ヴァレンティーナ(1)
「ミュー、そんなに緊張しなくて大丈夫だ」
蕩けるような眼差しを贈られている彼女は可愛らしく頷いた。
愛されて生きてきた人の笑顔だ。
ヴァレンティーナには許されない愛称で呼ばれている。
見た瞬間、お腹の底がどす黒く染まっていった。
*
デジュネレス公爵家の居間で、ヴァレンティーナは動けずにいた。頬を叩かれることも、腕を捻り上げられることも、そんな痛みには慣れきったと思っていたのに。
心の痛みだけは、どうにもならないのだと知る。
「わかったら返事をしろ」
「はい、お父様」
「お前はエリザベスに似て顔だけはいいのだから」
「はい、お父様」
「もう少し体つきが女らしくなってくればよいものを。全く、なぜそこは似なかったのか」
「申し訳ございません」
「下がれ、目障りだ」
「失礼致しました」
腰を落とし、淑女の礼をとってから自室に戻った。
侍女のジェシーがこっそりクッキーの入った袋をヴァレンティーナのドレスのポケットに滑り込ませた。今日の食事は抜かれるということだろう。
こうやって食べ物をこっそりジェシーたちがくれるようになるまで、ヴァレンティーナの体はもっとやせ細っていた。
ジェシーは没落した子爵家の次女で、メイド長の紹介でデジュネレス公爵家にやって来た。家が没落したというのに底抜けに明るく、ヴァレンティーナの境遇を直ぐに理解し、食べ物を差し入れてくれるようになった優しく賢い令嬢だ。もっと環境のよい職場で働くべきなのだろうけれど、いま彼女がいなくなってしまったら、再びひもじい生活に戻るだろう。
公爵家の使用人はみな、父に怯えきっているから。
鍵のついた引き出しから、そっと取り出した羽ペンを撫でる。ジークハルトと婚約したときにプレゼントされたものだ。ジークハルトの瞳の色の羽は、見ているだけでヴァレンティーナの心を癒してくれる。
今までは机の上に飾っていたが、ジークハルトとの婚約を解消してレオンハルトの婚約者になれと言われてから、この引き出しにしまうことにしている。
ジークハルトから贈られたものを大切にしてると知られたら、捨てられてしまうから。
羽の部分を指先でくすぐるように撫でたあと、違うペンでエミーリアに手紙を書いた。小さく小さく畳んで、水を運んできたジェシーのポケットに滑りこませる。
一人になるとクッキーをかじり、水を飲んで早々にベッドへ入った。経験上起きていても無駄に疲れるだけだから。いつもそうやって体力を温存している。
しばらくは部屋から出られないだろう。エミーリアへの手紙には、約束していた王城の図書館へは行けないと書いた。この手紙も父に見つかれば大変なことになるが、ジェシーは優秀なので決してそのようなことにはならない。令嬢だったころの伝手を使って手紙を運んでくれるのだ。
冷たいベッドのシーツの感触に、心も一緒に冷たくなっていくような気がした。
もう二度と『ジーク』と呼べないという事実に打ちひしがれた。
わずか十一歳のヴァレンティーナが、二十一歳のレオンハルトを誘惑するなど到底無理な話だった。
*
「第四皇女ルイ殿下がお越しです」
「そう。お通しして」
誰もが鈴の鳴るようだと称讃する声で返事をした。
先日から留学という名目でサファスレートに来ている皇女だ。第三皇女のララはライドン伯爵邸に留まったらしく、ルイだけが王宮送りになったようだ。この計画を話すレオンハルトは苦い顔をしていたが、ヴァレンティーナは表情を変えず、にこやかに聞いていた。
お辞儀をしたヴァレンティーナを見たルイは、きょとんとした顔をした後、鼻で笑って胸をそらせた。どうやら自分のほうが上だと認識したらしい。わかりやすすぎて相手にする気にもならない。
無造作に座って紅茶を飲む姿も想像通りだった。
皺だらけのワンピース、だらしない姿勢、なにもかもが想像通り。
レオンハルトの元恋人のマイに似ているから、レオンハルトはわたしを気に入ってしまうだろうという幼稚な戯言も予想通り。
寒いのか体を震わせ、ヴァレンティーナの侍女にストールを持って来いと命令し、羽織った後からはレオンハルトを呼んで来いと叫び出し……。
あぁ……なんて、つまらないのかしら。
聞き流しているうちに、ルイは満足した様子で滞在先の客室へ戻って行った。
侍女はルイの態度に憤っていた。ジェシーなら、面白おかしく笑い話にして終わらせそうなものを、この侍女は頭がかたい。
あろうことか元恋人の妹であるルイに引き合わせるなんて非常識だと言って、レオンハルトにまで言及しようとしたので、それは止めた。
王宮で不用意な発言をされてはたまらない。
部屋から侍女を追い出し、ひとりになってようやくソファーに体を預けた。僅かな時間だが、仮眠を取る。
すっきりと目覚めた後は、王太子妃教育に勤しみ、ご機嫌伺いに訪れたレオンハルトをもてなす。
今日は花を持ってきてくれた。チューリップだ。侍女に花瓶に生けるよう申しつけて二人で紅茶を飲んだ。
「その、随分と教育の行き届いていない令嬢らしいので、迷惑をかけたのではないかと思ってな」
「いいえ、そのようなことはありません。デオギニア帝国の珍しい文化に触れることができました」
「そうか……」
寂しそうな顔をしたレオンハルトは、それを隠そうともせずに眉を下げて笑った。
本音を話すことのないヴァレンティーナに距離を感じているのだ。
わかりやすすぎて、退屈だった。
ライドン伯爵夫人の淑女教育を拒んだら、王宮で好きにさせ、本物のお姫様であるヴァレンティーナ嬢に会わせてやってくれ。
計画を聞いたヴァレンティーナは、表情を変えないまま厭らしく心の底で笑った。
デオギニア帝国のシン皇太子殿下とは気が合いそうだ。
意地悪で抜け目なくて、人を使うことに長けていて、それなのに人から嫌われないように振舞える。父であるデジュネレス公爵が辿り着けなかった領域にいる人物に思いを馳せてしまった。
父は頭が悪かった。
レオンハルトの婚約者を陥れてまでヴァレンティーナを王太子妃にしたかったのならば、ジークハルトの婚約者になどしなければよかったのだ。とりあえずジークハルトをキープしておこうなどと思っているから余計な手間がかかる。合理的ではない。
真面目な二人が、魅力のないヴァレンティーナなど本気で愛するわけがない。ましてや仲のいい兄弟が女を取り合うはずもない。
考えなくともわかることなのに、男はみんな自分と同じ生き物だと思っている、救いようのない馬鹿な男だった。
見た目だけ美しい女など、探せばいくらでもいる。
自分を殺して生きてきたヴァレンティーナにとって、王宮は永遠に続く退屈な演劇の時間だ。
貴族たちがヴァレンティーナを淑女の鑑と称讃しようが、下賤な男の娘と蔑もうが、ヴァレンティーナにとっては、どちらも同じ意味だ。
つまらない。
いつも通りの完璧な笑顔と礼でレオンハルトを見送ると、再び仮眠を取るために人払いをした。




