第7話 心境の変化……?
五月初週。六月の県大会まであと一か月を切った。
わたしの現在のタイムは34秒25。毎日目に見えてタイムが縮んでいる。これは泳ぎ始めた初期だからタイムが短くなりやすいらしい。
目標は29秒を切ること。そうでないと地区大会進出は厳しいのだという。
「今日はこれで終わり」
美波はホイッスルを吹いて注目を集めて言った。
「みんなは先に帰ってちょうだい。今日の反省会は明日の朝やります」
そしてわたしたちが向かう更衣室とは別の方へぺたぺたと歩きだす。
わたしは水泳帽とゴーグルを掴んで外すと、シャワーの下に立った。いつも通り夏月がボタンを押し、三人軽く体を流して更衣室に入る。
「一週間って早いわよねぇ」
タオルに身をくるむ部長が焦りの滲んだ声で言った。
苦しいことに、わたしたちはスタートが遅かったようだ。他校が春休みから必死に練習している中、鴎ヶ《が》岬水泳部は四月末から。あと五月中に仕上げていかなくてはいけないというプレッシャーがある。
「リレーやってみたいとは思わない?」
また独り言が口に出てしまったという風だった。網棚の向こうにいる部長と目が合う。
(もしかして……)
わたしと美波には少しだけ距離ができていた。泳ぐ時だけ、コーチと生徒の関係性となりスムーズに会話が交わせるのだが、それ以外ではわたしが距離感を掴めずにぎくしゃくとした関係性になっていた。
これは傍目にも明らかだったようで、部長の目には少し心配が浮かんでいる。
「リレー、ですか?」
「あたしら何人しかいなんですけど?」
さっさと着替え終えて、短めの髪を束ねている夏月がぶっきらぼうに言い放つ。
「ほらぁ、いるじゃない。誰よりも泳ぎの上手な人が」
「汐田のこと言ってんの? バカらし」
「夏月、部長に向かってそんな口利いたらだめだよ」
部長の提案をばっさりと切り捨てる夏月を咎める。
でも難しいというのは事実だった。
わたしたちが泳いでいる隣で、美波は水着すら着ようとしない。ずっとジャージにホイッスルを持って、プールの外から指示やアドバイスを飛ばしている。
「でも私が背泳ぎ、ゆいちゃんが自由形を泳ぐなら、あとは平泳ぎとバタフライだけでしょう。夏月ちゃん、ブレの経験あるのよね?」
「あるにはあるけど……」
夏月には美波と別の種目を目指してた時期もあったらしい。結局自分より速いブレの選手に出会ったので、フリーに引き返したのだと聞いた。
「美波コーチもバッタで表彰台に乗ってた時期がありますよ」
確か小学生の時だ。けれどすぐにフリーへ専念するとかで、トロフィーを手にした途端泳がなくなってしまった。
「じゃあ、ぴったりじゃない」
部長は乗り気だ。夏月もなんだかんだと言って、再びリレーが泳げることにわくわくしているように見える。
「やってみたいなぁ、四人でリレー……」
わたしは制服のリボンを留めながら、更衣室の床にぽつりと零した。
美波は更衣室の外で、会話を聞いていた。
今週末の予定について話し忘れたので、そのことについて伝えておこうと思ったのだが、タイミングを見失ってしまったのだ。
それも復帰を願うような内容となると、何も知らなかったふりをして入っていくような器用なこともできない。
美波はコーチ用のロッカールームで、自分の荷物を引っ張り出した。
(バカみたい)
鞄の奥には鷗ヶ《が》岬の水着が入っている。黒に黄色の曲線がきれいな競泳水着。プールの中でもよく目立つカラーリングだ。中学まで使っていた水着と比べて少し攻撃的なデザインだが、すごくかっこいい。
ゆいに「似合うと思います」と言われた日から、どうしても頭に残ってしまって結局購入してしまったのだ。
美波は財布を片手にカウンターの前に立った。チャックを引いて、頭に入っている利用料よりも少し多い金額を差し出す。
おじさんは美波の顔を見上げてぽかんとした。
「なんだ、払い忘れかい」
「戸締り当番は私がやるわ」
美波は男性とちぐはぐな言葉で返した。
水泳に没頭していた中学生時代を思い出す。あの時も親に貰ったお金を差し出して、お願いをした。
「深夜までプールを貸してほしいの」
また、水泳に溺れてしまうのかもしれない。
美波は到底楽しそうではない表情で、カウンターの男性にお金を押し付けた。
広く、そして暗いプールに水の跳ねる音だけが響いている。光は窓から差し込む月明かりのみで、水面の揺らぎがそれを反射していた。
閉館の準備を終えてもう三時間。時計の短針ももうすぐてっぺんを超えようとしている。
ただひたすらに水を掻く音、空気を求める息継ぎの声。
それらに気づいた璃子は真っ暗な廊下で懐中電灯をプール室へと向けた。
「だれ?」
まさか、という非現実的な考えを頭から振り払って、璃子はプール室へつながる重い扉に取り付けられた小窓からのぞき込む。
見えたのは、きれいなフォーム。そして絶えない体力。端に着くと、泳いでいた人物は水から顔を上げた。水しぶきを振り払うその人は、乱暴にゴーグルを外す。
璃子が見ている場所から50M以上離れているが、それは小学校の時から変わらない癖で、すぐに誰なのか判別がついた。違うのは水着が黒いことだけ。
美波だ。
「なんで泳いでんの……?」
思わず声がこぼれる。璃子は小窓から顔を逸らして、壁に寄り掛かった。
あの日語らったのは、なんだったんだろう。
去年の夏を思い返して額を抑える。
(美波は水泳をやめて、新しい世界を探す予定でしょ?)
そう約束したはずなのに。
再び璃子が小窓から目を覗かせば、美波は雫を滴らせながらすかすがしい顔をしている。それが何よりも胸を突き刺した。
訳が分からない。
混乱する脳裏にふと、美波を選手と呼んだ女子生徒の顔が浮かび上がる。
あいつが変なことを言ったんだ。きっと美波をそそのかすようなことを。
璃子は懐中電灯の明かりを消して、プール室に背を向けた。




