九人目『はぐらかす』
九人目『神楽坂まお』
「お」
隣に誰もいないのに、通学路で思わず声を出してしまったのは、前方に見たことのあるキャップを見かけたからだ。
「――」
「……? あ、おにーさん」
名前を呼ぶと、舌ったらずな喋り方で僕をお兄さん呼びしてくれる少女が一人。僕には妹がいないので、お兄さんと呼ばれるのはなんだかむず痒い。むず痒いけれど、なんとなく親しみを込めて呼ばれている気がして、悪い気はしなかった。
「女たらしのおにーさん」
「……」
前言撤回。
悪い気しか感じないその呼び方はなんだ。
「ど、どこからそんな言葉を覚えてきたんだい?」
「おんなじクラスの、はなさだちゃんが言ってたの。あいつは女たらしだから、引っかかっちゃったらダメだって」
「なるほど」僕は頷いた。「……なるほど」
話貞の仕業か。
まったく、純真な子供になんてことを教えてるんだ。
「とにかく。僕は女たらしでもないし、そんな言葉も存在しないから。あいつの勘違いだろう。僕のことはいつも通り、変な肩書きを付けないでおにーさんと呼んでくれ」
「うん。わかった」
神楽坂は僕の言葉を一つも疑いもせずに頷いて、僕の隣を歩き出した。なんて純粋な子だろう。恐ろしいほどに庇護欲をそそられる。従って、クラスメイトにあの話貞がいるという事実がとても心配になってくる。
あいつに話しかけるのはあまり気の進む話じゃないけど、今後の神楽坂の教育方針について、一度あいつとは話し合いの場を設ける必要があるな……。
と、神楽坂の親の意向を完全に無視していることに気づけないまま、僕は彼女が手に持っている本を見かけた。
「それ」
「?」
「読んでるの?」
「うん」神楽坂は頷いた。「夏休みに読書かんそう文が出てから、本読むの、おもしろくなってきちゃって」
「ふむ」
「それで、図書かんから本を借りて来て、夏休みの間は読むようにしてるの」
「ほう」僕は言った。「それは偉いね」
「えらい? 私、えらい?」
「うん」僕は頷いた。「めちゃくちゃえらい」
「えへへ。おにーさんにほめられちゃった」
あぁ……。
これだよ。『別に偉くなるために知った訳じゃありませんが』とか、『でも一応、ありがとうございますと言っておきます』とか、そんなバキバキにませた言葉じゃなくて、こんな素直な言葉が欲しかったんだ……。
神楽坂と同い年の、明らかに実年齢と精神年齢が合致していない幼女との会話で荒んだ心が、徐々に洗われていく心地がした。
「でもね。難しくて、わからない言葉とかも沢山あって」
「ふむ」僕は頷いた。「たとえば?」
「『どうてい』とか」
「道程だね。ある地点につくまでの距離、道のりのことを言うよ」
僕は分からない言葉を聞かれたら、知っていればすぐに答える派だ。
あんまり紙の辞書で調べさせることに、意味を見い出せていないから。
……。
「え……?」
と、僕がサラっと流した会話を、神楽坂は受け止めてしまった。
「……でも、この小説の主人公は……『どうてい』だって、言ってたけど……それじゃあ……ええっと……?」
神楽坂は不思議そうに首を傾げている。僕は首筋に冷や汗をかいてしまっている。
どうしよう。
そりゃ、ある。誰しもそういった言葉の意味が分からなくて、ついつい大人の人に聞いてしまうことはある。そして、その大人の人が気まずそうに顔をしかめる経験も、きっとある。
それがこうも何の前触れもなくやってきてしまうと、うまく言葉が出てこないし、うまくはぐらかす言葉も見当たらない。
加えて聞かれているのはあの純真無垢を絵に描いたような――だ。僕に彼女にその言葉の真実を伝える勇気も、言ったことによって生じる責任を背負う勇気もあるはずがない。
だから先人たちのように、苦笑いを浮かべながら、話をすり替えることしかできない。
「比喩表現なんじゃないかな。ほら、『太陽のように真っ赤に熟れたリンゴ』だって言うだろ? もちろん太陽はリンゴじゃない。その物語の作者さんは、なんらかの理由で、道を人に例えたんじゃないかな?」
「……難しいね」
「うん。難しい」
よし。なんとか乗り切ったようだ。
と、僕が心の中でも、現実でも胸を撫でおろしていると。
神楽坂が『これだけでも教えて欲しい』とでも言いたいような真剣な目で僕を見て、言った。
「ちなみに……おにーさんは、どうていなの?」
「……」
勘弁してください。