3
**
ごめんなさい、とカミエの静かな呟きが聞こえた。闇の中でも光を失わない美しい金髪をなびかせ、俺から遠ざかろうとする。
「待ってくれよ」俺は思わず強い力に突き動かされ彼女の腕を捕まえた。
「私にさわらないで!」
悲しみに澄んだカミエの声が静かな空に響く。
「俺には謝らせてくれないのかよ。俺だって、あんたに嘘ついてたんだ」
俺の告白に、彼女は知っていると答えた。
――既に知っている告白なのに、どうしてこんなにも胸に痛いんだ。
どうして、俺達は互いに後悔と謝罪に揺れているんだ。
*
俺が悲鳴に応えてその場に駆けつけると、そこには既にカミエが立っていた。
周囲に戦闘力のない村人はいない。
カミエが静かに見上げているもの、残光の空に浮き彫りになっているのは輪郭を持たない深い闇の固まり。
――なんだ、あれ。
咄嗟にトリニティブレードの切っ先をそれに向けて構える。俺が命令をすると、トリニティブレードは分析をはじめる。
いわく、高位存在より発生せし妄念暴走体。実体は物質面において希薄、三次元空間より異相しており通常の攻撃では撃退は困難。
名前は――。
「〈カオティック〉」
穏やかな怒りに満ちた女の声。敵意に溢れたその呟きが、カミエのものだと気づくのにすこしの時間が必要だった。そして、俺がそうやって戸惑っている間に、俺の眼前でかつてどんな物語にも見たことも聞いたこともない戦いが繰り広げられる。
宵の空に黒く、まるで大穴を開けたように浮かぶ〈カオティック〉が次第に輪郭を顕しはじめる。四枚のはね、長い胴体、ワイバーンの姿をかたどったようだ。いや、奴が象る姿は俺達の伝説に語られる、眠りにつきし闇の神〈ヴィーバネイト〉の最も数の多く現れた使い魔、〈ダークドラゴン〉の姿だ。
――なぜ知っているんだ?
カミエが知っていて、俺が知らないのだから、多分奴はカミエについてきた異世界のモンスターということだろうに。
だが、俺の疑問はこの場に置いて何の意味をなさない。ただ、戦いの前の緊張だけがふくれあがっていく。
いまではもう存在しない伝説の怪物の姿を取った〈カオティック〉。対峙するカミエは、全く恐れる様子を見せず、静かに瞳を閉じた。両手を高く掲げ背を伸ばすと、その背に光が集まりはじめる。七色の光は虚空に滲むように輪郭を作り出す。木の葉のような形の美しい翼の輪郭を。
間もなくして、光と闇は同時に姿を顕わにした。それが、戦いの合図だった。
ダークドラゴンを象ったカオティックが翼打ち、大きな風切り音と共に旋回する。微動だにしないカミエを観察し、急降下するようにみせかけ、無数の黒い槍を打ち出した。
カミエが動いた。背の翼から放たれた僅かに揺らめくだけの光の波が、絶大な破壊力を持つであろう黒い槍を一瞬で消滅させる。継いで放たれた光の粒子がカオティックをねらい打つために集束する。
迫り来る光の裁きを逃れた闇が、神々しい輝きに包まれたカミエに襲いかかる。
カオティックが爪を伸ばしカミエを撃つ。
轟きにえぐられたのは大地。
カミエは足を使わず、翼による高速移動でまばゆい光跡を描きながらカオティックの死角に潜り込んだ。
くすりとカミエが光の中で笑ったのが見えた気がした。それは、絶対的優位に立った者が見せる自らの力に『酔う』嗤い。
彼女が片腕を掲げた刹那、溜めの時間もなく極太の光が打ち出される。
光の杭が黒い巨体をえぐる。夜が悲鳴に震える。
振動する空から新たな小さい影が顕れる。
光が散弾する。カミエが風に舞い、全方位に絶え間ない攻撃を与える。
それは光と闇のサーカスだった。醜さと美しさで見る者を魅了する白と黒の演舞。
――だが、これは異常だ。
何が異常か。それは、この戦いにおいてカミエが魔法を一切使っていない事だ。
魔法を使わなくともある程度の遠隔攻撃はできる。法術や念動力・闘気などと呼ばれる、精霊を行使せず人間自身が持つ精神力だけで戦う技術。しかし、それらの技は攻撃よりは治癒や防御むきだったり、武器と併用して使うものだ。ましてや、正面きって純粋に力をぶつけ合うような戦いは無理だ。人間の精神波動はそんなに強力ではない。だからこそ、魔法、精霊を魔力で操り効率的なエネルギーを引き出す技術があるのだ。
例えばカオティックも魔法を使っていない。それは、カオティックが独立して強いアストラル波動を発生させられる〈モンスター〉だからだ。
何故、彼女が魔法を使っていないと言えるのか。それは、あれだけ眩い光を操っているにも拘わらず、彼女の周囲では光属性の精霊すら動かされていないからだ。魔法を使えない俺でも、家や旅の途中での訓練によって精霊の動きぐらいは感じることができる。
カオティックやアストラル的なモンスター達は強い精神構造を持つから十分強力な攻撃を単体で出せる。それと同じ事ができるカミエは ――〈半高位存在〉。
天高く、黒竜より高く昇った翼を持つ女から、光のあられが降り注ぐ。
半高位存在とは、神、魔族といった高位アストラル存在と人の合いの子みたいな者だ。半獣種族と似ている、只人とくらべアストラル的な面において圧倒的な強さを持つ。
無数の光の穴を開け、カオティックは空に解けていく。
戦いは終わりを告げたようだ。
東の空に、月がかかる。
光の翼を広げ、ゆっくりと降りてくるカミエ。月光のように。
彼女のような半高位存在はそういる者ではない。絶大な力を持つ彼ら、希有な存在を人はこう呼ぶ。
『化け物』と。
**
「ごめんね、黙ってて」
星達が変わらずキラキラ輝く空の下、彼女の声は闇に沈んでいく。
「驚かせたくなかったの。コランドは優しいから、嫌われたくなかったの」
ふふ、と自嘲する声が夜風の温度を下げる。
「気味が悪かったでしょ? 私の力は、全然、普通の人が使うみたいな力じゃない、太陽さえも翳らせる力。飛んだり、光ったり。…………それに、私、嗤っていたでしょ? 愉しいんだもん、戦うのが。この力で、私はカオティックを狩る。まるで、モンスターみたいでしょ?」
「それの何処が悪いんだよ」
こちらを見ようとしない背中に、弱気に消えそうになる声を励まして言った。
「あんたが何だって構わない。俺は気にしない。俺は……俺だって、似たようなものなんだから」
カミエの後ろ姿がかすかに疑問に揺れた。
「俺の家では魔法使いとして生まれるのが普通だ。だから、俺みたいな大剣士は間違った存在みたいに扱われる。魔法学もろくにわからないくせに、身体ばかり丈夫で、屋敷の中を走り回っていると白い目で見られたものだ」
――それが何だと言うんだ?
そんなのはありふれた腕白小僧の疎外感に過ぎないだろう。強大な力を背負って、人と違う存在になって、時空を隔てた世界に好きな男ともはぐれてやってきてしまった彼女にくらべれば、ほんの、取るに足りない些細な心傷だ。
考えるんだコランド。何の為に彼女の正体を調べたんだ? ただ、野次馬的な好奇心のためか?
彼女の正体が人間じゃないからって――
「あんたは、人間だ」
俺の言った事は、多分、風に舞う木の葉の欠片にも値しないだろう。それでも、伝えたかった。
「あんたは優しいじゃないか。腹が減ったって言って、うまいもんを食って、うまいって笑える。恋人がいて、そいつに会えないって寂しがっているただの女だろう? 化け物でもモンスターでもない、少しだけ普通の奴と違うだけだ」
彼女の手をそっと取った。細くて、不安に震えてて、冬の風に揺られている場違いな花のような手首を、折れないように、傷つけないように。
「ひとりでどうするんだ? 帰りたいんだろう? ――信じてくれ。俺はあんたの事を勝手に調べた。でも、だからってあんたの事をバケモンだなんて思ってない。俺は、あんたを助けたいんだ。だから、俺にできることをしようとして……、俺は、カミエを……」
カミエが掴まれている手を引こうとした。けれど、俺は放さなかった。これが正念場だと、試されているんだと思って、決してこの手を開こうとしなかった。
「信じていいの?」それは、冬の終わりにはじめて吹く、自信なさげな東風のようだった。
「嘘はつかない。……もう、絶対、あんたを欺いたりしない」
そう言って、俺はカミエの手を放した。
夜闇に、金の糸がひらめいた。
「……私の事、好きになっちゃ駄目だよ」
悪戯っぽく彼女が言った。暗くて顔は見えないけど、笑ってくれているんだと感じた。
「友達だと思っちゃいけないのか?」
「ふふ……どうしようかな」
星空の下にも星が降りてきたみたいに感じた。うれしさが、天の星も地の星もより明るく輝かせていた。
---------
緑の少なめな黄色いシルエットの山々に太陽が赤く昇る。色素の薄い大地を紅に染めて、世界は今日という日に生きる為に息吹を与えられる。群青が白んで、やがて朱く染まる夜空に、いつも俺は赤子の頬を思い起こす。朝焼けに、世界は朱く照らされるだけではない。脈打つ鼓動が聞こえるほどに強い命の光が、太陽から、そして大地の上にある全てのものからも放たれるのが俺には感じられる。
軽く身体をほぐしてから宿屋の部屋を出る。鎧は着けているが大剣は持っていない。朝飯前から剣を持ってもしょうがないからだ。戸口をくぐると、隣のドアが開いてそこからぼさぼさの金髪が見えた。
「あはよぉ」
堪えきれず、というよりあまりの可笑しさに考える前に笑っていた。朝から何事だと、宿の客達が目を向いてこちらを見ている。
「ふぇ……、ん――何笑っているのよ」
「……だって、お前、その頭と面は何だよ。はは、どうにかしろよ」
寝ぼけ眼を無理矢理しかめた顔のまま、カミエは自分の髪を撫でた。
「う……、しょうがないじゃない。あたし、低血圧なんだから」
朝食は漬け物にされた山菜が沢山に、塩焼きのカービエ肉だった。酸っぱい感じの漬け物はここいらの山岳地帯では良く出される物だが俺はあんまり好きじゃなかった。しかし空腹には勝てないので食べる。肉は少ない。
俺の目の前では未だにところどころぱさぱさなままの金髪が、ふらふらと力なさげに揺れながらその漬け物を口に運んでいた。
「うまいか?」
「さぁ……」
どうやらなんにもかんがえてないらしい。見れば判るが。
「お前って朝はいつもそんな感じなのか?」
黙々と食事をするカミエの手が止まった。
苦い味のするお茶を啜りながら俺はカミエの言葉を待った。
そして、乾いた声が呟いた。
「いつもは、盾がいてくれるもん……」
まずった、と咄嗟に思った。しかし、ほぞを噛む俺とは裏腹に、顔を上げたカミエは笑顔だった。太陽みたいな笑いだった。
「ごめんね、私寝起き悪いから……、少しいじけ過ぎちゃった。コランドを不愉快な気分にさせちゃったかな」
このような本調子でないとき、人はポロリと本音を漏らすのだろうか。彼女はどんなときでも明るく朗らかに振舞いたいのだろうか。誰にも不愉快な思いをさせたくない、そう心に誓っているのかもしれない。しかし、彼女の本心は、今はひどく落ち込んでいる。それでも気丈にあろうとする健気な彼女が、少し痛々しくて哀れに見えてしまった。
だから、俺は朝の澄んだ空気が落ち込んだものになってしまわないように、声明るく話しかける。
「別に気にしてないさ。家にも寝起きの悪い奴は何人かいたぜ。っていうか、なかなか人里離れた場所に屋敷おっ建てて毎日研究ばかりしている魔法使いなんて、人格的に問題のある奴ばかりだからな」
ここぞと思い、声を励ました。
「朝飯食わない奴。朝飯は夜通し起きてて、そいつにとっては夕飯な奴。朝からにおいの凄い訳のわからんゲテモノ食っている奴。かと思うと、テーブルいっぱいにフルコース並べて優雅に食べる奴。……もう、食卓は滅茶苦茶、秩序なんてありゃしねえさ。第一、世界中回った奴も多いから、食っているモンも人それぞれなんだぜ」
ふふ、とカミエが笑った。乱れた髪は、さっきまではすさんだ印象で彼女を飾っていたが、彼女が笑みをこぼしはじめた今は、逆に親しみやすい感じを彼女に与えている。
「でも、それって寝起きの悪い人と食べることとは関係なくない?」
「関係あるんだよ。どいつもこいつも勝手なモン食って、思い通りの物が出てこねえと不機嫌になって他人の食事邪魔するんだ。で、常識のねえ連中ばかりだから手加減無しに暴れまくる。――おぉ、こうやって家の外で他人事みたいに話せると、出てきて良かった、て心から思うぜ」
食事の手を止めてくすくすと笑ってくれている。周りの顔もこちらを向いて微笑んでいる。あたたかな空気、ようやく元気の出る朝がやってきたって感じだぜ。
俺は一呼吸する。
「寂しかったら言っていいんだぜ。俺は何もできないけど、聞いてやることはできるんだから」
向かい合う顔は、少し目を見開いて、細めた。
「うん、わかってる。でも、さっき言ったじゃない。何度も言わせないでよ」
「あぁ、そうだったけな」
そこで、ふと思い出した。
「そういえば、昨日変な夢を見たぜ。俺は誰か知らない男になっていて、そいつは凄い苛立ちながら古くさい建物の中を歩いているんだ、遺跡みたいだったが。男にはもう一人連れの男がいて、俺のことを兄上と呼ぶんだ。二人は誰かを捜しているみたいだった。誰だと思う?」
カミエはひと言「冗談でしょ?」
本当だよ、と返す。
それから、会話は少し途切れ、食卓は静かな空気の中、寡黙な給仕達に片付けられていった。給仕が食器を下げ、食後の甘めの黄色い茶を啜る時、カミエは言った。
「盾と刀夜は元気そうだった?」
「情緒不安定を除いては、元気そのものだったな」
よかった、とくもり無い青空の笑顔が言った。
「ねぇ、少し、話を聞いてくれるかな?」
黙って促す。彼女はお茶で口を潤して話し始める。
「私ね、昔からこうだったの。……えっと、寝起きの話じゃなくてね。子供の頃からみんなと違う力を持っていて、私は人を傷つけるのが怖かった。有り体に言って、自分が嫌いだった。盾はそんな私に、初めて逢った時はつっけんどんだったけど、少しずつ素直になってくれて、今では私にすごく優しくしてくれるの。私はそんな盾のことが大好き。――独りでは生きていけないくらいに」
嗤って良いよ、と彼女。だけど、それは照れ隠しにしか見えない。彼女はむしろそれを喜んでいる。俺は最上級の微笑みとともにそのように伝えた。
「うん。ごめんね。私は、今の私が、これまで生きていた中で一番好きなの。たとえ、盾から半径五メートル以上離れられない自分になっても、私は自分を嫌いにならない。盾が、そう私に言ってくれたから」
相手にのめり込むほどの、傾いた『愛』。相手に認められる自分が好き。それは、極めて他者に依存した状態。
「コランドは、そういう人、いる?」恍惚とした声が俺に問いかける。
いいや、俺は否定した。すると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「それで良いと思うよ。盾だって、今私が言ったことをそのまま教えたら、きっとすっごく怒ると思う。――人は、自分一人の足で立てるようにならないと駄目なの、本当はね」
俺には兄貴がいるんだ。笑うことを止めて、話し始めた。
「兄貴は俺の師匠みたいなモンだ。剣でも、旅人としても。五年先に生まれた兄貴に、俺は頭が上がらない。でも、いつかは越えたい。兄貴を。何故なら――」
俺が大剣士だから、だ。
金色の曙光に煌めくターコイズの双眸の奥に、今何が渦巻いているのか、予想すらつかない。ただただ嬉しそうに笑みを浮かべる彼女が目の前に座っている。
無言の時が暫く続いて、やがて、俺達は何も言わずに同時に席を後にした。
外に出るとこの地方特有の朝に吹く熱い風が俺達の顔を撫でた。
世界は、場所によって色んな風を持っている。乾いた冷たい風、空から降るように吹く風……。俺はそんな一つの地に限られた風を感じるたびに、自分が旅をしているんだと、喜びと、孤独感に似た感動を覚える。
「ロマンチスト、って言うのかな?」カミエが言った。
「別に適当な称号を付けなくたっていいぜ。俺は俺の感じたように旅をする、てことだけだから」
吐き捨てるように言うと、彼女は感情の薄い声で、
「コランドは自分のことがあまり好きじゃないんだね」と言った。
川底に重く転がる石のように、彼女の言葉が胸に響く。
そうかもな、と言いかけた。でも、止めた。この感情をそのまま言葉にするのは卑怯だと思ったから。或いは――
「よくわからん。俺は、自分のことが嫌いなのか、好きなのか。……何の為に旅をしているのか、生きているのか。何をしたくて、この大地の上で大剣を持っているのかがわからない」
そして低い太陽の空を見上げてから、俄に疑問が生じた。
「なぁ、そういえば、あんた達は旅をしている理由、みたいなものはあるのか?」
見下ろしたカミエは無表情だった先刻からうってかわって、ちょっと後ろめたさ、悲しさ、それから秘め事をするような薄笑いと言った豊かな表情を浮かべていた。その表情に、俺は、ほっと胸和むものを感じた。
「う〜ん、長くなるかなぁ」
「話しづらかったら構わないが」俺は質問に付け足した。
じゃあ、とカミエ。謝るような声音で言う。
「私達が旅をして何をしているか、だけ言っていい?」
それを肯定した。
「世界を見て回っているの。世界が、どれだけ壊れてしまったか、どれだけ治りはじめているのか、この目で見るために」
せせらぎのように優しい声が零した言葉に、俺は贖罪めいたものを感じた。
「私達が戦って、壊して、創りなおして、まもった世界だから」
決して反らされない緑の瞳にこもる、後悔と誇らしさ、相反する二つの思いにハッとした。心臓が、物語をきく時みたいに高鳴っていた。
「私を許して」硬い言葉遣いで彼女が言ったのが聞こえた。
俺達の方へ歩み寄る足音が聞こえた。
金縛りの空気が壊れた。
「もし……。お二方よ、私の言葉に傾ける耳がお有りかな?」
ふりむくと、そこに立つのは短い白髪の老人だった。細く開けられた目蓋から見える翡翠色の瞳がいやに鮮やかに見える。
老人は無言で俺達の返答を待っていた。彼から目をそらさずにカミエの気配を伺うと、彼女も俺が答えるのを待っている。
――く、空気が重いぜ。
「あ〜、なんだいじいさん。こっちは構わないぜ、なにぶん迷子の身なんでね」
抗うように、できる限り軽い口調で答えると、老人は満足そうに嗤った。
「正直だな、旅人。普通は今のように刺激されれば人はまず拒絶するものだが。彼の誇りと驕りが強いほどな。さすがは〈クーフナーの大剣士〉とでも言おうか」
クーフナーの大剣士、と言う言葉にカミエが感心したように、へぇ、と小声でこぼしたのが感じられた。この呼び方が本当に知れ渡っているんだと言いたげな、そんな感嘆の息づかい。やっぱ信用度が低いかなと思う一方、俺は溜息ついてから老人の言に答える。
「分相応の振る舞いをしただけさ。道に行き詰まった時、差し伸べられた手には素直に手を伸ばす。旅人としては当然だろう?」
すると老人は意地悪そうに口を歪める。
「もし、私がそちら方の話を一部始終聞いていたと告白してもか」
もう一度溜息。
「聞かれて困る話なら外でしないさ。――それより、じいさん名前は? 俺はコランド、コランド=クーフナー、だ」
老人は細い目を緩い弧に曲げて俺を見上げてくる。確かに、彼の振る舞いには人を挑発するものを感じられる。わざとやっているのだろうが、俺はまだこれくらいには耐えられる。家にはもっといやらしい奴がごろごろしていたからな。
カミエは気配を微かに、まるでいない人のように振る舞っていた。
こんなにらみ合いがすこし続いてから、ようやく老人は答えた。
「私の名はジェル・ダ=シンメイス。『大地の鼓動』の物語は知らぬか?」
またしても俺は溜息をつかなければならなかった。
「おい、シンメイスの性を持つ〈導き手〉が出てくる話は『大翼の鼓動』だろ? ……じいさん、いい加減人を試すのはよしたらどうだ」
すると、ジェル・ダは今度こそ心から満足したように大声で笑った。その声の大きさに、カミエはびくりと微かに肩を振るわせ、俺は何度目かの溜息をついた。これが最後になるように祈りながら。
たいていの老人と違い、ジェル・ダはむせかえることなく、ひとしきり笑い通したようだった。それから、ニッと唇を横に広げ話し始めた。
「すまんな、どうにも私は意地が悪くてな。今まで物語にしか聞いたことのない〈クーフナーの大剣士〉に逢ったとなれば、少し調子に乗ってしまうのも無理はないというものだろう? 大剣士コランドよ、この十字架にお前の道を示してやろうか」
ようやく話がまともな方向に進みそうだ。そう感じて俺は余計なことは何も言わず、差し出された鳥の姿にも似た十字架に手を伸ばした。しかし、手にしてみても十字架は何も反応を示さなかった。
「お前では駄目なようだな。そっちの娘御に持たしてみろ」
少々の戸惑いを見せるカミエに、俺は黙ったまま十字架を手渡した。
彼女の手に十字架が触れた瞬間、光が弾けた。閃光がおさまった後、十字架は彼女の手の上でぽそりと白い灰になって崩れていた。びっくりした彼女が手を振ると、かつて十字架だった白い灰は風に舞い消え失せた。それを見てジェル・ダは、ごちそうさまだな、と苦笑した。
「それは強い願いに反応し道を示すものだが、強すぎる思いには逆にやられてしまう。お前がどれだけ元の世界に帰りたいかはわかったから、少し肩の力を抜いてもう一度これを使え」
そう言ってジェル・ダは懐からもう一つ鳥形十字架を取り出し、カミエに差し向けた。一呼吸してから、カミエはそれを手にした。
今度はいきなり十字架が弾けることはなかった。水平に保たれた彼女の柔らかな手のひらの上で徐々に光を高め、そして南西の方へ軌跡を残し飛び去った。
「あの方角に、カミエを帰す場所があるのか?」
「多分な。当たるも八卦当たらぬも八卦。八卦は私の術ではないけどな」
静かにカミエの方を見る。そこにあるのは、長い船旅からようやく故郷の岸辺に臨む女の顔だった。
「きっと大丈夫。私は行くよ」
彼女が言った。俺はジェル・ダに短く感謝を述べ、すぐに道の先に立つ。
「なら行こうぜ。付き合わせてくれるよな」
背中越しに見た彼女は、はにかむように笑って、ありがとう、と言った。
「違ったらごめんね。先に言っとくよ」
「どうせ行き当たりばったりな旅さ。気にする理由すら思いつかねぇぜ」
――思うところがない訳ではない。迷いを抱き続ける俺に、心細い思いはあれども迷いのないカミエ。もっと、彼女と会話を重ね俺は知りたい。自分に何が足りないのか、何を持って旅をしていけばいいのか。
しかし、今はその思いは心に封じ込めよう。彼女を足止めしてしまわないように。
カミエの戦闘シーンはいかがだったでしょうか? 術の詠唱がいれられなくて個人的には寂しかったです。
次で最後です。このままお聞き下さい。




