第1話 : 崩れゆく日常
「ふざけんな……こんな結末、認めてたまるかよ……っ!」
ひび割れ、赤黒く錆びついた鉄の楔。
これが、腐りきった世界に抗う唯一の力になるとは、この時の俺はまだ知らなかった。
「泣くな、レナ。俺がどうにかしてやる……俺が絶対に、変えてやるからっ!」
ただ、理不尽に奪われた命と、腕の中で泣き崩れる幼なじみの涙を止めたくて。
俺は祈るように、そして狂った世界への怒りを込めて、それを力任せに引き抜いたのだ。
◆
『今日は稼ぎのいい現場だからな。帰ったら、レナの好きな肉でも買ってやるよ』
今朝。
その言葉を聞いたセレナは、子供みたいに目を輝かせていた。
「本当!?」
「ああ、本当だ」
「やったぁ!」
おじさんの腕に飛びつきながら喜ぶセレナ。
その姿を見て、おじさんは豪快に笑った。
「そんなに嬉しいか?」
「当たり前じゃない!」
「はははっ! それじゃ帰りに奮発しないとな!」
「レイも今日来るんだろ?」
突然おじさんが振り返る。
「え?」
「肉だぞ?」
「いや、別に……」
「遠慮するなって」
おじさんは笑った。
「どうせレナがお前の分まで考えてる」
「当たり前でしょ」
セレナが胸を張る。
「レイも来るんだからね?」
「またかよ」
「お父さん、レイが来る前提で肉買うんだから」
俺は苦笑した。
その時だった。
ふと視線を感じた。
路地の奥。
真っ白な毛並みの小さな犬がこちらを見ていた。
赤い瞳。
妙に静かな犬だった。
俺が目を細めると、犬は何事もなかったかのように姿を消した。
◆
「おい! 鉱山が崩落したらしいぞ!」
広場に響き渡った誰かの切羽詰まった叫び声が、平穏な昼下がりを切り裂いた。
隣を歩いていたセレナの足が、ピタリと止まる。
「え……?」
彼女の顔から、さぁっと血の気が引いていくのがわかった。
「セレナのおじさん、今日の現場って……」
「……鉱山よ。お父さん、今朝早くに向かったわ……」
「急いで行くぞ!」
俺はセレナの手を引き、無我夢中で駆け出した。
息が切れ、心臓が破裂しそうになるのも構わず、ただひたすらに町外れの鉱山を目指す。
どうか無事であってくれ。何かの間違いであってくれ。
祈るような気持ちで現場へ辿り着いた俺たちを待っていたのは、無情で絶望的な光景だった。
「嘘……お父さん……お父さんっ!!」
崩落した鉱山の入り口は巨大な岩と土砂で完全に塞がれ、もうもうと土煙が立ち込めている。
大人たちの怒号が飛び交う中、事態を理解したセレナが悲痛な叫び声を上げた。
「いやぁぁぁぁっ! お父さん! お父さぁぁぁん!!」
「おい、お前ら! それ以上は危ない、近づくな!」
警備の大柄な男が叫ぶが、セレナの耳には届いていない。
彼女は血相を変え、今にも崩れそうな土砂の中へ真っ直ぐに駆け出そうとした。
「待て、レナ! 行くな!」
俺は全力で手を伸ばし、飛び込もうとするセレナの細い身体を背後から力いっぱい抱きとめた。
「離してレイ! お父さんが、お父さんが中にいるの! 助けなきゃ!」
「駄目だ! 今入ったらお前まで死ぬぞ!」
「嫌だ、離してぇぇっ!!」
腕の中で必死に暴れるセレナ。
俺は歯を食いしばり、彼女を絶対に行かせまいと力強く押さえつけた。
そこへ、現場を仕切っているらしい上位ランクのギルド職員が、忌々しそうに舌打ちをしながら歩いてきた。
「チッ、うるせぇな。底辺どもが騒ぐな」
「あんた……! まだ中に人がいるんだぞ! 早く助け――」
「すまねぇな、嬢ちゃん、坊主」
ギルド職員の言葉を遮るように、警備の男が沈痛な面持ちで首を振った。
「上のファミリア様から『低ランク労働者の救出より、奥のレア鉱石の搬出ルート確保を優先しろ』って命令が出てんだ。もう見捨てるしかねぇ」
「なっ……!?」
俺は耳を疑った。
「命より、石ころが大事だって言うのかよ!?」
「それがこの街の塔の『ランク制度』だ。諦めな」
ギルド職員が冷酷に吐き捨てたその言葉が、とどめだった。
俺の腕の中で、セレナは糸が切れたように崩れ落ちた。
「うぅ……ああぁぁぁ……っ!」
ただ顔を覆って泣き叫ぶ彼女を抱えながら、俺は、何もできない自分の無力さと、狂った世界への怒りに震えていた。
◇
「セレナ。……もうここは危ない。安全な場所に移動しよう」
震える彼女の肩にそっと触れる。俺の声も、情けないほど震えていた。
「うん……」
安全な場所へと移動し、水筒の水をセレナに渡す。
どれくらいの時間が経っただろうか。
重苦しい沈黙だけが、二人の間に横たわっていた。
「セレナ、少しは落ち着いた?」
「うん……。でも、信じられない……なんで、お父さんが……」
セレナは空のコップを両手で強く握りしめ、ぽつりとこぼした。
「ねぇ、レイン……。なんで私たちばかり、こんな危険なところで生きていかなくちゃいけないの……。なんで、見捨てられなきゃいけないの……」
「…………」
俺には、その答えが分からなかった。
ただ一つ確かなのは、俺たちが『最底辺』として生まれ、上から搾取され、虐げられる存在だということだけだ。
スキルも才能もない俺には、彼女にかけるべき気の利いた言葉すら見つからない。
「セレナ……今日は家に帰ろう。ここにいても、何も前に進まない」
「……わかってるわ」
鉛のように重い足取りで、俺たちは家路についた。
夕暮れの空が、やけに赤く、残酷に見えた。
「今日はもう帰るわね。レイン、一緒にいてくれてありがと」
「あぁ、全然気にしないでくれ。俺はセレナの幼なじみだし……何かあったらすぐに連絡してくれ。飛んでいくから」
無理に作った笑顔で別れを告げ、俺も自分の家へと戻った。
向かったのは、薄暗い自分の工房だ。
カンッ、カンッ、カンッ……!
俺は無心でハンマーを振るっていた。
毎日欠かさず行っている鍛冶のルーティン。いつもなら、鉄を叩く音と熱が心を落ち着かせてくれるはずだった。
だが、今日だけは違った。
脳裏に焼き付いて離れないのは、泣き崩れるセレナの姿。
そして、命を石ころ以下だと切り捨てた、あの男の冷たい目だ。
「くそっ!くそっ!……くそっ!!」
「なんで……!」
ドンッ、と荒々しくハンマーを台座に叩きつける。
視線の先、工房の土間の隅に、今朝の夜明け前に日課として打ち込んだ一本の鉄の楔があった。
俺に才能がないから。ファミリアにも入れないから。
せめて何か形に残したくて、毎日、毎日、地面に打ち込み続けてきたガラクタ。
安物の鉄で打ったそれは、たった半日しか経っていないというのに、すでに赤黒く変色し、ひび割れ始めている。いつもなら明日には完全に朽ちて土に還る、ただの失敗作だ。
「なんで……! なんで命より石ころなんだよ!」
怒りのやり場が見つからず、俺は地面に突き刺さったその楔を力任せに掴んだ。
引き抜いて、壁にでも投げつけてやろうと思ったのだ。
「ふざけんな……っ、ふざけんなぁぁっ!!」
ギリィッ、と。
ひび割れ、錆びかけた鉄の楔を引き抜いた。
その瞬間。
俺の視界は、強烈な光と奇妙な浮遊感に包まれた。
身体が軽い。
音が消える。
世界が白く塗り潰される。
そして――
◇
「おっ、レインじゃねぇか。朝から精が出るな」
聞き慣れた声だった。
俺は凍り付く。
そこに立っていたのは。
数時間前。
鉱山の崩落事故で死んだはずの男。
セレナの父親だった。
「……おじさん?」
男は不思議そうに眉をひそめる。
「なんだ? レイン」
朝日が眩しい。
間違いない。
今朝だ。
そして、その背後。
路地の奥では、真っ白な犬だけが、赤い瞳でこちらを見つめていた。
犬は驚いていない。
まるで最初から知っていたかのように。




