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1 月のプリマドンナ


(昔、そんなことがあったような……)

 サンジは、(おぼろ)げに思い出していた。

 間口半間の店に入るとそこはそば屋で、客ひとりしか座れないカウンターで主人と向き合う形になる。

 奥に三畳ほどの小さな座敷があって、そちらに通されてそばを食う。

 座敷に移るのを待っている客と食べている客が、入れ替わり立ち替わりになる仕組みだ。

 いま思うとひと間にひとりきりの女性で営業している娼家のようなつくりで、奇妙な店だった。

 幼いころ父親に連れていかれたような気がするのだが、現実の記憶なのかはわからない。



 通り雨が過ぎたあとの舗道を、人間たちが通る。

 まだうすぐろい雲が空を(おお)っていて、路上にはほとんど人の影が落ちていない。

 人々は、体重や質量を失ってしまったように見える。

 そんな軽い非現実感が、サンジにはいくらか心地よかった。

 大げさな感じ方かもしれないが、疲れが溜まっているのだろう。


 背広姿の男二人が、胡蝶蘭の鉢を抱えてそっと骨董通りを歩いていた。

 純白に近いものと、濃い桃色の二種類だ。

 どこかの事務所開きに持っていくのだろう。

(花屋に配送を頼めばよさそうなもんだけどな)

 手ぶらで挨拶に行くのも格好がつかないので、自分たちで()げていくことにしたというところか。


(それにしても、人工的な感じの花だ)

 大きな花弁の塊が規則正しく並んでいて……山歩きでもしていて密生しているのを見たとしたら、かなり奇妙というか、驚くような気がする。

(中国あたりの山の中かな)


 あまりしないことだが、会社に戻ってからネットで検索してみた。

 パプア・ニューギニアなど熱帯地方のジャングルに自生するとあった。

 そう思ってみると、南国の花だ。

(そりゃ、何もないところからは作れないよな)

 もちろん、きれいに形を整えるのは園芸家の人たちの仕事なのだろう。

(学名Phalaenopsis、ファレノプシスね、覚えておくか)


 そこへ電話が来たので、作業室を出た。

 着信を見てレイカだとわかっていた、あまり出たくなかったのだけれど。


「どうした」

「ねえ那賀川さん、知り合いでジュエリーに興味ある人いないかなあ」

「宝石か、興味って、買わないかってことだよな」

「簡単にいうとそうなんだけど、お得なのよ」

「すまん、おれの知り合いにそういうヤツはいない」

「那賀川さんは? 奥さんか、恋人のひとに……」

「そんなもんいねえの、知ってるだろうが」

「もおぉ、張り合いないなぁ」

「もっといい話で電話くれ、じゃあな」



 彼女とは水商売の店で知り合った。

 そんなに仲良くなった気はしないのだが、連絡をしてくるようになった。

 以前、サンジが少し面倒をみていた女の子が、東欧かどこかに行ってしまっていて……。

 その隙間に入り込んできた形になって、時間があれば話を聞いている。


 余計なお世話だと知りながら「昼間の仕事も持て」と勧めていた。

 本人もそう思っていて、いろいろやってみているらしい。

 それにしても、簡単に金が儲かりそうな業種ばかり行く。

(最初からそういう考えしかないんだし、無理はねえけどな)

 自分はその手のおいしい話を持っているようには見えないと思うのだが、話しやすいのだろうか。


 レイカは透明感のある大きな目をした、なかなかの美人だ。

 どちらかというと痩せているが、外に出ている部分はふくよかに見える。

 そのせいか、店で会ったお客の多くは、性格も優しそうな子だという印象をもつ。

 話をしはじめると百パーセント自分に都合のいい話ばかりなので、呆れるとかを通りこして感心してしまうほどだ。

 ほかの席に彼女がついているのが見え、相手をしていた客が見る間に落胆していくのがわかって笑ってしまったこともある。

 黙っていてくれたほうがいいと思うのだが、それでは女性を蔑視していることになるだろうか。

 それならどうしてサンジが彼女の相手をしているのか。

(もう色気でもないんだけど、すらっと長い腕が伸びてるのを見ちゃうんだよな、それでかな)



 なんとかデータ納品の締切は守ることができて、退社することにした。

 もう正面玄関は閉まっていて、守衛室の脇の通用口から出る。

 ひとつ深呼吸をした。

 テンポを変えた時間が流れはじめる、眠りにつくまでほんの三・四時間だが……。

(酒を飲むって感じもしないけど、メシ食うか、ビールぐらい飲んで)

 つい早足で歩く癖がついているので、意識してゆっくりと歩きだす。


(またヘンな女にかまわれてるね、あんた、か)

 いつも悪態をついていた居酒屋の店主はどこへ行ったのか。

 長いつき合いだったが、電話で連絡を取り合うという感じではなかった。



(レイカ、知ってるか、月にはひとりぼっちのプリマがいる)

(誰も観てないクレーターの上で踊ってるんだ)

 なぜか、とりとめのない()が浮かんでくる。

(月には、荒涼とした砂漠しかないというのは、本当は違っていて)

(風の吹く草原があり、そこで誰かがヴィオラを弾いている……)


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