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第8話 水泳をやめた理由

花筏はないかださん、E組の子が呼んでるよ」


 担任が終礼を終わりを告げた直後、わたしはクラスメイトに声を掛けられて、鞄の中をあさっていた手を止めた。

 E組というと美波みなみが所属するクラスだ。はっと思い出して、何の用だろうと考える。いつも部室で合流なのに。


「今行きます!」


 一声かけて、わたしは席を立った。しかし扉の前に待っていたのはいたんだ茶髪の美人ではなく、つややかな黒髪のボブカット。璃子りこ、と美波が呼んでいた幼馴染だということを思い出す。


瀬戸内せとうち璃子りこです。花筏さんであってる?」

「あ、はい」


 璃子はにっこりと笑顔を見せて名乗ってきた。けれど張り付けたような笑みは、その奥に何かが透けて見える。詳しくはわからないが、どんよりとした空気が潜んでいるのを察知してしまった。


「ごめんなさい、わたし……今から部活で」

「何の?」

「す、水泳です」


 そのとき、璃子の目が鋭く光ったような気がした。


(怒ってる?)


 なんだか話が長くなりそうだ。

 わたしはちょうどC組を通り過ぎようとした夏月の姿を見つけ、慌てて呼び止めた。夏月は心底面倒くさそうに振り返る。


「ごめん! 練習遅れるかもしれないって、美波コーチに言っておいてほしいの」


 夏月は璃子の姿を確認すると、眉をひそめてわたしに疑念の目を向けてきた。けれどすぐにわたしの表情が芳しくないことに気づいたのか、一つだけため息をつく。


「なんて言い訳するつもり?」

「放課後のトレーニングは、家帰ったらちゃんとやる」


 夏月は返事をすることなく廊下を去っていった。けれど、きちんと伝えてくれるはずだ。夏月は人をおとしめるようなことはしない。

 わたしはすぐに璃子へと目線を戻した。


「スイミングプールまで歩きながらでもいいですか?」


 そういえば、この人はスイミングスクールの娘だと美波が言っていた。璃子は一瞬躊躇ためらったが、あいまいに頷く。


 校舎を出るまで異様な沈黙が落ちている。周囲の生徒と同じ時刻に靴箱を利用するのはしばらくぶりだ。しかし生徒らは横並びで歩いているのに会話一つとして交わさない二人組に、怪訝な目を向けては自分たちの世界に戻っていく。


 人気が少なくなってきたところで、璃子はついに口を開いた。


「美波をそそのかすの、やめてほしいんだけど」

(……そそのかす?)


 わたしは何を言われたのか、いまいち理解できなかった。

 あまりに身に覚えのない行為であり、自分の性格からは到底イメージが一致するような行動ではない。


 誰かと間違っているのではないか。

 確認をしようとしたが、璃子は先回りをして「人違いじゃないから」と答える。


「美波、泳いでたの。あんたらが帰った後、閉館作業まで代わって深夜まで」


 璃子の目は真剣そのものだ。そして多大な非難が含まれている。


(知らなかった)


 美波が泳いでいたなんて。てっきり泳ぐことからは完全に身を引いていると思っていたのだ。


「美波は去年の夏、怪我をした。いろいろ考えて水泳をやめたの」


 怪我はスポーツ選手にとって致命的なものとなる。引退を考えたきっかけがそれであってもおかしくはない。


「だからその決意を無駄にするようなこと、言わないでくれる?」


 璃子の眉間にしわが寄っている。


(なんで自分が一番わかってるみたいな顔をするの?)


 わたしはなぜか無性に腹が立っていた。

 美波のことは美波が決める。どれだけ周囲が心配しようが、抑止力となってはいけない。


 わたしはしつこく美波をプールに誘ったわけでもないし、煽るようなことを言った覚えもない。

 なんでそんな目で見られないといけないの。


「……たかが幼馴染み、ですよね?」


 わたしは苛立ちをできるだけ抑えながら尋ねた。思いのほか低い声が出る。

 これで感情をあらわにしたら叫んでしまいそうだ。それだけは避けたい。

 璃子はわたしのような人間が怒り返してくるとは思わなかったようで、一瞬ひるんだ目をする。しかしすぐに怒りが湧いてきたのか、まなじりを吊り上げた。


「されど幼馴染みだよっ。何年一緒にいると思ってんの、あんたが知らないようなこと、うちはいっぱい知ってる!」

「幼馴染みマウントですか?」

「うるさい! うちは事実しか言ってない!」


 璃子は顔を真っ赤にして叫ぶ。


「美波がコーチに言われてたのを聞いたの! 『無茶なことをする美波に、スポーツ選手は向いてない』って。それで美波は水泳をやめたんだよ。これ以上あの子が水泳続けたら、また膝とか肩を壊しても泳ぎ続けんじゃん! その未来、何が待ち受けてるかわかってんの⁉」


 それが本当のことなのか、わたしに知る術はない。

 矢継やつばやに繰り出される主張に、わたしは反論する力を失っていた。


 たしかに私は何も知らない。選手としての汐田美波しか。その背景にある十年間は、何も知らないのだ。

 璃子は一度息を整えて、自分を落ち着かせるように髪を撫でた。


「そういうわけだから。もう、そそのかすのはやめて。泳ぐの、やめるように言って」

「それは──」

「うち、今から図書館に行く用事があるから」


(自分でいいなよ!)


 すぐさま遠ざかっていく璃子の後ろ姿に叫んでやりたい気分になる。でも住宅街だからとぐっとこらえて、スカートのプリーツを握りしめた。

 でもこれらが本当のことなら。


(わたしが悪人だ)


 わたしは坂の上に佇むスイミングスクールを直視できなかった。

 結局その日の練習は、サボってしまった。


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