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第9話 過去の話を

 JOC(ジュニアオリンピック)の夏季大会が終わり、高校受験の四文字が見え隠れしていたころ。


 美波は大会開催地から帰還し、ぼんやりとした日を過ごしていた。ふと首を下げると入念にテーピングされた膝が目に入る。無理やり「泳ぐ」と押し切って、もぎ取った中学最後の優勝。


 美波はうれしくて仕方がなかったが、周囲の人間はトロフィーに目もくれず美波を責め立てた。


──どうしてあんな無茶したの⁉


 それは美波の今後を期待しての心配であり、決して悪い人たちではないということはわかっていた。


 でも。


「……めてくれたって、いいじゃない」


 ブランコに腰かけて、鎖をぎゅっと握りしめる。


 みんな麻痺まひしているのだ。美波を軽々しくメダルとトロフィーをもぎ取れる人間だと思っている。もちろん美波自身は、自分の水泳に対する才能を認めていないわけではなかった。努力しても表彰台に乗れない人はいる。その人と比べて自分は水泳向きなのだと、自覚はあった。


 けれど、美波も手放しで華々しい功績を飾っているわけではない。人並み以上の努力があってのものだ。

 無茶はいけなかった。反省している。でもしょんぼりと美波が首をうなだれたところで、大人たちは「次から気を付けない」といったさとすような言葉はかけてくれなかった。


 そのうえ……。

 美波はいじけた子供のように地面を靴底で蹴り飛ばした。砂が舞って、靴が茶色く汚れる。


「『スポーツ選手に向いてない』なんて」


 コーチに言われた言葉がずっとこめかみをずきずきと突き刺している。


 辞めてしまおうか。


 今やめるバカなんていないけれど、そう言われたなら今からでも新しい未来を探しに行こうか。高校生という肩書は中学生の美波にとってきらきらとしたものだった。こんな田舎で望む姿になれるかはわからないが、いっそのこと振り切ってしまおうか。


 地面をがりがりと靴先で削っていると、遠くから人がやってきた足音に気づいた。顔を上げると璃子りこが少しだけ神妙な顔をしてこちらに近づいてくる。美波は気まずさに再びうつむいた。


 隣のブランコがきい、と揺れる。鎖のこすれる金属音が聞こえたかと思うと、璃子の声は隣から聞こえてきた。


「大学受験とか、考えてる?」


 美波は顔を上げる。

 大学は少し早すぎないか。まだ高校生にもなっていないのに。


「高校生になったらあっという間だよ」


 美波の表情から何を考えているのかを察したように、璃子は話を続けた。


「うち、おにいみたいに鴎ヶ岬を出ようと思ってる」


 どんよりとくもった美波の目とは対照的に、璃子は鮮やかな未来を見据えている。ここが人生を決める最後のラインだ、と言われているようでどんどん息苦しさが増していった。


 璃子は小学校できっぱり水泳をやめた。美波ほど泳げたわけではないけれど、素質がなかったわけじゃないと思う。でもすっぱりと縁を切って、水泳漬けだった美波とは違う、中学生活を送っていた。


「なりたい職業があるからさ」


 璃子はブランコから立ち上がった。ブランコは乗せるものを失って寂しく揺れる。


 もう子供は卒業したの。


 そんな声が聞こえてきた。


「美波も考えるといいよ。ずっと水泳を続けるわけじゃないんでしょ?」


 コーチの言葉がよみがえる。あの時、璃子も側にいた。

 スポーツ選手には向いてないんだ。


「……そう、ね」


 心の中の、なにか壊してはいけないものが壊れた気がした。でも振り返らずにブランコから立ち上がる。


「髪の毛がきしきしなの、コンプレックスだったのよね」


 美波は自分の積み上げた代償であるいたんだ髪をつまんで笑った。








 机の上でスマホが震える。


「二十九、三十……っ。終わった……」


 身体を支えていた腕の力が抜けて、ふわふわのカーペットに胸から着地する。


 ベッドの上にある時計を見上げると、時刻は夜の八時。


 ひたいの汗を手のひらで拭いながらスマホの画面を開く。この時間というと、プールでの練習が終わったころだ。


 メッセージの主は部長。できればこのまま閉じて明日の朝を迎えたいところだが。

 夕方の出来事を話せる相手が欲しい。そう思って部長からの連絡をタップした。

 部長は心配のにじんだ文面で『美波ちゃんが、明日はちゃんと練習来るようにって』という連絡事項を伝えてくれる。


 このグループメッセージにはわたしのほかに、部長と夏月が入っている。美波を仲間はずれにするわけではなく、これはコーチと生徒という明確なみ分けだ。


 やっぱりやめよう。美波がいないのをいいことに、彼女の幼馴染について愚痴るなんてよろしくない。


 けれどわたしがこのメッセージを開いている以上、部長はわたしがこの言葉を見ていることがわかっている。


「……」


(やっぱり話そう)


 わたしは上着をひっつかみながら片手で文字を打ち込んだ。


──話したいことがあります

  スイミングスクールの前で待っていてくれませんか?


 わたしのメッセージにはすぐに二人分の既読マークがついた。







 二人はスイミングスクール前の街灯の下で何やら話をしていた。とはいえ、ずっと部長が一方的に話しかけ、それに夏月がそっけなく頷き続けるという構図にも見える。

 二人とも髪が濡れていて、制服姿だ。わたしは乾いた頭に部屋着の上から上着を羽織った格好。


 けれど部長はやってくるわたしの姿に何も言わずに手を振ってくれた。


「何かあったの? ゆいちゃんが練習に来ないことなんて、なかったでしょう」


 部長は優しい言葉で尋ねてくれる。夏月は興味なさそうに地面を蹴っているが、帰ろうとするそぶりは見せていない。話を聞いてくれるようだ。

 わたしはもじもじとしながらも口を開いた。


「美波さんの幼馴染みの人に、呼び出されたんです」


 ささくれた指先を見下ろす。

 耳の奥に、街灯のじりじりという音が響いていた。


「……プールの練習には間に合ってました。でも……美波さんと顔を合わせるの気まずくて、帰っちゃったんです」

「そうなの」


 部長は目を丸くしながら相槌を打ってくれる。対して夏月は深い息を吐きながら腕を組んだ。


「美波さんは、怪我が原因で引退したらしいんです。……無茶をしがちな性格らしくて、当時のコーチに『プロは向いてない』って言われたって」


 釈然としない感情に頭をかきむしる。


「それで瀬戸内せとうちさんは……美波さんの幼馴染みさんは、わたしを責めてきたんです」


 わたしが知りたいのは一つだけ。


 自分が悪いのだろうか。


 これで美波が水泳に復帰してまた無茶をして、それがどうしようもない大けがだったら私のせいなのかもしれない。


 目のふちに涙がたまっていく。


 違う、泣きたいんじゃない。ちゃんと話がしたい。

 これは他人ひとから見てどうなのか、客観的な意見が聞きたいのだ。そして自分の善悪を定めたい。なのにこの調子じゃなぐさめられてしまう。


 そう思っていると、目から雫がこぼれてしまった。アスファルトに水玉模様が描かれる。


「……わたし、わたしのせいで、美波さんは……わたしは美波さんを……っ」


 しゃっくりが混じってはっきりと話せなくなる。もはや自分が何を伝えたいのかわからない。歪む視界のように頭の中が混濁していくのだ。

 部長のおろおろとする手が視界をかすめる。


(ごめんなさい)


 急に泣き出したりなんかして。

 訳が分からないと思う。謝らなきゃ。


 そのとき、どこからか伸びた手に頭を掴まれた。それは少し乱暴で、無理やりに顔をあげさせられた。手の主は夏月だった。街灯がまぶしくて、自分の泣き晴らした顔が照らされていると思うと恥ずかしい。


 部長が一瞬止めようと手を伸ばしかけたが、ゆっくりと引っ込んでいった。


 夏月の表情はいたって静かなものだった。頭から小さな手が離れていく。


「……きゃあ、いいじゃん」


 夏月はぶっきらぼうに吐き捨てた。


「汐田の考えてることは汐田に聞けばいいんじゃん。そんなことすらできなくて泣くとか、ありえないんですけど」

「で……でも、」

「なに? そんな無神経なことは聞けないって?」


 夏月の顔が歪む。


(そんな顔しないでよ)


 わたしにとって美波は大切な人だから、ずかずか心の中踏み込んで気づ漬けるようなことになれば自分が許せない。


「じゃあ、いじいじ、いじいじ泣いてれば」

「……」

「あたしがぶち破ってくる」


 汐田の煮え切らない態度もずっと癪に触ってたんだよ。……泳ぎたいなら堂々と泳げばいいのにさ。


 夏月はそっぽを向いて言った。

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