第1話 別れることにした
第1話 別れることにした
松岡圭吾と別れようと思う。
そう決めた夜、圭吾は風呂の床をこすっていた。
「琴葉、先入る?」
「ううん。先どうぞ」
「じゃあ、お湯ためとく。今日寒かったし」
洗面所の向こうで、シャワーの音がした。
私は結婚式でもらった引き出物の箱を、ダイニングテーブルの端に寄せた。新婦の美穂が選んだ白い皿。二枚組だった。
圭吾は悪い人ではない。
私が帰る前に洗濯物を取り込むし、誕生日にはケーキを買ってくる。先月、仕事でミスをしたときは、私が話し終わるまでテレビを消して聞いてくれた。
六年付き合って、三年一緒に暮らしている。
家賃は半分ずつ。共通の生活費は、家賃の引き落とし口座にそれぞれ入れる。料理は私がすることが多く、洗濯と風呂掃除は圭吾。残業で遅くなる方がいれば、早く帰った方が適当に夕飯を作る。
圭吾の炒め物はだいたい同じ味だけれど、疲れて帰ってきた日にそれがテーブルにあると嬉しい。
今朝も私がストッキングを伝線させたとき、圭吾は何も言わずに、玄関で持っていた車の鍵を置いた。私が予備を探す間に、食器を洗っていた。
一緒にいるのが嫌になったわけじゃない。
だから、半年も迷った。
美穂から結婚の報告が来たのは、五月だった。
おめでとう、と返信してから圭吾にスマホを見せた。
「ああ、あの人か。学生のとき、一緒に花火行った」
「そう。相手、三つ下なんだって」
「へえ」
そこで終わった。
報告のたびに自分たちの話をしなくてもいい。それは分かっている。私だって友人の結婚を、圭吾に何かを言わせるための道具にしたくなかった。
その後、職場の先輩が産休に入り、隣の席の後輩が婚約した。
羨ましい日もあった。でも、私の困りごとは、誰かと比べなければ消えるようなものではなかった。
来年の秋には、この部屋の更新がある。
夏に家賃の明細を見ながら、圭吾が言った。
「次もここでいいよね。駅も近いし」
「うん。部屋は気に入ってる」
「引っ越すの面倒だしな」
「この先も、ずっと賃貸にする?」
「どうだろ。買うならちゃんと考えないとな」
圭吾はそう言って、明細をしまった。
私はその背中に、ちゃんとっていつだろう、と聞けなかった。
入居を決めたときは、こんなに簡単だった。
二人とも一人暮らしで、更新時期が近かった。週末のたびにどちらかの部屋に泊まって、帰るときに忘れ物をしていた。
「じゃあ、一緒に住む?」
圭吾が言って、私は頷いた。
結婚前提という約束はしなかった。住んでみてから考えればいいと思った。それを圭吾も同じ意味で受け取ったのか、私は確かめていない。
今日の式で、美穂はよく泣き、よく笑った。
大学の頃には苦手だった赤ワインを飲んで、新郎の袖を引っ張り、親戚を紹介していた。私はその姿を見て、素直にいいなと思った。
帰りの車で、圭吾が言った。
「料理うまかったな。肉のソース」
「うん」
「琴葉、写真送ってもらった?」
「あとで来ると思う」
赤信号で車が止まった。
圭吾は新婦側の友人として招かれた私と一緒に、二人で式に出席していた。美穂には学生の頃から、私たちを一組として覚えられている。
「私たちって、結婚するのかな」
思っていたより普通の声が出た。
圭吾はフロントガラスを見たまま答えた。
「するんじゃない?」
「いつ?」
「いつって……そのうち?」
「そのうちっていつ?」
信号が青になった。車が進んだ。
「別に急がなくてもよくない?」
「私、もう二十八だよ」
「俺も二十八じゃん」
圭吾は少し笑った。
私も、口の端だけを動かした。
二十八になったら結婚しなければいけない、とは思わない。さっきの言い方では、そう聞こえただろう。
言いたかったのは、六年前も、そのうち、と言える年齢だったことだ。
「琴葉、結婚したいの?」
助手席の膝の上で、バッグの持ち手を握った。
圭吾と結婚したい。
そう答えればよかった。
でも、するんじゃない、のあとに私だけがはっきり言うのが怖かった。
結婚なら誰とでもいいのか、と聞かれたわけではないのに、そんなふうに聞こえてしまった。
「……別に、今すぐじゃなくていい」
「だよね」
圭吾の肩から、少し力が抜けた。
私は窓の外を向いた。
それから、スーパーで牛乳を買った。
圭吾がカゴに二本入れようとして、賞味期限を見て一本戻した。私は玉ねぎと鶏肉を選んだ。
家に着いて、圭吾がスーツを脱いでいる間に米をといだ。夕飯を食べて、美穂から届いた集合写真を二人で見た。
私が圭吾のネクタイを直している写真があった。
「これ、いつ撮られたんだろ」
「受付の前じゃない?」
「俺、すごい困ってる顔」
「じっとしてくれなかったから」
笑えた。
さっきの話を、もう一度持ち出すこともできた。
それなのに私は、今日は疲れたから、と自分に言った。
今、洗面所には私の歯ブラシと圭吾の歯ブラシが並んでいる。
ベランダには二人分の洗濯物がある。
来週の木曜日、私は残業になる。帰りにパンを買ってきて、と言えば、圭吾は忘れず買ってくるだろう。
三十歳になっても、三十五歳になっても、こんな毎日は続くかもしれない。
そのときにも聞けるだろうか。
そのうちっていつ、と。
「琴葉、コーヒー飲む?」
風呂から出た圭吾が、髪をタオルで拭きながら聞いた。
「飲む」
「夜だし、薄くする?」
「いつものでいい」
圭吾は頷いて、キッチンに行った。
カップを二つ出す音がした。
この人を嫌いになるまで、一緒にいたくない。
私はスマホで、不動産のサイトを開いた。
職場から三十分以内。一人暮らし。家賃は今の自分の負担額より、少し高くなる。
条件を入れると、知らない部屋がいくつも出てきた。
六畳の寝室と、小さなキッチン。洗面台のない部屋もある。圭吾と暮らす前なら平気だったはずなのに、収納の少なさに驚いた。
一件、保存した。
「どうぞ」
目の前にコーヒーが置かれた。
私は画面を伏せた。
「ありがとう」
圭吾はソファに座り、録画していた番組をつけた。画面の中で、芸人が大きな声で笑った。
コーヒーを飲み終わる頃、美穂からまた写真が届いた。
保存先を開くと、スマホが昔の写真まで並べてきた。
大学四年の秋。ファミレスのテーブル越しに、圭吾が座っている。
新品みたいにきれいなシャツ。今より短い髪。カメラを向けられた口元が、半端に開いていた。
付き合って初めて、二人で出かけた日だった。
映画に行く予定だったのに、上映時間を二人とも勘違いしていた。次の回まで、ファミレスで待った。
あの店は、まだある。
先月、仕事の帰りにバスの窓から見た。
あそこだけ、もう一度行ってみたかった。
何を確かめるのかは、まだうまく言えなかった。別の部屋に私の荷物を運んでしまう前に、圭吾と向かい合って座ってみたい。
「圭吾」
「ん?」
「今度の日曜、久しぶりにあそこ行かない?」
「どこ?」
私は写真を閉じた。
「最初に行ったファミレス」




