなのか、もっと知りたいと思ってしまった。
「グラツィア様……」
焦れたような手つきで彼が私の髪を撫でる。ときどき、遠慮がちに肩へと手を置いては離す手つきに、苛立ちがにじみ出ていた。
私はもっと彼の変貌が見てみたくて、腕を回して、彼の身体にしがみついた。
「いけません。離れてください」
そんなことを言いながら、彼が手を離す気配はない。
「離れて……これ以上、私を増長させてはなりません」
本音では全然離れてほしいなんて思っていないだろうことは、強く抱きしめる腕の力で分かった。
矛盾した行動がおかしくて、私はまた、彼から見えないところで人知れず笑みを漏らしてしまった。
いたずらをしてみたいととっさに思ってしまったのは、いつも彼にからかわれているからだろう。
私は復讐心と、少しの期待を込めて、なるべくしおらしく言う。
「……わたくしは王女だもの。夫となる方のすることには逆らえないわ」
私が彼の胸に頭をこすりつけると、表情が見えないこともあってか、彼は大いに焦った様子を見せた。
「……それはもちろん、グラツィア様のお立場では、嫌だなんて言えるわけがないのは重々承知しておりますが……」
「嫌だなんて少しも思っていないわ。シリウスの好きなようにしてくださって構わないのよ?」
本当のことを言えば、少しだけ、私は彼に期待していた。
好きなようにしてくれていいというのは、本心だったからだ。
それでも、この場所ではシリウスは何もしないだろうという確信もあった。いつ誰が覗きに来るか分からない状況で手を出せるわけがないのだから。
彼は長い間ためらった挙句に、結局私から手を離した。
「……またいつか、別の機会に、グラツィア様からそうおっしゃっていただけるよう、がんばります」
まるで他人行儀な台詞がおかしくて、私は吹き出さないようにするのが大変だった。
「大丈夫よ。いつでも言う準備はできているから」
戸惑うあまりなのかもしれないけれど、彼は気弱に言う。
「グラツィア様が何をお考えなのか、思慮浅薄な身には測りかねます」
それで私の復讐心はすっかり満たされた。
これまでにも私は彼に数えきれないくらいからかわれたし、きっとこれからもからかわれてしまうのだろうけれど、私だって彼を翻弄することができるのだと知れて、満足だった。つまりはそれだけ、彼が私を愛して、気にかけてくれているということだからだ。
「シリウスは難しく考えすぎなのですわ。わたくしはずっと、あなたが夫でよかったって言ってるじゃない」
いつも取り澄ましているシリウスが、ちょっと間抜けなくらい動揺している様子が見られたのが、その日一番の収穫だった。
「……とりあえず、安心しました。グラツィア様がどうお思いなのかだけが気がかりだったんです」
「あなたが好きよ。シリウス」
「義理にでもそうおっしゃっていただけるのであれば十分です。いつか本心になれば、それで」
「……どうしてそんなにわたくしの気持ちをお疑いになるの?」
彼はあいまいに笑うと、ぼそりと言った。
「それはもう……この座を手に入れるために、ありとあらゆる卑怯なことをしましたもので。グラツィア様もさぞ呆れていらっしゃるのではないかと……」
「そうなの? わたくし、あなたが王配に選ばれた経緯って、国王の選出会議でしか知らないのだけれど……卑怯なことって、たとえば?」
彼は今度こそ微笑んだきり、何も言わなくなった。
思い出したように、まったく別のことを切り出す。
「……あなたに心からの敬意と愛を。グラツィア様」
「誤魔化したわ……」
「グラツィア様が私を一番おそばに置いてくださるのであれば、私は誠心誠意、身も心もお仕えするつもりです」
「やっぱり誤魔化しているわ……」
よほど言葉に詰まってしまったのだろうか、少し演説調になっている。
「きっと私が幸せにいたしますから、どうかずっとおそばにいさせてくださいね」
それでも、健気な態度でこう言われてしまっては、私の疑問も長続きしなかった。
「こちらこそ。あなたと、少しでも長く一緒にいられたらいいと思っているわ」
シリウスとお互いに照れながら微笑み合ったとき、私は初めて、彼と心を通わせられたような気がした。
これにて終了します。
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