第1話:補償は100兆円か最強か
深夜の二時三十分。
佐藤亮は、重い足を引きずりながらアパートの廊下を歩いていた。
右手にはよれよれのビジネスバッグ、左手にはコンビニの袋。中身はエナジードリンクと、半額シールが貼られたサンドウィッチだ。
扉の鍵を開ける。
「……ただいま」
誰もいない部屋に向かって、亮は言った。別に習慣というわけでもない。ただ、言わないとここが自分の家だという実感が持てなかった。それだけだ。
玄関に倒れ込むように靴を脱いで、スーツのジャケットをソファに放る。床には昨日も一昨日も脱いだまま丸まったままの靴下があったが、拾う気力はなかった。ネクタイを緩めながら、亮はぼんやりとスマートフォンの画面を確認した。
──二時三十一分。
「……朝八時まで、あと五時間半か」
出社は九時だが、準備と移動を考えると家を出るのは八時になる。ということは実質的な自由時間は五時間半。
五時間半。
亮は少しだけ目を細めた。
「……二時間あれば御の字だと思ってたのに」
五時間半は、もはや夢のような時間だった。まるで土日祝並みだ。シャワーを浴びても余る。飯を食っても余る。眠れる。ちゃんと眠れる。
そう思ったら、少しだけ気力が戻ってきた。
亮はコンビニ袋をテーブルに置いて、浴室へ向かった。シャワーを浴びながら今日一日のことを振り返ろうとして、やめた。振り返っても良いことは何もない。ノルマ、クレーム対応、上司からの怒号、サービス残業、また怒号。
「……まあ、いいか」
それが亮の口癖だった。
怒る気力もなければ、嘆く余力もない。また明日も会社に行く。それだけだった。
シャワーを浴び終えて、バスタオルで頭を雑に拭きながら部屋に戻る。サンドウィッチを三口で食べて、エナジードリンクを半分飲んだところで亮はベッドに倒れ込んだ。
「……ぐっすり寝るぞ」
目を閉じると、一秒も経たないうちに意識が遠ざかっていった。
*******
気づけば、亮は白い空間の中にいた。
足元に地面はなく、頭上に天井もない。ただ白い霧のようなものが、あらゆる方向に広がっている。温度も音もなく、自分が立っているのか浮いているのかさえわからない。
「……夢か」
亮はあくびをしながら周囲を見渡した。夢を自覚したところで特に感慨はない。どうせすぐ起きてまた会社に行くのだ。
「あー、もう。ほんとに困っちゃったなぁ」
声がした。
振り返ると、そこに一人の人物が立っていた。
青い肌。丸いサングラス。こじんまりとした体格。どこかで見たような風貌のその存在は、両手に大きな黒いノートを抱えながら、困り果てた顔でこちらを見ていた。
「……なんだ、コスプレか。撮影でもしてたのか?」
「そんなことないですよ! わたし、神様ですよ!」
その存在──女神は、むっとした顔で言った。サングラスの奥の目が、いかにも神様らしく光っているような気がしないでもないが、亮には確認する気力がなかった。
「神様ね。はあ」
「はあって何ですか。信じてください。ほら、これ見てくださいよ。ここに名前書いてあるでしょ」
女神はノートを亮の前に広げた。黒いノートのページに、ぎっしりと名前が並んでいる。
その中に、確かに「佐藤 亮」という文字があった。
「……自分の名前が書いてある夢ってやつか。あれ? でもリアルだな」
「リアルじゃなくて本物ですよ!」
女神が声を上げた。
「あのですね……これ、ちょっと言いにくいんですけど」
「何だ」
「佐藤さん、死んでます」
亮は一秒ほど固まった。
「……は?」
「死んでるんです。わたしのミスで」
女神は眉毛を八の字にして、ノートをぱたぱたと叩いた。
「本来ここに書いちゃいけなかったんですけど、ページをめくり間違えて。うっかり書いちゃって。もう……ほんとに申し訳ないというか……」
「ちょっと待て」
「はい」
「自分、死んでるのか」
「はい」
「今、この瞬間に?」
「はい。ベッドで就寝中に、静かに。苦しまなかったので、そこは良かったかなって」
亮はしばらく黙っていた。
死んだ。
自分が、死んだ。
──あ、明日の会議に出なくて済む。
「……まあ、いいか」
「よくないですよ!?」
女神が素っ頓狂な声を上げた。
「よくないですよ! だって死んでるんですよ! 二十七歳で! これはわたしのミスですし、ちゃんと補償します! 慰謝料を出します!」
「慰謝料」
亮の目が少しだけ動いた。
「そうです。二択です」
女神はノートを閉じて、両手の指を二本立てた。
「一つ目。現金で100兆円」
「……100兆」
「二つ目。この世界最強クラスの戦闘力」
亮は三秒考えた。
「金」
「即答ですね」
「当たり前だろ。戦闘力なんて使わないし、100兆あれば一生遊んで暮らせる」
「わかりました。では……」
女神がノートを開こうとした、その瞬間だった。
どうしたわけか、亮の視界がぐらりと揺れた。
「……うわっ」
眩暈だった。
死んでもまだ抜けない、激務の疲れが体の奥底から這い上がってきたような感覚。亮はよろめいて、バランスを崩した。
ぐらり、と体が傾く。
倒れまいと伸ばした右手が、女神の持つノートの端に触れた。
女神が「あっ」と小さく声を上げた。
亮の指が、ノートの文字をなぞる。
「……戦闘力」
そう書かれた文字の上に、亮の指が止まった。
*******
気づいたとき、亮は空の上にいた。
体の下には何もない。見上げれば厚い暗雲が渦を巻いていて、あちこちで稲妻が走っている。
見下ろせば、はるか下方に荒涼とした大地が広がっていた。
赤みがかった岩肌、どす黒い河、点在する炎。どこからともなく低い唸り声のようなものが聞こえてくる。
「……」
亮は、自分が落下していることに気づいた。
ゆっくりではない。物理法則に従って、かなりの速度で落ちている。
普通であれば絶望するところだろう。叫ぶか、もがくか、神に祈るか。
だが亮は、落下しながら一つのことを考えていた。
「……結局、明日は会社に行かなくても良さそうだな」
亮は目を閉じた。
「……まあ」
地面が迫ってくる轟音の中で、亮はつぶやいた。
「……いいか」
明日の会議にも出なくて済む。
それで十分だった。
地面まで、あと数十メートル。
佐藤亮の異世界生活が、今まさに、始まる前に終わろうとしていた。




