マーガレット(2)
「セレスティアは今日も可愛いな」
「ちがう、ティアちゃん」
「うん、ティアちゃん、かわいいでちゅねー」
アレンは妹を抱き上げ、チュッチュと柔らかな頬に口づけ、だらしない顔をしていた。
「おとうさま!!」
セレスティアは髪が濡れたまま部屋に入ってきたブレイデンに手を伸ばした。ずいぶん早い水浴びだ。本当に水を浴びたらしい。どうして湯を沸かさないのか。デオギニアからの技術のお陰で、前より簡単にお湯が沸かせるようになったというのに。
マーガレットはメイドに湯あみの準備をしておくよう、小声で指示した。
「あれ、親父、こっち来んの早かったね。馬、生きてる?」
「誰に言ってる」
「そっか。ほら、ティア、お父様に抱っこしてもらうか?」
「おとうさますきー。だっこー!」
「え、お兄様は? ねぇ、お兄様のことは好き?」
「おにいさまもすき」
「そうかそうか」
「アレン、ティアがこちらに来たがってる。早く渡せ」
セレスティアにしつこくすりすりしているアレンに、ブレイデンがじれたように言った。
「えー」
「おにいさま、けんかメッ」
「喧嘩じゃないよ。これはじゃれ合い」
「じゃれあい?」
「そう。遊んでるの」
「ティアもあそぶ!」
「うん。後でいっぱい遊んでやるからな」
アレンは、きゃっきゃとはしゃぎだしたセレスティアをブレイデンに渡すと、清々しい表情で椅子に座り、メイドに出された紅茶を飲んだ。
「親父せっかく来てるなら手合わせしてよ」
「後でな。それよりお前、フローラ嬢は?」
「元気だよ。相手の令嬢とも、少し面会したし。ちょっと調べて欲しいことがあるから後で執務室行っていい?」
「わかった。その件はあとで話そう。とりあえずフローラ嬢が無事でよかった」
ブレイデンはホッとした顔で頷いた。セレスティアが生まれてから、ブレイデンは前にも増してフローラのことを気にかけるようになった。
ますます他人事と思えなくなったのだろう。マーガレットも同じ気持ちだった。
フローラの毒殺未遂事件の後の、アリシアとリアムの憔悴した顔を見れば、誰だって他人事とは思えないはずだ。一歩間違えば愛娘を失っていたのだから。
「ローラは強いよ。事件の日もチャドのことを踏んづけてたし」
「なんだって!?」
「ほら、アリシア様と武道やっててさ」
「まだ続けてたのか!?」
「もう十年だって」
「お前、もっと鍛えないとマズいな?」
「そうなんだよ。技かけられたら負けるかも」
「……それはお前ちょっと、後で詳しく」
セレスティアを抱いたままソファーに座ったブレイデンの肩に、水滴がぽたぽた落ち続けている。気になって仕方がない。全く拭かずにきたのだろう。もっと時間をかけてから来るかと思ったのに。
いつもそうだ。
マーガレットがイライラして怒っても、何ごともなかったかのような顔をして、ちゃんと傍に来てくれるのだ。どうしたって敵うはずもない。
「なぜそんなに仲良しなのよ!?」
「え? 母上、また怒ってるの? もしかしてクソ生意気だった俺がボコられた昔のこと、まだ根に持ってたりする!? 母上、その手の話になると面倒くさいもんなぁ」
チラリとアレンがブレインデンを見た。ブレイデンは苦笑しながら、セレスティアをあやしている。
「だって、アレンのことを!!」
「どうせ今回の俺が不甲斐ないとでも言われたんだろ? その通りだよ。反省してるよ。だから親父に鍛え直してもらおうと思って手合わせをお願いしたんだけど。騎士団にも強い人はいるけど、やっぱ親父と比べちゃうとなぁ。剣筋が素直っていうか、いや、これも口に出すと生意気だな。いやー、俺ほんとあのころ生意気だったからな、あのまま育ってたら皆に嫌われてたわ。ローラと婚約した後ぐらいから調子に乗ってたからさ。今の俺があの時の俺を見たらもっとボコるね。親父は手加減できる人だからよかったけど、俺がやったらヤバいね。絶対折るわ。やっぱ親父すげえわ」
アレンの言葉に、こちらを見ながらブレイデンがニヤニヤし始めた。
肩に落ち続けた雫のせいで、シャツが貼りついている。
「か、髪の毛を拭きなさいよ!!」
「今はティアを抱っこしてるから無理だなぁ」
「まったく。しょうがないわね」
メイドからタオルを受け取り、ブレイデンの髪を拭き始めた。
「えー。俺はなにを見せつけられてるんだろう。早く結婚したい」
「あんたはしばらく結婚しなくてよろしい!!」
「なんでよ。早くローラを保護したいのに」
「保護はするけど、部屋は別にしてやるんだから。結婚後もね!?」
「嘘だろ!? 自分は親父といちゃいちゃしてるくせにこのバ」
「なんですって!?」
「アレン」
「すみませんでした。失言です」
「後で男の話をしようじゃないか」
「えぇ……謝ったじゃん」
アレンは肩をすくめながらも、紅茶のカップを置いて笑っていた。
セレスティアは、ブレイデンからクッキーをもらってご機嫌だった。クッキーはセレスティアに合わせ、甘さ控えめに作られている。
クッキーをかじるセレスティアを見守るブレイデンの、少し皺の入った目元が緩く垂れ下がっていた。
「ティアはお母様そっくりの美人になるな」
「なっ……」
「ぷっ、母上、真っ赤。チョロッ」
「アレン」
「失言でした。申し訳ございません」
「メグは口ばっかりで、素直ですごく可愛いんだぞ?」
「聞きたくねぇ……」
「お前にもそのうちわかる」
「絶対わからない。ローラはセレスティアぐらい、いつも普通に素直で可愛いから……えっ!?」
急に驚いた顔をしたアレンが、絶句の表情のまま固まった。
「シリルってもしかして心広くないか? 俺、セレスティアのことをシリルが嫁にしたいとか言ったらとりあえず殴るけど」
「物騒ね!? 年齢も合わないわよ?」
「ティアは三歳だろ? 十八歳と三歳、十五歳差……親父と母上が十二歳差、あり得る!?」
「あり得ないだろ!!」
「いや、あなたそんな力強く、人のこと言えないから……」
「メグと俺のことはいいんだ。なんたって、俺はメグの憧れの人だから」
「ぐっ……」
その話をされると弱い。それは本当だし、今だってちゃんと好きだ。
憧れではなく、好きになった。ならされた。
大人のブレイデンに、全力で口説かれたのだ。小娘だったマーガレットが敵うなずもない。
馬を贈られ、剣術も手取り足取り教えてもらった。
それまでは、馬に乗っても、剣を持っても、淑女として何か悪いことをしているような、そんな気持ちでいたから、乗馬や剣を肯定されて嬉しかった。
馬に乗って喜ぶマーガレットを可愛いと言い、剣を持てば筋がいいと褒める。
会うたびに、やんわりと抱いていた憧れが徐々に熱をもち、恋心へと変化していった。
自分でもわかるほどブレイデンへの好意が隠せなくなったころ、遠乗りに出かけた湖でのことだった。
夕焼けの茜色が水面に反射して、赤にも蒼にも見える幻想的な風景に胸を打たれていた。領内でも一位二位を争う美しさだと事前に聞いていたが、そこには想像を超える壮大な景色が広がっていた。
言葉を失うマーガレットの前にブレイデンが跪き、真剣な眼差しで「結婚して欲しい」と言われた。迷うことなく頷いたマーガレットに、立ち上がったブレインデンが初めてのキスをした。ただ軽く触れただけのキスに立っていられなくなってしまったマーガレットを、愛おしそうに見つめながら抱き上げてくれた。
その表情は、今でも忘れられない。
アリシアとエミーリアよりも半年ほど遅れての結婚になったのは、ブレインデンがマーガレットの気持ちが追いつくまではと、全方位ねじ伏せての延期を決定したからだった。
政策との兼ね合いもあり、かなりの力技だったことは当時のマーガレットも自覚していた。
待つと言われてはいたけれど、本当にそこまで待つとは思っていなかった。
これには祖父も頭を抱えていたけれど、そのお陰でどんなに喧嘩しようとも(ほぼ一方的でありそれを喧嘩とは呼ばないということは置いておいて)二人の仲は良好だ。
ブレイデンと結婚して良かったと、胸を張って言える。
わかってるとばかりにニヤニヤとこちらを向いて笑う、ブレイデンの鼻をつまんでやった。
「はいはい。その話は千回ぐらい聞きました。飽きました。息子の前でいちゃいちゃしないでください」
「シリル君、黒髪の女の子好きかしら?」
「いや、本人も黒髪だから見慣れてるんじゃないか?」
「緑の瞳は?」
「それも、ローラで見慣れて……くそっ、なんであいつ婚約者いないんだよ。セレスティアが年頃になったら俺はどうしたらいいんだ」
「シリル君に婚約者がいないのは仕方がないわ。むしろ気の毒よ」
リアムそっくりのシリルは、当然モテる。
リアムと違うところは、シリルにその自覚があるところだろう。
本来なら然るべき令嬢と婚約していたほうが楽だったはずだ。
シャーロットの恋人役を演じながら、自分もそれを隠れ蓑にしていたとしても、婚約していないのであれば自分にもチャンスはあると思う令嬢は少なくない。秋波を送ってくる令嬢をそれとなく遠ざけるのは面倒だっただろう。
髪を拭き終えたマーガレットは、ブレイデンの隣に座った。
セレスティアはメイドに自分用の椅子に座らされた。ブレイデンの前にある残りのクッキーをねだっている。
子煩悩なブレイデンが、意味もなくアレンを咎めるはずがない。アレンのことを認めていないように感じるのは、マーガレットの歪んだ心のせいだ。
アレンが大人になり、マーガレットの頑なさに頭を悩ますブレイデンを助けようとしている。ことさら仲よく振る舞うのはそういう意味だろう。
「あの、さっきは、ごめんなさい。本当はあんなことが言いたかったわけじゃないの」
ブレイデンは笑いながら頷いて、マーガレットの頬を優しく撫でた。
「あと、ちゃんとお湯に入って。風邪をひいてしまうわ」
シャツから透けた肌の色が生々しい。ブレイデンは雨に濡れた時など、やけに色気が出るのだ。目の毒だし、正直な気持ちを言えばメイドにも見せたくない。
「メグも一緒に入るならいいぞ?」
髪をかきあげながら言うあたり、確信犯だろう。予想通りメイドが顔を赤らめていた。領地と違って、タウンハウスのメイドはブレイデンの色気に慣れていないのだ。
「親父、それはないわ。そーゆうところがダメだわ。せっかく母上が謝ったところなのに台無し」
真っ赤な顔で口をパクパクしているマーガレットを、アレンが気の毒そうに見ていた。




