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蒼天は彼方まで澄み渡り、稜線にぶつかるまでその青さは変わらない。果てのないように見える空の下、仰ぎ見れば深い青にただただ圧倒され、唖然とさせられるだけだった。
独りだったら、ただ口を開けて立ちつくしてしまうだろう大空の下、俺が歩き続けるのは、ひとえにこの世界に迷い込んでしまった独りの若い女の為だった。
その女、カミエは、今、空に向かってツンツンと伸びる緑の草に足を取られ俺の遙か後ろにいた。俺の靴は薄金で靴底も表も覆われた作りなので、砂利道だろうが茨の道だろうが、そんな物はなんでもない。しかし、軽めの革で作られたカミエの長靴はそうもいかないようで、見ていれば実に歩きづらそうにしている。
「俺の足跡の上を歩きな、カミエ。そうしたら、少しはマシになるんじゃないか」
この地面に生えたオレニ草、乾燥に強いオレニ草は荒野には良く生えている物だが、ここに生えているのは少し珍しい。鉱石の成分が強い今いる地方ではあまり植物自体が生えていない。それがちょくちょく、進むに連れどんどんは密に生えていると言うことは、土の成分が俺達の行く先に向かって徐々に変わりつつあると言うことだ。実際、抜き身のまま持っている〈トリニティブレード〉が土壌成分の変化を告げている。
振り返ると、カミエは疲労と天上に架かりつつある太陽の熱によって流される汗を拭いつつ、俺から十歩ほども離れて歩いていた。どうやら、彼女と俺の歩幅の違いに気をつけているにも拘わらず、まだ速く歩いているようだ。
「コランド、速く、歩きすぎ。っていうか、ここ、歩きづらい」
追いついてきた彼女が息を切らしながら言った。俺は苦笑するしかなかった。
「すまん、気をつけていたつもりだったんだが」
「それはどうもすいませんね。……それより、さっきなんか言った?」
嫌みを言ったり聞き返したり、どうやらまだまだ体力はありそうだ。あるいは、揺るぎない思いの為か。
俺はもう一度先程の提案を繰り返した。
「やだ」即答だった。
「コランド歩幅大きいでしょ。私じゃついてけないもん」
彼女の顰めた眉の間を汗が一筋流れた。俺はタオルを懐から出して新たな提案をした。
「もう少し歩いて落ち着いて腰を下ろせる場所を探そう」
タオルを顔に当てた彼女はこの提案は受け入れられてくれた。
今、俺達が休憩しているのは、まるでにわか雨の雲のように、草原を歩く俺達の目の前に突如として現れた石造りの建物の影。座っているのは『扉』と『翼』とその他のモチーフがみっちりと印された柱の欠片だ。
持ってきたロールパンを無言で口にしているカミエが目に入る。言葉のない彼女の横顔は心なしか緊張しているようで、しかし不安と言った様子は見られない。
彼女の気持ちはわからないではない。この周囲には確かに濃密な魔力的エネルギーが満ちている。しかも、風と一緒に流れてくるような地面になじんだ魔力ではなく、全く違う場所から来ているような刺激に満ちた魔力が。彼女はこれを感じているのだろう。
つまりそれは、ここが異世界にないし、どこか『別の場所』には繋がっていると言うことを裏付ける確かな印。このことは彼女を帰れるかも知れないという期待と、さらなる迷廊へきつくかも知れないという不安との間で彷徨させることになっているのだろう。だが、彼女はこの遺跡に足を踏み入れることに躊躇うことはないだろう。たとえ、これが誤った道だとしても、彼女は前に進む。それがカミエという旅人だと俺は思っている。
――俺とは違う。
やがてカミエが食事を終え、予想通り不安の一言も口にしないカミエに先行し、遺跡の中に足を踏みいれた。
遺跡の中は風の音で満ちていた。そちこちに光の漏れ入る壁のから入るのか。いや、それだけではない、この壁の内側にも風があるのだ。
風は、巨大な洞穴のような遺跡の入れ口から少し入ったところ、様々に橋廊がわたされた吹き抜けの広場の高見から吹きおろされている。まるで、そこから風が招き入れられているみたいに。見上げる空洞の壁は翡翠色、壁面には等間隔に印された紋章が幽かな光を放ち薄暗い中でもはっきりと見ることができる。
吹いてくる風を胸一杯に吸い込むと、林檎のようでそれより少し感じの甘いにおいがする。かび臭さなどはない。それとも、この遺跡に生えている蘚苔類がこんなにおいなのか。むかし、部屋の香りを良くする苔を見たことがある。獣のにおいなども全くない。それによってこの場所が非現実的な場所に思える。
「変な感じの場所だな」俺は思わず感じたままに声を出した。
「うん、でもなんだか胸がざわざわする。…………懐かしい感じ」
「懐かしい?」
その問いに彼女は答えなかった。うーんと考えるように少しうなった後、にこりと笑って歩き始めてしまった。
遺跡には人が住んでいたような痕跡は全くなかった。探索の途中で獣の糞を見付けることはできたが、頻度は非常に少ない。おまけにどれもかさかさに風化していてにおいも何もあった物ではない。
遺跡の内部は、折りたたまれるように張り巡らされた廊下がとにかくだらだらと続いていた。黒灰色の壁は、微かにチョークのような白い線で魔術的なモチーフが絶えることなく描かれている。触るとつるりとしているが、光沢を持たない。それに加えて、窓からの明かりはないので暗闇は深い。トリニティブレードを発光させて灯りとした。
時たま、小部屋を見付けることができた。小部屋には石の床と連続に作られたテーブルと椅子、なかにはベットのある場所もあり、まるで宿泊施設のようだった。だが――
「こんな何もない場所でゆっくりしたくないよね」
常に吹き続ける風が、埃や塵を積もらせることはない。石の壁を割って根を生やす草も一本だってない。その清浄さは、いうなれば「空白」であり、まともな神経の持ち主なら速やかにここから立ち去る事を希望するはずだと、俺は思う。
ただただ濃密になりつつある外来の風のにおいが漂い、ヒーヒーと音が響き続ける遺跡の中、俺達は黙々と進み続けた。
始めに見た広場の一番の高所にある螺旋階段に道は通じ、階段の終わりにある鮮やかな菖蒲色に染められた扉を開くと、三方の壁に七つの大きな窓がある、空の見える少し広い小部屋があった。
入った扉の横に紅梅色のこれまた鮮やかな扉がある。どうやらこれを進めば俺達が目指す場所へたどり着く最後の橋廊に出るようだ。
しかしこういった扉はすんなりとは開かない物だ。俺達は手がかりを探して部屋中を調べはじめる。まもなくして部屋の床中央に四角いくぼみを発見、ざらざらとしたタイルに何やら刻まれてる。
「『影を堕とせ』」
読めはしないが、トリニティブレードの平に字をまねて書くと解読をしてくれる。しかしそれに文字以上の意味を見いだせない。
なになに、とカミエが顔を覗かせる。カミエもこの言葉の意味がわからず、とりあえず剣でたたいてみたり、波動をぶつけてみたりしたが、何も変化はなかった。
と、部屋の窓際近くに転がっている石ころが気になった。拳大の石は、ここに来るまでもない訳ではなかったが、微妙に不審だ。
石を手にとって観察する。トリニティブレードに分析させても、せいぜい隕鉄分が多いという分析しかない。と、カミエが何かに気がついたようにこちらに手を伸ばした。
「ねぇ、それ私に頂戴」
俺が石を渡すと、カミエは石を胸に抱いて目を閉じた。
青空が影を落とす部屋の隅に、前触れもなく光が届いた。カミエが光り輝く翼を顕したのだ。
予告のない行動に俺が声を失っているのを、見ているのか見ていないのか、彼女は俺の方に何の反応も示すことはなく、手にした石に波動を伝えはじめる。しばらくして彼女が手を下ろすと、自ら微かに光る石は落ちることなく空中に留まり続けた。
するとどうだろう、石は床面に影を落とし、黒い穴のような影を中心に魔法陣が浮かび上がった。
だが、それ以上何も起きない。
「――まだ、石があるな」
うん、まかせて、とカミエは次々と石を浮かばせていった。総数七つの石、すべてが終わった時、床に浮かびあがった七つの魔法陣から実体を持たない黒い影が飛び出した。
それらは少し大きめの鳩のような姿だった。バタバタと音を立て飛び、そして――
「――――きゃあ!」
いきなり突撃してきた影の鳥を辛うじてかわしたカミエ。それを皮切りに次々に鳥の姿の影は攻撃を始めた。
「くそ!」
咄嗟に影に向かって大剣を振るう。しかし、実体を持たない影に斬撃を加えることはできなかった。
「カミエ! ドアは?」
赤いドアは開かない。肩を入れて体当たりしてみるが、その間にも奴らはカミエに攻撃しようとする。
――なんでだ?
黒い鳥たちはカミエを狙うものの、俺にはお構いなしだ。ときどき、ちらとこちらを見るように(奴らに目があるかはわからないが)止まることはあるが、決して俺を攻撃しようとはしない。
必死に身を守りつつ、実の結ばない反撃をし続けるカミエには悪いが、しばらくの間黒い鳥の行動を観察する。
そして気づいた。
「カミエ、翼をしまえ!」
え、と彼女はかなり怪訝な顔でこちらを見た。言いたいことはわかる。彼女にとって戦いの途中に翼をしまうことは、剣士が戦闘放棄して剣をしまうことに等しい。しかし――
「いいから、早く!」
一羽が低空から飛んでくるのを大きくステップしてかわしたカミエの背から光が消えた。すると、一瞬の間の後、影の鳥は今度は俺の方に飛んできた。
――予想通りだった。
予め背中から外しておいた大剣の鞘に、一息に大剣を仕舞う。そして、もう一度カミエに呼びかける。
「気配を隠すんだ」
そう言って、俺も壁に背をあずけたまま姿勢を低くして呼吸を抑えはじめる。ちょっと離れた場所で、カミエも強張った面持ちでしゃがみ込んでいた。
すると、どうだ、七羽の影の鳥たちは俺達を見失ったように旋回し始め、やがて七つある窓に一羽ずつ飛び込んだ。
影の鳥を飲み込んだ窓が黒いカーテンを引くように光を失っていく。
部屋にも暗闇が訪れる。
完全に視界から光が消えた次の時、部屋の壁中に描かれた絵画のような規模の魔法陣が光り始めた。
「コランド、これは…………」魔法陣の桃色の光に照らされたカミエが疑問顔で呟いた。
「これがこの部屋の仕掛けだろう。――さっきの影の鳥は光に反応していたんだ。だからまず光の羽を持つあんたを狙い、それから俺の大剣に目を付け、それらが無くなると外から光が入ってくる窓に飛び込んだんだ」
紅梅色の扉に触れると、扉は静かに上にスライドして道を開けた。
後ろを振り返ると、部屋の中心、言い換えれば魔法陣の中心に二つの甕が現れていた。先程まではなかったものだ。
「これ、何だと思う?」近寄ってきたカミエに聞いた。
カミエは首をかしげた後、特に躊躇わずに甕を持ち上げた。俺も特に警戒せずにもう一つの甕を持つ。
その中には干し果物が入っていた。青緑の見たことのない形。においは林檎のような、そう、この遺跡全体に漂うにおいそのものだった。
甕の側面を見ると幾つかの異なる文字で何やら書かれており、俺の読める三っつの文字はともにこのように記していた。
『行く者は食せよ』
カミエの持つ甕にはこうあった。
『留まる者は食せよ』
俺は甕を片手で持ち、彼女に問うた。
「どっちにする? 『行く』か、『留まる』か」
この質問に答える前に、彼女は自分の持った甕を床に置いた。
「私は帰る。だから『行く』ね」
彼女に甕を手渡し俺は床の甕を取る。今度の甕には、この遺跡周辺によくあるカーマミカンが入っていた。
それを見て俺は考える。これを食べて『留まる』か、カミエと同じ物を口にし『行く』か。なぜなら俺は旅人だ。この地上の誰も見たことのないだろう別の大地に、興味がない訳がない。
「どうしたもんかね」自然な気持ちで彼女に聞いてみた。
私は別に良いよ、と既に帰路への食物を嚥下した彼女は微笑む。
「でも――、世界を越したら簡単には家に帰れなくなると思うよ。それでも良いの? あなたには、会えなくなったら困る人はいないの?」
いない、と言いたかった。しかし、この時俺は兄のことを思った。
――「強くあれ」。
「そうだな、まだ、俺には早いかもな……」
はっきりと言った訳ではない。開いたドアから入ってくる風の音に紛れるくらいの声で、彼女には聞こえたのかわからないけれど、顔を上げると彼女は優しげに微笑んでいた。
そして俺はこの世界の『留まる』ための果物を口に入れた。その瞬間、遺跡の奥から吹く風が、強く、俺を押し戻そうとするかのように感じられ始めた。
「元気でな」俺は言った。
「あれ? もう少し、ついて来てくれないの?」
カミエはそう言ったが、次の時には風に押される俺の状態を悟ったのか、そっか、とほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「『汝の歩む大地が常に揺るぎなきものであらんことを』」
これは俺達の世界で通じる見送りの言葉。カミエにはわからない。
ちょっと居心地悪そうに微笑む彼女に、別れづらくなる前に背中を向けて来た道を戻ろうとした。
ありがとう、彼女の声が聞こえた。
「ここまで、一緒に来てくれて。コランドが一緒にいてくれて私は凄く助かったよ」
どういたしまして、と振り返らずに言った。しかし、彼女は俺が今一度振り返ることを望んだ。
「ちゃんとお礼を言わせて、コランド…………」
「礼なんて。これで無事に帰れるなんてわからないだろう? 今は、礼を言われる筋合いはないぜ……」
「そんなのだめ……!」
彼女が怒ったような顔をしていた。初めて見る気がする。はっと息をのむ彼女の剣幕、彼女のまっすぐな視線の美しさに、俺の意識はすべて彼女に奪われてしまった。
「もっと自分に自信を持って。自分を認めてあげて。コランドはちゃんと私を助けてくれた。それは、私が盾のいるところに帰れるようにしてくれた事じゃない。私が、盾のいないところでも自分の足で歩けるように、あなたが励ましてくれたことが、私を助けてくれたことなの。――遺跡で光に包まれて、気が付くとジュンの気配の全くしない荒原にたった一人立っていると気づいた時、私は頭が真っ白になった。身じろぎもできないであの場所に立ちつくしていたの、あなたが来てくれるまで。あなたがいてくれたから、私はここまで来れたの……」
「でも、あんたは俺が見た時は笑っていたじゃないか。俺は何もしていない。あんたを励ます事なんて何も」
カミエが笑った。初めてあった時と同じ笑顔で。でも今初めて俺は、薄い仮面のような笑顔のその裏に隠された、どうしようもないほど深い戸惑いを見ることができた。
「コランド。あなたは立派な大剣士だよ。――今、この瞬間でも。あなたはその大きな剣の重さに負けずに、それを背負い続けている。そして、その上に私の戸惑いも背負ってくれた。あなたの背中は、立ち止まることなく私をここまで導き続けてくれた。だから、あなたは、他の人にはまだそうじゃなくても、私にとっては〈大剣士コランド〉だよ」
それは絶対、と彼女は締め括った。
嬉しかった、目尻が熱くなるほどに。唇が半開きのまま震えて、何も言えなくなるくらいに。
「『あなたの天に、神の恵みたる光が永遠に絶えぬ事を』。コランド、また会えると良いね」
「迷っても、かならず帰れよ」
これを言うのに、時が止まっているように感じられるほど永い時間がかかった。そして、カミエはそれを待っていてくれた。
噛みしめるように、優雅に瞼を閉じた彼女が、まかせて、と答える。
そして俺達はもう一度微笑みを交わし、道を分かった。
魔法陣の光に照らされる彼女の背中が戸口をくぐり壁に隠れる。すると魔法陣は輝きをおさめ始め、この身体は闇に包まれた――。
♭
瞼を風が撫でたのを感じた。目を開けると、そこはさっきまでいた遺跡の入り口前だった。見上げた空はくもり無い珊瑚色。紅に染まった夕焼け雲がのんびりと空を横切っていく。
――あぁ、良い空だ。
どう良いのか。そんなことはわからない。表現できない。ただ、漠然と『良い』と思うだけだ。そう思って、空を見上げていれば、心がいっぱいになるみたいで、それだけで満足だった。何も、要らなかった。
満ち足りた気分で、俺は直感的に選んだ南東の方角へ歩き始める。この先、どのくらい行けば人里があるのかなどわからない。道も知らず、ただ思うままに、風の吹くままに歩く。何故なら、俺は旅人だから。
そして、俺が大剣士であるから。
と、ぐるりと見回した黄昏の空の南に細い三日月が架かっていた。赤い空を渡る船のような月の横に、もう一つの船が浮かんでいた。
彼女は無事に愛しい者の下へと帰り着けるだろうか。
俺は、彼女の身を心配してこの様に憂うのか? ただ、自分が彼女の為ではなく己の保身のみに憂いているように感じる。
でも、今は止めよう。彼女の言葉を鵜呑みにして、透き通るこの風のように、何も考えず歩いていこう。
一陣の風が走る。このにおいは今立つ大地のにおい。そして、微かにまだ見ぬ大地のにおい。
結局、起承転結を作れなかったのが駄目だったな、と一番に思っています。その他にも未熟な部分はあるでしょうが……。
適当にコメントを下さると嬉しいです。
この話はとりあえずここで終わりで、続きはありません。しかしコランドとカミエについてはそれぞれ独自の物語を持っているので、いつかそれも書けたらいいかも知れません。




